いろいろよくわからない理由で、活躍の場が制限されている(らしい)のん(能年玲奈)さん。その彼女の監督・主演作品。前々から注目していた。3月12日、埼玉県内では唯一の上映館・イオンシネマ大宮で鑑賞した。
重い・むかつく
現実世界の日本でも’20年2月末から、小中高特別支援学校の臨時休業が実施された。大学でも入試その他、教育活動に影響がでた。教育分野全般で、おそらく期間・規模ともに第二次世界大戦以来の被害だろう。
ものがたりの主人公浅川いつか(のん)、友人の平井(山下リオ)も卒展をめざす制作の中断を余儀なくされた。どうにもできない重圧感・喪失感。いつかは作品を自宅に持ち帰るとき、そして自宅で何度かつぶやいた、「重い...」と。作品が物理的に重いのはもちろんだが、それを自宅に持ち帰るしか手がない気持ちの重さがよくわかるシーンである。
「むかつくも」も、やり場のない怒り、悔しさから自分を守るための叫びである。
芸術は不要
パンデミック初年である’20年、軒並みエンタテインメント分野の業界が影響を受けた。芸術は不要という風潮に、該当分野の人々はずいぶん苦しんだ。そしてそれは現在でも改善されてはいない。在野の、そしてプロではないが専門的に学ぶ美大生たちにも、理不尽なこと。いつかも平井もそんな世の中の風潮(同調圧力)に苛まれている。
大学が休校になり、娘を心配した母がアパートを訪ねてくる。散らかり部屋を掃除する中で、いつかの作品をゴミと思い捨ててしまう。母親の理解力のなさを描いているようだが、実は世の中の芸術への無理解を痛烈に批判しているシーン。自分の作品をゴミあつかいされた主人公はひどく落ち込む。
ゴミじゃない
卒展はできなかったが、いつかと平井はいつかの家で二人だけの卒展を開く。現実世界ではまだまだパンデミックが終息、明るさが見えるとまでは言えない。ものがたり世界でもまだまだ大変そうだが、二人の心には何らかの区切りができて、、、
何かそれなりにさわやかさを感じられた。
のん as 監督
企画・脚本・監督・編集で主演である。実際に劇場で見るまでは、主演で監督は可能なのか。監督としてどうなのかわからないと考えていた。企画はタグラインの通りとして、脚本を書き自分を含めて演出をする。昭和の昔ならばともかく、令和の時代。分業化専業化が進んでいる現代でなかなか例を見ないチャレンジである。でも、大事なのは画面に出ているのんさんがいつかに見えるかどうか。美大の4年間の集大成、自分の作品を見てもらいたいと願う、一人の女の子に見えるかどうか、ものがたり世界に生きている人と思えるかどうかということだろう。
大学の友人平井とのやりとりや、偶然再会した中学校時代の同級生(渡辺大知)との交流は、少し強調されすぎのようにも思える。ただ「みんなの言えないことを発散させるような映画」という意図はブレがないと思う。
作品で所々に登場するリボンは、いつかが心の中に押し込めている感情があふれ出ることを表すシンボル。
全般的に唯一残念な感じがしたのは季節感。卒展中止、そのまま学生たちは卒業することになるので、ちょっとカレンダーと季節が違うような気がした。エンドロールで美しい桜が見れた。現実世界はまだ桜満開(終息宣言)とは言えない。のんさんは本作が劇場公開初監督作。作品評価としては、ほぼ満開だと思う。
のん as あーちすと
作中のいつかの絵は、のんさん本人によるもの。多才な人である。
のん as 浅川いつか
過日の勤務校の卒業生たちもそうだが、現在の2年生、1年生も、様々な学校行事ができない状態を強いられている。当たり前のように遠足、修学旅行がなくなり、体育祭も文化祭も縮小された。そのたびに、なんとも言えないストレスのかたまりができることを実感している。昨年4月新採用の同僚は、大学4年次はほぼリモートだったと教えてくれた。のんさんは現実世界の美大生たちのつらさを元に、映画を作り上げた。実際に見てどう感じたかというと、意図は充分に感じられた。
のんさんを映画館の大きなスクリーンで見るのは初めてである。NHKの朝ドラ「あまちゃん」(’13年)より前、「鍵のかかった部屋」(’12年、フジテレビ)から、存在感は目立つ女優さんと考えていた。本作は実年齢(28歳)よりも下の設定だが、全く違和感なく、本当にいそうに見えた。僕や生徒たちと同じ世界に、きっとこんな苦しさと戦っている人がいる。そう思えた。
YouTubeで公開されているメイキングによると、わずか20日で撮了。ロケーション範囲もたぶん狭い。多摩美が協力している。予告編の監督が岩井俊二である。のんさん、なんだかすごい。
僕は本作、同僚の映画好き美術科教諭(女性)に勧めることにする。(文中一部敬称略)