置農演劇部、地区大会の出し物は、『どんがら山奇譚』。もちろん僕が書いた。ミュージカルだってことや、生バンドが入るってことはすでに書いた。今日はストーリーについてだ。
僕の家の便所には、ながらくチェルノブイリの写真入りカレンダーが飾られていた。とてつもない大事故をおこしたあのチェルノブイリ原発。カレンダーはそこで被爆した子ども達の支援カンパのために作られたものだ。放射能汚染地帯となってうち捨てられた廃屋とか甲状腺の手術を受けた子ども達の姿とか、再生しつつある自然の営みといった写真の数々が毎月一葉眼前に現れる。
大便をしつつチェルノブイリの写真を見るということが、不遜な事なのか、意義深いことなのか、崇高なことなのか、どうにも判断に苦しむところだが、うちの奥さんが、断固張り続けることなのなので、これはもう、否応無い。彼女の思惑としては、日常生活のもっとも思弁的な時間に、あの人類史的悲劇に対面すべきだとの思いなのかも知れない。あるいは、心地よい便通の瞬間にこそ、チェルノブイリの人たちの苦痛を思い浮かべよということなのか。
そんな写真の一枚に、立ち入り禁止の村に戻った年寄りたちの写真があった。質素な我が家の前のベンチで屈託なくくつろぐ老人たちの姿。花壇には花が咲き、木々は緑に彩られている。どこにでもある田舎の風景。でも、その写真を見る者は知っている。そこが地獄の一隅であることを。今なお、高濃度の放射能に汚染された土地であることを。
年寄りたちだって知っているんだ、当然!ここに住み続ければ、日常的に被爆し、いつかは恐ろしい障害に襲われるだろうってこと。急性障害となって現れるのか、癌や白血病として訪れるのか。いずれにしても、健やかな老後はあり得ないだろう。でも、・・・でも、彼らは帰ってきた。一人、二人、三人と村に戻ってきた。関係者の制止を振り切って。
そんな老人たちの笑顔が、ずーっと気になっていた。彼らを駆り立てるもの、それは故郷だ。生まれ育った家であり、その中を飛び回った自然だ。あの事故の発生したその直前まであったその土地での豊かな暮らしだ。確実な危害の到来を予期しながら汚染地帯に舞い戻った彼らを、無知とか身勝手と切り捨てることは容易だ。でも、彼らの有無を言わせぬ選択には、何か、こちら側で訳知り顔の僕たちに深く反省を迫るものがあるように感じるのだ。
放射能があろうと無かろうと、故郷は故郷だ、暮らしはここにしかない。町の避難所なんかに余生はない。たとえ苦難が待ち受けていようと、たとえ不便な生活を強いられようと、生きるなら故郷以外にない。老人たちは、別に大きな決断をするでもなく、ごくごくありきたりに村に戻っていったのじゃないか。
で、辺りを見回せば、日本にだってこんな状況は随所に生まれつつあるのじゃないだろうか?最近の異常気象や地震災害に追い立てられ、かなり人たちが避難所生活を余儀なくされている。三宅島にしろ山古志村にしろ、未だに復帰の目途はたっていない。あるいはこのまま、廃村という選択だってあり得るのじゃないか。もともと過疎の村なら、復興に金をかけるより、廃村という方向が選択される可能性は大いにある。その時、日本の年寄りたちはどうするだろう?避難所での飼い殺しのような余命を大切に生きながらえるのか?チェルノブイリの老人たちと同じように、誇らかに村に帰還するのだろうか?
『どんがら山奇譚』は村に敢然と戻ることを選んだ老婆の話だ。彼女が戻らざる得ない苦悩を思い描いてみた。彼女が舞い戻るすがすがしさを書いてみた。でも、きっとこれは絵空事なんだと思う。日本の年寄りたちは、村の不便さを思い不慣れな町場暮らしに仕方なく順応していくのだろう。いいや、彼らを責めることなんてできない。僕だって、今の便利な暮らしを捨てて、山に入るなんてできっこない。
『どんがら山奇譚』はあり得ない!だからこそ、『どんがら山奇譚』を書いた。便利さに絡め取られない人間の潔さを書いた。現実にはあり得ないとしても、舞台の上では生きてほしいと願った。おすぎ婆さんは、果たして、あり得るか?