ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

グレンシュフォッシュ・ブルークスの斧!すぐれ物を持つ喜び

2012-10-28 16:53:29 | 暮らし
 薪作りがようやく完了した。5月に森林組合から180cmの原木4棚が届いてから、なんと6ヶ月!もちろん、ぶっ通しで作業したわけじゃないが、かなりの重労働、長時間労働だった。以前は近隣のリンゴ農家から出る伐採木や建築廃材をもらって刻んでいたんだけど、、如何せん時間と労力、もう限界!だって、米の作業が終わると雪が降るまでの間、いや年によっては、雪に降り込められてからも、丸鋸回してなくちゃなんなかった。これはもう無理!ってことで、ここ数年、後ろめたさを堪えて出来合いの薪を購入してきた。ところが、去年の長い冬!薪代は一気に高騰、さて、どうしたものか?と悩んでいたら、米沢地区森林組合から薪原木販売のお知らせが届いた。かなり割安だ。購入の薪の三分の一の価格。ただし、長さは180cm。てことは自分で刻まなくちゃならない。

 これまでのように丸鋸で切ってから割るってことを考えたが、原木一本の重さが馬鹿にならない。あっ、これ続けたら絶対腰やられる!4棚(1棚は高さ150cm*幅180cm)もあろんだ、原木の山見ただけで、完全に腰が引けた。じゃあチェーンソーか?でもなぁ、家のチェーンソー切れないし、すぐエンストするし。悩みに悩んだ。いくら不調の機械でも、お払い箱にするって勇気がいるんだ。それで、もしかしたら復活してくれるかと修理にも出してみた。でも、やっぱりダメ!仕方ない、いっちよ買っちまうか、てことでタナカのエンジンチェーンソーを購入した。これが思いがけないすぐれ物で、一本切るのに数秒!おい、数秒だぜ、数秒!!たまの休みの午前を何回か費やしただけで、薪の山は45cmの薪に変身した。これで最低限ストーブで燃やせる、安堵!

 でも、今年かせいぜい昨年秋の伐採だろ、水分抜けきってないんだ。湿った薪は燃えにくくて火力も上がらないし、何より煤やタールが大量に出てストーブや煙突を痛める。やっぱり割らないと!薪は半割でもなんでも割ってやると一気に乾燥する。夏の暑さに当てて少しでも水分飛ばして使いたい。でも、この大量の薪だ!できるか薪割りなんて。

 寄る年波を考えると斧を振るえるのだって時間の問題だ、ここはもういっちょ機械力の導入か?薪割り機を買うか買わぬか、それが問題だって悩み続けてネットでいろんな機種の比較検討にうつつを抜かしていた。でも、もしかして、斧にだってすぐれ物があるかもしれない。ムサシなんかで偉そうに飾られてる奴、あんな大きな面してるんだから、きっとすぱっすぱっと割れるじゃないか?それに、なんでも歳のせいにしちゃいかん!それが老化の源だ!って自分を叱咤してご大層な斧を買うことを決めた。

 ここでもまた、悩んだねぇ、いろんなメーカーあるんだ。各国ごとに老舗メーカーがある。そりゃそうだ。つい数十年前まで人々は薪で暖をとっていたわけだから、薪割り斧は必須アイテム。切れ味の確かさと堅牢性を競って改良に改良を続けてきたはずだから。最終的に選んだのはグレンシュフォッシュ・ブルークスっていうスウェーデンの会社の斧だ。決め手は、まずは見かけ、


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 でも、一番大きかったのは、取扱業者のホームページに出ていたこの社の斧に掛ける意気込みみたいなものだったな。斧には一歩一本それを手がけた職人のイニシャルが刻印されている。我が家に届いた物にはTTとあって、これはトビアス・テェリンって職人が鍛えたものなんだそうだ。



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 さらに、写真に見ての通り、本が付いてくる。本には、グレンシュフォッシュ・ブルークス社のこだわりが随所に溢れている。社是があり、社史があり、製造工程の説明があり、全社員の集合写真まである。もちろん、斧の使い方や薪の切り方、乾燥法、保存方法は微細にわたる。これでもかと言わんばかりのこたわりの精神。わずか23人の会社だからこそできることとも言える。って書いてみて、改めて23人って数字に驚いた。たったこれだけの人数で世界を相手に仕事ができる。薪割り斧などという有る意味隙間産業だからとも言えるが、それにしても凄い。


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 さて、問題は使い勝手だ、切れ味だ。利用者のコメントのようにすぱっすぱっととか、女でも楽々とはいかない。特に節の有る薪では相当手を焼く。何度も打ち込んでついに諦めた場合も少なくはない。でも、あれだけの薪をともかく割り通せたってことが切れ味の良さを物語っていると思う。半日薪割りをしても翌日身体の節々が痛む、なんてこともなかった。それだ無駄な力が入らず作業ができたってことだ。そう、楽しみでさえあったからね。




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 使い勝手がよい、だけじゃなく、なんかそれを持つことで誇らかになり、それを使うことが喜びになる、それがすぐれ物っていうんだろうな。




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熱いなぁ、玉庭の爺っちゃ婆っちゃは

2012-10-27 21:02:01 | 地域文化
 今年も呼ばれた。玉庭地区センター主催の寿大学の終了式イベント。一年間、ミニ研修に行ったり、映画「天地明察」見たり、講演聞いたりしてきて、最後のシメが置農演劇部の演歌ショーだ。嬉しいねえ。出し物なんてそんなに変わるわけじゃないのに、二年連続で呼んでくれた。

 10時開演って言うのに、9時半には参加者ほぼ全員が集合。時間を繰り上げて9時50分には開会行事が終わってしまった。さて、困ったぞ!忘れ物、忘れ物!学校まで顧問Kが取りに戻ったもののまた゜帰って来ない。後5分、後2分とお願いしながら開演時間を延ばしてもらった。って言っても、10時前。

 お年寄りは早めに来るってことはわかっていたけど、ここまで出足が速いのは、やはり今日の舞台心待ちにしてくれていたってことだ。去年は本当に凄かった。踊りが終わった後も歌を全員で合唱したりして大変な盛り上がりだったんだ。その後の置農の『漂流』の公演にもたくさんの人がきてくれた。本当に玉庭のお年寄りは気持ちが熱いし、義理に厚い。

 今回もかけ声はかかる、おひねりは飛ぶ、一曲終わるごとに出演者に握手を求めるともうアイドルグループの追っかけなみの賑やかさだった。すべて終わった後には、恒例の置農校歌の大合唱!久しぶりに歌ったと喜びの声しきりだった。そして、感動の握手会!もう、もう、終わらない、生徒たちの手を握って放さない。部長が、無理矢理、この後のスケジュールもありますから、って中断してようやく片が付いた。本当に熱い!厚い!!玉庭の人たちだった。もちろん、来年の予約もいただいてしまった。

 さて、強引に上がった後は大急ぎで後かたづけ、そして、待っていたタクシーに分乗して、長井市の老人ホームへ直行だ。ここも去年公演してとっても喜んでもらえたところ。今回も50人くらいの施設利用者の皆さんが見てくださった。

 玉庭よりお歳も上だし、身体も不自由な人が多いので、感動の盛り上がりとはいかなったが、乏しい感情表現の中で、精一杯喜びを表してくれていた。

 1日に2回の公演、それも片方は家庭で元気に暮らすお年寄り、一方は施設に入所するお年寄り、まるで違う印象のお年寄りを前にしての公演で、生徒たちも無意識のうちに様々貴重なことを学んだ事と思う。こういった経験がじわりじわりと部員たちの人間形成に効いていくのだと思う。



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県大会裏方雑感

2012-10-23 23:56:37 | 演劇
 県大会最終日から2日、このブログに異常な?ってほどでもないか、アクセスが続いている。きっと、置農の舞台に興味関心を抱いてくれた人たちなんだろう。ありがたい。みんなが目を向けてくれていることに便乗して、県大会についてのあれこれを書いてしまおう。

 まずは裏方から。今回僕の仕事は照明担当生徒の指導、要はカラーの入れ替え作業を見守ることだった。これは大した仕事じゃないけどなかなか気を遣う仕事だ。まず、絶対間違っちゃいけない。舞台台無しにしてしまうからね。それと、極力短時間で終了することが求められる。カラーの入れ変えに時間が取られると、リハや本番仕込みの時間がその分削られるからだ。事実、まだですか!とか、この超過時間はリハに入りますか!って厳しく追及されたこともあった。担当の生徒たち、何度か失敗もあったが、致命的なミスにまで至ることなく無事にやり遂げてくれた。

 今回大変だったのは、装置が大作の学校がいくつかあったことだった。ある学校などリハのほとんどが装置立て込みで終わってしまった。本番での立て込みも、果たしてどれだけかかるのか?30分を超えれば失格という全国大会の基準もあって、緊張と怒濤の立て込みとなった。上演校の部員はもちろん、搬入・搬出担当の生徒、照明担当の生徒まで舞台上総動員で立て込みしてどうやら5分押しの20分で立て込み完了した。ばらしの時には僕もバールを握ってしまったものな。

 女子部員だけでパネル連結の釘打ちができず、顧問も照明に付くってことで、僕が代行した学校もあった。こうなるともう、その学校の第2、第3顧問格だな。以前なら、自分のことは自分でやれよ、それも実力のうちだろ、って冷たく見放していたと思うけど、この優しさ、親切さ、僕も歳を取ったってことだよな、どの学校にも最善の状態で演じてほしいって心底願って動いていたな。

 今大会では2校が時間オーバー審査対象外になってしまった。そのうち一校はほとんど確信犯的で、時間超過などどこ吹く風とじっくりたっぷり演じていた。もう一つの方は、かなり可哀相だった。舞台監督は60分59秒が過ぎた時にも少しも慌てず、舞台を見守り続けていたが、緞帳が下りた途端涙を溢れさせていた。59分くらいの時に幕を下ろすタイミングあっのにと端で見ていても悔しい思いだった。厳しい言い方かもしれないが、これはやはり顧問が悪い。事前に何度もタイムをチェックして短縮バージョンを準備してやるべきなのだ。実際置農も今回危なかった。前半にたっぷりやってしまったために、最後のチェックポイントをタイムオーバーで通過した。そこで舞監の補助についていた顧問Nから指示が出て、その後の演技は巻き巻きの超特急でぶっ飛ばし、事なきを得たんだった。客席でストップウオッチ見ながら、僕もはらはらどきどきの15分間だった。

 客席には見えない、舞台裏のこんな右往左往が有りつつも、大きな破綻もなく、事故も怪我もなく終了することができた。事務局の置賜地区生徒のガンバリと会館スタッフのお陰だったな。おっと、顧問たちもみな頑張ったよ!


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大会終わって、ますます稽古!

2012-10-22 23:17:34 | 教育
 大会翌日の今日、部活は休みにしてやろうかな?なんてちらと思った。でも、大会でせっかく部員全体に行き渡った緊張感と充実感をなし崩しにしたくなかった。なので、今日もいつも通り7時までの稽古にした。やることはいくらだってある。『壁20XX』の装置もばらさないと部室の廊下まであふれているし、今週末にはまた演歌ショー2回公演が待っている。町の芸文祭、その一週間後には置農祭だ。ほったらかしに近い1年生を早急にレベルまで押し上げなくちゃならない。さらには、子どもミュージカルのキャストに1年生を組み込む作業も待っている。大会終わったからってだらけている暇はない。

 でも、さすがに心配だった。大会期間中、裏方に稽古に本番に、さらには観劇に、フル回転の4日間だったから、疲れは出ているだろうな、体力的にも精神的にも。ところがどうだ!部員たちまるで元気じゃないか!これまでにない和気藹々としたムードで、ばらしとダンスレッスンに取り組んでいた。

 人間、気の持ちようなんだなぁぁぁ。大会で盛り上がった一体感とやり遂げた充実感が、身体の疲れもぶっ飛ばしてしまったってことだ。最悪の審査結果も気にも留めていないかのような元気さだ。いくら審査員が無視したって、自分たちはやり切ったし、すぐれた舞台を作ったっていう自信なんだと思う。それと、審査の結果がはっきり一つの傾向を示していたってことも、納得しやすかったんだと思う。

 東北大会には行けなかったけど、まだまだ演歌ショーがある。毎年待っていてくれる玉庭のお年寄りたちを前にしての公演もある。拍手喝采間違いなしの町芸文祭もある。子どもミュージカルでは、12月東京公演が控えている。負けた負けたとぐじくじしてなんていられないってことだ。

 ってこう書いたからって、書くことで気持ちを奮い立たせてる、なんて思わないでほしい。僕自身もすっきり抜け出せている。午後から行った高山小学校での紙芝居公演&ワッフルカフェの楽しさですべてはふっきれた。このことはいずれ書くけど、結局、単線、単調、一直線はダメってことだな。複合、複線、二股掛け、これが常に前向き挑めるこつってことなんだと思う。



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共感だけが舞台かよ?

2012-10-21 23:09:27 | 演劇
 高校演劇県大会、置農作品『壁20XX』、気持ちいいくらいに相手にされなかった。いいや、やっぱり気持ちは最悪!

 審査委員の評。共感できなかった、感動できなかった。

 そうかい、そうかい。で、芝居ってやつはなにがなんでも、ぐっと来たり、涙がこみ上げたりしないといけないもんなのか?見終わって、なんか居心地悪いとか、腹に消化不良で残ったり、要するに異物を投げ込む、なんてのも芝居の価値の一つなんじゃないのか。

 今回の作品は、今確実に広がりつつある格差社会をそこからはじき出された若者の怒りの視点から描いた。さらに、その対極で見捨てられている年寄りの怨念の言葉もちりばめた。さらには、原発で故郷を追われつつもなお、そこにとどまろうとする人たちについても暗示した。

 どう見ても簡単に共感できたり、感動できたりする内容じゃない。言ってみれば、「おめえら、どうすんだよ、この有様を!」って啖呵切ったような作品なんだ。もちろん、おめえらの中には僕自身も含まれるわけだけど。じわじわと顕在化しつつある現代の病を、突出した形で表現したのが今回の舞台だったと思っている。

 例えば、青春の挫折とか、そこからの立ち直りとか、引きこもりとか、愛のもつれとか、高校演劇にお馴染みの共感装置はどこにもない。若年生白血病で余命数ヶ月なんて”悲劇”もない。そこを突けば、涙腺うるうるなんて勘所はさっぱりだ。
 
 こういった舞台を自分のものとして引き受けるには、感受性よりも知的な現状認識が求められるのじゃないのか。作品にちりばめられたうめき声を、説明的と聞いてしまう人たちは、今をどのように理解しているのだろうか。

 結局、人間は自分の中にため込んだ知識や興味や感受性でしか新たな事態に立ち向かえない。なーんて、難しく言うほどのことじゃない。興味ないことには気が向かないってことだ。そういうとことん有限界で指向性の限定された人間が評価する、演劇の審査、どうころんだって、相性の問題ってことに落ち着くよな。


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