己を知るって難しい!特に演劇では。スポーツとは違うからね、点数とかタイムとかで否応なく結果を突きつけられるってことがないもの。芝居は勝ち負けないから。演技に点数付けられないから。じゃあ、大会ってなんだ。あれは、あれさ。まあ、仕方ないから、上下付けてみたってところだ。いくら、回りから評価されなくたって、ふん、わからん奴め!で、乗り切れるから、楽って言えば楽、恐ろしいって言えば恐ろしい。それ、お前のいつものパターンだろって、まあ、そういうことだよ。
例えば、自分の声。自分が知ってる自分の声って、他人に聞こえてる声とまるで違う。さらに、自分の横顔、これも普段から見ている人って少ない。さらにさらに、歩く姿勢とか、後ろ姿となると、まあ、普通の人はほとんど意識しちゃいない。それと同じことなんじゃないか。演じてる自分って、他人の目にはまるで違って映像化されてるってこと。自分が感じてる私と他人が見ている私との落差ってことだ。素人は特にこれが大きい。だから、へんに自信満々になってみたり、不必要に自身喪失してみたりする。プロはここが違うので、見えにくい自分もしっかり認識しているか、あるいは、本能的直感的に演じつつ、回りに説得的な演技をするってわけだ。
概して人は、自分と向き合うのが怖いものだ。それは、日頃慣れ親しんでいる自分が、根底的に覆されそうだって感じるからなんだ。見慣れたもの、感じ慣れたものは安心なんだ。これってある意味消極的ナルシスってことかも知れない。いや、積極的ナルシストにしたところで、自分の中に自分がみたいものだけ見ているわけなので、自分と向き合うのを避けていることでは同じことなのだ。
で、演劇もとこんとん自己満足で済ませていられるうちはそれでいい。だれがなんと言おうと、私はヒロイン、私はスターっでお幸せ。ところが、ここに演出なんて、とんでもない奴がしゃしゃり出てくるから困る。演出ってのは、他人の目なんだよ。役者には見えない、感じられないお前さんを見抜き直感し、しかも、余計なお世話にそれを指摘するんだ。ダメだしするんただ。ダメだし!なんともごさい(可哀相な)言葉じゃないか。人の触れて欲しくないことをずばずば言うんだから。もう、断罪人だね。首切り役人みたいなもんだ。
僕なんかサディストの気があるのか、もう、ぐさぐさやるからね。ぐさぐさ!昨日だって、お前は心が躍って無いんだよ、って息の根止めてやったし、今日は今日で、なんだってそうワンパターンなんだとか、お前、ほんと身体固いよね、鉄骨入ってんじゃないのって、これ女の子に対してなんだから、本当に困ったものだ。
でも、わかってほしい。それが演出ってものなんだから。役者の狙いがどうあろうと、どう見えているかを冷徹に伝えること、それが演出の務めなんだよ。そのためのダメだしなんだから。そして、何度も何度もだめ出しを浴びていると、そのうちにだんだんと外から見た自分ってものが見えるようになってくる。つまり、自分が見えてくる。これが大切なんだよ。そこからが勝負なんだ。
自分と対峙するのは、恥ずかしい。自分と面と向かい合うのは辛い。自分が見切れてしまうのは幻滅だ。でも、そこからなんだと思う。周囲から見えるものも含めて、自分って奴をちょっとでも理解したとき、一気に自分の可能性が広がるんだと思う。広く深い世界が目の前に開けてくるんだと思う。役者としても人間としても。
だから、僕はあえて厳しくダメを出し続ける。己を知れ!と。