歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

新羅山城・咸安城山山城で敷葉工法による「ダム」築造跡

2008年11月25日 | Weblog
 新羅の山城で、洪水時に渓谷に一時に流れる水の圧力で城壁が崩壊するのを防ぐために、城壁内側に現代のダムと同じ巨大な防御壁を設置した跡が発掘調査で現れた。
 国立文化財研究所は19日、韓国古代木簡の最大出土地の慶南咸安城山山城(6世紀中~後半築造)の第13次発掘調査で、東側渓谷を横切った石築城郭内側について幅15.2mに達する巨大な防御用「堤防」を積んだ跡を発見したことを明らかにした。この「堤防」は現在残っている規模からみて最大高さ2.4m、全長は27.2mに達する。この「堤防」は「敷葉工法(부엽공법)」により築かれた。 
 文字通り、「木の葉や草などを敷く方式」である敷葉工法は中国で始まり、韓半島を経て日本に伝えられた技術と評価され、水が流れる所に城壁や堤防などを積み重ねる時に適用された。
 この工法は、日本の古代ダム式貯水池の狭山池(616年頃築造)の発掘調査で初めて確認されて以後、韓国ではソウル・風納土城と扶余羅城、唐津合徳堤、金堤、碧骨堤、利川雪峰山城などの地で部分的に確認されている。
 城山山城城郭とこのダム式堤防は同時期に築造されたと判断されると調査団は話している。
 今回の発掘成果は、現在まで合計246点が出土した城山山城新羅木簡の性格を解明するのにも決定的な役割をするものと見られる。
 研究所は今回の発掘調査報告と諮問会議を20日午後咸安博物館と現場で開催する。
[参考:11/20聯合ニュース]
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明日香村 飛鳥寺跡 南東方向に7世紀の石敷き道路 

2008年11月25日 | Weblog
 24日奈良文化財研究所によると、蘇我馬子(?~626年)が建立した国内初(596年完成)の寺院・飛鳥寺跡で7世紀のものとみられる石敷きの道路と階段状の石組み溝が見つかった。寺の南側にあった「石敷き広場」の北東隅で、広場の実態は巨大な通路だったとみられる。石敷き広場は飛鳥寺と飛鳥京の境に帯状に広がり、南北20・5m、東西65m以上。日本書紀が大化の改新(645年)の中心人物、中臣鎌足と中大兄皇子が出会ったと伝える「槻木(つきのき)の広場」や、同寺、飛鳥京、石神遺跡など飛鳥の中枢施設を結ぶ交差点の一部の可能性があるという。
 当時の中金堂跡(現在の本堂)から約140m南東の水田を調査した。
 石敷き道路は、北と東の縁にそれぞれ約70cm大の花崗岩の縁石が長さ4m、2mにわたり施されており北東角と確認した。
 石敷き道路の東隣では、50~70cm大の花崗岩で築いた石組み溝を南北4m分確認。西側が2段、東側が3段積みの階段状で、東西幅は0.7~2.6m、深さは20~80cmあった。
 道路は飛鳥寺と飛鳥京の間に位置し、今回の調査地から西へ約30m付近では過去にも石敷き道路が見つかっている。
 飛鳥寺と飛鳥京の東には、南北に丘陵が連なる。今回は、丘陵沿いに想定される南北道路(過去の調査で一部確認)は見つからなかったが、石組み溝をその西側溝と考えると、橋などの構造物を介し、東西を走る石敷き道路と南北道路はT字状に交わる交差点が想定できるという。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
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今年4月百済・扶余で出土した百済木簡「還穀文書」は、日本の律令制度の「出挙」とも類似 百済に学ぶ?

2008年11月25日 | Weblog
 「今年の4月24日百済文化財研究院は、忠南扶余双北里で穀物の名前とその数量を筆文字で書いた百済時代木簡が発掘されたことを発表した。」と聯合ニュースが報じたのは7月18日であった。
 さらに「百済時代木簡(목간、6-7世紀頃)が、政府(朝廷)が救荒期に穀物や食糧を貸して利子を受けたことを記録したいわゆる'還穀文書'であり、こういう公文書では最も古い」としていた。
 どうやら、今朝の朝日新聞の記事はその後の進展結果のようである。
[参考:前出]

今朝の朝日新聞の内容は、前述の木簡について、下記のように報じている。
 古代日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、百済が窓口の役割を果たした可能性を示す。
 奈良~平安時代の律令制度で財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じである。

 今年4月扶余で、木簡6点が発見された。木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。
 木簡は長さ約30cmで「貸食記」と表題があり、618年のもの。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。
 出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度。
 見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だった。
 出挙木簡の一部には「佃目之二石上二石未一石」と記されており、佃目之という人物に、2石を貸して2石を回収し、残り1石が未収という意味。
 日本での出挙を記録した木簡は、7世紀末以降のものが出土、書式もよく似ている。
[参考:朝日新聞]

 さらに、今年の8月10日に奈良県立万葉文化館で行われたシンポジウム『韓国木簡の現在』で国立扶余博物館・李鎔賢氏が発表された資料「韓国木簡の現在・百済木簡 ─新出資料を中心に と題して」が東京大学超域文化科学専攻比較文学比較文化『東アジア古典学としての上代文学の構築』のホームページの中で発表されている。
 「佃目之」については、他にも「佃麻那」「佃首行」の如く、頭に「佃」を冠した人々がおり、姓氏というより、「佃戸」とともに耕作者を表わす職役・職分を表わしていると解しておくと記している。
[参考:東京大学比較文学比較文化研究室]
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