伊予大洲藩から坂本龍馬らが借りて航海していて沈んだ幕末の蒸気船「いろは丸」(注1)が、これまで通説とされていたオランダ人から購入したものではなく、長崎のポルトガル領事から購入していたことが、大洲市が進めていた購入契約書の翻訳でわかった。
1862年、イギリスのバーミンガムで造られた「いろは丸」は、大洲藩が購入して土佐藩に貸し出し、1867年、龍馬が率いる海援隊の操船で長崎から大阪へ向かう途中、紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した。龍馬が巧みな交渉で、紀州藩から多額の賠償金を勝ち取った「日本初の海難審判」としても知られる。
購入契約書は二つ折りで縦32.5cm、横20.5cm。昨年12月、東京都内の個人宅で見つかり、大洲市が市役所近くの大洲歴史探訪館で、複写を公開していた。包み紙に当時の大洲藩主らの名があるが、中身はポルトガル語で書かれていたため、同市は東大史料編纂所の岡美穂子助教(近世初期対外関係史)に翻訳を依頼していた。
翻訳結果は、いろは丸が沈んだ日(慶応3年4月23日。西暦では1867年5月26日)にあたる23日、岡助教や同市の清水市長らが同市で記者会見して発表した。
1866年9月22日に在長崎ポルトガル領事館事務局で契約が交わされ、売り主は在長崎ポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロ、買い主は大洲藩主代理人の郡奉行国島六左衛門で、代金は4万メキシコ・ドル(約1万両)などと記されていた。契約後に記された藩主・加藤泰秋の署名もあった。
これまで、いろは丸は、大洲藩がオランダ人から購入したとされるなど、購入の経緯がはっきりしておらず、岡助教は「当時、各藩の外国船購入は長崎奉行の許可を得て行わなければならなかったはずで、虚偽の届け出が行われた可能性もあるのでは」と推測している。
また、衝突時に大洲藩の代金の支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
[参考:共同通信、愛媛新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、NHK]
(注1)これまで、「いろは丸」は坂本龍馬が命名したとされていたが、国島六左衛門が命名?
龍馬が乗った「いろは丸」オランダ購入説覆る(読売新聞) - goo ニュース
海援隊の「いろは丸」、実はポルトガルから購入(朝日新聞) - goo ニュース
1862年、イギリスのバーミンガムで造られた「いろは丸」は、大洲藩が購入して土佐藩に貸し出し、1867年、龍馬が率いる海援隊の操船で長崎から大阪へ向かう途中、紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した。龍馬が巧みな交渉で、紀州藩から多額の賠償金を勝ち取った「日本初の海難審判」としても知られる。
購入契約書は二つ折りで縦32.5cm、横20.5cm。昨年12月、東京都内の個人宅で見つかり、大洲市が市役所近くの大洲歴史探訪館で、複写を公開していた。包み紙に当時の大洲藩主らの名があるが、中身はポルトガル語で書かれていたため、同市は東大史料編纂所の岡美穂子助教(近世初期対外関係史)に翻訳を依頼していた。
翻訳結果は、いろは丸が沈んだ日(慶応3年4月23日。西暦では1867年5月26日)にあたる23日、岡助教や同市の清水市長らが同市で記者会見して発表した。
1866年9月22日に在長崎ポルトガル領事館事務局で契約が交わされ、売り主は在長崎ポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロ、買い主は大洲藩主代理人の郡奉行国島六左衛門で、代金は4万メキシコ・ドル(約1万両)などと記されていた。契約後に記された藩主・加藤泰秋の署名もあった。
これまで、いろは丸は、大洲藩がオランダ人から購入したとされるなど、購入の経緯がはっきりしておらず、岡助教は「当時、各藩の外国船購入は長崎奉行の許可を得て行わなければならなかったはずで、虚偽の届け出が行われた可能性もあるのでは」と推測している。
また、衝突時に大洲藩の代金の支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
[参考:共同通信、愛媛新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、NHK]
(注1)これまで、「いろは丸」は坂本龍馬が命名したとされていたが、国島六左衛門が命名?
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