2月29日は出張。埼玉市立武蔵野東高校に行ってきた。英語の研修会(研究発表・授業見学)である。
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同校には、前勤務校でいっしょに仕事をしていた先生がいる。また、もう20年以上前のことだけど、新任者研修会(現地校研修、いわゆる授業見学と研究会)でおじゃましたこともある。最近名前が変わったけど、何か懐かしい学校である。バイクなどの方法で行くこともできるが、ちょっと疲れていたので、電車で行くことにした。
自宅から最寄り駅の東武野田線大和田駅まで徒歩。下りに乗り、岩槻区駅で下車、埼玉縦貫鉄道武州線・岩槻区駅(南口)から乗車、南岩槻駅まで乗り、そこからは徒歩で現地に向かった。
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埼玉縦貫鉄道の走る埼玉市。歴史をちょっとふりかえってみよう。一般に昭和の大合併(昭和28年10月頃~昭和36年6月頃)と呼ばれる時期、現在の埼玉市を構成するかつての浦和市、大宮市、岩槻市は周辺の町村を合併し大きくなった。与野市は浦和市・大宮市に囲まれていて、拡大できなかった。
岩槻市をのぞく2市は、それぞれ戦前には市制を施行している。旧浦和市は昭和11年、旧大宮市も昭和15年、それぞれ市になっている。戦後両市とも、さらに隣接する町村を合併して、区域を広げていった。
大宮市が昭和30年、岩槻市との間にあった、七里村、春岡村を合併する際は、野田線沿線ということと、それぞれの郡の関係(大宮市・七里村・春岡村は北足立郡、岩槻市は南埼玉郡)から、さほど両村はどちらにつくか問題にはならず、大宮市を合併相手に選択した。しかしながら、浦和市と美園村との合併時、美園村は最後まで岩槻市との合併をめざすか、浦和市につくかでもめた。美園村自体は浦和市(浦和町)と同じく北足立郡だが、戦前から走っていた武州鉄道(後の省線、現在の埼玉縦貫鉄道武州線)の戦後の沿線開発もあり、美園村を二分する論争になった。最終的に同村を構成する元の大門村、野田村区域は岩槻市、元の戸塚村区域は川口市へ分割併合方式の合併を選んだ。昭和32年のことだった。
その後の紆余曲折を経て、現在は与野市、大宮市、浦和市、岩槻市合併計画(埼玉YOU & I PLAN:与野、大宮、浦和&岩槻)により、4市が対等合併。現在は埼玉市として一つになっている。数年前から政令指定都市だ。
武蔵野東高校は、埼玉市の政令指定都市化・市立中等教育学校設置のため、埼玉県から埼玉市に設置者が変更(埼玉市が譲り受けた)になった元県立高校の一つ。南岩槻駅のそばにある。
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埼玉縦貫鉄道武州線(旧武州鉄道)は、戦前1度事実上廃線になっている。慢性的な資金不足に加え、台風による線路崩壊で、運休状態になったのだ。しかし、東北地方からの物資輸送が東北本線(荒川鉄橋経由)のみでは心許なく、蓮田駅経由東京エリア行きの路線の確保が国家命題になり、鉄道省直轄で復旧工事が行われ、東京への延伸工事が計画・実行された。
昭和13年11月、運休中だった同線は陸軍鉄道工兵隊の手により、終点の神根駅以南、現在の川口市新井宿、鳩ヶ谷市里、鳩ヶ谷を通り、荒川を越え、北区岩淵から赤羽をめざし、延伸工事が開始された。神根駅~鳩ヶ谷駅までは地形の高低差がかなりあり、難工事だったようだ。昭和18年、赤羽駅(東口)駅前までレールがつながった。ただし、実際の運行は南鳩ヶ谷仮駅までしかできなかった。
戦前は主に小型蒸気機関車による貨物輸送。ガソリンカー(レールバス)による旅客輸送線として使われていた。しかし、昭和19年、実際の予測ほどの輸送量も旅客数もなく、戦時下不要不急の路線として運休。昭和20年、空襲で荒川にかかった橋りょうが崩壊。都内部分(岩淵から赤羽駅付近)が破壊された。埼玉県内部分も現在の鳩ヶ谷市(当時は川口市の一部)近辺が、4月に攻撃され壊滅的被害を受けた。
戦前は、武州鉄道としても省線としても東京都に乗り入れることができなかった。
1両編成・軽便列車程度の武州線は戦後復活を遂げる。この路線は復興計画が、戦後の他の鉄道路線復興計画と異なっていた。現在の成功につながった理由は、路線再開時、その規格を路面電車のものに変更(改軌)、電化をめざしたことである。これは国鉄赤羽駅までの接続ルートを都電と共用でき、費用削減に有効だった。建設・運転資金不足を補う苦肉の策だったが、現在の状況を見ると、判断は正しかったと言えるだろう。
昭和22年2月までに、荒川の橋りょうが仮復旧。同4月、岩淵駅から赤羽駅までのルートの一部変更、線路の再敷設のあと、現在の鳩ヶ谷市付近の復旧を経て、同6月、単線ながら全線区のレールがつながり、ひとまずガソリンカーでの運行が再開された。電化計画と複線計画が、運行再開と同時にたてられた。
昭和24年の国鉄(現JRグループ各社)発足時、東武鉄道の支援の元、新たな資本(埼玉銀行)、沿線自治体からの公有地現物供与を得て分離独立。現在の埼玉縦貫鉄道株式会社が発足した。その後埼玉縦貫鉄道株式会社は東武鉄道グループに加わった。
昭和26年、東武鉄道と国の資金・技術支援のもと、赤羽駅から蓮田駅に向けて電化工事が始まった。当初は赤羽駅から武州大門駅(現美園駅)までを目途として、その後に岩槻駅をめざし、電化工事が進められた。この間電化工事が終わった区間から、ガソリンカーによる運転をを電車に置き換えながら、旅客運行を行った。
昭和31年8月、予定区間全線電化工事完了。岩槻市の市制施行2年後だった。昭和32年4月、岩槻駅から蓮田駅に向けて電化工事を開始、昭和34年6月、全区間が電化された。
全線電化の完了のめどが立ったところで、昭和33年、懸案の複線化を発表。首都圏と東北圏のバイパスルートとして以後10数年をかけて、複線化工事を行うことになった。戦前はあぜ道を走るとか、田んぼ鉄道と揶揄された武州鉄道は戦後変貌を遂げた。現在の姿から、当時を想像することはかなり困難である。
昭和34年年11月、実際に複線化工事開始がはじまり、10年かけて、武州大門駅、その後5年間で岩槻駅まで複線化した。岩槻駅までの沿線は、戦前からそれなりに宅地化が進み、戦後も開発が進んでいたため、用地買収も困難を極めた。武州鉄道の失敗を教訓に、同社は電化も複線化も赤羽駅から蓮田駅に向けて(戦前とは逆方向)に工事を進めた。
現在の岩槻区(戦前の岩槻町)には、武州鉄道が現在の東武野田線よりも早く乗り入れていた。このため、地平を走る武州鉄道をまたぐ形で、現在岩槻区駅~東岩槻駅まで、東武野田線が高架になっている。この高架の部分に、武州鉄道との停車場(駅あつかいではない)の渋江停車場が存在したのだが、戦後すぐに廃止になっていた。埼玉縦貫鉄道は旅客増に対応するため、東武線岩槻市駅(現岩槻区駅)の駅前乗り入れを計り、岩槻駅・真福寺間から岩槻市駅前ルート(単線の支線)を計画、敷設し、同駅への直結ルートを確保、新たに岩槻市駅(南口)を開設した。昭和49年のことだった。この工事に伴う用地買収費用の負担のため埼玉縦貫鉄道株式会社は、真福寺駅から岩槻駅までの複線化工事を一時中断(断念)した。このことが、後に岩槻駅~蓮田駅までの複線化の大きな障害になった。赤羽駅~真福寺駅は複線。駅前ルートは単線。真福寺駅~岩槻駅~蓮田駅は単線となり、運行上も経営上も不自然なかたちになってしまった。真福寺駅~岩槻駅と、それ以北の複線化工事を計画・着工するまで約4年間、計画自体が停滞し、沿線開発にも影響が出た。
なお、埼玉縦貫鉄道は、昭和37年、戦前から使われていた蓮田駅車両基地(戦前の貨物輸送用ヤード跡)のみでは、車庫・整備基地機能が不足しはじめたので、南岩槻駅(旧笹久保駅)付近に車両基地を計画。工事着工した。現在は全てこの車両基地に機能が集約されている。
折からの高度成長時代、国鉄(東北線・高崎線)と東武線伊勢崎線沿線はすでに宅地化が進んでおり、その中間を埼玉県を縦貫する形で走っている同線の沿線は、新しく住宅開発がすすみ、沿線人口も増加した。これは東武鉄道不動産部門の沿線開発によるものだった。それに伴い旅客数も増加、輸送力増強が求められた。折しも東京都内で都電各路線が相次いで廃線になっており、同社は東京都から余剰車両を購入することとした。この時代埼玉縦貫鉄道の車両は、ほぼ全て都電の払い下げだった。それでも、人口増に輸送力が追いつかず、路面電車の3重連運転でしのぐことになった。事故も目立った。運行速度が一般の鉄道以下だったので大事故には至らなかったものの、批判を浴びることになった。
埼玉縦貫鉄道は、複線化工事にあわせ、線形変更、駅の位置替え(新設・廃止)を行った。東武鉄道も武州線との連絡駅である岩槻市駅の改良工事を行い、利便性を向上させた。その後、沿線自治体(岩槻市・蓮田市)の協力(区画整理)により、昭和53年に真福寺駅から岩槻駅まで、昭和54年に蓮田駅まで複線化工事を開始。同時に岩槻市駅(南口)までの複線化を開始した。この頃までに、武州線は蓮田駅~岩槻駅と岩槻市駅~赤羽駅の輸送量の差が、1対6程度に広がっていた。工事計画があと数年遅れていた場合、岩槻駅以北廃止論議も起こっていたかもしれない。
埼玉縦貫鉄道は岩槻駅以北の駅の整理(岩槻本通り、岩槻北口廃止、統合)を実施、また、線形を改善して複線化工事を進めた。同時に岩槻市駅南口に対応するため、同北口を設置。単線の支線だったが、岩槻市駅へのアクセスは大幅に向上した。これは、旅客増加に役立った。昭和60年までに、東武野田線(岩槻区駅)をはさんで、北口~蓮田駅・南口~赤羽駅の運転系統を分離。岩槻駅と北岩槻駅(戦前の岩槻北口駅を蓮田よりに移設)の間が複線化されたのが、昭和63年のことだった。困難を極めた蓮田駅~赤羽駅間全線複線工事だったが、現在では東武野田線をはさんだ利用は、70年前に武州鉄道が開業した頃のもくろみとは外れ、それほど多くはない。沿線の高校・大学等の生徒・学生の通学利用がメインになっている。現在では全線直通運転は少なくなっている。
平成7年には、時代を先取りする高機能路面電車化(LRT化)に乗り出した。
平成9年、岩槻市駅(北口)からのルートを複線化。現在東武野田線の岩槻区駅橋上化計画が立てられているが、これにともない岩槻区駅(南口と北口)を地平で連絡、統合の計画もある。ただし、これはあくまでも東武野田線の工事に左右されるので具体的なスケジュールはできていない。埼玉縦貫鉄道は、JR赤羽駅から、埼玉県の蓮田市までを複線で結ぶ、西の広島電鉄と比較されるような中長距離LRT路線である。
なお、平成14年の「2002年日韓ワールドカップ」にあわせ、武州野田駅が埼玉スタジアム駅として拡充、機能強化された。ただし、これは輸送力をまかなえたとは言い難く、同スタジアムを本拠にする浦和レッズの試合の時は、現在でも大変な状況である。
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<あくまでもフィクションです。4月1日ですから>