新薬師寺金堂跡 現地一般公開に2600人集まる。
11月22日、奈良教育大創立120周年を記念して、奈良時代(8世紀)の新薬師寺金堂跡の構内発掘調査現場を公開し、2600人が集まった。
奈良教育大構内の教育資料館では、来年1月30日までの平日、出土した瓦や仏像の破片などを展示している。
[参考:読売新聞]
[11月13日掲載分]
新薬師寺金堂 基壇規模は東西約68m
奈良教育大学は13日、金堂の規模について基壇の東西の長さが前回10月23日発表時より、約14m長く約68m、南北は約1.5m長く約28.5mとみられることを発表した。
現存の東大寺大仏殿(東西約57m、南北約50m)に匹敵、創建時の大仏殿(東西約85m、南北不明)に次ぐ規模という。
基壇の東南の隅にさらに東に延びる凝灰岩列が、西側からはさらに外側に基壇を造る際に使用する礎石を据え付ける遺構が見つかった。南北もその後の調査で前回より長いと推定されることが判明した。
これまでに基壇南端で凝灰岩の化粧石の延石(のべいし)や、人頭大の地固め石を詰めた柱穴4基などが出土していたが、今回新たに、遺構の西側で南北に並ぶ柱穴2基が出土。さらに東側でも、基壇最下部を覆う化粧石・地覆石(じふくいし)を東西約4mにわたって確認した。
10月出土した延石列はこれより1.8m南側に張り出しており、外装用の地覆石も使われていないため階段の一部と判明。張り出し部の出土状況から、階段の東西幅は約52mにわたると推定した。
これに伴い建物の規模を再計算したところ、10月時点では東西約54m、南北約27mとみていたが、東西約59m、南北約20mと推定した。これにより基壇の全体規模は東西約68m、南北は約28.5mになるという。
新たに出土した地覆石(幅約40cm、高さ30cm)は、これまでに確認されていた延石列より約2m後方に位置。この配列から同大は、基壇の前に階段が設けられていたと推測。「東大寺要録」によると、新薬師寺の金堂は「七仏薬師像」が安置されたとされる。基壇の高さは推定約2mで、位置関係などから幅約52mにわたる階段が、「七仏薬師像」が安置された金堂内陣の幅に合わせて取り付けられたと想定されるという。
このほか、遺構南東部からは乾漆像の一部とみられる黒漆が施された破片などが出土した。10月には奈良三彩の陶器片が出土している。
金堂の規模がさらに大きくなる可能性もあるが、調査区域の外側は大学敷地外で民家や道路になるため、これ以上の調査はできないという。
17日から同大学教育資料館で出土した仏像関連とみられる破片を展示する。
22日午前10時~正午に現場の一般公開を行う。少雨決行。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]
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[2008.10.23掲載分]
新薬師寺 8世紀の金堂遺構が見つかる 東大寺大仏殿に次ぐ規模
天平時代の8世紀中ごろに創建されたとされる新薬師寺の金堂(七仏薬師堂)跡とみられる遺構が見つかったと奈良教育大学(奈良市高畑町)が23日、発表した。
見つかった場所は、現在の本堂の西約150m、奈良市高畑町の奈良教育大敷地内。
基壇と呼ばれる建物最下部の大きさは、推定で東西約54m、南北約27m。東大寺の大仏殿は東西約85mあったとされ、奈良時代では東大寺大仏殿に次ぐ規模という。
新薬師寺は天平19年(747年)に、聖武天皇の病気回復を願って光明皇后が建立したとされる。
8世紀後半の東大寺の領内を示した正倉院御物の「東大寺山堺四至図」には「新薬師寺堂」が描かれ、12世紀初めの文献にも新薬師寺に仏像7体を安置したとの記述がある。
現在の新薬師寺で最古とされる本堂は奈良時代後半から平安時代初期の創建とみられ、伐折羅(ばさら)大将(国宝)などの十二神将立像は天平彫刻の代表作として知られる。
基壇石組みの最下段の凝灰岩(長さ約1m、幅45cm)の列(延石)と、軒下の雨落ちに相当する溝が計3カ所、東西方向に70cmから10mの長さで見つかった。
その近く西側では、柱を置く礎石を下支えする地固め石4カ所も確認し、柱間は東西約4.5m。
現地説明会は25日午前10時と午後1時から。少雨決行。
(10/26追記:毎日新聞によると2300人が参加した模様。)
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞]
大規模な新薬師寺の金堂跡 謎の伽藍解明に手掛かり(共同通信) - goo ニュース
新薬師寺の金堂遺構を発見=現存の東大寺大仏殿と同規模-奈良教育大(時事通信) - goo ニュース
11月22日、奈良教育大創立120周年を記念して、奈良時代(8世紀)の新薬師寺金堂跡の構内発掘調査現場を公開し、2600人が集まった。
奈良教育大構内の教育資料館では、来年1月30日までの平日、出土した瓦や仏像の破片などを展示している。
[参考:読売新聞]
[11月13日掲載分]
新薬師寺金堂 基壇規模は東西約68m
奈良教育大学は13日、金堂の規模について基壇の東西の長さが前回10月23日発表時より、約14m長く約68m、南北は約1.5m長く約28.5mとみられることを発表した。
現存の東大寺大仏殿(東西約57m、南北約50m)に匹敵、創建時の大仏殿(東西約85m、南北不明)に次ぐ規模という。
基壇の東南の隅にさらに東に延びる凝灰岩列が、西側からはさらに外側に基壇を造る際に使用する礎石を据え付ける遺構が見つかった。南北もその後の調査で前回より長いと推定されることが判明した。
これまでに基壇南端で凝灰岩の化粧石の延石(のべいし)や、人頭大の地固め石を詰めた柱穴4基などが出土していたが、今回新たに、遺構の西側で南北に並ぶ柱穴2基が出土。さらに東側でも、基壇最下部を覆う化粧石・地覆石(じふくいし)を東西約4mにわたって確認した。
10月出土した延石列はこれより1.8m南側に張り出しており、外装用の地覆石も使われていないため階段の一部と判明。張り出し部の出土状況から、階段の東西幅は約52mにわたると推定した。
これに伴い建物の規模を再計算したところ、10月時点では東西約54m、南北約27mとみていたが、東西約59m、南北約20mと推定した。これにより基壇の全体規模は東西約68m、南北は約28.5mになるという。
新たに出土した地覆石(幅約40cm、高さ30cm)は、これまでに確認されていた延石列より約2m後方に位置。この配列から同大は、基壇の前に階段が設けられていたと推測。「東大寺要録」によると、新薬師寺の金堂は「七仏薬師像」が安置されたとされる。基壇の高さは推定約2mで、位置関係などから幅約52mにわたる階段が、「七仏薬師像」が安置された金堂内陣の幅に合わせて取り付けられたと想定されるという。
このほか、遺構南東部からは乾漆像の一部とみられる黒漆が施された破片などが出土した。10月には奈良三彩の陶器片が出土している。
金堂の規模がさらに大きくなる可能性もあるが、調査区域の外側は大学敷地外で民家や道路になるため、これ以上の調査はできないという。
17日から同大学教育資料館で出土した仏像関連とみられる破片を展示する。
22日午前10時~正午に現場の一般公開を行う。少雨決行。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]
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[2008.10.23掲載分]
新薬師寺 8世紀の金堂遺構が見つかる 東大寺大仏殿に次ぐ規模
天平時代の8世紀中ごろに創建されたとされる新薬師寺の金堂(七仏薬師堂)跡とみられる遺構が見つかったと奈良教育大学(奈良市高畑町)が23日、発表した。
見つかった場所は、現在の本堂の西約150m、奈良市高畑町の奈良教育大敷地内。
基壇と呼ばれる建物最下部の大きさは、推定で東西約54m、南北約27m。東大寺の大仏殿は東西約85mあったとされ、奈良時代では東大寺大仏殿に次ぐ規模という。
新薬師寺は天平19年(747年)に、聖武天皇の病気回復を願って光明皇后が建立したとされる。
8世紀後半の東大寺の領内を示した正倉院御物の「東大寺山堺四至図」には「新薬師寺堂」が描かれ、12世紀初めの文献にも新薬師寺に仏像7体を安置したとの記述がある。
現在の新薬師寺で最古とされる本堂は奈良時代後半から平安時代初期の創建とみられ、伐折羅(ばさら)大将(国宝)などの十二神将立像は天平彫刻の代表作として知られる。
基壇石組みの最下段の凝灰岩(長さ約1m、幅45cm)の列(延石)と、軒下の雨落ちに相当する溝が計3カ所、東西方向に70cmから10mの長さで見つかった。
その近く西側では、柱を置く礎石を下支えする地固め石4カ所も確認し、柱間は東西約4.5m。
現地説明会は25日午前10時と午後1時から。少雨決行。
(10/26追記:毎日新聞によると2300人が参加した模様。)
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞]
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