例のノーベル物理学賞受賞者。日本では、「日本人3人」という書き方である。アメリカの新聞・報道を見ると、one American and two Japaneseと言う書き方が一般的だった。
日本人ってなんだろう。いろいろ考えた。
***** *****
今から30年以上前、ある人がこんなことを書いた。
『私の知人のある日本人画家の奥さんはフランス人であった。今では日本人であるが…
これを読んでどう思うだろうか。
画家。妻がフランス出身の人。
妻は今では日本人?
離婚して日本人と再婚したの?
正解は奥さんは日本国籍を取った元フランス国籍の人だということである。でも、この人の奥さんはあくまでも、「人種*」はフランス人。国籍どうこうではない。日本人社会がその人を日本人とは認めていないので、様々な勘違い、問題が起きた。本に書いてあったことは、ごくごく簡単に書くとこんなことだった。今回の南部博士(1970年にアメリカ国籍になっている)の取り上げ方は、ちょうどこの裏返しのような感じを受ける。
普通に考えれば彼はアメリカ人である。もちろん戦前に東京帝国大学を卒業し、戦後も研究を続け、アメリカに渡り、そしてすばらしい功績を残した。でも、アメリカ人である。そもそも、彼の功績に国籍などはなんの関係もないはずだ。でも、どうも日本の報道(それを受け入れる日本社会)は彼を日本人にしておきたいように思えた。国籍云々よりも、研究者を引きつける研究環境の方が重大事じゃないか。
僕は考え込んでしまった。
日本人ってなんだろう。
***** *****
こんなことを考えた。
どうも、日本人って、国籍以外の部分で定義されているのではないだろうか。
あまり日本人日本人と言うのも、考えものかもしれない。
小柴博士のニュートリノ検出装置(施設)である、スーパーカミオカンデ。あの場所には海外からVisiting Scholarsもいるだろう。10年後、20年後その場での知見を基に進めた研究で、Nobel賞をもらう人物が出るかもしれない。その人が日本人でなかったら、どうするのだろう。国籍が日本じゃないと、めでたくないのだろうか。「人種*」が日本人でないと、価値がないのだろうか。仮にその人が日本に帰化していたら、お祝いできないのだろうか。
それは違うだろう。やっぱり変だろう。
それを知った僕たち国民は、功績をあげたのが誰であっても尊び、喜びもともにできるようであるべきだろう。
***** *****
「人種*」という言葉はカッコ付きである。念のため。