歴歩

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松江市・鞍切遺跡 石棺内部から石材を確認 被葬者の枕か?

2008年11月21日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査センターは20日、鞍切(くらきり)遺跡(松江市西尾町)の4号墳から、箱式石棺、大刀、石棺内部には被葬者の枕とみられる石材が見つかったと発表した。いずれも古墳時代中期ごろの埋葬品。
 鞍切遺跡内には4基の古墳がある。4号墳は一部破壊されているが、11mの方墳と推定される。古墳時代中ごろに造られ、墳丘の中央には、長さ2m、最大幅0・5mの箱式石棺がある。石棺内には被葬者の枕として使われた可能性がある石材(長さ24cm、幅12cm、厚さ5cm)、石棺外からは大刀の一部が出土した。

 鞍切遺跡は和久羅山から派生する丘陵に存在する。鞍切遺跡の発掘調査は本年5月から実施している。遺跡内には4基の古墳と街道が存在する。
 1号墳と2号墳は、2基とも削平されており周溝しか残っていなかった。周溝からは、円筒埴輪片と葺石が多量に出土している。3号墳は,事業範囲外のため調査を行っていない。
 新たに発見された古墳は、方墳としては県内有数の規模を誇る廟所古墳(一辺64~68m)に隣接する丘陵にあり,朝酌地域の古墳時代の社会を考える上で貴重な資料となったとする。
遺跡公開
 平成20年11月24日(月:振替休日) 10時より現地説明会を開催。小雨決行。
 集合場所は第五大橋発掘調査事務所 (連絡先:第五大橋発掘調査事務所)
[参考:毎日新聞、島根県報道資料→11月20日、中国新聞]
鞍切遺跡で古墳4基確認(中国新聞) - goo ニュース

 
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大垣市昼飯町 「車塚古墳」と「大塚1号墳」 発掘調査

2008年11月21日 | Weblog
 市教委は20日、同市昼飯町の標題2古墳の公園整備に伴う発掘調査結果を発表した。
 車塚古墳は児童公園内に所在し、盛り土が崩れ落ち、横穴式石室(長さ8.2m、巾3.3m)が露出している。調査の結果、幅2・5m以上の周壕と、石室への通路と思われる石材を積んだ前庭部を確認。古墳は方墳の可能性が高く、石室の形状から古墳時代末期7世紀初めのものとみられる。石室の規模や出土した馬の飾り金具などから、この地域に造られた最後の首長墓の一つの可能性があると考えられる。東京国立博物館などに残る記録では明治時代の開墾に伴い、石室から古銅器や古陶器が出土。同博物館には馬の飾り金具や須恵器が所蔵されている。
 大塚1号墳は車塚古墳の約200m北にあり、昨年度の調査で幅4m、深さ1・3mの周壕を3地点で発見した。今年度の調査でも新たに周壕が見つかり、1辺が20m以上の方墳であることが確認された。周壕の底からは、5世紀のものと思われる祭祀用の壺2個や須恵器が見つかった。平成元年度の調査で、墳頂部から形象埴輪(盾)片が採集され、5世紀代の築造と見られていた。
 各遺跡の現地説明会が22日午後1~3時に行われる。
[参考:毎日新聞、平成19年度岐阜県大垣市(大塚1号墳)現地説明会資料、現地案内板]
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岐阜市・加納城跡 大手櫓門の規模を確認

2008年11月21日 | Weblog
 市教育委員会は20日、同市加納丸之内の国指定史跡「加納城跡」発掘調査で新たな発掘があったことを発表した。
①昨年から今年3月までの調査で、枡形の空間と本丸の境にあった大手櫓門の付近で石垣(長さ約7m)を発掘。石垣で区切られた部分を特定できたため、櫓門の南北方向の規模が約11m、東西方向約6.6mであるとわかった。
 櫓門は城主が居を構える本丸に敵が攻めてきた際、閉め切るために設置された。敵を入り口の空間に閉じ込め、四方から挟み撃ちする仕組みだという。
②出枡形(でますがた)と呼ばれる平たんな部分は南北に約30m、東西に約18mに延びた構造だと発表した。
 市教委によると、加納城の本丸は堀に囲まれ、上から見ると凸形で、本丸に通じる入り口になっている。
②集水桝とみられる方形に組んだ石と、「一の門」の柱を支えた礎石である可能性がある河原石も見つかった。二の丸方面から本丸に通じる「高麗門」の可能性があるという。
 加納城は、関ヶ原の合戦直後の慶長6年(1601年)に、大坂方への備えの拠点として、徳川家康が本多忠勝に築城を命じたとされる。初代城主は家康の娘婿・奥平信正。
 市教委は22日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは、市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所へ。
[参考:中日新聞、読売新聞、毎日新聞]

文安2年(1445) 美濃国守護代斉藤利永(?-1460)が中世加納城を築城する
永禄10年(1567) 織田信長、斉藤龍興(1548-1573)を追放し、稲葉山城を占拠
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城落城
慶長6年(1601) 徳川家康が家臣の本田忠勝に命じ築城したとされる
          奥平信昌、加納を拝領する
慶長7年(1602) 加納城築城開始
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長浜市・横山城遺跡 戦国時代の痕跡出土

2008年11月21日 | Weblog
 市教委は20日、市東部の横山城遺跡で16世紀後半のものとみられる、刀の鞘の先端部にはめる金具「鐺(こじり)」が県内で初めて出土したと、発表した。防御のため斜面を削った切岸(きりぎし)、土塁の基礎となった石列などの遺構も検出された。
 主要な施設は横山の南北2か所にあったと推測されているが、これまで建物遺構は出土していなかった。
 今年8月、市教委が標高300m付近の3か所を発掘し、曲輪の跡から土師器や信楽焼の皿などとともに鐺1点が見つかった。
 切岸遺構は、曲輪跡の西側、二重の空堀の直上に位置する。高低差約5・2mの斜面の土を、長さ約8mにわたって削っており、西側の守りの要だったことがうかがわれる。石列(長さ約1・1m)も、曲輪付近で検出された。
 鐺は26日まで市立長浜図書館(0749・63・2122)で展示されている。
[参考:読売新聞]

 横山城は長浜市の東側、横山丘陵・臥竜山(標高312m)を中心に三方の尾根に配置配されている。
 築造時期不明 京極氏の支城として築かれたといわれる。
 永禄4年(1561) 浅井長政は、南近江守護の六角義賢と戦い佐和山城を落とした。浅井氏の近江南進の要として、横山城を築いて、浅井井演を城代とした。
 元亀元年(1570) 織田信長に反旗を翻した浅井長政は、信長との姉川の合戦に敗れる。信長は、横山城へ木下秀吉を城代として送る。
天正元年(1573) 浅井氏滅亡によりこの城の役目も終わり、長浜築城を期に廃城となった。
[これまでの主な出土遺物]
 11世紀平安時代ごろの北宋銭「治平元寶(じへいげんぽう)」が16世紀の土師器とともに出土
 16世紀半ばの鎧具足の一部である小札(こざね)が出土
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奈良市・春日大社 氷室跡か、謎の穴 3つ

2008年11月21日 | Weblog
 春日大社(春日野町)境内北部の水谷神社付近で、3つまとまって掘られた鉢状の大きな穴(直径約10m、深さ約1・2m)を神職の中野和正さんが見つけた。形や大きさから「氷室」跡の可能性がある。
 穴は一般の立ち入りが禁じられている場所にあり、直径7―10m。深さは1mほどあり、ほぼ正円に掘られている。
 今年夏ごろ中野さんが見つけ、龍谷大大学院で氷室の研究をしていた川村和正さん(奈良市在住)に連絡した。「日本書紀」に登場する氷室は深さ約3mで、竪穴にカヤなどを敷き詰め、氷を収めたという。
 天理市福住町や奈良市都祁地域で氷室とみられる遺構が見つかっており、三基1セットで造られるケースが多い。直径は5―12m程度で、春日大社の窪みと一致する。
 奈良時代の絵図である正倉院宝物「東大寺山堺四至図(さんがいしいしず)」には、現在の境内を指す「神地」の北側に「氷池」の文字があり、氷室も周辺にあったとみられている。見つかった穴は両者の中間に位置する。
 中野さんは「水を凍らせて氷を作るのが氷池。保存施設の氷室が近くにあってもおかしくない」とみている。
 問題は深さが1mと浅く、長い年月を経ているのに木が生えていないこと。川村さんは、「正円、大きさ、三基のまとまり」を氷室の共通ポイントと挙げる一方、木の生育などを相違点に挙げ「水はけの良い土質であるかなど、検討課題は残る。奈良時代に氷池の伝承地があったのは確かで、周辺には何らかの形で氷室があったはず。候補の一つと言えるだろう」と話している。
[参考:奈良新聞、毎日新聞]
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