歴歩

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佐賀県・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初の「花弁状住居」跡

2008年11月19日 | Weblog
九州の南北交流示す?  
 三養基郡みやき町教委は18日、同町原古賀の西寒水(にししょうず)四本柳(よんほんやなぎ)遺跡で、弥生時代中期とみられる「花弁状住居」跡を発掘したと発表した。
 花弁状住居跡は宮崎県中南部から鹿児島県大隅半島にかけて多く分布し、熊本、大分両県でも数カ所で見つかっているが、北部九州(福岡、佐賀、長崎県)では初めて。同町教委は「内部構造を含めた特徴が一致している。弥生中期の九州北部と南部の文化的交流を示す」遺跡とする。
 町教委によると、花弁状住居は、竪穴式住居の一種。住居跡は、直径約5mの円形部分と、その周囲を取り囲む幅1‐1.5mの大小8つの突出部で構成。円形部分は深さ約40cm、突出部が同約20cmの竪穴住居で、それぞれ土壁で間仕切られ、上から見ると突出部が花びらの形をしている。円形中央に1本その周りに8八本の柱穴が配置されている。
 同様の住居跡は宮崎県を中心に鹿児島、熊本県など南部九州で発掘されており「日向型間仕切り住居」とも呼ばれている。円形部分が居間や作業をする空間で、それより一段高い四角形部分の突出部が寝室や物置だったらしい。
 この住居跡からは、弥生時代中期前半のものとみられる土器が見つかっており、南部九州より100年前後古い可能性もあるという。現時点では日本最古と考えられ、住居形式が北部から南部に伝わった可能性がある。
 同遺跡ではこのほか、花弁状住居の類似型で、朝鮮半島南部で見られる松菊里型住居跡や石器製作工房とみられる遺構も確認された。
町教委は6月から来年12月までの予定で発掘調査をしている。23日の午前10時と午後2時に現地説明会がある。
[参考:西日本新聞、読売新聞、佐賀新聞、毎日新聞]
「花弁状住居」跡を発掘 九州の南北交流示す? 佐賀・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初(西日本新聞) - goo ニュース

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 出土した「花弁状住居」の時期について、佐賀新聞のみが弥生時代中期前半(紀元前1一世紀ごろ)とし、その他3紙が弥生時代中期としている。弥生時代中期の何時ごろかによって、南あるいは北のどちらから伝わったかを知る上で重要のようだ。
 読売新聞は、「弥生時代中期前半のものとみられる土器が見つかっており、南部九州より100年前後古い可能性もある」と記してもいる。
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喜界町・城久遺跡群 石鍋片に中世の文字

2008年11月19日 | Weblog
 喜界町教委は18日、同町城久(ぐすく)地区の城久遺跡群で、中世のものとみられる文字資料1点を発掘したと発表した。
中世の文字資料が同遺跡で見つかったのは初めてで、南西諸島でもこれまで3例しかなかったという。
 文字は、同遺跡群の1つである大ウフ遺跡から昨年度に出土した滑石製石鍋片(8cm四方)に刻まれていた。今年10月、鍋の縁部分に「大」(縦2cm、横2.2cm)とあるのを東京大の研究者らが確認した。滑石は長崎県西彼杵半島産という。
 2002年に発掘が始まった同遺跡群は、9‐14世紀の集落跡とみられ、広さは約13万㎡。100棟を超える建物跡や土坑墓などのほか、大宰府(福岡県)で使われたものと似た土師器などが出土した。規模や遺物などから、大宰府の出先機関説が浮上し、古代から中世にかけた律令国家の境界領域を覆す可能性があるとして、考古学関係者が注目していた。
[参考:西日本新聞]
石鍋片に中世の文字 喜界町城久遺跡群 南西諸島で4例目(西日本新聞) - goo ニュース

備考
 昨年1月には、鉄器をつくる鍛冶炉の跡が20基以上発見された。しかしながら、周辺の遺跡から鉄製品はほとんど出土していないため、作られた鉄器は他に移動させていたと考えられている。これまでにも9~12世紀の多数の建物跡や石敷きの道路跡が発見されている。この時代には国の役所跡でしか出土しない中国製青磁なども見つかっており、大宰府(現福岡県太宰府市)の出先機関があった可能性も指摘されている。
[参考:2007.1.4毎日新聞]

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東松島市・赤井遺跡 高床式倉庫跡10棟以上が見つかる

2008年11月19日 | Weblog
 市教委は18日、古代「牡鹿柵」とされる赤井遺跡で、奈良時代の高床式倉庫とみられる建物跡を新たに10棟以上発掘したと発表した。これまでに高床式倉庫跡が一棟見つかっているが、今回の建物跡は隣接する北西の場所。
 7世紀に建てられたとみられる県内最大級の竪穴住居跡(約10m四方)も見つかった。
 竪穴住居跡は、7世紀中期~末(飛鳥時代)の赤井遺跡集落の中心的居住地域と見られ、関東地方の特徴を持つ土器が多く出土。市教委は、牡鹿柵が築かれる前に関東地方から集団で移住。その集落跡に役所施設が造営されたと見ている。
 また、溝(深さ60―80cm)と木塀で二重に囲まれた建物跡(南北約8m、東西約12m)からは、大型の柱材(直径約55cm、高さ約40cm)を発掘。柱材は屋根を支える側柱(そくばしら)とみられ、重要物を納めた頑丈な倉庫か、重要な事務棟と考えられるという。
 同遺跡は、8世紀の史実を記す「続日本紀」に登場する「牡鹿柵」と推定されており、遺跡の全体像を知る手がかりになるとみている。周囲からは高床構造の建物跡が多数確認されており、同区域は役所内の「正倉」地区と推定する。
 溝などからは多賀城創建前の多数の平瓦片、円面硯の一部なども見つかっていることから、近辺に役所の中心的な建物「政庁」か「寺院」がある可能性が高いとみている。
 市教委はさらに西側を調査し、政庁跡を発見したいとし、また、牡鹿柵の特定と豪族・道嶋氏の実像解明に近づきつつあると話している。国指定の史跡に向けて、赤井遺跡で生活していた人々の墓所とされる矢本横穴墓群と関連して、律令国家の古代東北解明を目指す。
 市教委は22日午後1時―午後3時半、遺跡の見学会を開く。(雨天の場合は22日に延期)。
[参考:読売新聞、河北新報、毎日新聞]

道嶋氏
 代表的な、道嶋宿祢嶋足は本姓が丸子で、牡鹿連、次に牡鹿宿祢、更に道嶋宿祢とつぎつぎに賜姓していき、遂には中央の顕官まで昇叙して正四位上近衛中将になる。
 神護景雲元年(767)には陸奥大国造になる。嶋足は下総や播磨等の守を経て、延暦二年(783)に死去した。
 東松島市の赤井遺跡(古代には牡鹿郡に含まれた)からは「舎人」「大舎人」と墨書された須恵器が発見され、豪族道嶋一族の居館と関連づけて考えられている。
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