歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

福岡市・岸田遺跡 弥生時代中期の墓60基、中から青銅や鉄製の剣、矛、戈が出土

2010年10月14日 | Weblog
 福岡市教委は13日、同市早良区の岸田遺跡で、弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ~前1世紀ごろ)の墓約60基を発見し、そのうち5基から青銅製や鉄製の剣や矛、戈や柄(つか)の飾り1点が出土したと発表した。
 紀元前2世紀ごろの木棺1基と、前1世紀ごろの甕棺4基に、青銅製の剣4本、矛2本、鉄製の戈1本、勾玉や管玉など約10点が見つかった。甕棺のひとつには剣と矛と一緒に、青銅製の把頭飾(はとうしょく、剣の柄の飾り)も納められ、青銅の把頭飾としては国内最古とみられる。
 早良平野周辺では吉武高木遺跡を頂点とするまとまりがあったと考えられている。岸田遺跡は吉武高木遺跡の南約3.5km、室見川左岸に立地し、広範囲に平野を見渡す位置にあり、春日方面や佐賀方面との交通の要衝とみられる。
 16日から31日まで、市埋蔵文化財センター(博多区)で出土品を展示する。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

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韓国金海市・上東面牛鶏里 6~7世紀の鉄生産遺構を発掘

2010年10月13日 | Weblog
 慶南文化財研究院は13日、慶南金海市上東面牛鶏里(상동면 우계리)道路敷地から比較的大規模の鉄生産遺構を発掘し、6~7世紀代の竪穴建物跡から製鉄生産過程中に発生した鉄滓と木炭、焼土、鉄鉱石などを方々で確認したと発表した。また、鉄製錬のために使われた白炭を焼く炭窯4基も一緒に確認され、この一帯が製鉄と関連した工房施設が大規模であったものと推測される。
 この一帯から、三韓・三国時代竪穴建物跡と竪穴遺構、溝状遺構、墳墓、統一新羅時代の畑遺構、朝鮮時代墳墓も確認され、この鉄生産遺構は、伽耶時代製鉄遺跡とともに金官伽耶が滅亡した以後統一新羅時代まで、伽耶の製鉄技術がずっと維持されたことを知らせる重要な資料と評価されている。
 研究院は、近隣の上東面梅里동척鉄鉱山との関連性を立証して、金海地域製鉄生産体系を確認できることを期待している。
[参考:聨合ニュース]

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多治見市・古窯跡「北丘30号窯・大針起4号窯」 山茶碗窯と灰釉陶器窯を確認

2010年10月13日 | Weblog
 多治見市教委は、同市北丘町と大針町で発掘調査を進めていた古窯跡「北丘30号窯・大針起4号窯」について、調査結果を発表した。
 北丘30号窯は、鎌倉時代12世紀後半に築かれた全長12・4m、最大幅2・6mの山茶碗窯(穴窯)で、焚口には排水溝が造られていた。両脇には大型の土壙があり、作業場として火を炊いたとみられる跡も見つかった。無釉の碗や、宋代の中国製白磁をまねた珍しい玉縁碗も出土した。
 大針起4号窯は、平安時代10世紀前半から中期にかけて築かれた全長5・9m、最大幅1・2mの小型の灰釉陶器窯(穴窯)で、灰釉を施した碗、皿、鉢、広口瓶などが大量に出土した。
 現地説明会が16日(土)午後1時から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報 (山茶碗)
 2010.4.21 牧之原市・白百合遺跡 榛原庁舎で土器(壺)棺、長頸瓶、山茶碗など出土品を展示中
 2009.2.11 瀬戸市・音玄窯跡、門前B窯跡 中世(13世紀)の瀬戸窯跡を発掘調査
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さぬき市・けぼ山古墳 4世紀後半の全長55mの前方後円墳を確認、刳抜式石棺の破片も出土

2010年10月13日 | Weblog
 さぬき市教委は12日、津田湾古墳群にある全長55mの前方後円墳「けぼ山古墳」(同市津田町鶴羽)が古墳時代の4世紀後半に造られた古墳であることが判明したと発表した。同古墳群の前方後円墳の中で、岩崎山第4号古墳(全長約62m、4世紀古墳)に次ぐ2番目の大きさ。
 刳抜式石棺の破片3個が石室から約16m西側の石仏の土台から発見された。石棺は、近くの火山(ひやま)産の凝灰岩製。最も大きな長さおよそ70cmの破片には縄掛突起が残っていた。埋葬時は長さ2・2~2・5m、幅0・8~0・9mと推測されるという。
 周囲からは埴輪の破片も出土した。ほとんどが壺型埴輪片であるという。市内に約20基ある津田湾古墳群は、古墳時代後期にかけて円筒形の埴輪が増え、畿内からの影響が濃くなっているが、けぼ山古墳は地元色が強い。
 四国最大で5世紀前半に造られた全長139mの前方後円墳の富田茶臼山古墳(同市大川町)につながる、比較的新しく特徴的な古墳で、地域の首長の墓だったのではないかとみている。
 石棺の土台には、1944年の刻印が入った1銭硬貨が埋まっており、昭和20年代ごろに盗掘されたらしい。
 現地説明会が、16日(土)午前10時半から開かれる。
[参考:2010.10.12NHK、2010.10.13読売新聞、毎日新聞、四国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.10.16 さぬき市・龍王山古墳 4世紀後半の円墳と確認
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宝塚市・長尾山古墳 国内最古級、ほぼ完全な状態の未盗掘「粘土槨」が見つかる

2010年10月12日 | Weblog
 発掘調査を行っている宝塚市教委と大阪大考古学研究室は12日、同市山手台東の長尾山古墳(全長約40mの前方後円墳、4世紀初頭)で、木棺を粘土で包み込んだ全国でも有数の大きさの「粘土槨」(長さ6・7m、幅2・7m、高さ1m)がほぼ完全な状態で見つかったと発表した。
 後円部の墳頂に竪穴(深さ2m以上、幅5m、長さ9m)を掘り、礫を敷いた上に築かれていた。
 通常、粘土槨は内部の木棺が腐り、上部の粘土が落ち込んだ状態で見つかることが多いが、長尾山古墳では造られた当時の形をほぼ保っている。粘土槨がある古墳としては真名井古墳(富田林市、前方後円墳)、鴨都波(かもつば)1号墳(御所市、方墳)などと並び国内最古級であり、しかも、この時代の粘土槨がほぼ完全な状態で確認されたのは初めてとされる。
 粘土槨は4世紀初めに畿内で始まったとされ、竪穴式石室の被葬者に次ぐ地位にある有力者が埋葬されたと考えられている。
 盗掘しようとした跡はあるが、穴は木棺まで達せず、棺内には貴重な副葬品が入っている可能性が高いという。木棺内部の調査については、方針は決まっていない。
 現地説明会は16日(土)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、朝日新聞]

2010.12.17追記
 宝塚市教委は、10月に長尾山古墳で発見された木棺を粘土で覆った国内最古級の粘土槨を埋め戻した。
 市教委の担当者は「数十年ぐらいは、開封することはない」としている。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.16 長尾山古墳 埋葬儀礼用?土師器片を発見、大和政権の結びつきを示す?
 2008.9.19 長尾山古墳 摂津地域最古の埴輪列が出土
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仙台城三の丸跡 榧森御酒屋敷跡から建物跡や酒造りをしのばせる遺物が出土

2010年10月09日 | Weblog
 仙台市教育委員会は6日、同市青葉区の仙台城三の丸跡(現市博物館)に隣接する江戸時代の造酒屋敷跡の今年度発掘調査で、3棟の建物跡の一部や米を蒸すためのかまど跡などが見つかったと発表した。昨年の調査では隣接する外側の門付近から、「造酒屋敷」が仙台城内にあったことを裏付ける木簡などが出土した。
 最も大きな建物跡は東西に9・5m以上、南北約7・6m。見つかった3棟の建物跡は18世紀ごろのものとみられるが、現存する絵図(17世紀後半から18世紀初頭)と一致しない部分もあり、今後、検証を進めるという。
 かまどの跡も見つかり、土間形式の建物だったと考えられる。また、酒を溜める大型の甕の口縁の破片が初めて発見されるなど多数の遺物も出土した。折れた小柄(小刀)や、刀の鍔の前後にはめられる切羽(せっぱ)も見つかり、榧森家が帯刀を許されていたことが推測されるという。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.11 仙台城三の丸跡 榧森御酒屋敷を裏付ける木簡が出土し公開
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亀岡市・丹波亀山城 石切り場跡から和歌山藩主・浅野幸長を示す刻印のある石を発見

2010年10月08日 | Weblog
 亀岡市教委が7日、江戸時代初期、幕府の命で改築された丹波亀山城(亀岡市荒塚町)の石切場跡で、和歌山藩主・浅野幸長(よしなが、1576-1613)が採石を担ったことを示す「あさのきい」と彫られた石が見つかったと発表した。
 亀山城は1577年頃、明智光秀が丹波国統治の拠点として築城。徳川家康もこの城を重視し、1610年岡部長盛を丹波亀山藩主に任じ、「天下普請」の一環として大修築し本丸に5層の天守閣が建てられた。
 市教委の調査で、城の北西約4kmの山裾に点在する石切場跡を初めて確認した。切り出しを担当した大名や家臣を示す刻印の入った石が、数多く見つかった。その中に、浅野紀伊守幸長を意味する「あさのきい」と彫られた石が、地上の露出部(幅2・2m、高さ0・7m)で見つかった
 幸長は名古屋城の築城にも加わっていた。普請には全国約50の大名がかかわったとされるが、掛け持ちが判明したのは初めてで、相当な負担がかかったと思われる。幸長が豊臣家に近かったことが災いした可能性があるという。
 ほかには、「三さ内」と読み取れるものもあった。市教委は、姫路城主・池田輝政の通称『三左衛門』ではないかと推測する。池田輝政の切石の刻印は、これまでに丸に「三佐」、丸に「左」、「三左内」がある。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
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三原市・三太刀遺跡 1300年頃の池の遺構と多量の土器などが出土、豪族小早川氏の庭園施設?

2010年10月08日 | Weblog
 三原市教委は、三太刀遺跡(みたちいせき、同市本郷南)の調査で、池や蛇行した水路(幅50cm、深さ約30cm)の遺構と13世紀末から14世紀にかけての土器など数百点を発見した。
 同遺跡の発掘調査は、2000年から行われており、これまでに、建物や井戸の跡などが見つかっている。
 一帯を治めた豪族小早川氏が、13世紀後半から15世紀前半まで拠点を置いたとされ、勢力を誇示するために築いた庭園のような施設の可能性もあるとしている。
 現地説明会が16日(土)午後1時から開かれる。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 三原市・三太刀遺跡 小早川氏中世の館跡? 御館(みたち)の裏づけ
 

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安芸高田市・甲立古墳 測量と部分発掘調査を実施

2010年10月07日 | Weblog
 安芸高田市教委は昨年11月に確認された、4世紀後半に造られたとみられる全長75mの前方後円墳、甲立(こうたち)古墳(同市甲田町上甲立)の全体像を調べるべく測量と部分的な発掘調査を、9月半ばから開始している。甲立古墳は今年1月、市史跡となった。
 測量と発掘作業は12月末まで。
 現地説明会を11月下旬にする予定。
[参考:中国新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.11.22 安芸高田市・甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる

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宇治市・平等院 幻の本堂の本尊「大日如来像」の一部か

2010年10月06日 | Weblog
 平等院(京都府宇治市)は6日、境内の浄土院養林庵書院に保管されていた仏像片(右手首)が、鳳凰堂建立の前年(1052年)に建てられた本堂の本尊「大日如来像」の右手部分の可能性が高まったと6日発表した。
 現在の本尊は鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(国宝)だが、平安末期の古文書「伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)」などによると、境内北東部にあった本堂には、大日如来坐像を中心に5体の仏像が安置されていた。本堂はその後焼失し、鎌倉初期になって現在の観音堂が本堂跡地に建てられた。本尊は姿を消したとみられていた。
 仏像片は右手首から先で、長さ27・2cm、幅14・8cm、厚さ9・8cmのヒノキ製。人さし指を天に向けて印(智拳印)を結ぶ「大日如来」独特の形をしており、指や手のひらなどに漆や金箔が残っていた。また、仏師・定朝が確立した寄せ木造り技法の特徴が残っていた。
 鎌倉時代の記録「門葉記」や平安時代の辞典「伊呂波字類抄」によると、本堂の本尊は大日如来像で、金箔を施された高さ約1・5mの坐像とされており、この仏像片が本尊の一部の可能性が高いという。
 仏像片は平成10年、平等院の塔頭・浄土院の書院を修理した際、仏間から出てきた「最重要」と記されたヒノキ箱に納められていた。平等院が、現在同寺で開催中の秋季展(来年1月14日まで)の展示準備をしていたところ、専門家らの指摘を受け検証していた。仏像片は秋季展で公開されている。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

千年間不明の本尊右手? 平等院に保管の仏像片(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 平等院


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韓国江原道江陵市・崛山寺址 川石を敷いた歩道、門跡2基や銘文瓦などが出土

2010年10月06日 | Weblog
 国立中原文化財研究所は6日、江原道江陵市の崛山寺址(굴산사서、史跡448号)に対する10ヶ年(2010~19年)研究の初年度、寺域中央部東側地域の試掘調査の結果を発表した。
 調査結果、寺域南側境界と推定される東西方向の石垣塀が排水路と連結されたまま長く露出して、寺の中心部に通じる約4m幅に達する門跡2基が確認された。
 西側門を通じて内部に連結される所では、薄くて平たい石をきめ細かく敷き詰めた一種の歩道施設が一定の幅で北に長く確認され、崛山寺址東側に寺刹中心区域とは区別される別途の重要な建物が存在した可能性があることがわかった。
 さらに、建物跡と排水路から高麗時代土器とともに「屈山寺」と刻んだ銘文瓦をはじめとして多量の瓦片が出土した。
 崛山寺は、江陵端午祭主神人の梵日国師が新羅文聖王13年(851)に嶺東地域に創建し、新羅末~高麗初に韓国仏教界を主導した九山禅門(구산선문)の一つで闍崛山門の宗刹格。今は昔の寺跡だけ残る廃寺跡になっているが、崛山寺の寺勢を見ることが出来る高さ5.4mの幢竿支柱(宝物第86号)が残っている。1936年大洪水と2002年台風「루사(ルサ)」で建物跡一部が露出して部分調査が実施されることもあった。
[参考:聨合ニュース]

備考
 崛山寺は屈山寺とも書かれる。正式名は崛山寺なのだろうが、出土した瓦の銘には「屈山寺」と書かれている。

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加賀国一宮・白山比咩神社 昭和55年頃撮影

2010年10月06日 | Weblog


 石川県白山市三宮町に鎮座する白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。
 昭和55年頃の撮影です。昭和57年の昭和大造営により大々的に増改築されたため、よく見ると現在の写真とはちょっと異なります。
 拝殿の後ろの高い屋根の幣殿?が写真では見えません。(写真左)
 また、白山奥宮遥拝所にある真ん中の大きな石は、現在は一回り大きくなっています。(写真右)



金沢方面と元鶴来町を結ぶ鉄道・北陸鉄道石川線は、「加賀一の宮」駅がありましたが、平成21年(2009)11月に、鶴来駅から加賀一の宮駅までの区間が廃止されました。
写真は、昭和55年当時の加賀一の宮駅。

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大田原市・片府田富士山遺跡 縄文時代草創期のけつ状耳飾りが出土

2010年10月05日 | Weblog
 大田原市教委は、発掘調査を進めていた「片府田富士山遺跡」(同市片府田)で旧石器時代から縄文草創期と推定される石器のほか、縄文時代中期から後期の竪穴式住居跡、土坑、土器片などを多数確認した。
 同遺跡は昭和40年代に発見された縄文時代の集落跡。調査区域はこれまでに住居跡が10棟以上、土坑は120基以上も確認された。
 住居跡からは石囲炉、複式炉が出土。貯蔵穴とみられる土坑からは「埋甕(うめがめ)」と呼ばれる土器が発掘された。遺跡からは、縄文時代草創期と推定される石器や、市内では3例目という「玦状(けつ状)耳飾」(注1)も見つかった。
 現地説明会は10月9日(土)午後1時半から開かれる。市湯津上庁舎で出土品の公開や説明などが行われる。
[参考:2010.9.29産経新聞、2010.10.5毎日新聞]

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(注1) 玦状耳飾(玉玦)は、石の切目に耳たぶを挿し入れ、回転させて耳たぶにあけた穴にひっかけるもので、現代のピアスに似た装飾品。古代中国の宝物「玦(けつ)」に形が似ていることから呼ばれている耳飾りである。
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奈良市・東大寺 西塔建立中に割れて捨てられた?部材「巻斗」が出土

2010年10月01日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)の調査で、1988年の発掘調査で東大寺境内西塔跡の北約60mから出土したヒノキの建築部材2点が、寺創建時(8世紀半ば)にあった西塔の建立中に割れて捨てられたものだったことがわかった。
 2点は、柱上で軒などを支える「巻斗(まきと)」とみられ、幅42~43cm、奥行き42~44cm、高さ17~26cm。ともに加工中に割れたらしい。
 最近、1点について、年輪年代測定をしたところ、正確な伐採年はわからなかったが、518年以降に切られたと判明し、出土場所や地層などから、西塔用だったと判断した。
 西塔(推定高さ70mあるいは約100mとも)は752年頃に完成したとみられ、承平4年(934)に雷で焼失。現在は基壇だけが残っている。
 部材「巻斗」は、同博物館の秋季特別展「奈良時代の匠たち―大寺建立の考古学―」(10月2日~11月21日)で展示される。
[参考:読売新聞]
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岩国市・加陽和泉守居館跡 建物跡の礎石(板石)を新たに確認 2日に現地見学会

2010年10月01日 | Weblog
 岩国市教委は発掘調査を続けている「加陽和泉守(かやいずみのかみ)居館跡」で今年8月、東側の土塁中央内側の発掘で、約2・4m間隔に並ぶ板石(礎石)6個を発見した。板石は柱穴の底に補強用に敷いたとみられる。
 その後の調査で、西側に3個、南北各1個の板石を新たに確認。さらに建物の規模が広がる可能性もある。南北9・6m、東西4・8mの建物があったとみられる。居館跡は最大で南北約160m、東西約140m。
 加陽和泉守は、戦国武将・毛利元就(1497~1571)に仕えた人物。元就が1555年、現在の岩国市玖珂町にあった鞍掛城を落城させた前後に、館に移り住んだとされる。
 現地見学会が2日午前10時から開かれる。中津薬師堂横広場(同市楠町3丁目)に集合。
[参考:中国新聞、2010.10.4読売新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2010.8.26 岩国市・加陽和泉守居館跡 建物跡を初確認
 「加陽和泉守居館跡」(同市川下地区)での発掘調査で25日、建物の柱を立てたとみられる等間隔に並ぶ礎石が見つかった。建物跡の確認は初めて。
 百数十m四方を囲む土塁の基礎が住宅地に残る居館跡。礎石は、東側土塁中央から約2m内側の畑で見つかった。計5個が約2・4m間隔で「コ」の字型に並んでおり、建物の跡と確かめられた。
 礎石は、約30cm四方の正方形や長辺が約40cmの長方形で、いずれも上面は平ら。
[参考:中国新聞]

2008.9.23岩国市・加陽和泉守居館跡
 岩国市教委が、同市楠町の中世城館遺跡「加陽和泉守居館跡」で南側5カ所を発掘し、土塁内の居館建物跡の痕跡確認や土塁の構造確認などを行った。
 その結果、幅12mを超える大規模な土塁は、外側半分に大型の山石を埋め込んで粘土と砂石でつき固め築造した特殊な構造であり、居館全体が大規模な土木工事によって構築されたことが分かった。館の中心施設や建物跡の具体的な手掛かりは得られなかった。
 加陽和泉守居館跡は「玖珂郡史」に居館を囲む土塁の規模が記載されているなど、文献史料や構造上の特徴から室町時代に創建されたとみられる。遺跡の規模は東西約120~140m、南北約120~160mで、山口市の大内氏館跡に匹敵する。
[参考:山口新聞]
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