歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市・菖蒲池古墳 2段構造の方墳と判明

2010年11月26日 | Weblog
 橿原市教委が25日、今年3月30日に、2段構造の方墳ないし八角形墳の可能性が高くなったとした同市の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀半ばごろ)が約30mの方墳と分かったと発表した。また、築造からわずか数十年後の藤原京期(7世紀末~8世紀初頭)に古墳の一部が人為的に破壊されていたことも判明したという。
 石室の南西約20mで下段墳裾の隅部分を検出した結果、直角に加工した一辺約70cmの基底石が配置され、西辺と南辺は幅約30cmの石を直線的に並べていた。上段は、石室の北東約10m地点で長さ約3.3mにわたって直線的に並ぶ基底石8個を確認。上段も方形と断定した。
 また、墳丘西側2mで、古墳の一部を破壊して造った石組み溝が見つかった。幅約30cm、深さ約30cm、長さ約2.5mで、南北に水を流したと考えられる。溝から藤原京期の土器、付近からは鉄屑、鞴(ふいご)の羽口などが出土し、古墳築造から遠くない藤原宮期(694~710)に鋳造などの工房が営まれた可能性があるという。
 同古墳の横穴式石室は家形石棺二つを直列に安置。屋根や柱などの写実的な表現や、内面に施された全面漆塗りなどから、高位の人物と考えられていた。
 市教委は、古墳がぞんざいに扱われており、大化5(649)年に謀反の疑いを受けて自害した蘇我倉山田石川麻呂と長男の興志(こごし)の合葬墓とする説にやや有利な要素になるという。
 現地説明会は27日午前10時~午後3時に開かれ、650人が集まった。
[参考:共同通信、奈良新聞、産経新聞](2010.11.28改正版)

過去の関連ニュース・情報
 2010.3030菖蒲池古墳 墳丘本体を初めて発掘調査、墳丘裾で石列が出土
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京都市上京区・薩摩藩邸跡 同志社大今出川キャンパス地にあった薩摩藩邸絵図を確認

2010年11月26日 | Weblog
写真は、同志社大学今出川キャンパス西門脇にある石碑(2010.11.25撮影)

 同志社社史資料センターの調査で、幕末に錦小路(京都市中京区)にあった薩摩藩邸と考えられていた絵図(縦130cm、幅160cm、鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)が、同志社大今出川校地(上京区)にあった薩摩藩邸だったことが25日までに分かった
 薩摩藩邸は錦小路、伏見などにもあったが、今年春に同センターが調査で、「烏丸通」や、当時存在した「石橋通」(現在の今出川校地内)などの文字があり、薩摩藩が文久3年(1863)に相国寺境内に建てた「薩摩藩二本松屋敷」と判明した。
 6900坪の敷地内には部屋が200以上あり、薩長同盟の舞台となった藩邸の建物配置などがよく分かる貴重な史料」としている。
 26日から来月22日まで今出川校地ハリス理化学館2階で公開する(土日休館)
[参考:京都新聞]

備考
 同志社大今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、室町幕府の3代将軍、足利義満(1358~1408)が建立した塔頭「鹿苑院(ろくおんいん)」とみられる遺構が見つかったと報道された翌日、ちょうど京都旅行で同キャンパスを訪れた。発掘現場は、これまでここにあった同志社中学が左京区岩倉大鷺町へ移転した跡の校舎撤去作業(現在は殆ど整地状態)と重なって、重機、ベルトコンベアなどが並び、そして作業員がたくさんいて場所の特定が難しいが、どうやら写真の作業現場の右側(東側)らしい。
 この場所は、7~8世紀には出雲郷と呼ばれていたそうで、相国寺境内および今出川キャンパスからもこの時期の竪穴住居や須恵器などの遺物が出土している。したがって、いろいろの時代の遺構が重なっている場所と推定される。

龍馬が薩長同盟を説いた…薩摩藩邸の絵図確認(読売新聞) - goo ニュース
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京都市上京区・相国寺旧境内 足利義満建立の鹿苑院の遺構が見つかる

2010年11月25日 | Weblog
写真は2010.11.25撮影。作業現場の右側(東側)が発掘現場らしい。
 
 同志社大学が24日、同大今出川キャンパス(京都市上京区)内にある相国寺旧境内の遺跡から、室町幕府の3代将軍、足利義満(1358-1408)が建立した塔頭「鹿苑院(ろくおんいん)」とみられる遺構が見つかったと発表した。
 同大の発掘調査で、建物の柱の礎石を支える「根固め石」を約4・5m間隔で6カ所確認。いずれも直径約1mの円柱形に石が多数埋められており、鹿苑院の仏堂跡とみられる。根固め石の周辺では、足利家の家紋「桐紋」が入った瓦(直径約18cm)十数点や、器の底に鹿苑院を示すとみられる「鹿」と墨書きされた瀬戸焼(直径約17cm)も見つかった。その形から14世紀末ごろの製作とみられ、鹿苑院の創建時期とも一致する。
 鹿苑院は義満の墓所とされ、江戸時代の古地図に記されるなど多数の文献で存在が確認されているが、実際に遺構が見つかったのは初めて。
 足利義満は永徳2(1382)年に相国寺を創建し翌年、境内に鹿苑院を建立した。義満の禅の修行場に使われ、当時の有力な禅寺「京都五山」(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)を統括する役割も担ったとされる。ともに応仁の乱などの戦乱で焼け落ちたため、鹿苑院の正確な位置は不明だった。
 鹿苑院には義満の墓もあったと文献にあり、今後の調査で墓石の発見も期待できるとしている。
 現地説明会は27日(土)午後1時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞]

備考
永徳2年(1382) 相国寺を創建。開山は夢想礎石(1275-1351)。実質は礎石の甥に当たる2世・春屋妙葩(1311-1388)か。
永徳3年(1383) 相国寺塔頭として鹿苑院を建立。
応永元年(1394) 足利義満隠居。翌年、出家し、道義と号した。
応永4年(1397) 舎利殿(金閣)を中心とする「北山第(きたやまてい)」(または「北山殿(きたやまどの)」、後の鹿苑寺)を造営。開山は相国寺と同様に夢窓疎石としている。開基は足利義満。
応永15年(1408) 足利義満死去。戒名・鹿苑院天山道義。義満の遺骨は、相国寺鹿苑院に葬られた。義満の死後、義持が北山第に入ったが、翌年には一部を破却して三条坊門第に移った。その後義満の妻である北山院日野康子の御所となった。
応永19年(1412) 北山院日野康子が死亡し、舎利殿以外は解体された。舎利殿は義満の遺言により北山・鹿苑寺(通称・金閣寺)と名付けられた。
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御所市・秋津遺跡 4世紀前半最大級の施設群が見つかる

2010年11月24日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が24日、御所市の秋津遺跡(古墳時代前期、4世紀前半)で最大級の施設群跡が見つかったと発表した。
 珍しい構造の塀に囲まれた区画が前回調査を含めて多数見つかり、内部には整然と並ぶ大型建物跡も確認された。
 昨年5月から約1万8500㎡を調査し今年1月、方形区画の一部を確認した。これまでに区画が6つ見つかり、いずれも塀は幅約20cmの溝を挟む一対の柱が約2・5m間隔で続く構造で、溝には細い杭をずらっと打ち込んだ跡が並んでいた。全体で南北82m、東西58mに及び、最大の区画は南北50m、東西48m以上に及ぶことが判明した。内部に南北13.5m、東西7mの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。
 区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性があるとみている。
 中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼(ひみこ)、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀は中国の文献から日本関連の記事が消えるため「空白の4世紀」と呼ばれる。
 初期大和王権が造営に直接関与した祭祀空間を備える施設か、後に周辺地域を本拠とした葛城氏につながる大豪族の居館だった可能性があるとしている。
 現地説明会は28日(日)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、日経新聞]

奈良で4世紀最大級の施設群跡 秋津遺跡(共同通信) - goo ニュース

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.20 秋津遺跡 4世紀前半の巨大祭祀施設の塀跡が出土
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日野市・高幡不動尊金剛寺 万燈会

2010年11月24日 | Weblog
日野市高幡733

 高幡不動尊の正式寺名は真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺。
 創建は、大宝年間(701)以前とも、あるいは行基(668-749)の開基ともいわれます。また、円仁(794-864)が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場と定めて山中に不動尊を建立し、不動明王を安置したといいます。
 仁王門と不動堂を始めとして、仏像、仏画、絵画、鰐口などの工芸品、古文書などのたくさんの重要文化財があります。
 11月22、23日は年に1度の万燈会の行事でした。
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岐阜市・織田信長公居館跡 居館に通じる通路の遺構と金箔瓦が出土

2010年11月24日 | Weblog
 岐阜市教委は22日、岐阜市の岐阜公園内の「織田信長公居館跡」の第4次発掘調査の結果、信長が室町時代に居館を構えたとされる金華山西側の裾野から、居館に通じる通路の遺構と「金箔瓦」と「花の飾り瓦」のかけらが初めて出土したと発表した。
 出土場所は明治大帝像西側の広場付近。確認された通路遺構は幅約4m、長さ約10m。居館跡の中心部と推測される部分から出土した。過去の調査で遺構の南側部分でも、同じような通路が確認されており、今回の遺構に通じることから、通路の規模は少なくとも長さ35mとみられるという。
 金箔瓦の小さなかけら(3cm×3cm)と花の飾り瓦の三角形のかけら(11cm×14cm)、室内装飾品の金具と見られる小さな「金片」、白磁、青磁、染め付けなどの中国磁器や瀬戸・美濃陶器、土師器、鉄砲玉などが出土した。
 また、今回の調査で広場付近の土の中から火災に遭った建築廃材が見つかり、付近に建物が存在していたことが分かった。建物の建築年代は不明。
 信長の居館の構造について、1569(永禄12)年に岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』に「広い石段を登ると、大きい広間に入り、前廊と歩廊がついていてまちの一部が望まれる」と記している。通路の遺構から出土した陶磁器から遺構の年代は、信長が岐阜城に入った1567年から、廃城となる1601年までのものとみられる。
 金箔瓦が信長の時代に使われたものか、その後、落城するまでの他の城主の時代に作られたものかは不明。
 通路の上に建物があり、地下通路として使用されていた可能性もあるとみている。
 現地説明会が27日(土)午前10時から行われる。
[参考:中日新聞、毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.2.19織田信長公居館跡発掘調査 「手水」のための穴と池が出土
 2008.10.7織田信長公居館跡発掘調査 茶室の遺構発見か
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南丹市・野条遺跡 弥生時代後期の灌漑用とみられる溝の群が出土

2010年11月23日 | Weblog
 京都府府埋蔵文化財調査研究センターが22日、南丹市八木町野条の「野条遺跡」から弥生時代後期の灌漑用とみられる溝の群が見つかったと発表した。
 同遺跡ではこれまでに同時期の竪穴式住居跡が複数見つかっており、ここに弥生時代の集落跡があった可能性がさらに高まった。
 溝の中からは土器類が多数出土し、祭祀用とみられるものも約10点あった。
 現地説明会は23日(火)午前10時半から開かれる。
[参考:産経新聞]

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安芸高田市・甲立古墳 県内最古の家形埴輪片?が出土

2010年11月20日 | Weblog
 安芸高田市教委が9月から発掘調査を進めている前方後円墳・甲立(こうたち)古墳(同市甲田町上甲立)の前方部頂上付近の中心から十字に表土を発掘したところ、3カ所で1辺10~15cm、厚さ1cmの形象埴輪片10点が見つかった。筋状の模様や形から、県内最古の出土例とされる4世紀後半の家形埴輪の屋根の一部と推定。今後、市教委が解析して確認する。
 現地説明会が、21日(日)午前10時、午後1時半の2回開かれる。
[参考:中国新聞、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.7 甲立古墳 測量と部分発掘調査を実施
 2009.11.22 甲立古墳 広島県内で3番目に大きい前方後円墳が見つかる
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木津川市・椿井遺跡 6世紀前半の横穴式石室を持つ円墳が2基見つかる

2010年11月20日 | Weblog
 京都府教委は19日、木津川市山城町の椿井遺跡で、古墳時代後期(6世紀前半)の横穴式石室を持つ円墳が2基見つかったと発表した。
 円墳はそれぞれ、直径が約16mと約13m。いずれも盗掘などのために横穴式石室のほとんどが破壊されていたが、大きい方の円墳から、石室の側壁と奥壁の一部が残り、碧玉製の管玉8点と、鉄鏃が見つかった。
 発掘現場付近には古墳時代後期の古墳群が点在し、狛氏の氏寺とされる高麗寺跡にも近いため、この地域で勢力を持っていた渡来系の狛(こま、高麗)氏に関連する墓の可能性もあるという。
 現地説明会が21日(日)午前10時半から開かれる。
[参考:産経新聞]
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鳥取県南部町・境矢石遺跡 弥生時代前~中期の区画溝に囲まれた埋葬施設跡が見つかる

2010年11月20日 | Weblog
 米子市教育文化事業団埋蔵文化財調査室が18日、南部町境の境矢石遺跡(さかいやいしいせき)で弥生時代前~中期の埋葬施設跡19基と、弥生後期~古代の集落跡が見つかった発表した。
 埋葬施設の一部は長さ15~18m、幅約2.5m、深さ約0.9mの溝に3方を囲まれていた。溝特定の集団と他の墓を区別するためとみられる。溝に囲まれた弥生前期の埋葬施設は県内に例がなく、山陰で一番古いと思われるという。
 弥生後期~古代の集落跡からは竪穴住居跡30棟や掘立柱建物跡12棟が見つかった。竪穴住居跡から吉備地方の土器と似た壺も出土し、交流があったとみられる。
 現地説明会が20日(土)午後1時から開かれる。
[参考:産経新聞、朝日新聞]
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米原市・能仁寺遺跡 15世紀の京極氏第7代高詮の菩提寺か

2010年11月20日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は19日、米原市清滝の能仁寺遺跡(のうにんじいせき)で、室町時代の守護大名・京極氏の第7代高詮(たかのり)(1352~1401)の菩提寺とみられる15世紀の寺院跡が見つかったと発表した。
 京極氏代々の墓がある清滝寺(きよたきでら)徳源院(とくげんいん)の南隣約3900㎡で、仏堂の基壇とみられる区画(南北12.5m、東西14m程度)が確認され、当時、寺院で使われたとみられる瀬戸焼の香炉、陶器、飾り金具、瓦、土器類などが出土した。この区画につながる東側では山門跡とみられる礎石が見つかり、さらに山門から伸びる粘土で舗装した参道(長さ17m)とこれに沿って自然石を積んで垂直に築かれた石垣(長さ14m、高さ1.5m)が見つかった。
 高詮の戒名に「能仁寺」が含まれることなどから、高詮の菩提寺だったとみられる。
 中世に建てられた守護大名の菩提寺は少なく、守護大名と菩提寺とのかかわりがわかる資料としている。
 現地説明会は23日(火・祝)午後1時半から開かれる。
<京極氏>
 京極氏は近江源氏として知られる佐々木氏の一族。平安後期から近江地方に勢力を持ち、鎌倉時代に京極、六角など4家に分裂。室町幕府成立に尽くし、高詮の代に幕府の重鎮となった。
[参考:読売新聞、共同通信、びわ湖放送]
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南相馬市・横大道遺跡 横大道製鉄遺跡が国史跡指定へ 文化審議会が答申

2010年11月20日 | Weblog
 国の文化審議会は19日、奈良時代から平安時代にかけての製鉄所の遺跡である南相馬市小高区の「横大道製鉄遺跡」を新たに史跡に指定するよう文部科学相に答申した。
 遺跡は、全体では20ヘクタールほどの広さがあるが、去年までに調査を終えたおよそ1ヘクタールが、国史跡に指定されることになるそうだ。
 特に、半円状に築いた土塁に製鉄炉を集中的に構築した「環状盛土遺構」は全国でも珍しい。
 このような製鉄遺跡が国史跡に指定されるのは全国で「瀬田丘陵生産遺跡群」(滋賀県)に次いで国内2例目、東日本では初めてとなる。
[参考:福島民法、NHKニュース、毎日新聞、福島民友ニュース]

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 「横大道製鉄遺跡」との名称について、正式名称なのか不明であるし、横大道遺跡の一部を指すのか、あるいは近隣の舘越遺跡を含めた横大道製鉄群の一部を指すのかも不明。
 毎日新聞の記事が、最も納得できる記事になっており、「舘越遺跡」を分けているし、「横大道遺跡」との名称のままで記載している。

過去の関連ニュース・情報
 2009.7.16横大道遺跡 新たに平安時代の製鉄炉が出土
 2008.11.14舘越遺跡 東北最大級の木炭窯跡 製鉄拠点か
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朝来市池田古墳 後円部北側外縁部の葺石が見つかる

2010年11月19日 | Weblog
 朝来市教委は18日、但馬で最も大きい全長141mの前方後円墳、池田古墳(同市和田山町平野)で、墳丘の大きさを確定する手がかりとなる外縁部の葺石が見つかったと発表した。
 葺石は後円部北側の墳丘の裾に位置し、墳丘を取り巻く周濠の内側で見つかった。長さ約6m、幅約2mの範囲に、直径15~50cmの川石が数百個並んでいた。円筒埴輪などの破片数百点も出土した。
 池田古墳は5世紀前半に丘陵の斜面を使って3段に築かれ、周囲は盾形の堀を巡らせている。
 現地説明会が20日(土)午前10時半から開かれる。
[参考:毎日新聞]

過去の関連情報・ニュース
 2009.10.30 池田古墳 墳丘東側の造り出しから第2段目葺石部までを調査中、11月3日に現地説明会
 2009.2.20 池田古墳 水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪出土
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栗東市・十里遺跡 出土した木簡が飛鳥時代 「出挙」の一部であることを確認

2010年11月19日 | Weblog
 1999~2000年の栗東市教委の発掘調査で十里遺跡(じゅうりいせき)から出土した木簡(縦41・8cm、横2・3cm)が、飛鳥時代7世紀後半、稲を利子付きで貸し付けた「出挙(すいこ)」の帳簿の一部だったことがわかった。
 その後の調査で、「上稲四百廿四束 稲下十」という文字が判読できた。「稲424束を奉る」と読め、刃物のようなもので刻まれているため、墨か筆が手元になく急いでメモをしたのだろうと推測している。
 一緒に木簡3点が見つかっており、うち1点に「乙酉(きのととり)年(685年)四月一日」の日付と、「勾連(まがりのむらじ)」という在地豪族とみられる名前が書いてあった。
 建物跡も確認されており、在地豪族の居館が、『評(こおり)』の下部の役所『里』などとして使われていたのではないかとみている。
 奈良文化財研究所飛鳥資料館(明日香村)で開催中の特別展示「木簡黎明(れいめい)―飛鳥に集ういにしえの文字たち」で今月19~28日に展示される。
[参考:読売新聞]
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橿原市・藤原宮跡 7世紀後半の運河跡が見つかる 

2010年11月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、藤原宮(694~710年)跡で造営時の資材運搬に使ったとみられる7世紀後半の運河跡などが見つかったと発表した。
 「朝堂院」の広場(朝庭)を調査し、運河本流(幅4・5~7・5m)を30m分と、北東方向に枝分かれする支流(幅4~6m)を15m分確認した。運河は北に延びており、総延長は550m以上になる。
 運河は埋め立てられ、東西や南北方向の溝が3時期にわたって設けられていた。
[参考:読売新聞]

過去の関連ニュース
 2008.9.29 藤原宮跡 宮殿造営の運河跡発見 資材を牛馬で運ぶ跡も
 2007.10.7藤原宮跡 運河は朝堂院まで続いていた
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