歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大田市・庵寺遺跡 横穴式石室を持つ後期古墳を確認

2008年11月07日 | Weblog
 出雲大社の西、石見銀山跡に近い島根県大田市仁摩町大国にある庵寺(あんでら)遺跡は、一般国道9号仁摩温泉津道路建設事業に伴い、平成19年4月から発掘調査を実施している。昨年度の調査では、弥生時代の低湿地から36点の田下駄が出土した。古墳時代の溝からは銅製耳環が出土した。
 今年度は、昨年度調査したところの南側の山頂で、潮川左岸の標高60m~65mの丘陵尾根上に営まれた10基の古墳群を確認した。
 調査を行った1号墳は、眼下に潮川河口の小平野と日本海を眺望する丘陵頂部に位置し、この古墳群の中心的な存在である。直径13mの円墳で、岩盤を掘り下げた横穴式石室(長さ5.5m、幅1.4m、残存高1.3m)を内部主体に持つ古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳であることがわかった。この横穴式石室は、それ以前に同所に造られていた古墳(埋葬施設は箱式石棺)を一部改変して造成している。石室からは、これまでに、副葬品と考えられる大刀1、刀子5、鉄鏃9、鉄鎌1、須恵器提瓶1点、蓋坏6、𤭯(はそう)1、耳輪1、管玉2などが出土した。
 このほか、3基の古墳と1基の土器棺墓を発掘調査中である。
 発掘調査区付近の丘陵尾根上には、少なくとも10基の比較的小規模な古墳が造られていることがわかった。
 庵寺遺跡で石棺や土器館墓が調査されたことによって、これまであまり例のなかった仁摩町内の古墳時代前期あるいは中期の墳墓が確認された。
 庵寺1号墳は、横穴式石室を持つ古墳としては仁摩町で7例目の発見となる。潮川河口周辺では、県指定史跡の明神古墳(6世紀後半)に次ぐ規模の横穴式石室として注目される。
 現地説明会の開催が予定されている。
日 時: 平成20年11月9日(日 )午前10時から (小雨決行)
場 所: 大田市仁摩町大国 庵寺遺跡発掘調査現場
内 容: 遺跡現地を公開するほか、出土遺物が展示される。

備考:明神古墳
 円墳 直径20m、 高さ3m、 両袖形横穴式石室 全長10.1m、 玄室: 長さ6.7m、 幅2-2.4m、 高さ1.2m
 埋葬施設 家型石棺 長さ2.36m、 幅1.02m、 高さ0.7m、 築造 6世紀後半
[参考:島根県教育庁埋蔵文化財センター] 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐津市・浜玉で石切り場確認 大坂城再建時に搬出か

2008年11月07日 | Weblog
 佐賀県唐津市教委は6日、同市浜玉町谷口の黒田山山頂(約190m)で、江戸時代初期(17世紀前半)に城の石垣用の石材を切り出したとみられる石切り場跡(「谷口石切丁場(いしきりちょうば)跡」と命名)を確認したと発表した。
 発見された石材の重さは唐津城(1608年完成)の石垣の約10倍の最大で20トン超と推定され、当時築城された城郭規模などから、徳川幕府による大坂城再建(1620―29年)の際、唐津藩初代藩主の寺沢広高が切り出した可能性が大きい。搬出道の跡も見つかり、石を切り出し、加工、搬出するまでの作業過程を一貫して確認できる全国初の遺構で、江戸初期の土木技術研究に大きな影響を与える資料になりそうだ。
 巨石の存在が地元から寄せられ市教委が4月から調査に入った。石切り場の広さは約1000㎡で、花崗岩を切り出した直方体の石材(約4m×約1・5m×約1・4m)4個を確認した。辺の長さが異なり独特の反りをつけて加工してあるため城の石垣の角に使う「角石(すみいし)」とみられる。
 現場に露出する自然石や残された石片に「矢」と呼ばれる大型くさびを打ち込んだ跡があり、石切り場と判断。南西約800m離れた玉島川に向かう斜面の谷筋には、長さ約50mにわたる窪みも確認。石材搬出用の「石曳き道」とみられる。
現場に残る「矢」の跡は、最大で長さ約15cm、幅約6cmと大型で、このサイズから江戸時代初期の石切り場と推測。時代的に寺沢家が所有していたとみられるが、石材は唐津城の石垣の約10倍もあり、市教委は「藩内で使われたものではない」と見る。
 石切り場は各地にあるが、切り出しから搬出までを示す遺構が1カ所で確認できるのは全国初。市教委は「現場で石を細部まで仕上げている点でも前例がない」と重要性を強調する。
 一方、この時期は大坂夏の陣後、徳川幕府は1620年から大坂城の再築工事「公儀普請(こうぎふしん)」を西国大名に命じ唐津藩主寺沢氏も参加することで幕府への忠誠心を示しており、大坂城天守閣の跡部信主任学芸員は「そのような巨石を使うのは大坂城以外では考えにくい」と指摘する。さらに大分県竹田市に伝わる古文書にも、大坂城工事のために唐津で石を割った記述があることから、市教委は「寺沢家が唐津で角石を切り出し大坂城普請に使った可能性は大きい」と話している。
 大坂城再築では、多くの大名が石を調達した瀬戸内海沿岸に丁場遺構が多い。九州では福岡県行橋市沓尾(くつお)で確認されていたが、谷口石切丁場跡が最西端となった。
 地元では、以前から存在は知られ、豊臣秀吉の居城である名護屋城(唐津市鎮西町)に使われたとの伝承から「太閤(たいこう)石」と呼ばれていたが、市教委が4月から調査を進め、大坂城用と判断した。
[参考:佐賀新聞、西日本新聞、毎日新聞、共同通信、唐津市]
大坂城向け?唐津に石材 大規模な石切り場も(共同通信) - goo ニュース
大坂城石垣の採石場跡? 唐津市の山頂 市教委が確認 生産工程分かる史跡 全国初(西日本新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島市・朽木陣屋跡 御殿に付属する馬屋・台所・土蔵を発見

2008年11月07日 | Weblog
 高島市教委は6日、高島市朽木野尻の県史跡「朽木(くつき)陣屋跡」(江戸時代)から馬屋跡や土蔵跡などが出土したことを発表した。
 まだ見つかっていない陣屋の中心施設・御殿の一部とみられ、今後、中枢部の遺構が見つかる可能性が高まったとしている。
 朽木陣屋跡は東西約290m、南北約180m。このうち約571㎡を発掘した結果、板間が馬体で沈まぬように礫を敷き詰めた馬屋跡や、熱によって割れた石が確認できる台所跡、基礎と見られる石列が現れた土蔵跡、深さ約1.7m、直径80cmの石組みの井戸が見つかった。そのほか、陶器や染付などの土器のほか、銅製キセル、鉄砲玉、被熱した壁材などが出土した。一緒に出土した信楽焼のすり鉢などから、18世紀後半~19世紀前半の遺構とみられる。
 朽木氏は近江国守護の佐々木信綱の子孫とされ、鎌倉時代から明治維新まで一帯を治めていた。室町時代には幕府の奉公衆を務めた。関ヶ原の戦い以降、禄高1万石以下でありながら、全国に三十三家しかない「交代寄合」という特別な旗本として、大名に準じて参勤交代をしていたほどの名家。
 県が1922年に地元住民に聞き取りしたところ、陣屋は明治初年まで残っていたらしい。
発掘調査現場において、現地説明会を実施し、調査現場と出土遺物が公開される。
日  時: 平成20年11月9日(日)13時30分より (雨天決行)
場  所: 朽木陣屋跡 発掘調査現場 (高島市森林組合 朽木事業所内)
集合場所: 朽木資料館 駐車場
問合わせ: 市教委文化財課(0740・32・4467)。
[参考:読売新聞、中日新聞、高島市]

朽木氏
 宇多源氏佐々木氏流として佐々木信綱(1181?-1242)の子・高島高信の次男・頼綱を祖とする。朽木氏が佐々木氏の有力庶子家であったばかりではなく、朽木氏経の時、頼朝の助命を夫清盛に願った池禅尼(1104?1164)の子・平頼盛(1131-1186)の子・池保業の3代後・顕盛の猶子となり所領の一部を継承したらしい。[参考:朽木文書]
前出の万木氏は信綱の弟広綱からの家系である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする