市埋蔵文化財研究所が28日、織田信長の京都での邸宅「二条御新造(ごしんぞう)」の跡地(同市中京区龍池町)で、蒸し風呂の遺構が見つかったと発表した。
出土した陶器片などから信長が造営した桃山時代(16世紀後半)の遺構と判断。居室部分から離れていたとみられ、日常的に使ったのではなく、信長が風呂と庭を茶の湯のもてなしに利用したのではないかとみている。当時は入浴後の茶の湯が上流階層で流行し、サウナ形式の蒸し風呂が一般的だったとされる。
遺構は敷地の南端に位置し、東西約7m、南北約6mの範囲で見つかったが、さらに広がっており、浴室全体の規模は分かっていない。
遺構の内側から、約50cm掘り下げたU字形の竈跡(幅1.1m、奥行き1.7m)と、それを囲む礎石(東西1.5m、南北1.8m)が出土した。竈は炭が覆っていた。蒸し風呂は礎石の配置から小屋状で、竈の上にすのこを張り、湯を沸かして蒸す仕組みとみられ、足し湯を沸かす別の竈や井戸も見つかった。
北約50mの場所で以前、庭園の池の跡が見つかっており、庭を望む形で建てられていたと考えられる。
豊臣秀吉の聚楽第を移築したとされる現存最古の浴室「黄鶴台(おうかくだい)」(安土桃山時代、同市下京区の西本願寺)とほぼ同じ構造という。
二条御新造は公家の二条家邸宅の庭園を気に入った信長が1576年に建造。6年後の本能寺の変で長男信忠がこの地で討ち死にし、焼失した。遺構の約50m北で02年、洛中洛外図屏風にも描かれた龍躍池(りゅうやくち)跡が見つかっているが、邸宅の遺構の発見は初めて。
5月1日から京都市考古資料館(同市上京区)で出土品を展示する。
[参考:共同通信、毎日新聞]
出土した陶器片などから信長が造営した桃山時代(16世紀後半)の遺構と判断。居室部分から離れていたとみられ、日常的に使ったのではなく、信長が風呂と庭を茶の湯のもてなしに利用したのではないかとみている。当時は入浴後の茶の湯が上流階層で流行し、サウナ形式の蒸し風呂が一般的だったとされる。
遺構は敷地の南端に位置し、東西約7m、南北約6mの範囲で見つかったが、さらに広がっており、浴室全体の規模は分かっていない。
遺構の内側から、約50cm掘り下げたU字形の竈跡(幅1.1m、奥行き1.7m)と、それを囲む礎石(東西1.5m、南北1.8m)が出土した。竈は炭が覆っていた。蒸し風呂は礎石の配置から小屋状で、竈の上にすのこを張り、湯を沸かして蒸す仕組みとみられ、足し湯を沸かす別の竈や井戸も見つかった。
北約50mの場所で以前、庭園の池の跡が見つかっており、庭を望む形で建てられていたと考えられる。
豊臣秀吉の聚楽第を移築したとされる現存最古の浴室「黄鶴台(おうかくだい)」(安土桃山時代、同市下京区の西本願寺)とほぼ同じ構造という。
二条御新造は公家の二条家邸宅の庭園を気に入った信長が1576年に建造。6年後の本能寺の変で長男信忠がこの地で討ち死にし、焼失した。遺構の約50m北で02年、洛中洛外図屏風にも描かれた龍躍池(りゅうやくち)跡が見つかっているが、邸宅の遺構の発見は初めて。
5月1日から京都市考古資料館(同市上京区)で出土品を展示する。
[参考:共同通信、毎日新聞]