歴歩

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雲仙市・守山大塚古墳 葺石と周溝跡が出土 奈良時代まで豪族支配か

2008年11月14日 | Weblog
 雲仙市教委は11日、同市吾妻町の前方後円墳の守山大塚古墳(四世紀)を発掘調査し、葺石と考えられる礫群と、その外側に周溝とみられる深い落ち込みの跡を発見したことを発表した。また、発掘現場と出土した墨書土器などの遺物約20点を報道陣に公開した。
 公開中の映画「まぼろしの邪馬台国」の原作者、宮康平氏がこの古墳を見つけたとされ、著書で紹介、映画にも登場している。
 同古墳は全長約70m、後円部の直径約45m、墳丘の高さ約7m。県内では壱岐市勝本町の双六古墳(全長約90m、六世紀中ごろ築造)に次いで2番目に大きい。現在は墓地となっている。1990年に県教委が測量調査した際、表面から四世紀ごろの土器片を採取した。前方が小さい形状などから古墳時代前期の四世紀ごろに造られたとみられている。
 昭和41年には古田正隆氏らの調査によって隣接する円墳と周辺の遺跡から弥生時代末期の遺物などが出土。平成2年、県教育委員会が測量調査を実施した際にも、四世紀の土器も見つかり、同古墳が古墳時代初期のものであることが判明した。
 市道拡幅に伴い10月20日から31日にかけて、初めて墳丘近くの5カ所計20㎡を試掘した。
 墳丘から一番近い試掘抗からは、葺石とみられる直径30cm前後の多数の石が1m余の深さに。数m離れたところでは深さ1.9mの部分で周溝の底とみられる跡が見つかった。いずれも崩れた礫群を確認した。周溝の幅や大きさ等については試掘の範囲が限られたため確認までに至らなかった。
 また、円筒埴輪の前段階である壷型埴輪(朝顔形埴輪)の祖形、壷形土器片も出土した。
葺石の上の層から、前方後円墳の周溝が埋没した八世紀ごろの「井」の字が記された墨書土器が、見つかり、守山大塚古墳近辺に当時、郡衙にかかわる遺跡が存在したことが窺われるとする。
 弥生後期から古墳時代、さらに奈良時代まで、この地に大きな力を持つ豪族がいて集落が広がっていたと推測する。
 同市教委は16日午後1時から現地で一般市民向けに発掘調査説明会を開く。
[参考:11/12長崎新聞、11/12島原新聞、11/9雲仙市HP]
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水戸市・水戸城跡 「障子堀」発見 江戸氏居城時の遺構か 

2008年11月14日 | Weblog
 水戸市教育委員会は12日、同市三の丸二丁目の「水戸城二の丸跡」で、底面に段差を付けた障子堀と呼ばれる堀跡が発見されたと発表した。今回発見された堀は、江戸氏が居城としていたころの遺構とみられる。
 また、調査地北側の中央付近の大きな溝から、後に第2代藩主徳川光圀が1698年に開設し「大日本史」の編纂を行った彰考館に関連するとされる唐草模様の瓦が大量に出土した。11日報道関係者に公開された。
 発掘場所は、市立第二中学校内の二の丸跡約3500㎡。今回の第二次調査で、十五世紀後半の水戸城の様子が分かってきた。記録によると、当時の水戸城主の江戸氏が最初に二の丸を整備したとされており、有力家臣らを住まわせ、城の外郭を形成していたと伝えられている。
 調査地の西側に幅約10m、深さ約5mの空堀が確認され、数カ所に底面に1~2mの段差を設けた障子堀も含まれていた。
 堀跡は10か所ほど見つかった。大部分は、1426年に、前城主の馬場満幹が留守にしている間に城を占拠し、城主となった土豪の江戸通房の一族が築いたものだという。発掘地点は当時、城の外郭だったとされ、障子堀は、敵が城内に侵入することを防ぐために築かれたとみられる。
市教委は「群雄が割拠する時代の、常に戦闘を意識した防御の造り」と指摘。障子堀は、北条氏の小田原城に見られることで有名という。
 また、国の重要文化財に指定されている「弘道館」に使われているものと同じ形の「棟飾瓦」も見つかり、彰考館の外観を知る上で貴重な資料になるという。
このほか、古墳時代の住居跡や江戸時代の陶磁器、明治から昭和時代の遺物などが見つかった。
 調査は8月29日から始まり、12月まで続けられる。
発掘調査場所の一般公開は、16日の午後一時と同二時半の二回。問合せは市文化振興課TEL029(232)9339。
[参考:茨城新聞、読売新聞、NHK]

水戸城 (別名 馬場城・水府城) 年表
 建久年間(1190~1198) 常陸大掾・平国香の8代子孫・平資幹(ふみもと)(馬場氏を名乗る)によって館が築かれる。
 応永33年(1426) 鎌倉公方方に付いた江戸通房(1410-1465)が馬場満幹(みつもと)の留守を狙って馬場城を攻略した。
このとき、江戸氏の主君は常陸守護の佐竹氏。(江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族。那珂通辰の子通泰の時に、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったという。)
 天文21年(1552) 北条氏康の攻勢で関東管領上杉憲政が追われ、北条氏の勢力が北関東にまで及ぶようになる。佐竹氏は、反北条として越後の上杉謙信と協力しており、江戸氏もこの戦いに加わる。
 天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸重通は北条氏側に付き、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。そのため、佐竹家は常陸・下野で540000石を安堵される。
 文禄3年(1594) 佐竹氏は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、重通を敗走させた。水戸城は佐竹氏54万石の所領となった。
 慶長5年(1600) 関ヶ原合戦での帰趨を明らかにしなかった佐竹氏は咎められ、出羽久保田城へ減封されて国替えとなった。
 慶長7年(1602) 徳川家康の七男・武田信吉が下総佐倉城から15万石で入封。翌年死亡。
 慶長8年(1603) 信吉の死後嗣子が無く、家康の十男頼宣(よりのぶ)が入封。
 慶長14年(1609) 家康十一男の頼房が下妻城から25万石で入封。以降徳川御三家の一つとして世襲した。
 元禄10年(1697) 徳川光圀が江戸小石川藩邸においた彰考館の組織を水戸へ移転し、水戸彰考館を発足させた。
 天保12年(1841) 徳川斉昭によって藩校・弘道館が建築される。
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南相馬市・舘越遺跡 東北最大級の木炭窯跡 製鉄拠点か 15日に説明会

2008年11月14日 | Weblog
 福島県文化振興事業団によると、南相馬市小高区の舘越(たてごし)遺跡(8世紀後半―9世紀前半)で、東北最大級の長さ13.2mの大規模な製鉄用木炭窯跡が、13日までに見つかった。木炭窯跡は丘陵斜面をトンネル状に掘ったもので24基見つかった。
 木炭窯は当時の地表から2―6mの深さの地下をトンネル状に掘って造られた。自然の傾斜を利用した登り窯タイプで、大規模な土木工事が行われたとみられる。窯の近くで見つかった製鉄炉跡の年代から、8世紀後半に使われたと推定される。
 この時期の木炭窯は通常は長さ6―8mの規模であるが、今回の窯は2倍近い。同様の大きな窯跡は千葉県でも見つかっているため、窯の構築技術が南関東地域から伝えられたと推測される。
木炭を燃料として使う製鉄炉跡2基も見つかった。
 舘越遺跡は、半円状に築いた土塁に製鉄炉を集中的に構築した「環状盛土遺構」などの製鉄炉群が見つかった横大道遺跡と隣接している。両遺跡周辺の粘土の質が製鉄に適していたとみられ、大規模な製鉄拠点だった可能性が大きい。
奈良時代から平安時代にかけての遺跡で、当時の相双地方が蝦夷(えみし)と対立する大和政権の一大製鉄基地だった可能性が強まったとする。
15日午後1時半から一般公開され、説明会が開かれる。
 日 時:  平成20年11月15日(土)13:30
 場 所:  南相馬市小高区大田和字舘越 
[福島県文化振興事業団、河北新報、 KFB福島放送]
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