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歴歩

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大垣市・荒尾南遺跡 現地説明会 11/15

2008年11月11日 | Weblog
 県文化財保護センターは11日、大垣市荒尾町と桧町にまたがる弥生時代から古墳時代にかけての荒尾南遺跡で、河川(幅約2m)の岸辺跡約100mから祭祀用とみられる3万点を超す多量の土器が出土したと発表した。県内で最大規模の水辺の祭祀跡とみられる。
 河川跡が見つかったのは遺跡西部で、大集落の西側を南へ流れていたとみられる。弥生時代後期から古墳時代前期に土砂流入で次第に湿地化したらしい。見つかった土器は約3万3000点にのぼり、中には線刻を施した土器やミニチュア土器が入った土器や、土器自体に穴の開いた穿孔土器などが見つかった。
 遺跡南部からは一辺が約10mの四角い墳丘墓(1基)も見つかった。約1800年前の古墳前期に築造されたとみられ、墳丘部から木製祭祀具(長さ25cm、幅3cm、厚さ5mm)が9枚見つかった。地に突き刺して神聖な場所を区切る用具らしい。
 同遺跡は、弥生時代は墓域として、古墳時代は大集落へと姿を変えたことが、これまでの調査で分かっている。
 「水辺の祭祀」は農耕が一般化した弥生時代以降、豊作を願い川辺や大溝周辺で行われた儀礼とされる。
 同遺跡は06年度に本格発掘が始まり、これまで銅鐸破片や銅鏡、巴型銅器などが出土。今年度は5月~12月中旬の予定で約1・1ヘクタールを調べ、確認した弥生中期の方形周溝墓は過去2年分と合わせ88基、弥生後期~古墳前期の竪穴住居跡は175軒になる。 

現地説明会が下記にて行われる。
 日 時:平成20年11月15日(土) 午後1時30分〜午後3時30分 <小雨決行>
 場 所:荒尾南遺跡 発掘調査現場(大垣市荒尾町内)
 調査成果:
・河川跡の岸辺で、「水辺の祭祀」をうかがわせる弥生時代後期から古墳時代前期にかけての多量の土器を発見。
 土器の中には特殊な文様(弧帯文)が線刻された土器やミニチュア土器、パレススタイル土器など祭祀関連の土器が含まれている。
・古墳時代前期頃の墳丘墓を発見。 など

これまでの主な出土品
・巴形銅器(5脚左捩半球形座・棒状鈕)、弧帯文土器、小型丸底土器、精製土器、ミニチュア土器、パレススタイル土器、赤鉄鉱(ベンガラ生産跡?)、大型船を描いた土器、木製の杖の飾り、人面土器、銅鐸片(近畿式銅鐸の飾耳)、銅鏡(倭鏡、重圏文鏡?)、土師器、須恵器など

[参考:11/12岐阜新聞、11/12毎日新聞、11/13読売新聞、(財)岐阜県教育文化財団文化財保護センター、考古学フォーラム]
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さつま町 虎居城跡 現地説明会11月8日に開催  440人の見学者

2008年11月11日 | Weblog
発掘調査現地説明会が開催されました。 説明会には440人が訪れたそうです。
 虎居城は平安末期に郡司の大前(おおくま)氏が築城したと伝わり、三方を川内川に囲まれ、天然の要害の地にある山城。川を天然の堀に生かした。虎が伏せたように見えることから命名された。
 2006年の県北部豪雨災害後、川内川の改修が行われることになり、城跡地を横断する分水路の建設が決まった。このため、工事で消滅する虎居城跡を図面や写真で記録して残そうと、県教委などが5月から6万㎡のうち約3分の1を発掘調査していた。
 本丸機能の可能性がある「オキタノ城」や「塩の城」で柱穴とみられる跡を見つけた。穴の底に礎石を置いたらしく、瓦葺屋根の重量にも耐えられる構造とみられる。
 製鉄の際に出る鉄滓(てっさい)や鞴(ふいご)の一部、土塁も出土した。説明会では、調査を担当する県埋蔵文化財センターの調査員が、居住区域に当たる4カ所の曲輪(くるわ)や谷で発掘された、かまど跡や土塁、堀などを説明。地名の「宮之城」の由来となった山城だけに住民らの関心は高く、説明会に440人が訪れた。
 曲輪の1つでは発掘体験ができ、子どもたちが専用の道具を使って土を削っていた。発掘調査は来年3月まで行われる。
[参考:朝日新聞、西日本新聞]

2008.10.11掲載分
「虎居城跡」現地説明会が予定されています。
  堀や土塁などの城郭特有の施設や鍛冶に関連する遺物,建物の礎石跡などが紹介されます。
日 時:平成20年11月8日(土)雨天決行
 第1回説明会 10:00~12:00
 第2回説明会 14:00~16:00
場 所:薩摩郡さつま町宮之城屋地
内 容:遺跡の概要説明
 遺跡の見学、発掘体験、生活体験(弓矢,砂鉄集め,昔の遊び など)
主 催:鹿児島県立埋蔵文化財センター TEL 0995-48-5811
     虎居城跡発掘調査事務所 TEL 0996-52-2334

[2008.7.18掲載分]
 さつま町教育委員会と鹿児島県立埋蔵文化財センターは、川内川の災害緊急特別事業に伴う虎居城の発掘調査を行っており、調査の結果、自然地形を利用した当時の城の外観が分かりつつあるとして、7月19日(土)に現地公開の予定を発表しています。
 一昨年7月に、梅雨前線の停滞に伴う豪雨のために、川内川の上流の観測所では降水量が1165mmの年間降水量の50%に相当する値を記録し、甚大な被害が出ました。それに伴い場抜本的な治水対策が行われることになりました。
 ここ虎居城跡は、川内川の上流の中でも特に河川が湾曲している部分で、洪水の円滑な流下を阻害する地点との認識から、大規模なショートカットをすることが決まったようです。ショートカットされる部分は、虎居城跡の区域が該当しています。折角、自然の要塞を利用して作った城跡が一部でも削られて元の姿を変えてしまうのは残念です。

 平成元年2月には巨大積石郡が発見されています。
 虎居城は康治年間(1140年代)~に、荘園・祁答院の郡司であった大前氏が築城したとされます。虎居城築城にあたり、半島上流部北岸に見られる溶結凝灰岩柱状の絶壁を天然の城壁とし、川内川を天然の堀と見立てたそうです。しかし下流側南岸、波高瀬といわれる付近の川岸を補強するためにこの巨大石積を作ったとされます。
 鎌倉時代になり、相模国渋谷庄(神奈川県高座郡)の庄司・渋谷光重は、宝治元年(1247年)の合戦の恩賞として、北薩摩の祁答院(けどういん)・東郷・鶴田(つるだ)・入来院(いりきいん)・高城(たき)の地頭職を与えられ、この地祁答院は、三男渋谷重保の領地となります。そして、祁答院渋谷氏による統治が約300年続きます。
 16世紀になると、絶大なる勢力を誇った島津氏に、永禄10年(1567年)攻められ、祁答院渋谷氏は島津氏に屈服することになりました。以降、島津歳久が城主となり、その後豊臣秀吉が天下を取った時に島津一族の北郷時久がここに移封されました。そして、江戸時代初期には宮之城島津氏の役所が置かれ、北郷氏の出身地にちなんで「宮之城」の地名が付けられました。


 ちなみに、若者の町となっている東京・渋谷駅から歩いて10分の距離にある金王八幡神社(東京都渋谷区)は渋谷城があったところで、このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館でした。
 高望王の後裔、秩父別当武基が、源頼信の平忠常追討の時に功をたて、武基の子基家は嫡子重家と共に源義家の軍に従い奥州の金沢の柵を攻略した功により、河崎土佐守基家の名を賜り武蔵・谷盛庄(やもりのしょう、現在の東京・渋谷、注1)また、相模・渋谷庄(高座・綾瀬市)を与えられます。その孫重国のとき渋谷庄司を称したのが渋谷氏を名乗る始まりとします。もしくは、重家の時には渋谷氏を称していたかもしれません。そのほうが、あとの金王丸常光とのつながりが納得しやすいです。
 寛治6年(1092)、基家は盛谷庄(東京・渋谷)の地に八幡宮を勘請しました。
 そして、渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城としました。重家の子(あるいは重家の子・重国の子)金王丸常光(注2)はこの地で成長し、17歳の時に源義朝に従い保元の乱で功を立てます。その後の平治の乱に敗れた義朝は、東国に下る途中に尾張国野間で長田忠宗の謀反によって殺されます。随従していた金王丸は越後に落ちたとも伝わっています。金王丸没落後も渋谷氏はこの地で渋谷城を拠点としていたようですが、その後の動向は不明です。

注1:谷盛庄
 新編武蔵風土記稿に、「合村9、中豊沢村八幡所蔵鳴応村岡五郎左衛門重義記「縁起」に、秩父十郎武綱に奥州攻の軍忠として、源義家一字を与えても基家と号し、矢盛庄を宛行うと伝える」とある。
注2:金王丸
 土佐坊昌俊とする説がある。

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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土

2008年11月11日 | Weblog
 県教委は10日、琵琶湖北端の塩津港遺跡(西浅井町)から平安時代後期(12世紀)ごろに作られた木製の男神像2体と女神像3体計5体が出土したと発表した。同遺跡では昨年、神への誓約文である「起請文」が書かれた木簡55本が出土している。
 神像が出土したのは青木遺跡(島根県出雲市)の1体に次いで2例目で、一度に5体も見つかったのは初めてという。
 神像はご神体と同様に扱われ、本殿の中にあり神官さえ見ることができないとされていた。
 神像は高さ10.5-15cm。服装から3体は女神像とみられる。男の神像のうち1体は平安貴族の礼装で、冠を頂き、手を胸元で合わせた格好をしている。女神像は大袖の袍(ほう)をまとい、髪を肩下まで垂らす。神道には偶像を礼拝する習慣がなかったが、6世紀に伝来した仏教の影響で奈良時代末ごろから神像が作られ始めた。
 瓦や檜皮(ひわだ)のほかに、幣、しめ縄、土師器、土器などの祭祀跡も見つかり、当時の神社信仰の姿を総合的に知ることができる貴重な遺跡とする。鎌倉時代の「春日権現験記絵」に描かれたお祓いの様子と同じように、3本の幣串(へいぐし)としめ縄、土師器皿が堀の中か出土した。
 本殿跡がある区画は、東西約50m、南北約50m。周囲に堀を巡らし、拝殿、鳥居柱、神泉の跡もあった。堀から、仏堂や神殿の柱などを飾る「華鬘(けまん)」や卒塔婆も出土し、神仏習合の実態がよくうかがえる。
 華鬘は仏堂の柱などにかけた団扇型の装飾仏具。花輪を贈るインドの習俗がルーツとされ、中央に垂らした2本の結びひもの左右に唐草文様を透かしたデザインの金属製が多いが、見つかったのは片方の結びひもの部分で中央に据える紐の結び目や先端の房飾りの部分、長さ18・5cm。房には漆のようなものが付着しており、金箔が張られていた可能性があるという。
 県教委によると、最も古い作例は奈良市・唐招提寺の牛皮華鬘(奈良時代末期―平安時代初期、重文)。木製品としては、これまで鎌倉時代に作られた奈良市・霊山寺の華鬘(重文)が最古だった。
 塩津は古くから北陸などの物資を京都へ運ぶ琵琶湖水運の要衝で、平安時代の延喜式に塩津神社の名が見える。
 県教委は、2006年から約3000㎡を調査しているが、今年度も鎌倉や室町時代の遺物は検出されず、遺跡は12世紀後半に突然、土地利用が終わったことが決定的となった。ご神体である神像が堀に放置されたような状態で見つかったこと、瓦や檜皮など建物部材と共に見つかったことなどから、地震などで神殿が崩壊した際に堀に埋まったのではないかとみている。
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。
 15日午後1時半からの現地説明会が開催される。 
[参考:時事通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、中日新聞]
平安時代の神像5体=神社跡を裏付ける-「起請文」の塩津港遺跡・滋賀(時事通信) - goo ニュース

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 元暦2年(1185) 7月9日に大きな地震があったことは、「山槐記」のみならず、「吾妻鏡」、「玉葉」(九条兼実)、「愚管抄」」(慈円)、「吉記」(藤原経房)などに記されている。京都・近江で大被害を受けている様子がうかがえる。
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