『魔界転生』を見た。ったって、テレビ放映されたものだ。舞台本番は1年前、そんなのやってたことも知らなかった。3時間以上もの舞台中継、民放BSでよくやっなぁ!って思ったら、日テレ65周年記念事業だってよ。祝賀企画、金に糸目はつけねえぜ、ってわけか。まっ、いいさ、映画とか音楽じゃなく、演劇取り上げてくれたってだけで嬉しいね。1年遅れだって、放映感謝!だぜ。
山田風太郎のこのとてつもない世界、どう描くのか?これはそそられるぜ。脚本:マキノノゾミ、演出:堤幸彦、で、ホールは当然明治座!そうだろ、そうだろ。で、主役の柳生十兵衛には上川隆也、夜中までかかったって、見通さにゃ。ほら、録画したのを10時過ぎたころから見始めたんでね。そう、民放の映画やドラマはやたらCM入るから、そいつらぶっ飛ばせる録画に限るんだ。
ともかく、魔界だからねぇ、転生だから、めったやたらと首飛ぶは、天草四郎は宙を舞うは、魂は燃え上がるは、秘法の技は繰り出される。時代背景も、島原の乱やら由比正雪の慶安の変と、血染めのおどろおどろしい史実を下敷きにしている。この説明もせにゃならん。魔物となって蘇るのは、満腔に恨みを充満させた英雄たちだ。3万6千人の信徒、籠城者とともに虐殺された天草四郎、仕官の夢叶わず逝った宮本武蔵、息子十兵衛との角逐を抱える柳生宗矩、大阪城とともに炎上した淀君、さらには荒木又右エ門やら田宮坊太郎など、腕は立ち、術数にたける者たちだ。
さあ、どうするの?首飛ばしたり、真っ二つに切り裂いたり、転生や消滅を。
ざくっと言っちまえば、映像の駆使!何枚もの紗幕を吊って、それを下ろしちゃ動画を投影それを頻繁に繰り返して至難のシーンを表現していた。例えば、打ち首じゃ、まず、紗幕奥で役者が首をはねられる。そこは奥に照明が当たっているので、すべて見える。首が飛ぶ直前に奥の照明は消え、前からプロジェクターで事前に作っておいたアニメ動画を重ねる。ほぉら、首切られて宙に飛ぶじゃないか。なるほどなぁ!すべてはこのパターン。それを光と音を組み合わせて、壮絶に描いていた。人間、あるいは魔物が宙を飛ぶのは、言わずとしれたワイヤーアクション!もう、これなんか驚きはないが。
演出としちゃ、めちゃくちゃな原作、脚本をどう舞台に実現するかで頭をこね回した挙句のスペクタクルシーン、うん、なんとか難題を乗り切ったね、ってところかな。はっきり言って、映像を舞台で活用するのって、もうすでにいろんな作品で駆使されてるからね、そうか、それで解決ね、って程度以上に出ない。
種明かしされた手品、何度も見るやついないからね。飽きちまったか、って言うと、それが、夜中1時すぎるまでお付き合いしちまった。それは、やっぱり役者とセリフの力だった。淀殿の狂気をお品(物語では秀頼の妻となった九州の土豪の娘、二人の子供が四郎時貞って荒唐無稽な設定だが、魔界あり転生ありなんだから、この程度の脚色は許す)が諭し、天上に帰ることを説得するシーンとか、四郎の無念に思いを馳せつつ打ち破る十兵衛の苦悩とか、坊太郎と柳生門弟との友情とか、後半、続々と演じられる対決果し合いと切り合いの末の和解、どれも見ごたえのあるものだった。幾つもの対決果し合いの場面を一つ一つ印象深く感動的に書き分け、演じ分けさせていた。セリフといい、動きといい、表現といい、すべてがかみ合った見ごたえあるシーンの連続で息をのんだ。
それと、決闘シーンや乱闘シーンの殺陣、これもあの狭い舞台の中で見事と言える立ち回りで目を見張った。うーん、よっぽど稽古したんだろうな、さすが、プロだぜ。歌舞伎じゃ御馴染みのとんぼ切りなんかもふんだんにあったし、由比正雪の一味が、天空から布をつたって降りて来るシーンなんて、シルクドソレイユ的な遊びがあって、つい、おおっ!いいじゃないか。ミッションインポッシブルにもこんなのあった気がする、なんてね。
決闘シーンのシリアスで重厚な作りとは別に、コミカルな役作りやセリフや動きのギャグもふんだんに取り込んでいて、最初は、やり過ぎだぁ!ほら、滑ってやがんの!なんてちゃちゃ入れながら見ていたが、いつの間にか、演出と役者の巧みさに引きこまれていた。ここもやっぱり、セリフと役者の力、それを後押しする演出のアイディア、なんだよな。
舞台の空間てやつは、どう工夫を重ねても、その限定性から逃れられない。すべては見られているし、爆発やら猛火なんてまがい物でしか扱えない。生身の人間を画面のモンタージュでサポートするなんて、映画やテレビならごく初歩的な技術もまず不可能だ。真新しい最新技術で観客の度肝抜く、なんてのは、やはり難しいのさ。
と、なると、やっぱりセリフだよ。役者の肉体だよ。そこがなんたって、一番の力の源だ。と、すると、外連味ある手練手管にゃ手も足を出ない、アマチュアだって勝負できる?ってことじゃないか。そう、心打つセリフを書こうぜ!観客引き寄せる表現磨こうぜ!
と、わかっちゃいても、火花とかワイヤーアクションとかやってみたいよなぁ!
あの愛の人、近江正人さんが愛の名作?『煙が目にしみる』を演出するって、こりゃ必見の価値ありだぜ。上出来の泣けるコミカルステージ連打し続けている堤泰之の作品だもの、面白いに決まってる。中でもこの脚本、毎年必ずどごかしらの劇団が上演しているという不朽の?名作だ。以前見たことあるし、この作者の『見果てぬ夢』は菜の花座でも舞台に上げたことがある。
そんな知れ渡った作品だけに、観客も、どれどれお手並み拝見!となって当然で、そんな小姑根性に応えるのはプレッシャーもあっただろうが、新庄演劇研究会、お見事その試練に打ち勝って、上質のホームコメディに仕上げてくれた。ゆったりとした作りも中盤以降、お祖母ちゃんが、死者の言葉を取り持つ"いたこ"に転じてからは、効果的で、役者たちの好演もあいまって、爆笑を巻き起こしつつ、しっとりとした涙を誘っていた。感傷シーンの音楽扱いとか、正面窓奥の大きな桜といい、近江さんのほんのりとした温かさがにじみ出る好演出だった。
この作品、何が有名って、火葬場で焼かれつつある死人が、遺族の待合室に現れて、火葬の終わるのを待つ家族たちと交流するっていう、突拍子もない設定にある。まさに、演劇ならではの手法なんだぜ。焼かれつつある人間が、いゃぁ熱いなあ、もうちょっと温度下げてくれんか、とか、あんたサウナじゃないだから、なんて言い合う。観客には丸見えの死者は家族には見えないってお約束が様々な笑いと涙を誘う仕掛けだ。
以前、他の劇団の舞台を見て、きっと感化されたんだと思うが、俺も同じ仕掛けの作品を幾つも書いている。シニア1期生で作った『風渡る頃』はすでに墓に入っている夫たちが出てきて、共同墓に心惹かれる妻たちに、先祖代々の墓にともに入るよう懇願するってストーリーだ。いたこ役は霊力の強い墓地管理人にした。死者の言葉の逐次通訳、なんてシーンの面白さも取り入れている。これ、オリジナルだと思うんだけど、無意識に拝借したのかなぁ。
コントでも死者が棺桶を前にしてぐだぐだする話を2本書いている。生きてる婆さんが勘違いして死んだ婆さんの代わりに棺桶に入る『勘違い婆さん』。葬式を待つ四人の婆さんが、死装束で手抜きの葬儀に不満述べ、ご詠歌嫌ってバブリーダンスを踊る『さらば!四婆』だ。
『風渡る頃』は夫婦の和解と赦しで締めてるので、堤作品と同じパターンだが、コントの2本は、俺のシニカルな体質がもろに出てるな。『勘違い婆さん』は、ぼっち老人施設での仲間二人ただけに見守られた寂しい葬式だし、『さらば!四婆』は、なんと、超手抜き!4人一緒の集団葬!なんだもの、どこま皮肉に世の中見てんだよ、って呆れる。
この資質の違い、これが今回の舞台を見終わった後にも尾を引いてたね。たしかに涙流した、心打たれた。でも、その震える心の片隅で、こんな体よく泣かされてていいんか?ってへそ曲がりの虫が疼くんだ。和解と赦し、愛と惜別を上手に切り取って、幸せな時間を提供する、これも芝居のとても重要なサプリ効果だとは思うんだが、もっと、牛乳飲み過ぎた腹のようにゴロゴロとわだかまりが残った作品に出会いたい、そんな無いものねだりをしてしまうわけなのよ。
愛を謳い上げ、涙の大波を寄せた後、引き潮で魚死骸なんかがごろっと転がってる、見終わった観客が、涙のカタルシスの後に、得体の知れぬ違和感を持ち帰る、そんなユーモアコミカル&ブラックな芝居、そんな作品作ってみたいもんだぜ、と、どこまでもこねくれた野郎だぜ、俺って。
SENDAI座の芝居、良かったなぁ、楽しめた。13人の役者も熱演だったし、的確に役を演じ切っていた。同じ東北にこれだけ質の高い劇団がいるって、嬉しいねぇ。それと、フレンドリープラザ演劇学校卒業生の古川孝さんのプロデビューも見事だったし。舞台上に設置した舞台、上手下手に階段状の客席から見下ろすような配置、これも芝居の題材ととてもマッチしていた。陪審員の話し合いを両側から見つめる形、第2の陪審員になった気分で見られた。随所に緊張感を張り詰める演出も見ごとで、セリフの間合いなど、さすがプロの役者と、豊かな気分で2時間の観劇を終えた。
が、見ながら、終始わだかまりが居座っていたのも事実なんだなぁ。
殺人を否認する少年の有罪、無罪を評決する陪審員の会議、最初の投票では、12人中、11人が有罪に投票。ただ一人だけが、無罪とは断言しないが、犯人でない可能性を感じ、話し合いの継続を主張する。舞台は公判で明らかにされた目撃証言や証拠物件を改めて一つ一つ検証しながら、ついには全員が有罪を翻すその過程を描いている。初っ端から結果は見えている。要は、有罪主張の11人をどうひっくり返すか、お手並み拝見、これがこの芝居の持ち味だ。言ってみれば、結果だけわかっているクライマックスシリーズの試合を、録画で見直してるようなもんだ。勝敗と最終得点はわかってる。どの回に誰が打ちどのように点が入ったか、あるいは、無死満塁のピンチをどう救ったか、それを、半ばスリルを感じつつ、半ば安心して見ている、これと同じ構造なのだ。
有罪の決め手とされる証言や証拠物件を一つ一つ覆して行く過程は、得点を上げた攻撃のシーンを見直す作業になる。目の覚める本塁打とか、相手の裏をかいたスチールとか、なるほど!これは見事!と満足しながら見たいわけなのだ。が、どうも、やったぁ!と快哉を叫べるような得点劇じゃないんだよ、この芝居は。この台本は。
有罪の決め手となるのは、犯行現場の下の階に住む足の悪い老人と、線路を挟んだ向かいのアパートの女性、この二人の目撃証言だ。これを事細かに追及することで、その曖昧性が露わになって行く。物的証拠は犯行に使われたナイフ、公判では手に入りにくい品となっていたのが、実は質屋でも簡単に手に入れて入れられるものであったり、と証拠の根拠が崩されていく。
おお、そうか、そうだったのか!と拍手を送りたいところだが、決め手の目撃証言、あまりに弱すぎないか?ええーっ、そんなんで死刑求刑すんの?しかも、陪審員の推理であばかれるほどいい加減な捜査と公判での検討、ちょっとちょっと、それいい加減過ぎるだろ。そこの弱さは作者も気づいているようで、弁護士が国選(日本ならその立場)で金にも実績にもならず投げやりな弁護だったって何度も言わせてる、が、それにしてもなぁ。そんな程度の検察の調査や訴訟指揮が行われたってことの方が、多数意見に引きずられ不安よりよっぽど恐ろしい。言ってみれば、敵のたわいもないエラーで得点を重ねた試合ってことかな。
それともう一つ、マイノリティらしいのは移民から国籍を取得したらしい男一人。アフリカンアメリカンがまったく登場しない。これどうしてなのか?スラムの問題が出て来るなら当然、アフリカンアメリカンとの軋轢も持ち上がって来て当然だ。あるいは、犯人と目された少年がそうだったのか?とか、原作では陪審員のうちにも何人か入っていたのを、翻訳の段階で、日本じゃ顔の黒塗りできないから、書き換えたのか?いずれにしても、片手落ちだよなぁ。
さらに言うなら、最後まで強硬に有罪を主張していたのが、強烈な差別主義者と息子との確執を抱える男、てのも、日本人にはすんなり入りにくい設定なんじゃないか。もちろん、日本にも差別はあるし、父子の葛藤だってある。でも、陪審の場でこういうがなり立てる表現にはならない気がする。ふーん、そうか、そういうことだったのね、って傍観者的に納得するばかりだ。ここいらが、胸に突き立てるナイフのように、観客の心を、あっ、僕だけかもしれないが、抉れなかった理由だろう。
しかし、これはずいぶん脚本に対して酷な評価かもしれない。それには理由がある。公演と同時刻に地上波で放映された是枝監督の『三番目の殺人』、これを録画で見て、その圧倒的な緊迫感にズタズタにされた後にこれを書いているからだ。だから、くれぐれもSEDAI座の皆さん、皆さんのせいなどじゃないからね。ぜひ、また、川西での公演、期待してるからね。