歴歩

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桜井市 風呂坊5号墳 金銅製馬具が出土(2)

2008年11月01日 | Weblog
 11月1日、桜井市広報「わかざくら」より、風呂坊古墳群発掘調査に関する記事が公開されました。

[8/8掲載分]
 奈良新聞の報道を見ると、今回新たに見つかった風呂坊古墳群の古墳は2基で、ともに横穴式石室をもつ全長15-20mの円墳であった。風呂坊4号墳、同5号墳と名付けられた。
そのうち5号墳(6世紀前半―中ごろ)は残存状況が良く、壁や天井石の一部、閉塞石もあった。
石室の奥では馬具類などのほかに須恵器や土師器が見つかった。
[参考:8/8奈良新聞、前出]

 なお、風呂坊4号墳は平成19年度の第3次調査で見つかっており、「桜井市19年度発掘調査速報」として桜井市のHPの「文化財」で発表されている。
 それによると、第3次調査では、径約20mの円墳(4号墳)の存在が明らかとなり、その東側部分では木棺墓が見つかった。この木棺墓からは、棺の緊結に使用された鉄釘や、棺外に副葬された土器が出土しており、これらの遺物から7世紀前半頃の時期が考えられる。
 この木棺墓から北東約70mの位置には、大型の家形石棺で知られる艸墓(くさはか)古墳が存在し、時期的にも近接するものであり両者の関係性が注意されるところ。
 と、記されている。
[参考:桜井市HP→文化財→桜井市19年度発掘調査速報]
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藤ノ木古墳 夏に咲くベニバナの生花を石棺に納めた

2008年11月01日 | Weblog
被葬者を穴穂部皇子と宅部皇子に当てる興味深い成果
 今朝11月1日の産経ニュースでは、大々的にこのニュースを報じている。
 昨年10月6日に、「真っ赤な布などで包んだミイラ状の遺体を安置して掛け布をした」と報道され、「真綿の敷布団防腐などを目的に、棺全体にベニバナをまいた可能性」などが指摘された。
 その時、棺内のベニバナの花粉を分析した奈良教育大准教授(環境考古学)金原正明さんが、さらに研究を続け、石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子に絞り込む成果と報じている。
 石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究から、夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日本書紀が記す用明天皇2年6月7日(西暦587年7月17日)の暗殺時期と一致したとしている。
 石棺内から検出された大量のベニバナの花粉から、当初は被葬者を覆う布などの染料に使われた痕跡ともみられていたが、金原さんのさらなる研究で、染料にすると花粉はほとんど残らないことが判明。藤ノ木古墳の石棺には、ベニバナの生花が供花として石棺に納められていたと可能性を推定した。
 生花を供花としていたとすれば被葬者は夏に埋葬されたことが確実で、昭和63年の同古墳調査を担当した前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は、被葬者は587年6月7日に殺害された穴穂部皇子(生年不明)と、翌日に殺された宅部皇子(同)と推定する。また、考古学的見地からも、副葬品の金銅製靴は、本来は六角形の文様で統一するところを、一部が五角形になるなど製作ミスがある▽石棺の加工が粗い▽遺体の骨同士が結合したまま出土しており、死後間もないころの埋葬-などの点を挙げ、「古墳や副葬品を急遽作った可能性が高く、2人の皇子が死んだ状況と矛盾はない」と指摘している。
 ただし、ベニバナが保存用だとすると夏以外の埋葬の可能性もあるとして断定はされていない。
 今朝の産経ニュースには、この記事がいくつかに分けてたっぷりと記されているので直接ご覧いただきたい。
[参考:産経新聞]

備考
[ベニバナ出土一覧 (出土遺跡、時期、出土場所)]
桜井市・纒向遺跡(3世紀前半) 溝に溜まった土
斑鳩町・藤ノ木古墳(6世紀後半) 石棺内
明日香村・酒船石遺跡(7世紀後半) 石組み溝の土
明日香村・飛鳥寺南方遺跡(7世紀後半) 染色工房跡

[魏志倭人伝より]
 正始四年(243)、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木弣・短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
 ここで、絳青縑(こうせいけん)とは、深紅と青色を使った、経糸と緯糸が異なる併糸(あわせいと)によって織った平絹をいう。「絳」は深紅の色のことで、金原さんはベニバナで染められたものであった可能性を示唆する。

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