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宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群 銀で細工された龍が刀身に描かれた「龍文銀象嵌大刀」が出土

2010年04月21日 | Weblog
 えびの市教委は20日、6世紀前半の島内地下式横穴墓群(同市大字島内字平松/杉ノ原)から、銀で細工された龍が刀身に描かれた鉄刀「龍文銀象嵌大刀(りゅうもんぎんぞうがんたち)」が出土したと発表した。
 全長98・2cm、幅3・6cmの直刀で刃の長さは78cm。龍は、長い胴で首を曲げ、角と4本の足があり、尾が生えている。刃の根元の両面に対になるように1体(長さ8~9cm)ずつ、溝に銀を嵌め込んで描かれている。
 市教委が2008年2月、地方豪族を埋葬したとみられる114号墓(長さ約3・8m、幅約2・5m、深さ約1・9m)で5体の人骨とともに見つけた。50~60代の年長男性とみられる人骨の頭の左側に平行して置かれていた。ほぼ完全な形で鞘に収まり、状態は良かったが、錆びで覆われていた。X線撮影で龍を確認し、錆びを除去するなどの復元作業を行っていた。
 6世紀代の墳墓ではこれまで龍の描かれた刀が、奈良県の新沢327号墳(橿原市)と吉備塚古墳(奈良市)で2例見つかっている。今回の龍は、新沢327号墳の龍と酷似しているという。
 えびの市歴史民俗資料館で5月3日まで展示されている。4月23日午前10時からは、同資料館で説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、産経新聞、宮崎日日新聞、西日本新聞]

龍の象眼 古墳期の大刀 えびの市で九州初出土(西日本新聞) - goo ニュース




キーワード:島内139号地下式横穴墓 、島内地下式横穴墓群139号墓
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京都大学総合博物館 1916年英国寄贈の鳥のミイラ(木乃伊)は2000年前のトキと判明

2010年04月20日 | Weblog
 京都大総合博物館は19日、1916年に英国の財団から寄贈され同館が保管していた鳥のミイラ2体をエックス線で撮影したところ、約2千年前のトキであることが分かったと発表した。古代エジプトでは、トキは「トト神(トート神とも)」と呼ばれる学問や知恵の神としてあがめられていたという。関係者は「大学にふさわしい贈り物」と調査結果に驚いている。
 同館によると、ミイラは1914年ごろに英国の調査団がエジプトで発掘。調査への寄付の謝礼として「日本考古学の父」濱田耕作京都帝国大教授に贈られた。大きいほうは、長さ約40cm、幅16cm、高さ15cmで褐色の麻布に巻かれており、博物館は種類を特定しないまま「鳥の木乃伊(ミイラ)」として保管していた。
 エックス線をテーマにした企画展にあわせて撮影したところ、二つ折りにした両脚の間に長いくちばしを挟むようにした鳥の姿がくっきり現れた。さらに骨格を調べ、くちばしの構造などからトキと断定した。
 約3千年前からエジプトでは、神としてあがめる動物をミイラにする宗教的な慣習があった。巻いていた布に黒い縁取りがあったことから、時代を割り出した。
 エジプトではこの時代のトキのミイラがほかにも発見されているという。
 画像は同館で4月28日~8月29日に開催する企画展「科学技術Xの謎」で公開。ミイラは5月12日~6月13日まで公開する。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞]

トキだった!京大に寄贈のミイラ、X線調査(読売新聞) - goo ニュース
ミイラは2千年前のトキと判明 京大保管、X線で撮影(共同通信) - goo ニュース




キーワード:濱田耕作、浜田耕作、浜田青陵
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奈良県田原本町・宮古北遺跡 辰砂から朱の精製に使用した土器が出土

2010年04月18日 | Weblog
 田原本青垣生涯学習センターで17日に行われた「発掘調査報告会」で、宮古北遺跡(田原本町宮古)で古墳時代前期に赤色顔料「朱」の精製に使った須恵器の鉢(直径12・5cm、高さ5・3cm)が発見されたと発表された。
 昨年5~6月、古墳時代前期の堀跡の近くの井戸跡の中から、内側に朱がこびりつき外側は火をかけたことによる煤(すす)が付着した鉢1個が完形で出土した。
 朱は辰砂をすりつぶし、水で溶いて塗る赤色顔料。精製する際に加熱処理が必要とされ、土器はその際に使われたという。
 土器は、同センター2Fの唐古・鍵考古学ミュージアム前廊下で開かれている「発掘速報展」(4月17日~5月23日)で展示される。
[参考:毎日新聞、奈良新聞]
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栄山江流域 全南霊岩郡・長洞方台形古墳 2次調査着手

2010年04月18日 | Weblog
 4月15日の聨合ニュースで、栄山江流域の代表的な巨大古墳の一つである全南霊岩郡チャンドン古墳(장동고분)の2次発掘着手のニュースが配信された。
 昨年、本古墳の周溝の範囲確認のための発掘調査が行われ、墓の大きさは南北36.6m、東西31mの長方形であり、周溝(주구)が幅5m、残存深さ約1.5mでかなりよく残っていることが確認された。
 調査を通じて円筒形土器(원통형 토기)2点が東側周溝から出土した。墓の内外に列をなして立たせておく儀式用土器であるこの円筒形土器は、国内では全南地域だけにしか見えないのに、日本でも似たような土器が「埴輪(하니와)」という名前で存在して、古代日本との文化交流があったことを推定するような遺物である。
 本古墳は構造や性格など学術調査がなされないまま、1986年に全羅南道記念物に指定され、以後整備されたが周辺地域が耕作地で利用されているために毀損が進行された。発掘調査に当たっている国立羅州文化財研究所は、本古墳が栄山江流域の巨大古墳築造勢力の性格を把握するのに重要な遺跡であるとしている。
[参考:聨合ニュース]
 以上が、ニュース記事の内容である。

 チャンドン古墳(장동고분)とは、前方後円墳としてよく知られるチャランボー古墳(자라봉고분)ではないようだし、ようやく調べついたのが長洞方台形古墳(장동 방대형고분)であった。国立羅州文化財研究所のホームページの中に昨年度の調査報告書が収納されていた。その中身の概略を下記にまとめてみる。
 所在地は、全南霊岩郡始終面沃野里。霊岩郡の古墳群は計44ヶ所が確認されているが、このうち25ヶ所の古墳群が始終面に分布している。霊岩地域で調査された古墳の埋葬主体は甕棺、土窟+甕棺、石室であるが、大部分が甕棺を中心に埋葬する。石室はチャランボー古墳で1基が調査されている。
 長洞古墳群は海抜15m前後の低い丘陵の頂上部に方台形墳2基と円形墳1基がある。長洞古墳群の1号墳である長洞方台形古墳は、1980年代調査当時、長さ38m、幅35m、高さ5mで墳頂平坦部に2~3ヶ所の陥没部があり盗掘されたことが報告されている。
現在の墳丘は整備復元されて芝が植栽されているが、周溝が存在する墳丘周辺はかなり畑で開墾され、開墾された畑の地表上には土器片と甕棺片が露出していて、相当部分が毀損されたと考えられていた。
 周溝平面調査結果、周溝は墳丘全周に回っており、周溝内側線を基準とすると墳丘は南北中央36.6m、東西中央31m、高さ約6.7m、上部平坦部長さ13.4m、幅10.4mであった。
 発見された円筒形土器の1つ(注1)をみると、下部は狭く、上部にかけ広がる形状で器高57cm。底部に直径3.5cmの円形透孔があけられていた。3個の突帯が巡らされていて、第1突帯は1条、第2突帯は2条である。2~4段には波状文が施文されており、2段、3段には三角形の透孔(5*5cm)(注2)が等間隔であけられている。既存の韓国内外の円筒形土器とは違った状態で、円筒形土器導入以後地域性が加味された変形円筒形土器である可能性が高いとみられる。この出土品からみると長洞古墳築造勢力が日本と緊密な関係を維持していることが分かり、共に霊岩地域の初めての円筒形土器出土事例という点で意味がある。
栄山江流域の初期甕棺古墳中心地として知られた霊岩郡所在大型墳丘に対する発掘調査を実施したが、調査結果では古墳の墳形と出土した円筒形土器から推定すると、後期甕棺古墳である可能性が大きいことを確認した。
[参考:霊南長洞方台形古墳発掘調査2009.6/国立文化財研究所]
(注1) 写真から推定すると最下部の直径約17cm、最上部の直径34cmほどか。
(注2) 2段目は逆三角形、3段目は三角形
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韓国・益山・弥勒寺址 石塔下から百済時代製作の鎮壇具が多数出土

2010年04月17日 | Weblog
 国立文化財研究所は16日、全北益山の弥勒寺址石塔(미륵사지석탑)の下から、百済時代に製作されたと推定される遺物27種290点余りが出土したと発表した。
 百済時代の弥勒寺址石塔(国宝11号)の基壇部発掘調査で出土した遺物は、土製螺髪(나발、高さ約1.5cm)89点、金銅装飾片、金箔、ガラス玉、女性用頭装飾品の青銅後簪(カンザシ、뒤꽂이、長さ8.3cm)(注1)、青銅玉などの青銅製品、護身用小刀子、金釘等で多様。
 これら遺物は、塔や建物の崩壊を防止して災を予防するために地中に埋める供養品としての鎮壇具(地鎮具)であったものとみられる。
 研究所は、これら遺物の性格と昨年出土した舎利壮厳具との関係ついて深く研究を継続する計画だとしている。
 研究所は昨年1月石塔を解体補修する過程で百済武王王侯が作った舎利奉安記、舎利荘厳具を発見している。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 写真を見ると、二又に分かれた青銅製のもので、채(釵)と呼ばれるカンザシの形である。新羅の雁鴨池(7世紀後葉)でも似たようなものが出土している。弥勒寺は舎利奉安記の記録では639年建立であるから、雁鴨池のものより古い。

過去の関連ニュース・情報
 2009.4.27益山市 弥勒寺 金銅製舎利壺を開封
 2009.1.25益山市 弥勒寺址 解体中の石塔心柱から金製舎利具などを発見
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宇治市・宇治遺跡 平安後期の寝殿造の建物跡が見つかる

2010年04月17日 | Weblog
 宇治市教委が16日、宇治市街遺跡(宇治市)から平安後期(11世紀中ごろ~12世紀中ごろ)の貴族邸宅の回廊跡や池を伴う庭園跡の一部が見つかったと発表した。藤原氏の別荘とみられ、摂関時代には「寝殿造(しんでんづくり)」だったことが初めて裏付けられた。 宇治市街遺跡は中宇治地区にある古墳時代から江戸時代に至る集落遺跡。
 見つかった回廊跡は、幅2.1m、長さ8.5m。直径30~40cmの柱穴8つが2つずつ対になって南北に伸びていた。回廊に沿う形で遣水(やりみず、幅1.5m)跡があり、北側の池跡につながっていた。
回廊跡の西側には、平等院の阿字池と同じ小石敷きの池(深さ0.5m)を伴う庭園跡があり、池跡は南北10m、東西7m分を確認し、さらに広がるという。
 平安京の貴族の邸宅は、寝殿から伸びる2つの回廊の間に、池を伴う庭園を配置する「寝殿造」で、今回の回廊跡や庭園跡も同様の配置であった。市教委は、池底にあった土師器から11世紀半ばに建てられ約100年間使われたとし、宇治一帯に広大な領地を持っていた藤原氏の別荘と判断した。
 一方、平安京の貴族の邸宅はいずれも南向きであるのに対し、今回見つかった別荘跡は北向きという異例の構造のため、巨椋池(おぐらいけ)や比叡山などが望める景観美を優先した、あるいは当時の上皇などとの権力闘争が背景にうかがわれる推測している。
 現地説明会は17日午後1時~3時に行われる。
[参考:京都新聞、産経新聞、読売新聞]
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伊東市・井戸川遺跡 12世紀後半~13世紀前半の宋の陶磁器が多数出土 伊東祐親に関連か

2010年04月15日 | Weblog
 伊東市教委は14日、井戸川遺跡(同市和田2丁目)で、平安時代末期~鎌倉時代初めの地層(深さ約1m)から青磁や白磁などの中国・宋から輸入した陶磁器の碗や皿、常滑・渥美窯系の国産陶器片などが多数出土したと発表した。
 市教委は、遺跡内の個人住宅の建設用地(約115㎡)で3月16日から1か月間発掘調査を行った。
 井戸川遺跡は広さ約4・5ヘクタール。伊東港の南約300m、海抜4~6mの住宅街にある。にある遺跡。縄文時代後期から平安時代にかけての住居跡がこれまでに30軒以上確認されているほか、県内でも数少ない貝塚もあり、縄文時代以降の食生活を示すアワビの貝殻やカツオ、イルカ、クジラの骨などが多数出土している。日本で初めて造られた貨幣「和同開珎」も発見されている。
 中国産の陶磁器は当時の高級品で、伊豆の国市寺家の北条氏邸跡でも類似した陶磁器が出土している。年代が地元の有力一族・伊東祐親(?-1182) が支配していた時代と重なることから、伊東氏が港に陸揚げした物資の集積・管理した施設が付近にあったとみられるとする。
 また、戦国時代の地層(深さ70cm)からはイルカの背骨なども多数見つかった。縄文期のイルカの骨も見つかっており、イルカを食べる習慣が根付いていたことがわかるという。
 これらの出土品十数点を、4月末から市文化財管理センターで一般公開する。
[参考:静岡新聞、中日新聞、毎日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.7.15 日向市塩見城跡 中山遺跡 国内初の土製キリシタン遺物が出土
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松原市・河合遺跡 市立学校給食センター建設によって壊される危機に直面か

2010年04月15日 | Weblog
 奈良時代の地方役所跡(郡衛「丹比郡家」)とみられる大規模な建物跡が出土した河合遺跡が、市立学校給食センター建設によって壊される危機にさらされていると読売新聞が報じている。
 同給食センター建設用地の約4500㎡で事前に発掘調査した結果、ロの字形に復元できる、整然と並んだ大型建物跡が出土した。数度にわたって建て替えられたとみられ、瓦も出土しており、瓦葺の建物だったとみられている。
 古代の運河「丹比(たじひ)大溝」に近く、運河を管理した郡役所などと推定され、遺構は西側に広がる。
 市教委は3月9日に記者発表したものの、市民らに調査成果を知らせる現地説明会は開かなかったし、遺跡の価値や保存方法などについて、専門家に広く意見を聞くこともしていない。十分な保存協議をすることなく建設計画を進め今年度中にも着工する予定としている。これに対し、専門家から「近畿では類例が少ない価値のある遺跡。建設計画を見直すべきだ」と疑問の声が上がっている。
 文化庁は3月末、市教委を指導する立場の府教委文化財保護課に、保存協議などがどうなっているか事情を聞いたところ、同課は今月6日、市教委に遺跡の重要性を指摘し、「工法や設計の変更などセンターと遺跡が共存する方法を考えてほしい」と要望している。
[参考:読売新聞]

過去の関連・ニュース・情報
 2010.3.10松原市・河合遺跡 奈良時代の役所跡、長さ50mの建物を含む10棟が出土
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扶余 百済時代の「麻薬/仙薬」調達を示す「五石散」荷札木簡が出土

2010年04月14日 | Weblog
 東方文化財研究院13日、扶余郡が泗沘119安全センター建設予定地一帯を発掘調査した結果、墨書の文字5字が確認された百済時代木簡1点と、木製履物(下駄、나막신) 1組、木製漆器(목제 칠기)などを発掘したと13日発表した。
 国立扶余博物館に依頼した赤外線撮影写真などから、墨書文字は「五石○十斤」(○は未判読)と読め、それ以下の部分の木簡は磨り減っていた。木簡の頭の部分には溝が掘られていて典型的な物品荷札木簡とみられる。
 この墨書を肉眼判読した書道史家・孫煥一博士は「発掘団が未判読と処理した「○」は「九」と判断でき、最後斤が重さ単位であることは言うまでもない。したがってこの墨書からは『五石九十斤』と解釈することができる」という。
 五石は五種類の鉱物質薬を混ぜて作った仙薬(선약)の五石散(ごせきさん、오석산)であり、あるいは漢食散(한식산)ともいう麻薬の一種であり、道教では薬効が最も優れた仙薬中の仙薬であり、中国では特に魏晋南北朝時代に服用が流行した。今回の木簡が記録した五石散は重量が多量という点で、百済の人々もまた同時代中国人がそうしたように麻薬(仙薬)を楽しんで服用した可能性を裏付ける点で画期的な発見となる。百済時代に道教が強大な影響力があったという事実は、扶余陵山里寺の跡地で発掘された百済大香炉とか国宝に指定されたレンガの山水文塼などで如実に証明されている。
 一方、今回の調査では百済時代の下駄1組が収集された。三国時代の下駄は数ヶ所だけでしか見つかっていない。
 また、丸太を切って作った百済時代漆器杯が破損した状態で発見された。
[参考:聨合ニュース]

2011.1.11追記
2011.1.10 「五石九十斤」と書かれたとみられた木簡は、撮影写真を詳しく分析した結果、問題の「五石」は「玉石」である可能性が高く、「九」の字は「七」の可能性が高いとみられるという。[参考:国民日報]

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高松市・浦生石塁 屋嶋城の関連遺物・平瓶が出土

2010年04月14日 | Weblog
 高松市教委が13日、屋島中腹で大正時代(1922年頃)に見つかっていた「浦生(うろの)石塁」から、新たに7世紀後半に作られたとみられる須恵器の瓶(かめ)の破片が出土したと発表した。
 日本書紀の天智六年(667)十一月の条には、「是の月に、倭国の高安城・讃吉国の山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く。」とあり、新羅からの防御のために、大和朝廷が山頂に山城・屋嶋城(やしまのき)を築いた時期と重なることから、石塁を屋嶋城の一部と断定した。
 石塁は標高約100mの位置に広がる谷に、南北約50mにわたって残り、破片は深さ約1・5mの所で見つかった。直径17cm、高さ15・5cmで、市教委は注ぎ口の形などから、水や酒などを入れた7世紀後半の「平瓶(へいへい)」とみられる。
 石塁の近くには城門や物見台、水門などの遺構が並び、南東に約200m登ると、屋嶋城の石垣や城門遺構がある。しかし、これまで関連を示す遺物は出ていなかった。
 25日午前9時から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、朝日新聞、四国新聞]
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金海市・大成洞68号墳 100年を遡る4世紀中葉の銀製品(鞍金具用銀製環2点)が出土

2010年04月14日 | Weblog
 金海市と大成洞古墳博物館は13日、最近大成洞68号墳の4世紀中葉頃の木槨墓で発掘された鞍金具(말안장)装飾物から、直径5.2㎝、純度97%の銀製環(은제환)2点を確認したと明らかにした。
 これまで韓国で発掘された最古の銀製品は5世紀後葉の新羅と百済で作られたもので、今回の発見は100年を遡る。
 この銀製環は鞍金具の間に2点が互いに重ねられた状態で確認されて、鞍と轡など馬具類の中に置かれていたことから、馬に被せた面繋(おもがい、굴레)の装飾として使われたとみられる。
 銀製環を直接確認した釜山大考古学申敬徹(신경철)教授は、「この銀製環は伽耶で作ったわけではなく、3世紀末に扶余で作ったのが伽耶に入ってきた後ずっと利用されて68号墳に副葬されたと見られる」と話している。
 博物館側はこの銀製環を大成洞68号墳鞍橋(안교)および29号墳金銅冠(금동관)(注1)などと共に、4月24日から7月2日まで開催する大成洞古墳群発掘20周年記念特別企画展「大成洞古墳群の昨日と今日」に展示し、一般公開する予定。
[参考:聨合ニュース]

注1: 金海大成洞29号墓出土金銅冠は3世紀後半台の編年とされている。しかしこの金銅冠は盗掘墓から出土したものなので、今後詳細な検討が必要とされる。[参考:金海市HP/伽耶の歴史文化]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.12大成洞古墳群 4世紀後半の伽耶時代箭筒が出土


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枚方市・九頭神廃寺 昭和初期にスペード型の水煙が出土していたことが判明

2010年04月13日 | Weblog
 枚方市教委が12日、同市牧野本町の九頭神(くずかみ)廃寺(7世紀中頃~9世紀中頃)で昭和初期に出土したスペード形の銅板が、塔の先端部分の飾り「水煙」の破片だったことが分かったと発表した。銅板には「大阪府北河内郡殿山町大字阪 九頭神廃寺出土 昭和六年七月」と書かれたラベルが張られており、発見者が記録したらしい。
 水煙の破片は長さ17cm、最大幅8cm。九頭神廃寺が9世紀中頃に廃絶したことから、それ以前につくられたと考えられる。
 スペード形の水煙は法隆寺五重塔(7世紀末)、当麻寺西塔(8世紀末~9世紀初め)に現存するが、出土例としては全国初。
 水煙は炎の形が一般的。今回の破片や法隆寺、当麻寺のものは特異な形で、塔の創建当初から残された可能性があるという。
[参考:共同通信]

過去の関連ニュース・情報
■2005.10.4九頭神廃寺 奈良時代の倉庫「倉垣院」跡が見つかる
 枚方市文化財研究調査会が4日、飛鳥時代に創建されたとみられる九頭神廃寺で、寺域の北西隅から奈良時代(8世紀)の掘立柱建物跡が4棟見つかったと発表した。古代寺院の倉庫で、奈良・東大寺の正倉院に相当する「倉垣(そうえん)院」跡とみられる。
 倉庫跡はいずれも床面積約16㎡、南北に整然と並んでいた。米などを保管していたらしい。すぐ西側に築地塀跡があり、倉庫群を垣で囲っていたらしい。倉垣院は南北45m、東西15m以上の規模だったとみられる。
 また寺の西を区画する大垣の跡も見つかり、寺域が140㎡だったことも分かった。
 九頭神廃寺は7世紀後半に渡来系氏族が創建したとされ、これまでの調査で塔跡などが見つかっている。
[参考:共同通信、読売新聞]

■2005.10.7九頭神廃寺 ベンガラが付着した瓦の破片が出土、朱塗り・瓦葺の西門跡か
 九頭神廃寺で、赤色顔料のベンガラ(酸化鉄)が付着した瓦の破片5点が出土したことが6日、わかった。朱塗りの華麗な門があったと推測できるとしている。
 瓦片は、最大で長さ17cm、幅15cm。西側の築地塀跡の内側にあった溝(幅2・5m、深さ60cm)からまとまって見つかった。溝のすぐ外側にあったとされる西門の屋根瓦とみられ、裏側が赤く、破片の数も少ないことから、瓦を葺いて柱などにベンガラを塗った際に付着したらしい。西門の西約200mが、寺院を造営したとみられる豪族の居館跡にあたり、居館からよく見える場所に門を設けていたことになる。
[参考:読売新聞]
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エライザ・シドモア提唱によるワシントンD.C.のポトマック河畔の桜が2012年に100周年を迎える

2010年04月11日 | 小泉八雲
 ナショナル・ジオグラフィック(日本版)2010年4月号の記事、『日本の百年』の中の「桜を愛した米国女性の一生」で、The National Geographic Society (NGS)1914年7月号「若き日本」の取材で米国人ジャーナリスト、エライザ・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore、1856-1928)の言葉「4月の陽光を浴びて咲く桜ほど、理想的なものはない」を、当時撮った写真とともに紹介していた。
 シドモアは1884年に初来日して以来、桜に魅了され、日米友好の証として、ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜を植えることを提唱した人と知られる。東京市(市長・尾崎行雄)と大統領夫人(ヘレン・タフト)の協力を得て、1912年に植樹が実現した。再来年は、100周年を迎える。
 さらに、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850-1904)も「日本の庭にて」で、親交のあったチェンバレン教授(B.H. Chamberlain)(1850-1935)から、「ヨーロッパのどんな花も比較にならないほど美しい」と紹介し、自らも桜の花を武士の生き方に例え「高い礼節と、きめ細やかな情感と清廉潔白な生き方の象徴」と賛美している。
小泉八雲が来日したのは1890年であるから、シドモアは八雲より6年も早く来日している。二人に交流があったかはわからない。

2010.6.12追記
 2012年は、米国・ワシントンDCのポトマック川沿いにある桜並木が、日本から友好の証しとして贈られて100周年に当たる。 桜並木の実現は、エリザ・R・シドモア(注1)と当時の大統領夫人ヘレン・H・タフトの2人の女性によるところが大きいが、その実現を果すためには、多くの関係者の苦労と努力があった。
(注1) エライザ・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore、1856-1928)は、講談社学術文庫ではエリザ・R・シドモアと表記している。

 タフト大統領の出身地・オハイオ州シンシナティ市立クローン植物園では4月~6月に「日本のチョウ展」を開催した。 オオムラサキ、オオゴマダラ、ナガサキアゲハ、リュウキュウアサギマダラ、アゲハの5種類計900頭のチョウを育成し発送したのは、足立区生物園(足立区保木間2丁目)。 ちなみに、ポトマック川沿いの桜並木の桜の穂木には植物学者三好学博士の助言により、荒川堤(現足立区)の桜が使われている。


 写真は足立生物園のオオゴマダラと龍谷寺(盛岡市名須川町)のモリオカシダレ(国・天然記念物)。
 モリオカシダレは大正9年(1920)、三好学博士が龍谷寺で新種として発見した。 龍谷寺は石川啄木(1886-1912)の伯父・葛原対月(妹が啄木の母)が住職(1871-1892)をしていた。 少年時代の啄木は、しばしばこの寺を訪れて、伯父対月から詩歌の手ほどきを受けたと伝えられる。
 エライザ・シドモアが初来日したのは1884年秋であるが、観桜したと初めて記されるのは1886年4月浜離宮でのことである。 この年に啄木が生まれている。

2011.4.15追記
 外務省のホームページでも2月付けで、「日米桜寄贈100周年」として掲載されている。
 この記事を載せたときから懸念していたが、すなわち「1912年3月27日にタフト大統領夫人と珍田大使夫人によってワシントンDCのポトマック河畔に植樹されました。」と記され、最大の功労者であるエライザ・シドモアの名前が消されてしまっていること。現地のポトマック河畔の説明文でも同様に、植樹に立ち会った珍田大使夫人がいかにも功労者のような書き方には本当の歴史が失われてしまう。

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3つの美術館を訪問 萬鉄五郎と中村彝の需要文化財・2作品に興味

2010年04月11日 | Weblog
 昨日は、花見も兼ねて3ヶ所の美術館を梯子しました。
 最初は、目黒区美術館へ。目黒駅から7分ぐらい歩いて目黒川を通るとまだ見ごたえのある桜が咲いていました(写真)。外国人の親子連れも写真を撮り合ったりして、賑わっていました。
 目黒区美術館では、ベルナール・ビュフェ美術館協力による「ベルナール・ビュフェ展」と当美術館の所蔵作品である「シャーマン・コレクション」を中心とした「藤田嗣治展」を観ました。特に藤田嗣治の作品はその後の2ヶ所の美術館でもいくつかの作品が観れて大変勉強になりました。
 次は、竹橋の東京国立近代美術館の常設展「近代日本の美術」へ。鏑木清方の「三遊亭円朝像」を始めとしてたくさんの作品を展示しています。岸田劉生の「麗子肖像(麗子五歳之像)」もありました。興味を引いたのが萬鉄五郎(1885–1927)の「裸体美人」(1912作)と中村彝(1887-1924)の「エロシェンコ氏の像」(1920作)が隣通しに並んで展示されていたこと。ともに重要文化財になっています。今ちょうど読んでいる本、「中村彝」(鈴木秀枝著、1989年2月木耳社発行)によると、「中村彝は明治33年4月私立早稲田中学に入学、(略)、一年余在学し、(略)、彝が幼年学校生徒として名古屋へ赴いた後に、萬鉄五郎がこの中学に編入学し、(略)」とあります。この二人の重要文化財の作品が隣同士に飾られているのは何かの縁だったのでしょうか。
 次は、京橋のブリジストン美術館へ。「美の饗宴 ― 東西の巨匠たち」とタイトルがつけられています。展示品は186点にも及び、すべて石橋財団コレクションだけで構成されています。その所蔵品の豊富さには驚くばかりです。西洋のジャポニズムの作品を並べたり、西洋と日本の影響関係を軸に紹介する企画展になっていました。ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」(1876作)には長い時間立ち止まって見入る人もいました。



キーワード: 萬鐵五郎
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奈良市・西大寺旧境内 唐出身「皇甫東朝」の名を記した須恵器の杯が出土

2010年04月09日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターは8日、称徳天皇が造営した西大寺旧境内から、天平年間の遣唐使船で来日し奈良時代の朝廷に仕えた唐人「皇甫東朝」(こうほとうちょう)の名が記された墨書土器(須恵器の杯)が見つかったと発表した。唐から渡ってきた外国人の名前が記された墨書土器の出土は初めてという。
 昨年4~7月の調査で、現西大寺境内の西南角の旧境内の区画溝(長さ約30m、幅約7m)からアッバース朝のイスラム陶器や神護景雲二年(768)三月五日と記された木簡、石上宅嗣の名を記した木簡とともに見つかった。直径約16cmの杯の底裏面に、縦書きで2行、左は「皇」と、「浦」(「甫」の当て字)の2文字、右には「東」と、「朝」の可能性が高い2文字があった。ほかの文字(「所」と「水」)も書かれており、練習で書いた可能性もあるという。また、油煙の跡があり、皇甫が寄進した灯明皿だった可能性もあるといる。
 「続日本紀」などによると、皇甫東朝は、第10次遣唐使が天平8年(736)に帰国した際、東大寺大仏の開眼導師を務めることになる天竺(インド)僧の菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに来日。称徳天皇の天平神護2年(766)に法華寺の舎利会で唐楽を奏でた功績で従五位下となり、翌年に「雅楽員外助」「花苑司正(かえんしのかみ)」、769年從五位上に出世した。称徳天皇死後の宝亀元年(770)に越中介になった。
 墨書土器は12~18日、市埋蔵文化財調査センター(同市大安寺西2)で展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、日経新聞、読売新聞]

朝廷に仕えた唐人音楽家、名前入り須恵器発見(読売新聞) - goo ニュース

続日本紀より皇甫東朝の記述抜粋
□天平八年(736)十一月戊寅。《丙子朔三》(略) 唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等授位有差。
□天平神護二年(766)十月癸夘。《廿一》(略) 皇甫東朝。皇甫昇女並從五位下。以舍利之曾奏唐樂也。
□神護景雲元年(767)三月己巳。《二十》(略) 從五位下皇甫東朝爲雅樂員外助兼花苑司正。
□神護景雲三年(769)八月甲辰。《九》(略) 授從五位下皇甫東朝從五位上。
□宝亀元年(770)十二月丙辰。《廿八》(略) 從五位上皇甫東朝為越中介。 (略)

備考
皇甫東朝が越中介となったことについて、降格したとする記事があったが、降格かどうかは不明。続日本紀に越中国の役職を記した履歴を下記に列挙する。
719 越前国守正五位下多治比真人広成、管能登、越中、越後。
   (注)多治比真人広成は732年遣唐大使となり、733年唐に渡り(3月に出発か)、734年11月(多祢嶋)種子島に帰着。
732 外従五位下田口朝臣年足為越中守
741 從五位下阿倍朝臣子嶋爲肥後守。安房國并上総國。能登國并越中國。
746 従五位下大伴宿祢家持為越中守 (注:~751)
754 従五位下石川朝臣豊人為越中守
761 従五位下阿倍朝臣広人為越中守
   外従五位下蜜奚野為越中員外介 (注:員外介:国司の次官で律令の定員外となる役職)
766 従五位下国見真人安曇為越中介
767 外従五位下利波臣志留志越中員外介 
768 従五位上甘南備真人伊香為越中守 (注:はじめ伊香王と称する敏達天皇の後裔。777年正五位上になった以降消息不明。)
770 従五位上皇甫東朝為越中介
772 従五位上石川朝臣真守為越中守 (注:~776)
774 従五位下牟都伎王為越中介
(以降省略)

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.3西大寺旧境内 石上宅嗣の名や肩書きが書かれた木簡を発見
 2009.7.3西大寺旧境内 8世紀後半のイスラム陶器の壺片が出土
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