歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

新羅山城・咸安城山山城で敷葉工法による「ダム」築造跡

2008年11月25日 | Weblog
 新羅の山城で、洪水時に渓谷に一時に流れる水の圧力で城壁が崩壊するのを防ぐために、城壁内側に現代のダムと同じ巨大な防御壁を設置した跡が発掘調査で現れた。
 国立文化財研究所は19日、韓国古代木簡の最大出土地の慶南咸安城山山城(6世紀中~後半築造)の第13次発掘調査で、東側渓谷を横切った石築城郭内側について幅15.2mに達する巨大な防御用「堤防」を積んだ跡を発見したことを明らかにした。この「堤防」は現在残っている規模からみて最大高さ2.4m、全長は27.2mに達する。この「堤防」は「敷葉工法(부엽공법)」により築かれた。 
 文字通り、「木の葉や草などを敷く方式」である敷葉工法は中国で始まり、韓半島を経て日本に伝えられた技術と評価され、水が流れる所に城壁や堤防などを積み重ねる時に適用された。
 この工法は、日本の古代ダム式貯水池の狭山池(616年頃築造)の発掘調査で初めて確認されて以後、韓国ではソウル・風納土城と扶余羅城、唐津合徳堤、金堤、碧骨堤、利川雪峰山城などの地で部分的に確認されている。
 城山山城城郭とこのダム式堤防は同時期に築造されたと判断されると調査団は話している。
 今回の発掘成果は、現在まで合計246点が出土した城山山城新羅木簡の性格を解明するのにも決定的な役割をするものと見られる。
 研究所は今回の発掘調査報告と諮問会議を20日午後咸安博物館と現場で開催する。
[参考:11/20聯合ニュース]
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明日香村 飛鳥寺跡 南東方向に7世紀の石敷き道路 

2008年11月25日 | Weblog
 24日奈良文化財研究所によると、蘇我馬子(?~626年)が建立した国内初(596年完成)の寺院・飛鳥寺跡で7世紀のものとみられる石敷きの道路と階段状の石組み溝が見つかった。寺の南側にあった「石敷き広場」の北東隅で、広場の実態は巨大な通路だったとみられる。石敷き広場は飛鳥寺と飛鳥京の境に帯状に広がり、南北20・5m、東西65m以上。日本書紀が大化の改新(645年)の中心人物、中臣鎌足と中大兄皇子が出会ったと伝える「槻木(つきのき)の広場」や、同寺、飛鳥京、石神遺跡など飛鳥の中枢施設を結ぶ交差点の一部の可能性があるという。
 当時の中金堂跡(現在の本堂)から約140m南東の水田を調査した。
 石敷き道路は、北と東の縁にそれぞれ約70cm大の花崗岩の縁石が長さ4m、2mにわたり施されており北東角と確認した。
 石敷き道路の東隣では、50~70cm大の花崗岩で築いた石組み溝を南北4m分確認。西側が2段、東側が3段積みの階段状で、東西幅は0.7~2.6m、深さは20~80cmあった。
 道路は飛鳥寺と飛鳥京の間に位置し、今回の調査地から西へ約30m付近では過去にも石敷き道路が見つかっている。
 飛鳥寺と飛鳥京の東には、南北に丘陵が連なる。今回は、丘陵沿いに想定される南北道路(過去の調査で一部確認)は見つからなかったが、石組み溝をその西側溝と考えると、橋などの構造物を介し、東西を走る石敷き道路と南北道路はT字状に交わる交差点が想定できるという。
[参考:毎日新聞、産経新聞]
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今年4月百済・扶余で出土した百済木簡「還穀文書」は、日本の律令制度の「出挙」とも類似 百済に学ぶ?

2008年11月25日 | Weblog
 「今年の4月24日百済文化財研究院は、忠南扶余双北里で穀物の名前とその数量を筆文字で書いた百済時代木簡が発掘されたことを発表した。」と聯合ニュースが報じたのは7月18日であった。
 さらに「百済時代木簡(목간、6-7世紀頃)が、政府(朝廷)が救荒期に穀物や食糧を貸して利子を受けたことを記録したいわゆる'還穀文書'であり、こういう公文書では最も古い」としていた。
 どうやら、今朝の朝日新聞の記事はその後の進展結果のようである。
[参考:前出]

今朝の朝日新聞の内容は、前述の木簡について、下記のように報じている。
 古代日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、百済が窓口の役割を果たした可能性を示す。
 奈良~平安時代の律令制度で財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じである。

 今年4月扶余で、木簡6点が発見された。木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。
 木簡は長さ約30cmで「貸食記」と表題があり、618年のもの。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。
 出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度。
 見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だった。
 出挙木簡の一部には「佃目之二石上二石未一石」と記されており、佃目之という人物に、2石を貸して2石を回収し、残り1石が未収という意味。
 日本での出挙を記録した木簡は、7世紀末以降のものが出土、書式もよく似ている。
[参考:朝日新聞]

 さらに、今年の8月10日に奈良県立万葉文化館で行われたシンポジウム『韓国木簡の現在』で国立扶余博物館・李鎔賢氏が発表された資料「韓国木簡の現在・百済木簡 ─新出資料を中心に と題して」が東京大学超域文化科学専攻比較文学比較文化『東アジア古典学としての上代文学の構築』のホームページの中で発表されている。
 「佃目之」については、他にも「佃麻那」「佃首行」の如く、頭に「佃」を冠した人々がおり、姓氏というより、「佃戸」とともに耕作者を表わす職役・職分を表わしていると解しておくと記している。
[参考:東京大学比較文学比較文化研究室]
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新薬師寺 8世紀の金堂跡 さらに大型と推定

2008年11月24日 | Weblog
新薬師寺金堂跡 現地一般公開に2600人集まる。
 11月22日、奈良教育大創立120周年を記念して、奈良時代(8世紀)の新薬師寺金堂跡の構内発掘調査現場を公開し、2600人が集まった。
奈良教育大構内の教育資料館では、来年1月30日までの平日、出土した瓦や仏像の破片などを展示している。
[参考:読売新聞]

[11月13日掲載分]
新薬師寺金堂 基壇規模は東西約68m
 奈良教育大学は13日、金堂の規模について基壇の東西の長さが前回10月23日発表時より、約14m長く約68m、南北は約1.5m長く約28.5mとみられることを発表した。
 現存の東大寺大仏殿(東西約57m、南北約50m)に匹敵、創建時の大仏殿(東西約85m、南北不明)に次ぐ規模という。
 基壇の東南の隅にさらに東に延びる凝灰岩列が、西側からはさらに外側に基壇を造る際に使用する礎石を据え付ける遺構が見つかった。南北もその後の調査で前回より長いと推定されることが判明した。
 これまでに基壇南端で凝灰岩の化粧石の延石(のべいし)や、人頭大の地固め石を詰めた柱穴4基などが出土していたが、今回新たに、遺構の西側で南北に並ぶ柱穴2基が出土。さらに東側でも、基壇最下部を覆う化粧石・地覆石(じふくいし)を東西約4mにわたって確認した。
 10月出土した延石列はこれより1.8m南側に張り出しており、外装用の地覆石も使われていないため階段の一部と判明。張り出し部の出土状況から、階段の東西幅は約52mにわたると推定した。
 これに伴い建物の規模を再計算したところ、10月時点では東西約54m、南北約27mとみていたが、東西約59m、南北約20mと推定した。これにより基壇の全体規模は東西約68m、南北は約28.5mになるという。
 新たに出土した地覆石(幅約40cm、高さ30cm)は、これまでに確認されていた延石列より約2m後方に位置。この配列から同大は、基壇の前に階段が設けられていたと推測。「東大寺要録」によると、新薬師寺の金堂は「七仏薬師像」が安置されたとされる。基壇の高さは推定約2mで、位置関係などから幅約52mにわたる階段が、「七仏薬師像」が安置された金堂内陣の幅に合わせて取り付けられたと想定されるという。
 このほか、遺構南東部からは乾漆像の一部とみられる黒漆が施された破片などが出土した。10月には奈良三彩の陶器片が出土している。
金堂の規模がさらに大きくなる可能性もあるが、調査区域の外側は大学敷地外で民家や道路になるため、これ以上の調査はできないという。
 17日から同大学教育資料館で出土した仏像関連とみられる破片を展示する。
 22日午前10時~正午に現場の一般公開を行う。少雨決行。
[参考:時事通信、共同通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

新薬師寺跡、金堂もっと大きかった 大仏殿しのぐ(共同通信) - goo ニュース
新薬師寺金堂、より大型と推定=東西約68メートルか-奈良教育大(時事通信) - goo ニュース
規模異例、奈良・新薬師寺跡…建物土台は東西68メートル(読売新聞) - goo ニュース

[2008.10.23掲載分]
新薬師寺 8世紀の金堂遺構が見つかる 東大寺大仏殿に次ぐ規模
 天平時代の8世紀中ごろに創建されたとされる新薬師寺の金堂(七仏薬師堂)跡とみられる遺構が見つかったと奈良教育大学(奈良市高畑町)が23日、発表した。
 見つかった場所は、現在の本堂の西約150m、奈良市高畑町の奈良教育大敷地内。
 基壇と呼ばれる建物最下部の大きさは、推定で東西約54m、南北約27m。東大寺の大仏殿は東西約85mあったとされ、奈良時代では東大寺大仏殿に次ぐ規模という。
 新薬師寺は天平19年(747年)に、聖武天皇の病気回復を願って光明皇后が建立したとされる。
 8世紀後半の東大寺の領内を示した正倉院御物の「東大寺山堺四至図」には「新薬師寺堂」が描かれ、12世紀初めの文献にも新薬師寺に仏像7体を安置したとの記述がある。
 現在の新薬師寺で最古とされる本堂は奈良時代後半から平安時代初期の創建とみられ、伐折羅(ばさら)大将(国宝)などの十二神将立像は天平彫刻の代表作として知られる。
 基壇石組みの最下段の凝灰岩(長さ約1m、幅45cm)の列(延石)と、軒下の雨落ちに相当する溝が計3カ所、東西方向に70cmから10mの長さで見つかった。
 その近く西側では、柱を置く礎石を下支えする地固め石4カ所も確認し、柱間は東西約4.5m。
 現地説明会は25日午前10時と午後1時から。少雨決行。
(10/26追記:毎日新聞によると2300人が参加した模様。)
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞]

大規模な新薬師寺の金堂跡 謎の伽藍解明に手掛かり(共同通信) - goo ニュース
新薬師寺の金堂遺構を発見=現存の東大寺大仏殿と同規模-奈良教育大(時事通信) - goo ニュース
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福岡市・鴻臚館 1‐3期は東側に門 遺構の柱穴を確認

2008年11月22日 | Weblog
 同市教委と専門委員会(委員長・小田富士雄福岡大名誉教授)は21日、7世紀後半‐11世紀半ばの迎賓館「鴻臚館」跡(同市中央区城内)を調査研究している時代とともに5期に変遷した同館跡で、北館が建てられた初期(7世紀頃)の段階に、東門とみられる遺構が見つかったと発表した。
 今回、試掘溝(幅10、長さ80m)中央部を約4・5m掘り下げたところ、北館を囲む塀の北東隅が確定。また東門の存在を示す柱穴(幅1・2、長さ4m)なども見つかった。
これまでは第2期(8世紀前半)の南北両館に東門を確認していただけだったが、同委員会は審議の結果、第1期から第3期(8世紀後半‐9世紀前半)にかけて、南北両館の東側に出入り口があったと結論付けた。
 発見された遺構は、北館第1期の東門の柱穴と柱列と考えられる穴。古代の都や役所は南門が通例とされるが、鴻臚館の場合は、(1)大宰府と同館を結ぶ「官道」が東側に到達していた(2)中国などの使節が到着する船着き場が東側にあったとの可能性(3)発掘調査の結果から、出入り口を東側にしたと推定される。
 このほか、北館の北東の角で海側に延びるスロープなどが見つかり、同委員会は「鴻臚館像の復元に一歩前進した」としている。
 また、05年度調査で出土した橋脚の木柱(奈良時代後半~平安時代)について、放射性炭素年代測定の結果、伐採時期は702~715年と判明し、木材として使用する前に備蓄していたことも分かった。
 市教委は22日午前10時~午後3時、現地で市民向けの説明会を開く。詳しくは市教委文化財整備課へ
[参考:西日本新聞、毎日新聞

鴻臚館 1‐3期は東側に門 遺構の柱穴を確認 福岡市教委 22日現地説明会(西日本新聞) - goo ニュース
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韓国の前方後円墳 海南龍頭里古墳を発掘調査 6世紀中頃築造

2008年11月22日 | Weblog
海南・龍頭里古墳
 11月21日、朝鮮日報(インターネット版)の記事に、今回の海南・龍頭里古墳の記事が出ていた。
 タイトルは、「海南・龍頭里古墳」 任那日本府 亡霊から抜け出した前方後円墳 13ヶ所中7ヶ所発掘「倭色濃厚だが任那日本府説反証」 である。
 現在まで把握された韓半島の前方後円墳13基中7基が姿を表した・・・と始まり、前方後円墳の性格を簡単に触れた上で、韓国で確実に把握された古墳13基を下記のように整理している。 ◎は調査が行われた古墳( )内は調査した機関
  全北高敞郡七岩里古墳
  全南霊光郡月山里月桂古墳.
  潭陽郡古城里古墳(月城山古墳)および声月里古墳(月田古墳)
  咸平長年里長鼓山古墳
  咸平馬山里杓山古墳群第1号墳
 ◎咸平礼徳里新徳古墳(国立光州博物館)
 ◎光州明花洞古墳(国立光州博物館)
 ◎光州月桂洞1および2号墳 (全南大博物館)
 ◎霊岩郡チャラボン(자라봉)古墳 (韓国精神文化研究院)
 ◎海南方山里古墳 (国立光州博物館)
 ◎海南龍頭里古墳 (国立光州博物館)

 これらの築造時期は、論議があるが最近では6世紀半ばに集中して造成されたという点には学界が大概合意している。前方後円墳は日本列島から由来したということには異論はない。前方後円墳は1980年代に入る前まではこの地球上でただ日本列島にだけであったが、その後、前方後円墳が韓半島にも存在するという事実が次から次へ表れ、さらに実際の発掘成果でも「倭色」が濃厚に現われたという事実が明確になるに連れて、古代韓-日関係史、特に「任那日本府説」と関連して、両国学界で非常な関心を集めた。「任那日本府説」は虚構であると自信を持っていた韓国学界としては困惑を隠すことができなかった。
 こういう「憂慮」を最も克明に見せた事件が咸平新徳古墳(6世紀前半)発掘である。この古墳は1991年3月国立光州博物館が現地実測調査をして盗掘穴があることを発見して、同じ年6月17日以後7月18日まで約一ヶ月の間発掘調査を実施した。盗掘被害を受けたが、後にその盗掘品を相当数回収した上に収拾遺物も侮れず、最も多い成果を出したと記している。

 韓国に現れた前方後円墳は明らかに日本のものだが、出現時期が6世紀であり、任那日本府説にはあてはまらないと言いたかったわけなのだろうか。


[11月20日掲載分]
 国立光州博物館(館長・趙現鍾조현종)が20日、前方後円墳である海南龍頭里古墳(해남 용두리고분)を発掘調査し、その成果を発表した。
 栄山江流域を中心に、湖南地方には前方後円墳10基余りが分布しており、そのうち一部は発掘結果で出土遺物や埋葬構造に倭色が濃厚に現れて、韓国と日本の古代史学界や考古学界の非常な注目を浴びてきた。
 龍頭里古墳発掘調査では数回にわたる盗掘で、出土遺物は石室内部と封土そして墳墓周辺を巡らす溝から、土器類若干と玉類、鉄器類をわずかに収集しただけであった。
 したがって今回の調査は、古墳の築造過程と性格を究明して今後遺跡整備復元の基礎資料を確保するのに注力したと話す。
発掘調査結果、龍頭里古墳は典型的な前方後円墳で全長41.3m、後円部は直径24.3m、高さ5.2mであり、前方部は幅17.5m、高さ3.8mであった。
 墓中央では、横穴式石室が確認された。この石室は自然地表面から1m以上の盛土で底を作った後、長台石を敷いた。さらに、石室の4つの壁面は、割石と黄白色粘土を満たして上に行くほど狭くなるように築造したことが明らかになった。石室規模は、長さ3.43m、幅2.17~2.38m、高さ1.8mであった。
また、墳墓上の封土を保護して装飾効果を出せるように板石を置いたことが分かった。
 博物館は今回の調査結果「築造技法と墳墓様式を解明することができたし、さらに墳墓頂上部で祭祀跡とみられる資料を確保した。築造時期はすでに調査した他の前方後円墳墓の咸平(禮里) 新古墳、光州・明花洞古墳等の出土遺物と石室構造などと比較すると、6世紀半ばと考えられる」と話している。
 現場説明会は21日午後2時開催される。
[参考:聯合ニュース]
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 貼付されている写真には、土器として鉢形器台(발형기대)、玉類として、勾玉1個、管玉数個、様々な色の大小の玉類が写っている。

2013-02-20
 康津郡永波里で14番目の前方後円墳を確認。(全南・康津永波里古墳)
 残存全長が67m。

2013.10.10
 全南羅州佳興里新興古墳(나주 가흥리 신흥고분)で5世紀半ば築造の前方後円墳(全長約30m)を確認。
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那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 国史跡に国文化審が答申

2008年11月22日 | Weblog
長者ケ平遺跡、東山道跡が国史跡に 国文化審が答申     
 国の文化審議会は21日、那須烏山市鴻野山にある長者ケ平遺跡と、隣接する同市とさくら市鍛冶ヶ沢にまたがる東山道跡を国指定史跡とすることを塩谷立文部科学相に答申した。名称は「長者ケ平官衙遺跡附東山道跡(ちょうじゃがだいらかんがいせきつけたりとうさんどうあと)」。
 長者ケ平官衙遺跡は、奈良時代から平安時代の役所跡(官衙)で、掘立柱建物の正殿と東西脇殿をコの字形に配置し、正殿の南に前殿と八脚門が並ぶ政庁域、その西側に掘立柱建物や礎石建物の倉庫群が並ぶ正倉域がある。遺跡の範囲は南北350m、東西350mで、指定対象面積は約13ヘクタール。
 また、同遺跡北西に8~9世紀ごろの古代東山道跡、西側に東山道と交差する道路跡(通称タツ街道)も発掘された。
 同遺跡が交通の要衝にあるため、南の下野国芳賀郡にあった新田駅家、下野国芳賀郡衙と推定される堂法田(どうほうだ)遺跡(真岡市)と関連した行政と物流ターミナル的な機能を有する郡役所跡とみられる。
 「古代国家の交通体系や地方支配体制を具体的に示すきわめて重要な遺跡」としている。
 県内の国指定官衙史跡とは、下野国庁跡(栃木市)、那須官衙遺跡(那珂川町)、上神主(かみこうぬし)・茂原官衙遺跡(宇都宮市・上三川町)に次いで4件目。
[参考:下野新聞、読売新聞、産経新聞]


[2008.7.22掲載分]
那須烏山・さくら市 長者ケ平遺跡と東山道、タツ街道 年度内に国史跡
 昨年3月に県教委文化財課は、2001年から発掘調査をしていた那須烏山市鴻野山にある「長者ケ平(ちょうじゃがだいら)遺跡」を、「八世紀前後にかけての、古代の役所跡少なくとも芳賀郡の支所」との公式見解を示していた
 官道部分を合同で発掘調査し、申請準備を進めている那須烏山、さくら両市教委が、隣接する古代官道の東山道とタツ街道と併せ、年度内にも国指定史跡となる見通しであると明らかにした。
 申請範囲は、長者ケ平遺跡の官衙域と、那須烏山市とさくら市にまたがる東山道約500mとタツ街道約600m。全体は南北480m、東西380m、面積は約12万9千㎡に及ぶ。
[参考:下野新聞]

周辺遺跡
①長者ケ平遺跡
奈良・平安時代に営まれた役所跡。
源義家が、奥州征伐を終えて都に帰る途中、強大な富と力を持つ長者の後患を恐れ、焼き滅ぼしたという「長者伝説」が残される。
②太平寺(滝尾山正眼院)
延暦22年(803)坂上田村麻呂が蝦夷討伐のおり、大願成就を祈願し千手観音菩薩を安置し堂宇を建立したのが始まりとされ、嘉祥元年(848)慈覚大師円仁によりが開基されたといわれる。
③宮原八幡宮
延暦14年(795)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の勝利を祈願し、筑紫山に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりとされ、明応2年(1493)那須資実(すけざね)烏山城の拡張を行った際、現在の地に遷社されたといわれています。
④馬屋久保遺跡
平成元年に県内で初めて発掘された「東山道」の平安期の側溝のある路面が出土している。
⑤東山道とタツ街道
東山道は畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路で、七道の中で近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道を中路とした。陸奥国府・多賀城より北は小路とし、北上盆地内の鎮守府まで続いた。
タツ街道は、長者ケ原遺跡の西側を通り、北側を走る東山道に接続する道路。道路幅は9mを超えていた。
⑥下野薬師寺
白鳳期、天智天皇期の創建。一塔三金堂の伽藍配置を持つ寺院。
奈良時代には、東大寺および観世音寺とともに、国内の僧侶を統制する国立三戒壇の一つに数えられた。
日光山繁栄の源を作った勝道上人もここで如意僧都に師事して得度した。
⑦堂法田遺跡
芳賀市郡衙跡
⑧中村遺跡
芳賀市郡衙正倉別院
[参考:広報那須烏山]
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松江市・鞍切遺跡 石棺内部から石材を確認 被葬者の枕か?

2008年11月21日 | Weblog
 県埋蔵文化財調査センターは20日、鞍切(くらきり)遺跡(松江市西尾町)の4号墳から、箱式石棺、大刀、石棺内部には被葬者の枕とみられる石材が見つかったと発表した。いずれも古墳時代中期ごろの埋葬品。
 鞍切遺跡内には4基の古墳がある。4号墳は一部破壊されているが、11mの方墳と推定される。古墳時代中ごろに造られ、墳丘の中央には、長さ2m、最大幅0・5mの箱式石棺がある。石棺内には被葬者の枕として使われた可能性がある石材(長さ24cm、幅12cm、厚さ5cm)、石棺外からは大刀の一部が出土した。

 鞍切遺跡は和久羅山から派生する丘陵に存在する。鞍切遺跡の発掘調査は本年5月から実施している。遺跡内には4基の古墳と街道が存在する。
 1号墳と2号墳は、2基とも削平されており周溝しか残っていなかった。周溝からは、円筒埴輪片と葺石が多量に出土している。3号墳は,事業範囲外のため調査を行っていない。
 新たに発見された古墳は、方墳としては県内有数の規模を誇る廟所古墳(一辺64~68m)に隣接する丘陵にあり,朝酌地域の古墳時代の社会を考える上で貴重な資料となったとする。
遺跡公開
 平成20年11月24日(月:振替休日) 10時より現地説明会を開催。小雨決行。
 集合場所は第五大橋発掘調査事務所 (連絡先:第五大橋発掘調査事務所)
[参考:毎日新聞、島根県報道資料→11月20日、中国新聞]
鞍切遺跡で古墳4基確認(中国新聞) - goo ニュース

 
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大垣市昼飯町 「車塚古墳」と「大塚1号墳」 発掘調査

2008年11月21日 | Weblog
 市教委は20日、同市昼飯町の標題2古墳の公園整備に伴う発掘調査結果を発表した。
 車塚古墳は児童公園内に所在し、盛り土が崩れ落ち、横穴式石室(長さ8.2m、巾3.3m)が露出している。調査の結果、幅2・5m以上の周壕と、石室への通路と思われる石材を積んだ前庭部を確認。古墳は方墳の可能性が高く、石室の形状から古墳時代末期7世紀初めのものとみられる。石室の規模や出土した馬の飾り金具などから、この地域に造られた最後の首長墓の一つの可能性があると考えられる。東京国立博物館などに残る記録では明治時代の開墾に伴い、石室から古銅器や古陶器が出土。同博物館には馬の飾り金具や須恵器が所蔵されている。
 大塚1号墳は車塚古墳の約200m北にあり、昨年度の調査で幅4m、深さ1・3mの周壕を3地点で発見した。今年度の調査でも新たに周壕が見つかり、1辺が20m以上の方墳であることが確認された。周壕の底からは、5世紀のものと思われる祭祀用の壺2個や須恵器が見つかった。平成元年度の調査で、墳頂部から形象埴輪(盾)片が採集され、5世紀代の築造と見られていた。
 各遺跡の現地説明会が22日午後1~3時に行われる。
[参考:毎日新聞、平成19年度岐阜県大垣市(大塚1号墳)現地説明会資料、現地案内板]
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岐阜市・加納城跡 大手櫓門の規模を確認

2008年11月21日 | Weblog
 市教育委員会は20日、同市加納丸之内の国指定史跡「加納城跡」発掘調査で新たな発掘があったことを発表した。
①昨年から今年3月までの調査で、枡形の空間と本丸の境にあった大手櫓門の付近で石垣(長さ約7m)を発掘。石垣で区切られた部分を特定できたため、櫓門の南北方向の規模が約11m、東西方向約6.6mであるとわかった。
 櫓門は城主が居を構える本丸に敵が攻めてきた際、閉め切るために設置された。敵を入り口の空間に閉じ込め、四方から挟み撃ちする仕組みだという。
②出枡形(でますがた)と呼ばれる平たんな部分は南北に約30m、東西に約18mに延びた構造だと発表した。
 市教委によると、加納城の本丸は堀に囲まれ、上から見ると凸形で、本丸に通じる入り口になっている。
②集水桝とみられる方形に組んだ石と、「一の門」の柱を支えた礎石である可能性がある河原石も見つかった。二の丸方面から本丸に通じる「高麗門」の可能性があるという。
 加納城は、関ヶ原の合戦直後の慶長6年(1601年)に、大坂方への備えの拠点として、徳川家康が本多忠勝に築城を命じたとされる。初代城主は家康の娘婿・奥平信正。
 市教委は22日午後1時から、現地説明会を開催する。問合せは、市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所へ。
[参考:中日新聞、読売新聞、毎日新聞]

文安2年(1445) 美濃国守護代斉藤利永(?-1460)が中世加納城を築城する
永禄10年(1567) 織田信長、斉藤龍興(1548-1573)を追放し、稲葉山城を占拠
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城落城
慶長6年(1601) 徳川家康が家臣の本田忠勝に命じ築城したとされる
          奥平信昌、加納を拝領する
慶長7年(1602) 加納城築城開始
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長浜市・横山城遺跡 戦国時代の痕跡出土

2008年11月21日 | Weblog
 市教委は20日、市東部の横山城遺跡で16世紀後半のものとみられる、刀の鞘の先端部にはめる金具「鐺(こじり)」が県内で初めて出土したと、発表した。防御のため斜面を削った切岸(きりぎし)、土塁の基礎となった石列などの遺構も検出された。
 主要な施設は横山の南北2か所にあったと推測されているが、これまで建物遺構は出土していなかった。
 今年8月、市教委が標高300m付近の3か所を発掘し、曲輪の跡から土師器や信楽焼の皿などとともに鐺1点が見つかった。
 切岸遺構は、曲輪跡の西側、二重の空堀の直上に位置する。高低差約5・2mの斜面の土を、長さ約8mにわたって削っており、西側の守りの要だったことがうかがわれる。石列(長さ約1・1m)も、曲輪付近で検出された。
 鐺は26日まで市立長浜図書館(0749・63・2122)で展示されている。
[参考:読売新聞]

 横山城は長浜市の東側、横山丘陵・臥竜山(標高312m)を中心に三方の尾根に配置配されている。
 築造時期不明 京極氏の支城として築かれたといわれる。
 永禄4年(1561) 浅井長政は、南近江守護の六角義賢と戦い佐和山城を落とした。浅井氏の近江南進の要として、横山城を築いて、浅井井演を城代とした。
 元亀元年(1570) 織田信長に反旗を翻した浅井長政は、信長との姉川の合戦に敗れる。信長は、横山城へ木下秀吉を城代として送る。
天正元年(1573) 浅井氏滅亡によりこの城の役目も終わり、長浜築城を期に廃城となった。
[これまでの主な出土遺物]
 11世紀平安時代ごろの北宋銭「治平元寶(じへいげんぽう)」が16世紀の土師器とともに出土
 16世紀半ばの鎧具足の一部である小札(こざね)が出土
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奈良市・春日大社 氷室跡か、謎の穴 3つ

2008年11月21日 | Weblog
 春日大社(春日野町)境内北部の水谷神社付近で、3つまとまって掘られた鉢状の大きな穴(直径約10m、深さ約1・2m)を神職の中野和正さんが見つけた。形や大きさから「氷室」跡の可能性がある。
 穴は一般の立ち入りが禁じられている場所にあり、直径7―10m。深さは1mほどあり、ほぼ正円に掘られている。
 今年夏ごろ中野さんが見つけ、龍谷大大学院で氷室の研究をしていた川村和正さん(奈良市在住)に連絡した。「日本書紀」に登場する氷室は深さ約3mで、竪穴にカヤなどを敷き詰め、氷を収めたという。
 天理市福住町や奈良市都祁地域で氷室とみられる遺構が見つかっており、三基1セットで造られるケースが多い。直径は5―12m程度で、春日大社の窪みと一致する。
 奈良時代の絵図である正倉院宝物「東大寺山堺四至図(さんがいしいしず)」には、現在の境内を指す「神地」の北側に「氷池」の文字があり、氷室も周辺にあったとみられている。見つかった穴は両者の中間に位置する。
 中野さんは「水を凍らせて氷を作るのが氷池。保存施設の氷室が近くにあってもおかしくない」とみている。
 問題は深さが1mと浅く、長い年月を経ているのに木が生えていないこと。川村さんは、「正円、大きさ、三基のまとまり」を氷室の共通ポイントと挙げる一方、木の生育などを相違点に挙げ「水はけの良い土質であるかなど、検討課題は残る。奈良時代に氷池の伝承地があったのは確かで、周辺には何らかの形で氷室があったはず。候補の一つと言えるだろう」と話している。
[参考:奈良新聞、毎日新聞]
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益田市・三宅御土居跡 遺構発見可能性高まる 

2008年11月20日 | Weblog
 市三宅町の国指定史跡「三宅御土居(おどい)跡」で19日、発掘調査の説明会があった。
 中世の盛り土造成跡が新たに見つかり、建物跡などの遺構を発見できる可能性が高まった。
 三宅御土居跡は中世に益田市一帯を支配した豪族益田氏の屋敷があったとされる。市教委が9月から7カ所の調査地点(計140㎡)を発掘し、遺構を探している。
[参考:中国新聞]
遺構発見可能性高まる 益田(中国新聞) - goo ニュース

三宅御土居跡
 平成2年度からの調査によって、館跡全体が明らかになってきている。
 館の1町(約109m)四方といわれる通常の館の倍の規模を持ち、周囲は堀や川によって囲まれ、東西に高い土塁を築いた館である。
 平安時代末期の12世紀から三宅御土居が廃絶する16世紀末にかけての土師質土器(かわらけ)、瓦質土器、備前焼、常滑焼、唐津焼や中国製の白磁、青磁、染付、朝鮮製の陶磁器などが多量に出土した。13世紀の木組井戸跡、16世紀の礎石建物の鍛冶場跡や石積井戸跡が発見されている。

益田氏
 右大臣・藤原内麻呂(756-812)を祖とし、11代後の大納言・国兼が石見国司のまま残り御神本を名乗る。源平の乱にあたり、平氏ながら、源氏方として戦い勲功をあげた。これにより、石見国内の多くの所領として与えられた。国兼の3代後兼高(平安末期―鎌倉初期)より益田を名乗る。
  
 永久年中(1113~1117) 御神本国兼、石見国司として赴任する  
 文治元(1185) 御神本兼高、源平の戦いに源氏方として軍功をあげる  
 建久3(1192)頃 御神本兼高、益田に移り益田氏と改める 益田氏、大谷居館を築く
 貞応元(1222) 承久の変後、新補地頭赴任しはじめる  
 弘安3(1280) 益田兼時、多根兼政に命じて益田川を改修する 益田兼時、石見海岸に十八砦を築く
 暦応3(1340) 益田兼見、豊田城を落とす  
 暦応4(1341) 益田兼見、稲積城、高津城を落とす  
 応安3年(1370) 益田兼見、三宅に益田別館を築く
 永正2年(1506) 益田宗兼、大内政弘に従軍する
 元亀元(1570) 益田藤兼(1529- 1597)、吉川元春と和す。三隅城を落とす
 慶長5(1600) 益田元祥(1558-1640)出陣、戦後益田を去り長門国須佐へ移る。



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佐賀県・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初の「花弁状住居」跡

2008年11月19日 | Weblog
九州の南北交流示す?  
 三養基郡みやき町教委は18日、同町原古賀の西寒水(にししょうず)四本柳(よんほんやなぎ)遺跡で、弥生時代中期とみられる「花弁状住居」跡を発掘したと発表した。
 花弁状住居跡は宮崎県中南部から鹿児島県大隅半島にかけて多く分布し、熊本、大分両県でも数カ所で見つかっているが、北部九州(福岡、佐賀、長崎県)では初めて。同町教委は「内部構造を含めた特徴が一致している。弥生中期の九州北部と南部の文化的交流を示す」遺跡とする。
 町教委によると、花弁状住居は、竪穴式住居の一種。住居跡は、直径約5mの円形部分と、その周囲を取り囲む幅1‐1.5mの大小8つの突出部で構成。円形部分は深さ約40cm、突出部が同約20cmの竪穴住居で、それぞれ土壁で間仕切られ、上から見ると突出部が花びらの形をしている。円形中央に1本その周りに8八本の柱穴が配置されている。
 同様の住居跡は宮崎県を中心に鹿児島、熊本県など南部九州で発掘されており「日向型間仕切り住居」とも呼ばれている。円形部分が居間や作業をする空間で、それより一段高い四角形部分の突出部が寝室や物置だったらしい。
 この住居跡からは、弥生時代中期前半のものとみられる土器が見つかっており、南部九州より100年前後古い可能性もあるという。現時点では日本最古と考えられ、住居形式が北部から南部に伝わった可能性がある。
 同遺跡ではこのほか、花弁状住居の類似型で、朝鮮半島南部で見られる松菊里型住居跡や石器製作工房とみられる遺構も確認された。
町教委は6月から来年12月までの予定で発掘調査をしている。23日の午前10時と午後2時に現地説明会がある。
[参考:西日本新聞、読売新聞、佐賀新聞、毎日新聞]
「花弁状住居」跡を発掘 九州の南北交流示す? 佐賀・みやき町 西寒水四本柳遺跡 九州北部で初(西日本新聞) - goo ニュース

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 出土した「花弁状住居」の時期について、佐賀新聞のみが弥生時代中期前半(紀元前1一世紀ごろ)とし、その他3紙が弥生時代中期としている。弥生時代中期の何時ごろかによって、南あるいは北のどちらから伝わったかを知る上で重要のようだ。
 読売新聞は、「弥生時代中期前半のものとみられる土器が見つかっており、南部九州より100年前後古い可能性もある」と記してもいる。
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喜界町・城久遺跡群 石鍋片に中世の文字

2008年11月19日 | Weblog
 喜界町教委は18日、同町城久(ぐすく)地区の城久遺跡群で、中世のものとみられる文字資料1点を発掘したと発表した。
中世の文字資料が同遺跡で見つかったのは初めてで、南西諸島でもこれまで3例しかなかったという。
 文字は、同遺跡群の1つである大ウフ遺跡から昨年度に出土した滑石製石鍋片(8cm四方)に刻まれていた。今年10月、鍋の縁部分に「大」(縦2cm、横2.2cm)とあるのを東京大の研究者らが確認した。滑石は長崎県西彼杵半島産という。
 2002年に発掘が始まった同遺跡群は、9‐14世紀の集落跡とみられ、広さは約13万㎡。100棟を超える建物跡や土坑墓などのほか、大宰府(福岡県)で使われたものと似た土師器などが出土した。規模や遺物などから、大宰府の出先機関説が浮上し、古代から中世にかけた律令国家の境界領域を覆す可能性があるとして、考古学関係者が注目していた。
[参考:西日本新聞]
石鍋片に中世の文字 喜界町城久遺跡群 南西諸島で4例目(西日本新聞) - goo ニュース

備考
 昨年1月には、鉄器をつくる鍛冶炉の跡が20基以上発見された。しかしながら、周辺の遺跡から鉄製品はほとんど出土していないため、作られた鉄器は他に移動させていたと考えられている。これまでにも9~12世紀の多数の建物跡や石敷きの道路跡が発見されている。この時代には国の役所跡でしか出土しない中国製青磁なども見つかっており、大宰府(現福岡県太宰府市)の出先機関があった可能性も指摘されている。
[参考:2007.1.4毎日新聞]

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