歴歩

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長崎県南島原市・日野江城跡 明王朝時代の陶磁器「法花」片出土

2008年11月28日 | Weblog
 市教委は27日、国指定史跡「日野江城跡」(同市北有馬町)で、15~16世紀に中国で作られた「法花(ほうか)」と呼ばれる陶磁器の破片が出土したと発表した。
 法花の壺は美術品としては十数点が知られているが、発掘品としてはほとんど 例がないという。
 日野江城は、鎌倉時代前期に築城され、南北朝時代から江戸時代初期にかけてこの地方を治めた有馬氏の居城。90年代の二の丸発掘調査では金箔瓦なども発掘されている。
 7月から市教委が発掘調査したところ、大量の国産土師器など約3万点が出土し、掘立柱建物跡一棟、柱穴列三列、池状遺構三基、溝状遺構五条を検出した。本丸の一部からこの時代の物と推定される青磁など輸入陶磁器や法花の破片(長さは3~13cm)18点が出土した。元は一つの壺だったとみられるという。
 法花は中国・明王朝時代の陶磁器の一つで、細線の文様を描き、藍、瑠璃、赤、黄の釉薬で雲文、蓮弁文、草花文を表現した鮮やかな色彩の陶磁器独特の美しい文様が特徴。観賞用などとして製作されたと考えられている。国内では2000年に大分県竹田市の小路(こうじ)遺跡での出土例があるが、流通量が極めて少ないとみられ、市教委は「有馬氏の財政力や繁栄ぶりをうかがい知るうえで貴重な資料」としている。
 29日午後1時半から、日野江城跡の発掘調査現場で現地説明会を行う。問合せは市教委文化財課
[参考:毎日新聞、西日本新聞、長崎新聞]
中国・明時代 陶磁器「法花」 日野江城跡(南島原市)から破片 有馬氏の繁栄裏付け(西日本新聞) - goo ニュース

[参考」
法花
 国内で代表的な優品として、東京国立博物館で所蔵する『法花騎馬人物図壺』がある。明時代(15~16世紀)の作。江戸幕府重臣青山家に伝来。
 法花は、さまざまな色の釉薬を胎土に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種で、絞り出しの技法で紋様の輪郭線を盛り上げ、紫・黄・白・緑などの低火度の色釉を加えて焼き上げたもの。

日野江城
 建保年間(1213-1219) 藤原経澄が築城。経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。
 有馬晴純(1483-1566)の時代に21万石を領するまでに成長した。
 文禄4年(1595) 13代目当主の晴信(1567-1612)はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設した。
 江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。
 慶長17年(1612) 岡本大八事件の罪を問われ切腹。直純(1586-1641)が後嗣となる。
 慶長19年(1614) 直純、日向国延岡城に移封となる。
 元和2年(1616) 松倉重政が入城。しかし、松倉氏は入封後日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とした。
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慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!

2008年11月28日 | Weblog
茶戸里遺跡
 釜山から西へ約40kmのところにある。BC300~BC100の鉄器時代を主とする遺跡である。
 1988~1998の間に全8次にかけて国立中央博物館により発掘調査が実施され、72基の木槨墓が確認された。
 最近、出土遺物を整理して保存処理する過程で、いろいろな事実の発見と確認がなされている。
 それらの成果は、今月28日から同館特別展示室(ソウル)開催される「葦畑の中の国・茶戸里 その発掘と記録特別展」('갈대밭 속의 나라 다호리, 그 발굴과 기록')で展示発表される模様。「밭」は「原」の意味もあり、「葦原中国・・・」とも訳せる。
 それらの一部が聯合ニュースなどで報じられていたのでまとめてみた。

1.茶戸里遺跡の概要
 慶尚南道昌原市北面茶戸里にある鉄器時代木棺土廣墓遺跡(史跡 第327号)
 海抜約20mの低丘陵麓の長さ150m、幅30~40mを越える範囲にまたがる。発掘は1988年国立中央博物館によって行われた。遺跡は鉄器時代(BC300-100)の木棺土廣墓を主にした共同墓として丸太を彫って作った木棺に、副葬品を入れたかごを底に入れる葬法を見せている。墓は穴が大きくて深い墓であるほど一緒に入れる材料が多くて多様で、墓の大きさは身分の違いにより差があると見られる。墓と一緒に入れられた物を見ると、青銅器・鉄器・漆器・素焼きの土器などがある。漆器の鞘、細形銅剣、鉄刀など武器類と特殊な紋様の青銅鏡、五銖銭、青銅鈴などが竹かごに入れたまま出土した例もある。また、木の柄の端がついた鉄斧・タビ(따비)・鎌など農機具もたくさん出土した。その他、筆・扇など...

2.木棺に雲母が存在 神仙道教思想が紀元前後にあったか?
 木槨墓4号墳と35号墳で雲母の存在が発見された。4号墳の場合盗掘よる被害のために、撹乱された土層で雲母が収集されたため、初めに置かれた場所が不明であるが、埋葬当時の姿が比較的に残る35号墳では、死体の頭部が置かれたそばで発見された。
 この雲母は平たい形で、今までは4-6世紀の慶州平野の新羅時代の積石木槨墳墓でたまに発見されてきた。
 したがって、茶戸里遺跡は今まで韓半島で確認された雲母出土遺跡では最も早い時期に属して、「雲母」が墓に死体と共に埋蔵され始めた時期が少なくとも2千年前であることを現したという点で非常な関心を集めている。
新羅墓で出土する雲母がほとんど例外なく死体の頭部側で発見される傾向は、今回の茶戸里木棺墓でも現れた。
 大田大イ・ハンサン教授は「今まで慶州などの地を中心に調査された、紀元前後頃数千、数万基に達する慶尚道地域木棺墓は一様に東-西方向に墓壙長軸を置いて、死体の頭には殆んど例外なく東に置いた様相を見せている。」と話している。
 これをみると、雲母は死体を埋葬する時に顔付近に置いて、その意味は死者の冥土での永生のための仙薬だったと学界は推測している。
 雲母が紀元前後遺跡で発見されたことによって、神仙道教思想が韓半島には2千年前に広範囲に広まっていたと推察できるとみている。
[参考:2008/11/25聯合ニュース]

3.扇で死体の顔を隠した「扇木棺墓」(부채 목관묘)
 1980年代国立中央博物館が調査した慶南昌原茶戸里遺跡1号木棺墓で「扇木棺墓」が初めて確認された。
 扇が出土した理由が分からなかったため。漠然とここ埋められた人が生前に暑さを追い払うために使った用品という程度しか思いつかなかった。そのような中でも柄だけ残った扇遺物を精密分析した結果、白羽扇に属する扇だったことが明らかになったことは大きい成果であった。
 その後、2003年ごろ慶北星州郡例山里遺跡でやはり丸太木棺を使った40号墳で発見し、さらに慶南金海市が伽耶歴史文化館整備計画の一環で都心テーマパーク公園「伽耶の森」を作る予定だった鳳凰洞一帯の場所で丸太木棺を使ったと推定される扇木棺墓を発見した。今年に入っては、慶北慶山市押梁面都市開発事業敷地で発掘した94号木棺墓で同じ様式を発見した。
 例山里遺跡発掘では、全く新しい事実が明らかになった。ここも柄だけ残っていたが、それが置かれた様子が頬部分に置いたように、扇が死体の顔を隠していたことが明らかなった。
 続いて、金海市鳳凰洞ではこのような状態で扇が2柄あったという新しい事実があらわれた。
 今回の慶山市押梁面の扇木棺墓もまた、金海と同じように扇が2柄発見された。
調査団は柄が置かれた位置で見ると、扇が死体の顔を隠したと考えられるという見解を表明した。
 さらに、扇木棺墓は実物で確認された事例が4ヶ所に過ぎないが、昌原、金海、星州、慶山という点で嶺南地域を合わせる独特の木棺墓埋葬パターンのうちの一つだったと推察している。
 だが、発見事例が少ないためな、学界でこれに対する専門研究成果は現れていない。
[参考:2008.2.22聯合ニュース]

4.ハトムギ(はと麦)が出土
 1988年発掘調査した茶戸里遺跡1号木棺墓で、全長170㎝・幅3㎝の長弓1点とそれよりも小さい短弓3点、そして矢柄の束が含まれていると明らかになった。長弓と短弓は、ともに木の皮と同じようなもので表面を覆った後にその上に漆を塗っていたと発表された。さらに、出土祭器から栗、柿と鳩麦などが見つかった。このうちハトムギは考古学的出土品では初めての事例である。
 木棺墓34号墳では円筒形矢筒に含まれた鉄鏃の固まりが発見された。
 さらに、茶戸里遺跡出土漆器類は博物館保存科学室分析結果、今まで学界通説の楽浪界でなく、この地域で自主的に作ったいわゆる「韓国産」である可能性が大きいと明らかになった。
注)ハトムギの日本での最古の出土の例はよく分からないが、栽培は奈良時代とも考えられている。DNA的には中国よりも韓国に近いとされており、今回の発見により、韓国から伝わった可能性が強いといえるのではないだろうか。
[参考:2008.11.26聯合ニュース]
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南城市・玉城武芸洞 石棺墓を発見

2008年11月28日 | Weblog
 港川県立博物館・美術館と沖縄更新世遺跡調査団が発掘調査を行っているの「ガンガラーの谷」内にある「武芸洞」(同市玉城字前川)入り口付近で、23日縄文時代晩期と考えられる石棺墓1基が発見され、中からは大人の人骨1体と子どもの人骨一部が確認された。
 洞穴内では、縄文時代前期(約6千年前)の爪形文土器も南部地域で初めて出土しており、石棺近くに火をたいた炉の跡もあることから、今回の調査で武芸洞が縄文時代前期から晩期まで生活場や墓域として利用されていたことが明らかになった。
 石棺墓は、石を四角い棺おけ状に配列し、石蓋をかぶせた縄文晩期から弥生期の墓。発見された石棺は、縦2m、幅80cm、深さ40cm。大人の人骨は、うつ伏せで顔を横に向けた状態で寝かせられ、副葬品としてシャコ貝が確認されている。
 沖縄での石棺墓は、読谷村や宜野湾市の遺跡2カ所で発見されているが、洞穴内から発見されたのは初めて。
 29、30の両日は、小中学生を対象に無料の見学会を開く。問合せはおきなわワールド。
[参考:琉球新報、毎日新聞]
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