歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福井県若狭町・鳥浜貝塚 縄文前期の竪櫛漆片に「象眼」

2010年04月21日 | Weblog
 若狭町の鳥浜貝塚で出土した縄文前期(約5300年前)の竪櫛の一部とみられる漆片に、装飾物を嵌め込んだ「象眼」に似た技法の痕跡があることが、漆器文化財科学研究所(石川県穴水町)の調査でわかった。
 県は2005年度から5年間、国の補助を受けて鳥浜貝塚出土品の保存修理を実施。象眼技法の痕跡は、修理の際に行われた調査過程でサンプルとして提供された漆膜の小片から確認された。
 小片は縦約3・5cm、横約3cm。竹の繊維の跡があり、櫛の歯に当たる細い竹の棒を植物繊維などで束ねる「結歯(けっし)式竪櫛」の持ち手の一部とみられる。表面には円形のくぼみ(直径4mm、深さ訳2mm)が4個並んだ場所があり、櫛の表面を彫った後、木の実などを嵌め込んで装飾していたとみられる。
 縄文の竪櫛は結歯式のほか、1975年に鳥浜貝塚で見つかった1本の木から削り出す「刻歯(こくし)式」の2種類がある。鳥浜には2系統の櫛が存在したことも今回明らかになった。
 象嵌は、正倉院宝物にある奈良時代の刀剣にみられるのが国内で確認された最も古い例で、その約4千年前に技法が存在したことになる。
[参考:福井新聞、読売新聞]
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牧之原市・白百合遺跡 榛原庁舎で土器(壺)棺、長頸瓶、山茶碗など出土品を展示中

2010年04月21日 | Weblog
 しずおかKさんから「牧之原市・白百合遺跡」のトラックバックをいただいた。
 牧之原市というとピントこない。それもそのはず、筆者が知っているのは相良町の時代。2005年に榛原町と合併して牧之原市になった。
 相良町の頃には、150号線沿いの手打ちそばや「はしもと」でよく昼食を摂った。特に、大根おろしがたくさん入った「おろしそば」が好物だった。今頃の時期は新芽の出た茶畑が鮮やかだし、6月になると「大鐘家」(国重要文化財)のあじさいがきれいである。 (写真は大鐘家の裏山に咲くあじさいから片浜海岸を観た方向にかけて)
 さて、白百合遺跡の出土展は牧之原市長・西原しげき氏もブログで書いている。市には専門の調査員が一人しかいないと。朝日新聞では、市教委の学芸員・松下善和とフルネームで紹介している。

 新聞記事を総合すると、
 牧之原市静波地区の弥生時代~中世の複合遺跡「白百合遺跡」から出土した土器など30点が、16日から榛原庁舎の2階ラウンジで公開されている。(5月20日まで) 弥生時代に作られたとみられ、乳幼児の遺体を入れたらしい高さ約70cm、直径50cmの大型の珍しい土器(壺)棺も展示している。
 同遺跡は市内を流れる勝間田川下流部の東岸にあり、東に標高87.1mの龍眼山、西に標高64.5mの牧ノ原台地から延びる秋葉山丘陵に挟まれた標高3m程の海浜平野の砂堤(さてい)列上に形成されている。市道建設工事で2008年度に約2千㎡の砂地部分を調査し、遺構が見つかった。
 弥生時代後期(3世紀)とみられる遺構では、倉庫と考えられる掘っ立て柱建物を中心に4カ所の竪穴住居跡を確認。土器(壺)棺は、同中期の方形周溝墓といわれる墓の周辺部から見つかった。
[参考:静岡新聞、中日新聞、朝日新聞]

次は、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」を参考にすると、
 弥生時代の土器は、東遠江系の形態を示す土器が大半であるが、一部には駿河系の土器も出土している。登呂遺跡に代表される駿河地方の影響を受けた集落であることが伺われるとしている。
 奈良時代の竪穴住居跡内からは、8世紀代の土師器壺・甕や須恵器坏蓋・長頸壺が出土している。
 中世の遺構では、平安時代末から鎌倉時代までの集落にかかわる掘立柱建物跡や井戸、溝などを確認した。山茶碗と呼ばれる青灰色の器(碗、皿)が出土した。これらは勝間田川上流勝間田城(注1)跡の南斜面に所在した土器谷古窯(どきやこよう)で焼かれた製品が多く見られた。この山茶碗から、当時の人々の勝間田荘園内での生産と消費による物流の一端を伺い知れるとしている。
[参考:、牧之原市のホームページ「白百合遺跡の発掘調査報告」]

(注1) 勝間田城跡: 勝間田城は、応永年間(1394年~1428年)に勝間田定長が築城したとされ、平安時代末期より室町時代中期にかけてこの地方を治めた豪族、勝間田氏の本拠地であったとされる。
 『保元物語・上/主上三条殿に行幸の事』に、「(源)義朝に相随手勢の者は、(略)、遠江には横路(横地)、勝間田、井の八郎、(略)を始として、(略)、2百5十余騎にて馳向かう。」とある。この、横地氏は一説に、源義家と相良庄の藤原光頼(相良太郎)の女との間に出来た庶子が横地と名乗り、その一族から勝間田荘を領する勝間田氏が輩出されたとしている。
 続いて、『吾妻鏡・寿永二年(1183)二月十七日』に「安田三郎義定相率義盛。(略)、遠江國住人横地太郎長重。勝(間)田平三成長等。(略)」と記され、さらに『同・文治二年(1186)四月大廿一日戊辰』に、遠江守義定朝臣自彼國參上。(略)。二品仰云。遠江國有何事哉。義定朝臣申云。勝(間)田三郎成長去六日任玄番助。是一勝事也。(略)」と出てくる。吾妻鏡に出自するときには、横地氏、勝間田氏とも源頼朝の御家人になっていたようである。
 すなわち、白百合遺跡の地は平安時代末頃には、勝間田荘園が開墾され、豪族勝田氏がそこを支配していたと考えられる。

 さて、しずおかKさんのブログを拝見させていただくと、榛原庁舎に行かれたようで、白百合遺跡・出土展で撮られた土器の写真などがUPされている。なるほど、山茶碗は無釉の陶器であることがわかるし、牧之原の地でも生産されていたことを知った。
 そして、須恵器の長頸壺(古墳時代)は三鷹市・天文台構内古墳(7世紀後半)の副葬品として出土したフラスコ形長頸瓶(下の写真)と形状が似ている。この長頸瓶は、三鷹市教育委員会の方より、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。
     
同じ、須恵器は東京国立博物館でも見ている。市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)から出土した7世紀のもので、緑色と茶色が混ざったような色の自然釉がいくつも流れていて美術品のごとく見事な美しさであった。さて、白百合遺跡出土品のものは、いつ頃、どこで生産されたのか非常に興味のあるところ。

過去の関連ニュース・情報
 2009.1.28白百合遺跡 区画された竪穴住居跡 所有地を区分か?
 2008.8.28白百合遺跡 弥生時代後期の海浜集落跡現れる 
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君津市・岩田寺 力士像の裏に墨書、作者は初代「波の伊八」と判明 

2010年04月21日 | Weblog
 君津市大坂の岩室山圓明院岩田寺の本堂屋根にある2体の力士像が、房州長狭郡打墨村(現、鴨川市打墨)出身で「波の伊八」として有名な江戸時代の彫物大工、初代伊八「武志伊八郎信由」(1752~1824)の作であることが分かり、19日、同寺で地元住民への報告会が開かれた。
 岩田寺は奈良時代創建とされ、本堂は江戸時代に建て直された。以前から南側の力士像の背中に作者の墨書きがあることが知られており、今年1月に地元関係者でつくる「岩田寺本堂木彫調査会」が本格的な調査を実施。その結果、「安永三年(1774)六月、房州長狭郡打墨村、伊八作」と墨書きがあり、伊八の直筆だと分かった。
 伊八は、安房・上総地域を中心に相模や江戸でも主に寺院の欄間彫刻を制作した。躍動感ある波の表現から、現在では「波の伊八」の愛称で親しまれている。葛飾北斎の「富嶽三十六景」などに強い影響を与えたといわれる。
 伊八作と分かった力士像はいずれも高さ約90cm、幅約65cmで、本堂屋根の北側と南側に1体ずつ設置。隆々とした筋肉は赤、髪は黒の塗料が使われ、目には銅板がはめ込まれた迫力のある彫刻だ。
[参考:千葉日報、房総時事新聞、毎日新聞、東京新聞]

2011.1.11 追記
 初代伊八の作品を集めた「伊八新発見」展が、鴨川市郷土資料館で開かれ、ここ数年の伊八に関する調査研究で、新たに発見された作品や資料など28点が展示されている。30日まで(月曜休館)。[参考:東京新聞]

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宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群 銀で細工された龍が刀身に描かれた「龍文銀象嵌大刀」が出土

2010年04月21日 | Weblog
 えびの市教委は20日、6世紀前半の島内地下式横穴墓群(同市大字島内字平松/杉ノ原)から、銀で細工された龍が刀身に描かれた鉄刀「龍文銀象嵌大刀(りゅうもんぎんぞうがんたち)」が出土したと発表した。
 全長98・2cm、幅3・6cmの直刀で刃の長さは78cm。龍は、長い胴で首を曲げ、角と4本の足があり、尾が生えている。刃の根元の両面に対になるように1体(長さ8~9cm)ずつ、溝に銀を嵌め込んで描かれている。
 市教委が2008年2月、地方豪族を埋葬したとみられる114号墓(長さ約3・8m、幅約2・5m、深さ約1・9m)で5体の人骨とともに見つけた。50~60代の年長男性とみられる人骨の頭の左側に平行して置かれていた。ほぼ完全な形で鞘に収まり、状態は良かったが、錆びで覆われていた。X線撮影で龍を確認し、錆びを除去するなどの復元作業を行っていた。
 6世紀代の墳墓ではこれまで龍の描かれた刀が、奈良県の新沢327号墳(橿原市)と吉備塚古墳(奈良市)で2例見つかっている。今回の龍は、新沢327号墳の龍と酷似しているという。
 えびの市歴史民俗資料館で5月3日まで展示されている。4月23日午前10時からは、同資料館で説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、産経新聞、宮崎日日新聞、西日本新聞]

龍の象眼 古墳期の大刀 えびの市で九州初出土(西日本新聞) - goo ニュース




キーワード:島内139号地下式横穴墓 、島内地下式横穴墓群139号墓
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