歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

水戸市・吉田古墳 38年ぶりに石室調査を実施

2010年11月26日 | Weblog
 水戸市教委は26日、「線刻壁画」を持ち八角形墳の可能性がある吉田古墳(同市元吉田町)で石室の調査が38年ぶりに行われ、報道陣に内部を公開した。線刻壁画の保存状態や石室の構造を確認し、保存計画を練るのが目的。
 大正3年(1914)、東京帝国大学の調査で石室内の壁画が初めて確認された。壁画は、「鉾」や「靭」、「大刀」が描かれている。72年の前回調査で、石室の修復作業などが行われた。墳丘はほとんど現存していないが、2006年に古墳の周囲の溝を調査し、八角形墳だった可能性の高いことが判明した。墳丘の範囲も東西約26m、南北約30mで、7世紀半ばごろの築造と推定される。
 現地説明会が28日(日)に行われる予定。
[参考:共同通信、産経新聞、東京新聞]

水戸市の八角墳を38年ぶり調査 石室内部を公開(共同通信) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃木県・上神主・茂原官衙遺跡 東山道跡とを結ぶ入口跡を発見

2010年11月26日 | Weblog
 上三川町教委と宇都宮市教委は国指定史跡「上神主・茂原官衙遺跡」の本年度発掘調査で同遺跡南側に東山道跡と上神主・茂原官衙遺跡を結ぶ入り口跡を発見した。同遺跡と東山道跡の密接な関係性が明らかになったとする。
 現地説明会は27日(土)午後1時半~3時に開かれる。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.27上神主・茂原官衙遺跡 敷石遺構跡を確認 11/28現地説明会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊達市・宮脇遺跡 室町時代に再建後、京都北山文化の影響を受けた池、庭園跡見つかる

2010年11月26日 | Weblog
 伊達市教委は25日、再建後の霊山寺跡とされる宮脇遺跡(同市霊山町大石)で、建物に囲まれるように築かれた池や庭園、石垣跡が見つかったと発表した。
 霊山寺は山岳信仰の聖地として栄えたが、室町時代に再建された際、京都北山文化の影響を強く受けて生まれ変わったことが分かったとする。
 一般向け説明会が27日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.12 宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 建物跡を囲む溝と石組みが出土
 2008.10.29 宮脇遺跡 室町期の霊山寺跡 発掘調査現地説明会開催案内
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橿原市・菖蒲池古墳 2段構造の方墳と判明

2010年11月26日 | Weblog
 橿原市教委が25日、今年3月30日に、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとした同市の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀半ばごろ)が約30mの方墳と分かったと発表した。また、築造からわずか数十年後の藤原京期(7世紀末~8世紀初頭)に古墳の一部が人為的に破壊されていたことも判明したという。
 石室の南西約20mで下段墳裾の隅部分を検出した結果、直角に加工した一辺約70cmの基底石が配置され、西辺と南辺は幅約30cmの石を直線的に並べていた。上段は、石室の北東約10m地点で長さ約3.3mにわたって直線的に並ぶ基底石8個を確認。上段も方形と断定した。
 また、墳丘西側2mで、古墳の一部を破壊して造った石組み溝が見つかった。幅約30cm、深さ約30cm、長さ約2.5mで、南北に水を流したと考えられる。溝から藤原京期の土器、付近からは鉄屑、鞴(ふいご)の羽口などが出土し、古墳築造から遠くない藤原宮期(694~710)に鋳造などの工房が営まれた可能性があるという。
 同古墳の横穴式石室は家形石棺二つを直列に安置。屋根や柱などの写実的な表現や、内面に施された全面漆塗りなどから、高位の人物と考えられていた。
 市教委は、古墳がぞんざいに扱われており、大化5(649)年に謀反の疑いを受けて自害した蘇我倉山田石川麻呂と長男の興志(こごし)の合葬墓とする説にやや有利な要素になるという。
 現地説明会は27日午前10時~午後3時に開かれ、650人が集まった。
[参考:共同通信、奈良新聞、産経新聞](2010.11.28改正版)

過去の関連ニュース・情報
 2010.3030菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都市上京区・薩摩藩邸跡 同志社大今出川キャンパス地にあった薩摩藩邸絵図を確認

2010年11月26日 | Weblog
写真は、同志社大学今出川キャンパス西門脇にある石碑(2010.11.25撮影)

 同志社社史資料センターの調査で、幕末に錦小路(京都市中京区)にあった薩摩藩邸と考えられていた絵図(縦130cm、幅160cm、鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)が、同志社大今出川校地(上京区)にあった薩摩藩邸だったことが25日までに分かった
 薩摩藩邸は錦小路、伏見などにもあったが、今年春に同センターが調査で、「烏丸通」や、当時存在した「石橋通」(現在の今出川校地内)などの文字があり、薩摩藩が文久3年(1863)に相国寺境内に建てた「薩摩藩二本松屋敷」と判明した。
 6900坪の敷地内には部屋が200以上あり、薩長同盟の舞台となった藩邸の建物配置などがよく分かる貴重な史料」としている。
 26日から来月22日まで今出川校地ハリス理化学館2階で公開する(土日休館)
[参考:京都新聞]

備考
 同志社大今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、室町幕府の3代将軍、足利義満(1358~1408)が建立した塔頭「鹿苑院(ろくおんいん)」とみられる遺構が見つかったと報道された翌日、ちょうど京都旅行で同キャンパスを訪れた。発掘現場は、これまでここにあった同志社中学が左京区岩倉大鷺町へ移転した跡の校舎撤去作業(現在は殆ど整地状態)と重なって、重機、ベルトコンベアなどが並び、そして作業員がたくさんいて場所の特定が難しいが、どうやら写真の作業現場の右側(東側)らしい。
 この場所は、7~8世紀には出雲郷と呼ばれていたそうで、相国寺境内および今出川キャンパスからもこの時期の竪穴住居や須恵器などの遺物が出土している。したがって、いろいろの時代の遺構が重なっている場所と推定される。

龍馬が薩長同盟を説いた…薩摩藩邸の絵図確認(読売新聞) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする