歴歩

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福岡市・鴻臚館 1‐3期は東側に門 遺構の柱穴を確認

2008年11月22日 | Weblog
 同市教委と専門委員会(委員長・小田富士雄福岡大名誉教授)は21日、7世紀後半‐11世紀半ばの迎賓館「鴻臚館」跡(同市中央区城内)を調査研究している時代とともに5期に変遷した同館跡で、北館が建てられた初期(7世紀頃)の段階に、東門とみられる遺構が見つかったと発表した。
 今回、試掘溝(幅10、長さ80m)中央部を約4・5m掘り下げたところ、北館を囲む塀の北東隅が確定。また東門の存在を示す柱穴(幅1・2、長さ4m)なども見つかった。
これまでは第2期(8世紀前半)の南北両館に東門を確認していただけだったが、同委員会は審議の結果、第1期から第3期(8世紀後半‐9世紀前半)にかけて、南北両館の東側に出入り口があったと結論付けた。
 発見された遺構は、北館第1期の東門の柱穴と柱列と考えられる穴。古代の都や役所は南門が通例とされるが、鴻臚館の場合は、(1)大宰府と同館を結ぶ「官道」が東側に到達していた(2)中国などの使節が到着する船着き場が東側にあったとの可能性(3)発掘調査の結果から、出入り口を東側にしたと推定される。
 このほか、北館の北東の角で海側に延びるスロープなどが見つかり、同委員会は「鴻臚館像の復元に一歩前進した」としている。
 また、05年度調査で出土した橋脚の木柱(奈良時代後半~平安時代)について、放射性炭素年代測定の結果、伐採時期は702~715年と判明し、木材として使用する前に備蓄していたことも分かった。
 市教委は22日午前10時~午後3時、現地で市民向けの説明会を開く。詳しくは市教委文化財整備課へ
[参考:西日本新聞、毎日新聞

鴻臚館 1‐3期は東側に門 遺構の柱穴を確認 福岡市教委 22日現地説明会(西日本新聞) - goo ニュース
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韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造

2008年11月22日 | Weblog
海南・龍頭里古墳
 11月21日、朝鮮日報(インターネット版)の記事に、今回の海南・龍頭里古墳の記事が出ていた。
 タイトルは、「海南・龍頭里古墳」 任那日本府 亡霊から抜け出した前方後円墳 13ヶ所中7ヶ所発掘「倭色濃厚だが任那日本府説反証」 である。
 現在まで把握された韓半島の前方後円墳13基中7基が姿を表した・・・と始まり、前方後円墳の性格を簡単に触れた上で、韓国で確実に把握された古墳13基を下記のように整理している。 ◎は調査が行われた古墳( )内は調査した機関
  全北高敞郡七岩里古墳
  全南霊光郡月山里月桂古墳.
  潭陽郡古城里古墳(月城山古墳)および声月里古墳(月田古墳)
  咸平長年里長鼓山古墳
  咸平馬山里杓山古墳群第1号墳
 ◎咸平礼徳里新徳古墳(国立光州博物館)
 ◎光州明花洞古墳(国立光州博物館)
 ◎光州月桂洞1および2号墳 (全南大博物館)
 ◎霊岩郡チャラボン(자라봉)古墳 (韓国精神文化研究院)
 ◎海南方山里古墳 (国立光州博物館)
 ◎海南龍頭里古墳 (国立光州博物館)

 これらの築造時期は、論議があるが最近では6世紀半ばに集中して造成されたという点には学界が大概合意している。前方後円墳は日本列島から由来したということには異論はない。前方後円墳は1980年代に入る前まではこの地球上でただ日本列島にだけであったが、その後、前方後円墳が韓半島にも存在するという事実が次から次へ表れ、さらに実際の発掘成果でも「倭色」が濃厚に現われたという事実が明確になるに連れて、古代韓-日関係史、特に「任那日本府説」と関連して、両国学界で非常な関心を集めた。「任那日本府説」は虚構であると自信を持っていた韓国学界としては困惑を隠すことができなかった。
 こういう「憂慮」を最も克明に見せた事件が咸平新徳古墳(6世紀前半)発掘である。この古墳は1991年3月国立光州博物館が現地実測調査をして盗掘穴があることを発見して、同じ年6月17日以後7月18日まで約一ヶ月の間発掘調査を実施した。盗掘被害を受けたが、後にその盗掘品を相当数回収した上に収拾遺物も侮れず、最も多い成果を出したと記している。

 韓国に現れた前方後円墳は明らかに日本のものだが、出現時期が6世紀であり、任那日本府説にはあてはまらないと言いたかったわけなのだろうか。


[11月20日掲載分]
 国立光州博物館(館長・趙現鍾조현종)が20日、前方後円墳である海南龍頭里古墳(해남 용두리고분)を発掘調査し、その成果を発表した。
 栄山江流域を中心に、湖南地方には前方後円墳10基余りが分布しており、そのうち一部は発掘結果で出土遺物や埋葬構造に倭色が濃厚に現れて、韓国と日本の古代史学界や考古学界の非常な注目を浴びてきた。
 龍頭里古墳発掘調査では数回にわたる盗掘で、出土遺物は石室内部と封土そして墳墓周辺を巡らす溝から、土器類若干と玉類、鉄器類をわずかに収集しただけであった。
 したがって今回の調査は、古墳の築造過程と性格を究明して今後遺跡整備復元の基礎資料を確保するのに注力したと話す。
発掘調査結果、龍頭里古墳は典型的な前方後円墳で全長41.3m、後円部は直径24.3m、高さ5.2mであり、前方部は幅17.5m、高さ3.8mであった。
 墓中央では、横穴式石室が確認された。この石室は自然地表面から1m以上の盛土で底を作った後、長台石を敷いた。さらに、石室の4つの壁面は、割石と黄白色粘土を満たして上に行くほど狭くなるように築造したことが明らかになった。石室規模は、長さ3.43m、幅2.17~2.38m、高さ1.8mであった。
また、墳墓上の封土を保護して装飾効果を出せるように板石を置いたことが分かった。
 博物館は今回の調査結果「築造技法と墳墓様式を解明することができたし、さらに墳墓頂上部で祭祀跡とみられる資料を確保した。築造時期はすでに調査した他の前方後円墳墓の咸平(禮里) 新古墳、光州・明花洞古墳等の出土遺物と石室構造などと比較すると、6世紀半ばと考えられる」と話している。
 現場説明会は21日午後2時開催される。
[参考:聯合ニュース]
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 貼付されている写真には、土器として鉢形器台(발형기대)、玉類として、勾玉1個、管玉数個、様々な色の大小の玉類が写っている。

2013-02-20
 康津郡永波里で14番目の前方後円墳を確認。(全南・康津永波里古墳)
 残存全長が67m。

2013.10.10
 全南羅州佳興里新興古墳(나주 가흥리 신흥고분)で5世紀半ば築造の前方後円墳(全長約30m)を確認。
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那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 国史跡に国文化審が答申

2008年11月22日 | Weblog
長者ケ平遺跡、東山道跡が国史跡に 国文化審が答申     
 国の文化審議会は21日、那須烏山市鴻野山にある長者ケ平遺跡と、隣接する同市とさくら市鍛冶ヶ沢にまたがる東山道跡を国指定史跡とすることを塩谷立文部科学相に答申した。名称は「長者ケ平官衙遺跡附東山道跡(ちょうじゃがだいらかんがいせきつけたりとうさんどうあと)」。
 長者ケ平官衙遺跡は、奈良時代から平安時代の役所跡(官衙)で、掘立柱建物の正殿と東西脇殿をコの字形に配置し、正殿の南に前殿と八脚門が並ぶ政庁域、その西側に掘立柱建物や礎石建物の倉庫群が並ぶ正倉域がある。遺跡の範囲は南北350m、東西350mで、指定対象面積は約13ヘクタール。
 また、同遺跡北西に8~9世紀ごろの古代東山道跡、西側に東山道と交差する道路跡(通称タツ街道)も発掘された。
 同遺跡が交通の要衝にあるため、南の下野国芳賀郡にあった新田駅家、下野国芳賀郡衙と推定される堂法田(どうほうだ)遺跡(真岡市)と関連した行政と物流ターミナル的な機能を有する郡役所跡とみられる。
 「古代国家の交通体系や地方支配体制を具体的に示すきわめて重要な遺跡」としている。
 県内の国指定官衙史跡とは、下野国庁跡(栃木市)、那須官衙遺跡(那珂川町)、上神主(かみこうぬし)・茂原官衙遺跡(宇都宮市・上三川町)に次いで4件目。
[参考:下野新聞、読売新聞、産経新聞]


[2008.7.22掲載分]
那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 年度内に国史跡
 昨年3月に県教委文化財課は、2001年から発掘調査をしていた那須烏山市鴻野山にある「長者ケ平(ちょうじゃがだいら)遺跡」を、「八世紀前後にかけての、古代の役所跡少なくとも芳賀郡の支所」との公式見解を示していた
 官道部分を合同で発掘調査し、申請準備を進めている那須烏山、さくら両市教委が、隣接する古代官道の東山道とタツ街道と併せ、年度内にも国指定史跡となる見通しであると明らかにした。
 申請範囲は、長者ケ平遺跡の官衙域と、那須烏山市とさくら市にまたがる東山道約500mとタツ街道約600m。全体は南北480m、東西380m、面積は約12万9千㎡に及ぶ。
[参考:下野新聞]

周辺遺跡
①長者ケ平遺跡
奈良・平安時代に営まれた役所跡。
源義家が、奥州征伐を終えて都に帰る途中、強大な富と力を持つ長者の後患を恐れ、焼き滅ぼしたという「長者伝説」が残される。
②太平寺(滝尾山正眼院)
延暦22年(803)坂上田村麻呂が蝦夷討伐のおり、大願成就を祈願し千手観音菩薩を安置し堂宇を建立したのが始まりとされ、嘉祥元年(848)慈覚大師円仁によりが開基されたといわれる。
③宮原八幡宮
延暦14年(795)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の勝利を祈願し、筑紫山に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりとされ、明応2年(1493)那須資実(すけざね)烏山城の拡張を行った際、現在の地に遷社されたといわれています。
④馬屋久保遺跡
平成元年に県内で初めて発掘された「東山道」の平安期の側溝のある路面が出土している。
⑤東山道とタツ街道
東山道は畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路で、七道の中で近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道を中路とした。陸奥国府・多賀城より北は小路とし、北上盆地内の鎮守府まで続いた。
タツ街道は、長者ケ原遺跡の西側を通り、北側を走る東山道に接続する道路。道路幅は9mを超えていた。
⑥下野薬師寺
白鳳期、天智天皇期の創建。一塔三金堂の伽藍配置を持つ寺院。
奈良時代には、東大寺および観世音寺とともに、国内の僧侶を統制する国立三戒壇の一つに数えられた。
日光山繁栄の源を作った勝道上人もここで如意僧都に師事して得度した。
⑦堂法田遺跡
芳賀市郡衙跡
⑧中村遺跡
芳賀市郡衙正倉別院
[参考:広報那須烏山]
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