市歴史資料館が12日、「宇治川太閤堤跡」(京都府宇治市)で、江戸時代元禄期(1688~1704)の池跡が見つかったと発表した。
池の北側では今年8月に小池(直径約2m)などの庭園遺構が確認され、秀吉の「野点(のだて)跡」との見方もあったが、今回出土した瓦の文様から時代を特定し、二つの池は同時期(1700年前後)のものと分析された。
庭園はこれまで、1594年に築造が始まった太閤堤と同時期に造られたとみられていた。
池は南北約8m、東西約6m。既に出土している護岸と護岸の切れ目で見つかり、護岸線から川寄りに約3m張り出して、石列を板で押さえていた。
小池の底部には直径2.1m、深さ75cmの木製桶が埋め込まれていた。桶からあふれた水が池の中に流れる構造でつながっていたのではと推測している。
13、14日の午前9時~午後4時に現地を公開する。問い合わせは資料館(0774・39・9260)。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
秀吉の時代じゃなかった…太閤堤跡の池跡は元禄期(読売新聞) - goo ニュース
[8/21掲載分]
宇治川太閤堤跡 秀吉が茶の湯を楽しむ?庭園遺構が出土
京都府の宇治川市歴史資料館が21日、16世紀末豊臣秀吉が宇治川右岸に前田利家らに造らせた治水施設「宇治川太閤堤跡」(京都府宇治市菟道(とどう)丸山)で茶の施設とみられる炉や池などの庭園跡が見つかったことを発表した。
太閤堤は伏見城築城に伴う宇治川の護岸工事とされていたが、秀吉が治水目的以外にも、趣味の茶の湯で使った可能性がある。堤と一体となっている形状などから、庭園は太閤堤と同時期に築かれたとみられる。
資料館・吉水利明館長は「宇治川から山河の風景を眺めながら、茶の湯を楽しんだのかもしれない」と話している。
発掘したのは堤の一角の7m四方。昨年9月に発見された石積み護岸の南約40mの地下約1mから出土した。直径20~40cmの岩を円形に積んで囲った小池(直径1・9m、深さ20cm)から、西側の宇治川に向かって、池脇に小石を敷き詰めた「洲浜」(長さ約4m、幅約2m)が広がっていた。小池の向こうには70cm四方の石組みがあり、中の石が焦げていたことから炉の跡とみられる。小池や水流は手を洗うための「流れ蹲踞(つくばい)」、炉は茶の湯を沸かすためのものとみている。
昨年6月に太閤堤の発掘を開始。これまでに石張り護岸(長さ約75m)や杭止め護岸(同約30m)を確認しており、庭園は2護岸の中間で見つかった。
今回の調査では、護岸が右岸沿いに約500mにわたり続くことも確認された。また、地形に合わせて水流緩和施設の造りが変わり、多様な護岸形式がとられたことも分かった。
太閤堤の築造が命じられたのは1594年(文禄3年)で、遺構の北西約5キロに秀吉が伏見城を築いた直後にあたる。
文献によると、文禄3年(1594)3月、秀吉は、前田利家や織田有楽斎らを従えて、宇治を訪れている。
この時代は茶の湯が盛んで、秀吉は合戦の際、野外でたしなんだとされる。また小さな池を配した庭園の形状は、秀吉が戦いの疲れをいやし、茶会を開いた有馬温泉(神戸市北区)で見つかった湯山(ゆのやま)遺跡庭園跡に似ているという。
現地説明会は30日午後1~3時。駐車場なし。
[参考:読売新聞、毎日新聞、共同通信社]
池の北側では今年8月に小池(直径約2m)などの庭園遺構が確認され、秀吉の「野点(のだて)跡」との見方もあったが、今回出土した瓦の文様から時代を特定し、二つの池は同時期(1700年前後)のものと分析された。
庭園はこれまで、1594年に築造が始まった太閤堤と同時期に造られたとみられていた。
池は南北約8m、東西約6m。既に出土している護岸と護岸の切れ目で見つかり、護岸線から川寄りに約3m張り出して、石列を板で押さえていた。
小池の底部には直径2.1m、深さ75cmの木製桶が埋め込まれていた。桶からあふれた水が池の中に流れる構造でつながっていたのではと推測している。
13、14日の午前9時~午後4時に現地を公開する。問い合わせは資料館(0774・39・9260)。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
秀吉の時代じゃなかった…太閤堤跡の池跡は元禄期(読売新聞) - goo ニュース
[8/21掲載分]
宇治川太閤堤跡 秀吉が茶の湯を楽しむ?庭園遺構が出土
京都府の宇治川市歴史資料館が21日、16世紀末豊臣秀吉が宇治川右岸に前田利家らに造らせた治水施設「宇治川太閤堤跡」(京都府宇治市菟道(とどう)丸山)で茶の施設とみられる炉や池などの庭園跡が見つかったことを発表した。
太閤堤は伏見城築城に伴う宇治川の護岸工事とされていたが、秀吉が治水目的以外にも、趣味の茶の湯で使った可能性がある。堤と一体となっている形状などから、庭園は太閤堤と同時期に築かれたとみられる。
資料館・吉水利明館長は「宇治川から山河の風景を眺めながら、茶の湯を楽しんだのかもしれない」と話している。
発掘したのは堤の一角の7m四方。昨年9月に発見された石積み護岸の南約40mの地下約1mから出土した。直径20~40cmの岩を円形に積んで囲った小池(直径1・9m、深さ20cm)から、西側の宇治川に向かって、池脇に小石を敷き詰めた「洲浜」(長さ約4m、幅約2m)が広がっていた。小池の向こうには70cm四方の石組みがあり、中の石が焦げていたことから炉の跡とみられる。小池や水流は手を洗うための「流れ蹲踞(つくばい)」、炉は茶の湯を沸かすためのものとみている。
昨年6月に太閤堤の発掘を開始。これまでに石張り護岸(長さ約75m)や杭止め護岸(同約30m)を確認しており、庭園は2護岸の中間で見つかった。
今回の調査では、護岸が右岸沿いに約500mにわたり続くことも確認された。また、地形に合わせて水流緩和施設の造りが変わり、多様な護岸形式がとられたことも分かった。
太閤堤の築造が命じられたのは1594年(文禄3年)で、遺構の北西約5キロに秀吉が伏見城を築いた直後にあたる。
文献によると、文禄3年(1594)3月、秀吉は、前田利家や織田有楽斎らを従えて、宇治を訪れている。
この時代は茶の湯が盛んで、秀吉は合戦の際、野外でたしなんだとされる。また小さな池を配した庭園の形状は、秀吉が戦いの疲れをいやし、茶会を開いた有馬温泉(神戸市北区)で見つかった湯山(ゆのやま)遺跡庭園跡に似ているという。
現地説明会は30日午後1~3時。駐車場なし。
[参考:読売新聞、毎日新聞、共同通信社]