市教委は27日、国指定史跡「日野江城跡」(同市北有馬町)で、15~16世紀に中国で作られた「法花(ほうか)」と呼ばれる陶磁器の破片が出土したと発表した。
法花の壺は美術品としては十数点が知られているが、発掘品としてはほとんど 例がないという。
日野江城は、鎌倉時代前期に築城され、南北朝時代から江戸時代初期にかけてこの地方を治めた有馬氏の居城。90年代の二の丸発掘調査では金箔瓦なども発掘されている。
7月から市教委が発掘調査したところ、大量の国産土師器など約3万点が出土し、掘立柱建物跡一棟、柱穴列三列、池状遺構三基、溝状遺構五条を検出した。本丸の一部からこの時代の物と推定される青磁など輸入陶磁器や法花の破片(長さは3~13cm)18点が出土した。元は一つの壺だったとみられるという。
法花は中国・明王朝時代の陶磁器の一つで、細線の文様を描き、藍、瑠璃、赤、黄の釉薬で雲文、蓮弁文、草花文を表現した鮮やかな色彩の陶磁器独特の美しい文様が特徴。観賞用などとして製作されたと考えられている。国内では2000年に大分県竹田市の小路(こうじ)遺跡での出土例があるが、流通量が極めて少ないとみられ、市教委は「有馬氏の財政力や繁栄ぶりをうかがい知るうえで貴重な資料」としている。
29日午後1時半から、日野江城跡の発掘調査現場で現地説明会を行う。問合せは市教委文化財課
[参考:毎日新聞、西日本新聞、長崎新聞]
中国・明時代 陶磁器「法花」 日野江城跡(南島原市)から破片 有馬氏の繁栄裏付け(西日本新聞) - goo ニュース
[参考」
法花
国内で代表的な優品として、東京国立博物館で所蔵する『法花騎馬人物図壺』がある。明時代(15~16世紀)の作。江戸幕府重臣青山家に伝来。
法花は、さまざまな色の釉薬を胎土に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種で、絞り出しの技法で紋様の輪郭線を盛り上げ、紫・黄・白・緑などの低火度の色釉を加えて焼き上げたもの。
日野江城
建保年間(1213-1219) 藤原経澄が築城。経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。
有馬晴純(1483-1566)の時代に21万石を領するまでに成長した。
文禄4年(1595) 13代目当主の晴信(1567-1612)はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設した。
江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。
慶長17年(1612) 岡本大八事件の罪を問われ切腹。直純(1586-1641)が後嗣となる。
慶長19年(1614) 直純、日向国延岡城に移封となる。
元和2年(1616) 松倉重政が入城。しかし、松倉氏は入封後日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とした。
法花の壺は美術品としては十数点が知られているが、発掘品としてはほとんど 例がないという。
日野江城は、鎌倉時代前期に築城され、南北朝時代から江戸時代初期にかけてこの地方を治めた有馬氏の居城。90年代の二の丸発掘調査では金箔瓦なども発掘されている。
7月から市教委が発掘調査したところ、大量の国産土師器など約3万点が出土し、掘立柱建物跡一棟、柱穴列三列、池状遺構三基、溝状遺構五条を検出した。本丸の一部からこの時代の物と推定される青磁など輸入陶磁器や法花の破片(長さは3~13cm)18点が出土した。元は一つの壺だったとみられるという。
法花は中国・明王朝時代の陶磁器の一つで、細線の文様を描き、藍、瑠璃、赤、黄の釉薬で雲文、蓮弁文、草花文を表現した鮮やかな色彩の陶磁器独特の美しい文様が特徴。観賞用などとして製作されたと考えられている。国内では2000年に大分県竹田市の小路(こうじ)遺跡での出土例があるが、流通量が極めて少ないとみられ、市教委は「有馬氏の財政力や繁栄ぶりをうかがい知るうえで貴重な資料」としている。
29日午後1時半から、日野江城跡の発掘調査現場で現地説明会を行う。問合せは市教委文化財課
[参考:毎日新聞、西日本新聞、長崎新聞]
中国・明時代 陶磁器「法花」 日野江城跡(南島原市)から破片 有馬氏の繁栄裏付け(西日本新聞) - goo ニュース
[参考」
法花
国内で代表的な優品として、東京国立博物館で所蔵する『法花騎馬人物図壺』がある。明時代(15~16世紀)の作。江戸幕府重臣青山家に伝来。
法花は、さまざまな色の釉薬を胎土に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種で、絞り出しの技法で紋様の輪郭線を盛り上げ、紫・黄・白・緑などの低火度の色釉を加えて焼き上げたもの。
日野江城
建保年間(1213-1219) 藤原経澄が築城。経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。
有馬晴純(1483-1566)の時代に21万石を領するまでに成長した。
文禄4年(1595) 13代目当主の晴信(1567-1612)はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設した。
江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。
慶長17年(1612) 岡本大八事件の罪を問われ切腹。直純(1586-1641)が後嗣となる。
慶長19年(1614) 直純、日向国延岡城に移封となる。
元和2年(1616) 松倉重政が入城。しかし、松倉氏は入封後日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とした。