歴歩

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岩手県:大台野遺跡  3万5千年前の木炭片確認

2008年11月27日 | Weblog
 西和賀町教育委員会は27日、同町の「大台野遺跡」から見つかっていた後期旧石器時代の木炭片が、放射性炭素年代測定で3万5000年前ごろのものと確認されたと発表した。同じ地層からは鉄鉱石も出土しており、遺跡から鉄鉱石が出土した国内最古級の事例という。 鉱脈は遺跡から5km以上離れた下流にあり、人為的に持ち込まれたのではと考えている。
 同時期の中国、ロシアの例から、祭祀に使用したとも推定できる。
 鉄鉱石は親指大で、3・5g前後。遺跡中央部の地表で深さ約90cmの層に、木炭片や石器と一緒に4つ出土した。
[参考:共同通信]
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恭仁宮跡 朝堂跡?見つかる

2008年11月27日 | Weblog
 聖武天皇が4年間だけ都を置いた恭仁(くに)京の宮跡(京都府木津川市)で、「朝堂」のものとみられる柱穴4基や、天皇が仕事前に立ち寄る「後殿(こうでん)」の柱穴が見つかったと京都府教委が27日、発表した。
 恭仁京は天平12(740)年、聖武天皇が突如遷都して成立し、宮殿が急遽造営されたが、同16年には難波宮に遷され、都としての役目を終えた。朝堂院地区では、これまで周囲を区画する板塀や南門が見つかっていたが、朝堂そのものの跡が見つからず、短命な都だったことから簡易な建物だったとの推測もあった。
 今回の朝堂の柱穴は、天皇が執務する大極殿跡の南300mから見つかった。検出した4つの柱穴は、平城宮跡の朝堂とほぼ同規模の直径1・5~1・7mで、東西方向に約3m(当時の十尺)間隔で並んでいた。直径30-50cmの柱が立っていたことが判明。
 朝堂が立ち並ぶ「朝堂院」の南門跡など過去の調査結果とも合わせ、東西幅130mと、平城京の3分の2ほどの細い朝堂院区域、平城京と同規模の朝堂が8棟並んでいたと推定されるという。
 「続日本紀」天平16年(744)元旦に朝堂に官人を集めて饗応したとの記述があり、今回の発見は、その規模にふさわしい建物の存在をうかがわせる。(天平十六年正月丙申朔、十六年春正月丙申朔。廃朝。饗五位已上於朝堂。)
 また、朝堂院地区の北にある大極殿院地区では、中心部の北側36mで、柱穴の下部(直径0・8~1m)3基分が見つかった。大極殿の柱穴と同じ5・1m間隔で並んでおり、天皇が休息する後殿の一部とみられるという。
 現地説明会は29日午前10時と午後2時からの2回行われる。
[参考:産経新聞、京都新聞、共同通信、朝日新聞]
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敦賀市・大町田遺跡 市内で初の弥生時代末-古墳時代初頭(3世紀)の集落跡

2008年11月27日 | Weblog
 市教委は26日、大町田遺跡(同市羽織町)について、弥生時代末(約1800年前)-古墳時代初頭(3世紀)の集落跡であると発表した。
 竪穴住居など9棟の住居跡が見つかり、甕や壺、高坏(など収納箱(縦60cm、横40cm、深さ10cm)に約100箱分の土器の破片類も出土した。遠隔地との交流もうかがわせる近江や東海製の土器の破片も混じって出土している。
 同遺跡の南東約300mには、国指定史跡・明神山古墳群(4世紀)、東約300mには弥生時代中期(約2000年前)の集落跡である吉河遺跡(1世紀)もあるが、この時代の集落跡が見つかったのは初めて。
 調査している市教委は、「今回の発見をこの地域の時代的な空白を埋める。古墳の埋葬者を推測する上でも興味深い。」として注目する。
 市教委は29日に午前10時と午後2時の2回、現地説明会を開く。問合せは市教委文化振興課
[参考:福井新聞、中日新聞]

参考:
明神山(みょうじんやま)1号墳 
福井県敦賀市坂ノ下 丘陵尾根の標高67.6mに築造
古墳時代前期(4世紀)築造、前方後方墳、墳長47m、後方辺長さ約27m(高さ5.6m・頂辺15m)、前方辺長さ20m(幅約17m・高さ3m)
前方部1段・後方部1段、葺石あり、埴輪なし
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