歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京畿道広州市・駅洞遺跡 琵琶形銅剣を埋めた青銅器石槨墓を発掘、火葬風習も確認

2010年10月23日 | Weblog
 ハンオル文化財研究院は22日、京畿広州市駅洞の駅洞遺跡(광주 역동 유적)を6月14日から発掘調査した結果、青銅器時代住居跡29棟と紀元前5~4世紀頃青銅器時代石槨墓(석곽묘)1基などを確認したと発表した。
 韓国の青銅器時代中・後期を代表する青銅器の琵琶形銅剣(비파형동검)を人骨と共に埋めた青銅器時代石槨墓が韓国では初めて京畿広州市で確認された。
 石槨墓は東-西方向を長軸として、死体を火葬(화장)した人体各部位骨が発見され、その腰の周り付近では琵琶形銅剣1点と未詳の青銅器1点、多数の石鏃と玉製品が収集された。
 石槨墓内人骨は青銅器時代石槨墓に埋められた遺骨としては、初めて火葬されたことがわかった。さらに、石槨内部から木炭と焦げた石などが確認され、火葬はこの中で行われたようである。
[参考:聨合ニュース]

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島根県津和野町・野広遺跡 中世(15世紀)の建物跡群が出土

2010年10月22日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが20日、津和野町直地の野広遺跡で室町時代後期(15世紀)の掘っ立て柱建物跡計18棟が見つかったと発表した。
 野広遺跡は津和野川中流の河岸段丘上にあり、東西を標高300m以上の山地に挟まれた谷間に位置し、遺跡の標高は約100m。調査面積は約4,500㎡で、調査は5月から実施している。
 柱穴は全部で約500か所見つかり、このうち推定復元できた掘っ立て柱建物は、計18棟。 遺跡内からは、当時の有力豪族が使用したとみられる中国製の青磁や白磁、大皿、茶器のかけら、防長型と呼ばれる土鍋が出土し、掘立柱建物跡の時期は15世紀ごろと推定される。
 同センターによると、同町周辺は、鎌倉時代に津和野城(三本松城)を拠点地とした吉見氏が治めていた場所。一帯には古くから「屋敷」「竹土井」「ケズ(下司)」などの地名が残っており、有力な荘園があったと考えられてきた。それらを裏付ける発見という。
 ほかに、約6000年前の縄文土器、15~16世紀頃の石製の丸鞆(まるとも)などもあった。
 また、石が積み重なった集石遺構が2基確認され、そのうちの一基の石積みの下から円形の穴(直径1・3m、深さ0・5m)があったことから、墓であったと可能性が高い。
 現地説明会は23日(土)午前10時から開かれる。
[参考:読売新聞、島根県HP]

メモ
 吉見氏: 源頼朝の弟範頼の後裔と伝えられる。範頼は横見郡吉見郷を領していた。範頼の孫為頼が吉見氏を称したという。

 写真は、岩殿山息障院光明寺(伝源範頼館跡)・・・埼玉県比企郡吉見町大字御所


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多賀城市・多賀城跡 創建時期頃の通用門跡と11世紀の中国白磁碗が出土

2010年10月21日 | Weblog
 宮城県多賀城跡調査研究所は20日、国特別史跡・多賀城跡(陸奥国府跡)の東側の外郭で多賀城創建(724年)に近い時期に建設されたとみられる新たな門跡と、11世紀後半に作られた中国白磁碗を見つけたと発表した。
 発見した門跡は、外郭東辺のほぼ中央部にあり、掘っ立て式の八脚門とみられ、大きさは幅約10m、奥行き約6m。門の規模は他の門とほぼ同じだが、柱を立てる穴は方形で、一辺2.1m、深さ1.7mもあった。奈良・平城京にもない巨大さという。直径約45cmの柱を安定して立てるため、地中で木材を連結する珍しい「地中梁(はり)」工法が施されたとみられる。多賀城跡で確認した門跡は今回で4カ所目。 約2km東には、物流拠点「国府の湊(みなと)」(現同県塩釜市内)があったことから、人や大量の物資が往来した通用門の可能性が高いとみている。
 一方、白磁碗は、調査区域の隅で、ほとんど壊れていない須恵系土器の小皿10点とともに見つかった。日宋貿易で中国から輸入され、身分の高い役人が宴会などで使ったとみられる。同種の高級白磁碗の出土品としては東日本では最も早い時代の物といい、京都や大宰府と並んで多賀城にもいち早く交易品がもたらされたことを裏付ける資料という。
 また、東北では1050~1080年代の「前九年・後三年の役」の合戦が続き、当時の多賀城については出土遺物も少なく不明部分が多かったが、同研究所は「高級白磁碗は、少なくともこの時期までは、国府多賀城がきちんと機能していたことを証明する」としている。
 現地説明会が23日(土)午前10時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.6多賀城跡 苑地跡とみられる護岸施設や創建時の木の柵を確認
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盛岡市・館野前遺跡 経塚跡から「一字一石経」?出土

2010年10月21日 | 盛岡
 盛岡市飯岡山の麓の長善寺境内で16日、館野前遺跡の現地説明会が行われた。(曹洞宗飯鳩山)長善寺の位牌堂新築に伴い、盛岡市教委が9月から初めての発掘調査を行っている。
 これまでに平安時代の竪穴住居跡や江戸時代の経石などが発掘された。長善寺を中心に古くから地域が発展してきた歴史を物語る。
 平安時代(9世紀~10世紀)の竪穴住居跡5棟、柱穴、水場遺構などが見つかり、土師器や須恵器が出土した。 竪穴住居跡は方形で壁際にはかまどが用意され、排煙の煙道が掘られ、当時の土器が残されていた。
 江戸時代の経塚跡は山門脇にあり、約2・4m×1・8mの長方形。深さ40~50cm部分から直径3~5cmの石が多数見つかった。小石1個ごとに経文1字を墨書した「一字一石経」で、法華経の文字数と同じ約7万個埋まっていたとみられる。 経塚には、由来を示す経碑はなく、上にあったと見られる盛り土もなくなっていた。経塚の発掘は県内でも10例程度、市内で4例目だという。ほかに、陶磁器、金メッキが施された煙管(きせる)、砥石、寛永通宝や中国から輸入された宋銭の明道通宝などが出土した。
[参考:2010.10.17盛岡タイムス、2010.10.21読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.16 伊賀市・沖打越1号墳(全長23m)および沖打越中世墓(経塚)の発掘調査
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古今和歌集の完全写本(鎌倉初期)が見つかる

2010年10月20日 | Weblog
 甲南女子大(神戸市東灘区)は20日、所蔵する古今和歌集の写本(上下2冊)を鑑定した結果、鎌倉時代初期のものであることが分かったと発表した。一首も欠けずページなどの破損もない「完本」で、和歌の説明などを記した序文が平仮名「仮名序」と漢字「真名序」の両方で書かれているものでは最古という。
 表記の形式から新古今和歌集を編纂した藤原定家が書き写した本をさらに転写したものとみられる。
 大学が1982年、東京都千代田区の古書店で購入したもの。
[参考:時事通信、共同通信]

古今和歌集、完全写本見つかる=漢字、仮名序文付きで最古-甲南女子大(時事通信) - goo ニュース
鎌倉初期の古今和歌集写本と判明 甲南女子大が所蔵品鑑定(共同通信) - goo ニュース
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南原市・月山里古墳 伽耶系古墳で初めての中国製青磁をはじめとする大量遺物が出土

2010年10月20日 | Weblog
 全北文化財研究院(院は20日、南原市阿英面(아영면)月山里古墳(월산리 고분)で、伽耶系古墳では初めての中国製青磁など多量の遺物が出土したと発表した。
 月山里古墳群は計9基の古墳があり、そのうち3基は1982年度に調査され、象嵌環頭大刀、器台、天鶏壺、馬具類などが出土した。
 今回の調査で5号墳は、円形の土の墓(長さ16m、高さ3.5m)で埋葬主体部は竪穴式石槨墓(長さ9.6m、幅1.2m、高さ1.9m)である。遺物は石槨北端と南端から主に出土して、北端から青磁天鶏壺が出土した。青磁天鶏壺のそばには鉄製鐎斗(철제자루 솥)と金製耳飾、瑠璃勾玉、瑠璃玉、甲(鎧)、足座、蛇行状鉄器(기꽂이)、筒形器台、台付壺、有蓋短頸壺など多様な遺物が出土した。
 出土した中国製青磁天鷄壺は広口瓶の形状で、一方には鶏首が反対側には口縁から胴体まで連結されたリング状把手が付着している。天鶏壺は中国東晋(317-420)から南朝(439~589)に製作された青磁で、百済・漢城時代に東晋との交流を通じて百済から輸入した遺物で、湖南地域では益山笠店里と高敞 鳳徳里、扶安 竹幕洞で出土しているが、伽耶地域では出土した例がなかった。
[参考:聨合ニュース]

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慶州・花川里 青銅器時代~高麗・朝鮮時代の遺構と新羅時代の窯跡を発見

2010年10月20日 | Weblog
 嶺南文化財研究院は20日、陽性子加速器開発事業予定地の慶州花川里で青銅器時代、初期鉄器時代、初期三国時代、統一新羅時代、高麗・朝鮮時代の遺構を確認したと発表した。
 このうち、花川里遺跡(화천리 유적)稜線南斜面部で調査された9基に達する三国時代窯の焼き跡では燃焼室と焼成室の間に20cm弱の遮断壁が確認された。このような構造は三国時代末期から統一新羅時代初期に現れる瓦専用窯の典型的な特徴という。
 これらの窯から出土した平瓦は、長さ55㎝、厚さ4㎝、重さ15㎏に達する超大型であることが明らかになった。これまで、慶州市内では新羅~統一新羅時代遺跡のうち、王城の月城とその周辺の雁鴨池から出土した瓦(長さ41㎝)が最大であった。
 南漢山城内の統一新羅建物跡から収集した平瓦(長さ64㎝、重さ20㎏)と中国・西安で発掘された漢時代の瓦(長さ57㎝)に次ぐ大きさである。
 また、窯跡周辺から出土した軒丸瓦は大部分が古新羅時代の蓮華文軒丸瓦の特徴を見せ、蓮の花びらは高浮彫(고부조)で表現している。 634年に創建された慶州芬皇寺出土品と似ていると調査団は話している。
[参考:聨合ニュース]

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忠州市・塔坪里遺跡 新羅時代地層から大型建物跡、百済時代地層から「呂」字形竪穴住居跡を確認

2010年10月20日 | Weblog
 国立中原文化財研究所は20日、忠北忠州市可金面塔坪里遺跡(충주 탑평리유적)の試掘調査の結果、中原塔坪里七層石塔から北北西に約800m離れた地点から、総長さ110mに達する巨大な新羅時代建物跡を見つけたと発表した。
 新羅が全国地方組織・九州五小京を整備して、今の忠北忠州に「小さい都」を設置したという国原小京、すなわち、後の中原京に変わる古代都市がついに実体を表わし始めた可能性がある。
 「第1建物跡」と命名した建築物は、南漢江辺に沿って長く形成された洪積台地のような場所に、南東-北西を長軸とした回廊状の建物として現れた。幅5.3m、長さ最大110m以上に達するこの建物跡の東側では同じ新羅時代建物3棟が一定の方向性を維持して配置されている。さらに、新羅時代の地層では工房施設とみられる焼土遺構が鉄滓、木炭などと共に確認され、製鉄関連の小規模生産活動があったとみられるとしている。 また、これら建物跡周辺では数多くの新羅時代瓦が発見された。
 さらに、新羅時代の地層の下からは4~5世紀頃百済時代の竪穴住居跡9棟と関連の竪穴遺構が確認された。 住居跡から、かまどと溝の設備を整えた平面「呂」字形大型建物跡も発見された。
 これらから、新羅が進出する以前に、大規模百済集落施設があった事実を確認したことは大きな成果であるとする。
[参考:聨合ニュース]

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長岡京・鈴谷遺跡 古墳時代末期の横穴式石室を確認

2010年10月15日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターは14日、長岡京の西に位置する鈴谷遺跡(長岡京市奥海印寺)から古墳時代末期の横穴式石室が見つかったと発表した。
 横穴式石室は全長3.5m、幅0.6m。簡素な作りや、出土した須恵器の形から築造時期は7世紀中頃~後半とみられる。
 現地説明会は16日(土)午後2時から開かれる。
[参考:京都新聞、京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

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大津市・宇佐山古墳群 新たに周溝墓3基と奈良時代後期の祭祀用土馬が出土

2010年10月15日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が14日、未盗掘の箱式石棺から顔料で赤く染まった頭蓋骨が見つかった(注1)宇佐山古墳群(大津市神宮町)で、祭祀に使われた奈良時代後期(8世紀後半)の土馬(どば)や、弥生時代末期(2世紀末)から古墳時代初頭(3世紀前半)にかけての周溝墓3基(注2)が新たに見つかったと発表した。琵琶湖が一望できる地理的要因などから、弥生末期以降、長きにわたって古代人が〈聖なる場所〉として位置づけていたことがうかがえるとしている。
 今回、人の頭骨が出土した地点の北東約50mで、人の手で壊されたとみられる土馬やカマド形土器、土師器の破片が多数見つかった。土馬の破片は50点以上、頭部6点が確認された。平城京などでも出土する三日月のような形で、復元すれば体長15cm程度。雨を願ったり、疫病を封じたりするために祭祀に使用し埋められたとみられる。
 周溝墓3基は東30~40mにあり、一辺が13~10m。木棺が置かれた埋葬部は南北約4m、東西約2mで、木棺自体は現存していなかったが、長さ2m、幅0・8mと推測される。
 周溝部分から弥生後期の土器片が見つかり、2世紀末~3世紀初めには墓域となっていたことが判明。宇佐山麓の周溝墓(一辺7m前後)より大型で、眺望の良い位置にあることから、集落の有力者が埋葬され、奈良時代まで祭祀が続けられた区域だったとみている。
 現地説明会は16日午後1時半、近江神宮の境内奥地で行われる。
(注1) 13号墳
(注2) 8号周溝墓 南北13m、東西9m、高さ3m。周溝あり。木棺(長さ2m以上、幅0.8m、弥生時代末。
    9号周溝墓 幅2m、深さ0.3~1m、周溝あり。弥生時代末。
   10号周溝墓 一辺約10mの方形墳墓。弥生時代末~古墳時代初頭。
[参考:読売新聞、京都新聞、中日新聞、朝日新聞、毎日新聞、滋賀県HP]

過去の関連ニュース・情報
 2010.6.28 宇佐山古墳群 石棺が出土し、内部からは赤色顔料が塗られた頭蓋骨も
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奈良市・平城京跡 出土した複弁蓮華文軒丸瓦が安芸国分寺と同笵と確認

2010年10月14日 | Weblog
 平城京跡で、安芸国の国分寺(東広島市)と同じ笵型で造られた軒丸瓦が市埋蔵文化財調査センターの調査で見つかった。
 瓦は複弁八葉蓮華文軒丸瓦(直径約16cm)で、同型の瓦は平城宮跡や寺院からは見つかっておらず、平城京専用の瓦として役所の倉庫などに葺いたとみられる。木製の笵型を地方の国分寺建立に回したとみられている。
 瓦に残る笵傷は安芸国分寺の方が多く、平城京から国分寺建立に回したとみられる。
 天平13年(741)に国分寺建立の詔(みことのり)が出されてから、安芸国分寺は15年ほどで伽藍が整ったとみられている。
 出土した軒丸瓦は11月1日から市埋蔵文化財調査センターで始まる秋季特別展「平城の甍(いらか)」で展示される。
[参考:奈良新聞、読売新聞、産経新聞]
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佐賀市・白石原遺跡 弥生中期の竪穴住居跡と中世の屋敷跡を確認、17日に一般公開

2010年10月14日 | Weblog
 佐賀市久保泉町下和泉にある白石原(しろいしばる)遺跡で、弥生時代から古墳時代にかけての大集落の跡や中世の屋敷跡などが確認された。
 弥生時代中期の直径7・5mと4・5mの竪穴住居が2カ所、そして土器が捨てられた穴も見つかり、周辺に集落が形成されていた可能性がある。
 中世の屋敷地の遺構は縦100m、横50m以上の規模で、屋敷地を区画する溝が50m以上延びていることを確認した。 同時期の建物や井戸、畑なども見つかっている。
 遺跡は久保泉第2工業団地の建設予定地にあり、市教委の2008年度の調査(2010年までの3カ年計画)で、弥生時代以降に竪穴住居などの集落が形成されていたと考えられていた。約80軒の竪穴式住居跡と約150棟の掘っ立て柱建物跡が確認されている。2009年度には弥生時代後期後半(2世紀後半)の壺型の土器による甕棺が出土し、中から鏡の破片が見つかっている。
 一般公開は17日(日)午前9時半から正午まで行われる。
[参考:佐賀新聞、サガテレビ]

過去の関連ニュース・情報
 2010.3.27 白石原遺跡 弥生時代後期の甕棺から鏡片が出土
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富山市・小竹貝塚 縄文時代前期の人骨が新たに11体出土し、計71体に

2010年10月14日 | Weblog
 富山県文化振興財団が14日、富山市呉羽町北の小竹貝塚で、縄文時代前期(約6000~5500年前)の埋葬人骨が新たに11体見つかったと発表した。同貝塚で出土した人骨は計71体となり、縄文時代前期の人骨が見つかった例としては国内最多という。
 新たに見つかった人骨は、貝層の東寄り約400㎡の墓域から出土。多くは成人骨だが、子供とみられる小さな人骨も2体確認された。乳児を埋葬した棺とみられる土器4基も見つかり、国立科学博物館(東京)で詳しく分析する。
 地中に貝が堆積した「貝層」が厚さ2mに達しており、大規模な貝塚が縄文時代前期に形作られていたとみられる。
このほか、漁に使われた丸木舟や、作りかけの3本足の木の器、網やカゴを結んだとみられる縄なども見つかった。
[参考:共同通信、時事通信、NHKニュース]

その後のニュース・情報
2011.7.8 身長170cmを超える縄文人
 県文化振興財団と国立科学博物館(東京)が7月7日、小竹貝塚で、縄文時代としては過去最大級の身長170cm超と推測される男性人骨(上腕骨)が見つかったと発表した。これまでの発見では、縄文人男性の平均身長は150cm~160cm。
 昨年見つかった縄文時代前期(約6000~5500年前)の人骨群の一つの男性人骨で、状態などから20歳代とみられる。1998年に若海貝塚(茨城県行方市)で推定身長170cmの縄文時代中期の人骨が見つかった例があるが、これを超える可能性もあるという。
[参考:富山新聞、北國新聞、読売新聞、中日新聞、KNB北日本放送]

2011.10.5 身長160cmを超える1体を展示
 富山県文化振興財団は、今年7月に人骨から土を取り除く作業を開始し、作業が終わった4日、2体の全身骨を報道陣に公開した。
 いずれも20歳代男性と推定され、うち1体は身長160cm台後半で、もう一体は140cm台後半。
 公開された人骨のうち大柄の1体は、5日~12月1日まで富山市茶屋町の県埋蔵文化財センターでの特別展「とやまの貝塚」で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.9.1 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨 合計約60体に
 2010.8.6 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨28体が新たに出土し、合計41体に
 2010.6.7 小竹貝塚 縄文前期の埋葬人骨13体が出土

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高知市・神田ムク入道遺跡 水路の溝や建物跡から赤彩土師器が見つかる

2010年10月14日 | Weblog
 高知市教委は13日、神田ムク入道遺跡(同市神田)で、奈良時代~平安初期(8~9世紀)の溝跡や建物跡から赤彩(せきさい)土師器が出土したと発表した。
 東西、南北に平行に伸びた幅が1mから35cm、深さが25cm前後の溝が数本見つかった。周辺から出土した土器の破片などから、奈良時代から平安時代初期に当時の中央政権がすすめた土地開発で耕した土地を区画する水路として掘られたものと見られている。
 ほかに、多数の柱穴が見つかり、さらに、赤彩土師器の破片が数点出土した。 赤彩土師器は当時の都の土器を真似たとみられ、白地の土器に顔料を塗っていた。
 続日本紀(注1)には、768年に土佐郡の「神依田」に住んでいた41人に、大和の豪族・賀茂氏の姓を賜ったとあり、神依田が現在の神田地区と考えられている。当時の都との繋がりがうかがえる土器が出土したことから、賀茂氏など中央の豪族と関係がある有力者が一帯にいた可能性が強まったという。
 また、鎌倉時代の建物跡からは、中国の12~13世紀の高級磁器の破片なども出土し、中世も続いて有力者がいたとみられる。
 現地説明会は16日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:読売新聞、NHKニュース]

(注1) 続日本紀 神護景雲2年(768)11月18日 土左國土左郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂。

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大阪市・前期難波宮跡 「難波長柄豊碕宮」に使用したとみられる土壁破片が大量に出土

2010年10月14日 | Weblog
 大阪市博物館協会・大阪文化財研究所が13日、大阪城南側の旧府立青少年会館の跡地(中央区森ノ宮2丁目)を発掘調査して、国史跡「難波宮跡」近く前期難波宮跡(7世紀後半)の深さ6mの谷跡から、「大化の改新」(645年)後に孝徳天皇が築いた「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」の宮殿に使われたとみられる土壁の破片が大量に見つかったと発表した。土壁の一部は表面が白く塗られ、宮殿が白壁だったことが判明。高熱で焼けた痕跡もあり、686年に宮殿が焼失したという日本書紀の記述を裏付けた。宮殿跡で白壁が出土したのは全国初という。飛鳥時代の宮殿が大陸式の本格的な建築だったことを裏付ける画期的な資料としている。
 土壁の破片は最大20~30cmで、数cm大のものも含めると千点以上が出土。壁は厚さ40~50cmと推定され、建物は強固な構造だったとみられる。土壁のうち数十点は、漆喰か白土で白く塗られていた。天皇が国家的儀式などを行った「内裏前殿」など中心施設に用いられた可能性が高いという。
 土壁は炎で赤く変色している部分があり、686年の火災で土器のように焼き固まったため、残ったらしい。
 他に宮殿の石敷き舗装用とみられる平らな面のある長方形の榛原石(はいばらいし)なども含まれていた。
 難波長柄豊碕宮は652年に完成。686年に焼失したが、奈良時代の744年、同じ場所に聖武天皇が首都「難波宮」として再建した。
 現地説明会は16日(土)午前10時から開かれる。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

(備考)
日本書紀より (訓み下し文参照 坂本光太郎ほか校注 岩波文庫1995)
■孝謙天皇白雉2年(651) 冬12月 天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮と曰う。
■孝謙天皇白雉3年(652) 春正月(略)に、元日礼訖りて、車駕、大郡宮に幸す。
■天武天皇朱鳥元年(686) 春正月乙卯(14日)の鳥の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焼けぬ。或いは曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引りて宮室に及べり」といふ。 唯し兵庫職のみは焚けず。
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