<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



ミュージカル映画「LA LA LAND」鑑賞した。
物語はもちろんよく出来ているし、美術の色彩感覚も凄いし、カメラワークはどうやっと撮ったのか分からない驚きの部分も少なくなく、ジーン・ケリーの巴里のアメリカ人を彷彿させるエンディングの画面づくりも映画ファンにはたまらないものがった。
つまり凄い映画だった。
この「LA LA LAND」を鑑賞したあくる日に、梅田のBillboard大阪でクリストファー・クロスの日本公演へ出かけた。
クリストファー・クロスというと映画「ミスター・アーサー」で歌った「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」でアカデミー主題曲賞を受賞したシンガーソングライターだ。
毎年この時期に来日して大阪と東京でライブをしているという日本贔屓だ。
元々高い声質で透き通るような歌い方が魅力的だったが、やはり40年近く前と異なり声質が少し劣化していて、前半「声が出てないな〜」と少し残念だったが、ソロでギターの弾き語りを始めたころから調子が出てきたらしく最後は大いに盛り上がりなのであった。

歌手の声は年齢とともに大きく左右されるな、と考えながら帰宅している途中、一緒にライブに行った娘が、
「やっぱり向こうの人は歌がうまいな〜」
と言った。
やっとのことで受験が終わりそうな高校生の娘が息抜き第一号で出かけたイベントだった。
娘は子供の頃から祖父母と一緒にいる時間が長かったために演歌やフォークには詳しいがJ-POPにはほとんど興味がないみたいで話題にすることが殆ど無い。
ちなみにお気に入りのシンガーは松任谷由実だ。
そんなこともあって昔や外国の歌には興味を持っている。
最近は英語の聞き取りにも力を入れていたので、クリストファー・クロスの歌詞もかなり聞き取れたらしくご機嫌であった。
LALA LANDといいクリストファー・クロスといい、世界品質のエンタテイメントの高品質に感動していたのであった。
そんな中、

「J-POPの歌って何を言っているのか分からへんし、下手やと思う。お父さん、昔から下手な歌手は多いん?」

と訊いてきたので、

「昔も下手な歌手は少なくなかったで。」

と答えた。
私は浅田美代子や大場久美子を思い出したのだ。
せっかくなので帰宅してからユーチューブで彼女たちの下手くそな歌を娘に見せ聞かせしてみようということになった。
で、帰宅後、彼女たちの歌を聞いた娘が、

「え、上手やん」

と言った。
驚きであった。
巷に溢れるJ-POPの歌品質を標準とした場合、昔の浅田美代子や大場久美子の歌唱力は音痴ではなかったのだ。
しかもそれを私自身が感じたのだ。
浅田美代子の「赤い風船」を聴いて、
「え......こんなはずではなかったんや、け、ど」
となってしまったのだ。
浅田美代子や大場久美子などの歌は当時子供であった私が聴いても衝撃的なくらい下手くそなのであった。

それを「普通やん」と思うこの感覚はなんなのか。

歌手のクオリティは慣れで変わるのだと初めて知った瞬間であった。

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寄る年波のせいなのか。
最近、歌の歌詞が聞き取りにくいことが多い。
何を言っているのかさっぱりわからないのだ。

明日の閉会式で終了するオリンピック。
NHKのオリンピック中継のテーマソングだという安室奈美恵の「HERO」という歌も最後までさっぱり聞き取ることができなかった。
「ひ〜〜〜〜〜〜ろ〜〜〜〜〜〜」
と言っているところは「HERO」なんだろうな、と、なんとなくわかるのだが、それ以外の歌詞の聞き取りが出来ない。
番組やネットでは「いい曲だ」というようなコメントで溢れているのだが、そんなにいい曲なのか。
好みの問題もあるのだろうが、聞き取れない曲なのでいいとも思えない。

同じ題名の曲であれば、私の世代では甲斐バンドの「HERO」か、嘉門達夫の「HERO」だ。
この2曲であれば歌詞も知っているし、聞取りは問題ないと思う。
尤も甲斐バンドの「HERO」はCMソングだったことを無視するとしてオリンピックのテーマとして使えないことはないが、嘉門達夫の「HERO」は、
「ウルトラマ〜ンは全部で8兄弟、しまいにゃ母や叔父までででてきた♪」というような歌詞なのでオリンピック向きではない。
従って新曲が必要なのであったのだろう。

この聞き取れないのはカミさんも同様で、
「なんて歌ってんやろ?」
と言っていたので、少々私よりも若い年代層でも聞き取りが難しいらしい。

そうこう思っていたら高校生の娘を塾に迎えに行って帰る途中、ラジオから流れてきた昔のフォークソング「風のささやかなこの人生」を聴いていた娘が一言、
「歌詞の聞き取れる歌って、ええなぁ~」
と呟いた。

もしかすると最近の歌は最近の若者にも聞き取れないんじゃないかと思ったりしたのであった。


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サットン・フォスター。
日本ではあまり知られていない女優だが、トニー賞ミュージカル主演女優賞を2回も受賞しているブロードウェイのトップスターだ。
「モダン・ミリー」
「ドロシー・シャパローン」
「シュレック・ザ・ミュージカル」
「エニシング・ゴーズ」
などなど。
人気舞台で主演あるいは準主演の役柄を演じている。
今一番の私のお気に入り女優さんだ。

そのサットン・フォスターが先週、日本で初めてのライブを行った。
私はその記念すべき8月1日に開催された第1日目、大阪西梅田にあるサンケイホール・ブリーゼで彼女の歌を生で聴いてきた。
ブロードウェイのトップスターが大阪でライブというだけで、感動であった。
「オオサカ スキヤネン!」
の冒頭1曲めを歌い終わった後の彼女の挨拶。
たどたどしい日本語の、しかも大阪弁の挨拶はリップサービスとはわかっていなながらも、ネイティブ大阪人の私としては大感激なのであった。

そもそも今回のライブほど待ち遠しいイベントは久しぶりであった。
最近はライブそのものもあまり行けなくなってしまっていた。
仕事が忙しすぎるのだ。
芸術的な鑑賞活動としては土日の休日と出張中の時間つぶしの美術館巡りが関の山だった。
それが時間を割いて、万一アポイントがあっても仮病を使うことも考えてわざわざ聴きに行ったのは、私自身がサットン・フォスターのファンだったということだけではない。
テレビや映画の出演はあるものの、日本での放送や上映が無いものがほとんどのサットン・フォスター。
彼女の演技を、あるいは歌を体験できるのはインターネットの動画サイトかCD、トニー賞の中継ぐらいしかない。

若しくは、ニューヨークまで行くか。

でもニューヨークへ行くのはなかなか難しい。
最も難しいのは時間を取るのが難しい。
今時、ニューヨークまでの航空券は格安のものを買うと大阪〜沖縄のプレミアムクラス正規航空運賃とたいしてかわらない。
しかし時間は沖縄へ行くのと同じように2時間というわけにはいかない。
往復は飛行機に乗っているだけで20時間以上かかり、演劇1つ鑑賞するにしろ少なくとも5日間〜7日間は必要だ。
そんな休みは、今の私にはなかなか取ることは難しい。

そんななか、なんと向こうから来てくれるというのだ。
しかも東京だけではなく、大阪に。
従ってサットン・フォスター日本初公演の情報をインターネットで発見したときの感動は、生まれて初めて生のアイドルのコンサートに言った時の衝撃を遥かに上回っていた。
ちなみに初めて行ったコンサートのアイドルは山口百恵であった。
百恵ちゃんどころではなかったのだ。

ブロードウェイのミュージカルを生で鑑賞したのはこれまでたった2回あるだけ。
それもニューヨークではなく大阪のフェスティバルホール。
鑑賞したのは「42nd Street」と「Hair Spray」なのであった。
いずれも米国からの来日公演で劇団なんとかのバッチもんではない。
私はブロードウェイ・ミュージカルは英語で演じられるもので日本語で演じるものではないという強い信念がある。
日本語で演じるミュージカルは英語で演じる歌舞伎みたいなもので私は好きになることができないのだ。
そこでブロードウェイミュージカルの来日を期待しているのだが、大阪での公演は非常に少ない。
ほとんどが東京のみの公演で、まず見逃してしまう。
昨年は国際フォーラムで「Avenue Q」の公演があり、是非とも行きたいと思いチケット購入まで手を伸ばしそうになったが、しょっちゅう東京へ行っているくせに公演のある夜となると接待やら会議やらで時間がとれず、ついに見逃してしまったのであった。
悲しいかな、公演中の何日間は私は東京で滞在していたのだった。

しかしブロードウェイミュージカルの来日公演には少々課題もある。
ブロードウェイ・ミュージカルの来日公演があったとしても、実はトニー賞を受賞した演目であったとしてもその主演のトップスターが一緒にやってくることはまず無い。
日本公演のために選ばれブロードウェイの一流俳優やダンサーたちの公演であることに変わりはないのだが、ニューヨークと同じスタッフ&キャストでやってくることはほとんどない。
「Hair Spray」を見に行っても日本でならハーヴェイ・ファイアスタインには会えないのだ。

ところが今回はミュージカルではなくライブ・コンサートではあるものの、やって来るのはあのサットン・フォスターなのであった。
しかも大阪に。
ミュージカル好きであれば、これは行かない方がおかしい。

8月1日、月曜日。
期待を膨らませブリーゼのエスカレータを上がった。
ブロードウェイのトップスターの歌声がどういうものであるのか。
でも、お客さんは来ているのか。
いつもは米朝一門会なんかで満員になるブリーゼが日本では知られていないサットン・フォスターで客席が埋まるのか。
事実、私の周りではサットン・フォスターを知っている人は一人もいない。
「次の月曜日、サットン・フォスターのコンサートへ行くんですよ」
「......誰、それ?」
という案配なのだ。
だから心配と期待でどきどきしながら会場にたどり着いたのだ。

ロビーは地味にポスターもない。
しかしチケット引き換え窓口には列ができており、しかもしっかりとオシャレにめかし込んでいる女性の観客もいるではないか。
知る人ぞ知るその知名度に大阪での公演は難しいという不安を払拭するような雰囲気が漂っていた。
客席はほとんど満席。
舞台の上には中央ちょっと左側にグランドピアノ。
その左側にギターやバンジョーが並べられ、右側にはベースが置かれていた。
トリオの演奏で歌う。
これは彼女のCDの構成と同じだ。
ピアノを演奏するマーク・ラフターもCDと同じなのであった。
やがて演奏者が現れチューニングを始める。
開演予定時間と同時に演奏が開始され右手から長身のサットン・フォスターが現れた。
長い髪をなびかせ、マイクの前に立って笑顔で歌い始めたその歌声を聞いた瞬間、会場はその艷やかで伸びのある、そしてアメリカらしい歌声にすっかりと魅了されたのであった。
そしてそれは決して期待を裏切らないばかりか、これまでに体験したこともないような素晴らしい82分間に始まりだった。

サットン・フォスターを初めて知ったのはNHK-BSで放送された2006年トニー賞に受賞式だった。
授賞式の中で「ドロシー・シャパローン」の冒頭の1シーンが演じられ、そのドロシー本人を演じていたのがサットン・フォスターなのであった。
歌は美味いし、ダンスも凄い。
テレビを観ていてすっかり魅了されてしまったのだった。
以後、トニー賞やインターネットでいくつもの作品の歌やダンスを鑑賞することになった。

今回はどんな歌を歌ってくれるのか。
期待は膨らむばかりであったが、曲目は彼女のミュージカルナンバーやCDに収録されている曲目。
そして今製作中の新しいアルバムからの曲目で構成され、どれもこれも素晴らしい歌声と演奏なのであった。
一曲目の題名は失念してしまったが、二曲目は私の大好きな「Not for the life of me/NYC/Astonishing」だった。
静かなピアノのイントロでニューヨークを歌うその曲はブロードウェイからやってきたスターらしい選曲であった。
大阪の梅田に現出したNYC、ニューヨーク・シティなのであった。
「オーディションに落ちちゃったレ・ミゼラブル。背が高いからダメだって。でも歌っていい?」
というようなMCでレ・ミゼラブルから一曲が歌われたり。
「昨日、お好み焼き、ねぎ焼き食べたよ!」
と大阪の味を楽しんでいることを話してくれたり。
彼女の出身地であるジョージアの歌であるレイ・チャールズの「我が心のジョージア」のジャズバージョンも素晴らしく「新しいCDに入るのかな」などと期待したりした。
途中インターミッションはなく、いよいよクライマックスということころで最後に彼女が歌い出したのはミュージカル「エニシング・ゴーズ」からタイトル曲の「エニシング・ゴーズ」だった。
まさかこの曲が聞けるとは思っていなかった。
私はメチャクチャ嬉しくなったが、他の観客も同様だったようで曲が終わるとスタンディングオーベーション状態になったのであった。

ライブの時間が少しく短かったのがなんとなく不満ではあったものの、観客はこの本物のパフォーマンスに大満足。
私も仕事のことも何もかも忘れていることに気づき、十分以上に楽しめた時間だと大満足なのであった。

サットン・フォスターが真夏の大阪をニューヨーク・ブロードウェイに変えたひとときなのであった。

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地下アイドルに関連するニュースを耳にするにつけ、過去のアイドルとの違いに思いを馳せることがある。

その昔、アイドルはやはり時代のランドマークで一種近寄りがたい神聖なものであったように記憶している。
小学生の頃、いとこのお姉ちゃんが、
「野口五郎に握手してもらった」
と感激して暫く手を洗わないという事件が発生した。
「汚いやん」
とガキだった私は思ったのだが口に出しては言わなかった。
殴られるかも知れないと思ったのだ。
それだけ昭和40年代の終わりごろのアイドルはファンから見れば近寄りがたく神聖なものだったのだろう。

私が初めて生のアイドルを見たのは大阪厚生年金会館で開催された「山口百恵リサイタル」で見た百恵ちゃん。
なぜ山口百恵のリサイタルに行くことになったのかは記憶に無いのだが、多分私が母に「見に行きたい」と言ったのだろう。
当時はチケットを窓口で買い求めたと思うのだが、人気が爆発する前のデビュー1年にも満たない百恵ちゃんのリサイタルだったから窓口購入が可能だったのかもしれない。
これで母同伴の小学生の私は初めてのアイドルで初めてのコンサートと呼ぶものに出向いたのだった。
座席は2階席の一番奥。
百恵ちゃんは遠くのステージで歌っていて鉄道模型の人形ぐらいの大きさでしかなかった。
もちろん顔はよく見えなかった。
時々ニコッと微笑むのが感じられて子供心に「素敵な人や」と感じたと思う。
詳細は忘れてしまったのだが。
このリサイタルでしっかりと記憶に残っているのは、
「音が大きいのでびっくりした」
「百恵ちゃん登場の前に別の新人の紹介があった」
「司会者がいた」
「小さな百恵ちゃんがいた」
の4つだけ。
百恵ちゃんが何を歌ったのか今になるとまったく覚えていないのが辛いところだ。

それから程なく私は大阪フェスティバルホールで「フォーリーブス・リサイタル」を見ることになった。
当時私は女性アイドルは山口百恵、男性アイドルはフォーリーブスがお気に入りだった。
そんななか、なんかのきっかけでフォーリーブスのライブに連れて行ってもらったのであった。
座席は山口百恵リサイタルとは打って変わって1階最前列右端の方。
すでに人気絶頂だったフォーリーブスのライブであんな席をどうして入手出来たのかは謎のままだ。
で、これも覚えているのは、
「観客の女の子たちの叫び声が鼓膜を破りそうなぐらい大きかった。」
「握手できるくらい目の前までこーちゃんこと北公次がやって来た時に周囲の席のお姉ちゃんたちに踏み潰されそうになった」
の2つだけ。
彼らが何を歌ったのかは記憶に無い。
アイドルというものの人気の凄まじさを体験した唯一の事例となったのであった。
ちなみに私はその後のジャニーズのタレントの中でSMAPがフォーリーブスに一番似ていると思っている。

最近は先日の東京小金井の事件のようにアイドルが身近になってきて気軽に握手会なんかが開催されているようだが、昔は握手することが難しかったようにこれも記憶している。

私が初めて握手した有名人は伊吹吾郎であった。
中学に入ったばかりの頃、行きたくもないのに母に京都で開催される呉服市に連れて行かれた。
そこにゲストとして来ていたのが伊吹吾郎なのであった。
「伊吹吾郎に握手してもらえるんやて」
と母に言われたが、その時は伊吹吾郎が何者であるのかまったく知らなかった私は握手をしたものの感動はまったくなかった。
知らない有名人との握手は初めて会った外国人との握手よりも感動が少ない。

次に握手したのは高校生の時、なんばCityの旭屋書店でたまたま開催された浜田朱里との握手会であった。
今や浜田朱里と言っても知らない人が殆どかもしれない。
浜田朱里は1970年代終わりごろのアイドルの一人だった。
確か当時彼女は「ヤングプラザ」という大阪のローカル番組にキダタローだったか紳助竜介だったかと一緒に司会を務めていて関西では知られた存在なのであった。
とりわけファンでもなかったのだがカッパ・ブックスの写真集を買うとサインをしてもらって握手ができるということで、すでに高校生だった私は話のネタと思い小遣いで写真集を買い求めサインと握手をしてもらったのであった。

ここまで書いて思い出したのだが、ホントに初めて握手をしてもらった有名人はその名前すら忘れてしまった南海フォークスの選手なのであった。
それは私が小学4年生頃のこと。
大阪の狭山遊園地にあったプールで遊んでいた時のこと。
イベントで南海フォークスの若手選手3人のインタビュー会があった。
この時、私はどういうわけか選手の一人からサインボールを受け取り握手をしてもらったのだが、それが誰だったのかもはや思い出すすべもない。
サインボールも手元にない。

その後、社会人になってからも有名人と握手をする機会があったが、やはりそれは特別なものだったように思う。
そういう機会が特別だったからこそアイドルやタレントには価値が有るように思う。

簡単に目の前で会ったり、握手できる相手。
現在のアイドル。
もしかするとそれはアイドルとは言わないのではないだろうか、と思うことがある。
憧れで手の届かない世界。
夢を売るのが彼らの商売だ。
そんな夢をリアルにして頻繁に出会わす「身近なアイドル」の存在は小銭稼ぎになるかもしれないが何か大きなものが欠けているように思えて仕方がない。




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ニューヨーク・タイムズが、
「日本の音楽市場はちょっとヘンだ」
と報道したことがちょっとした話題になっているようだ。

私もこのニュースを読んだときは、「日本ってなんでもガラパゴスなんやな」と、その独特の価値観に自分も当てはめ笑ってしまったのは言うまでもない。
で、このニュースの何がへんかというと、日本の音楽市場は売上の85%を未だにCDが占めていて、ネット販売は3.9%ダウンし、5年前に較べて60%の規模に縮小しているという。

世の中iTunesだとか、Kindleだとか、ネット販売ばかり注目されているが、日本に限って言えば音楽はCDで聞くもの。
またはCDをiPhoneやWalkmanに入れて聞くもの。
になっているようだ。

考えてみれば、私も基本的にはiTunesで視聴してAmazonやなんばのTower Recordで買っていることが多く、
「ネット販売なんて、実態がないからあまり好きくない」
というのがまあホンネ。

CDのジャケットがあってはじめて「プロの音楽」と思っているのかもわからない。
かくいう私は、ネットで買うとジェケットがないので詰まらない、と思っている1人である。

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刑事コロンボの初期のエピソード「構想の死角」は二人の小説家が仲違いをして一方がもう一方を殺害する、という筋書きだった。
実は殺したほうは小説を殆ど書いておらず、殺されたほうが実際の執筆者。
小説は二人の連名で出版してきたのだが、

「もう、二人別々に行こうや」

と云われた犯人は、焦って恨んで、相方を殺してしまったというわけだ。

子供の頃、このエピソードを見ていて、

「藤子不二雄はこんなんとちゃうんかな」

と密かに心配していたのだが、やがて藤子不二雄の作品のどちらが描いたのかが公表されるようになって、二人のケジメの良さに感激脱帽したことを覚えている。
子供はもちろん、世間の期待を裏切るようなことは無かったのだ。

この「構想の死角」のような事例は少なくないらしく、新聞報道によると全聾の作曲家と言われていた佐村河内守が実は自分では作曲していないばかりか、全聾そのものを偽っていたというのだ。
実際の作曲に携わった桐朋学園大学の非常勤講師の新垣隆という人が公表。

「佐村河内にはゴーストライターがいた」

と、新聞の文化面は大騒ぎをしている。

新聞が大騒ぎをしている割にはツイッターやFacebookの反応がイマイチなのは、きっとこの人たちはかなりマニアックな音楽関係者なのだろう。
私自身、不勉強も有るのかもしれないが佐村河内守なんて知らなかった。

そもそも、今回の件。
何がいけないのか、よくわからない。
普通に契約や約束しておれば、なんでもないことだったのではないか。
全聾がパフォーマンスでも、倫理上いかがなものか、と疑われるだけで犯罪ではない。
が、結局二人の間にはきちんとした取り決めがないままに、おざなりに今日まできてしまった、というわけなのだろう。
いつまでたっても楽曲の作者は佐村河内で自分は日陰の非常勤講師でいるものだから、不満が鬱積し、

「ホントの作者はボクなんだ」

と言ったに過ぎないのではないか、と思う。
要は、

「こいつは全聾を騙る不届き者でっせ」

と暴露して困らせてやろう、というだけのことではなかったのか。
ある意味みみっちい意図が見え見えで、こういう公表の仕方をすると、自分自身も無傷で済まないというのをよく考える必要があったのであはないかと思う。
確かに佐村河内名でリリースした楽曲は、高橋大輔がフィギュアに使用していたり、クラシック音楽では異例のヒットをしていたりと話題に欠くことはないようだ。
だからこそ自分の名前を表に出す、という欲求があったが、相方が認めなかったので強硬手段に訴えたのかもわからない。
しかし、この人も無料でそれをやっていたわけではなく、新聞報道によると報酬を受け取っていたわけで、同情するには少々難がある出来事ではある。

一方の佐村河内は全聾を売りに世間を欺いてきただけに、その罪は小さくない。
別に詐欺罪に問われるというものではないが、音楽ファンの期待を裏切り聾唖者をバカにした創作活動は今後糾弾されてしかるべき行為だ。

「耳が聞こえないけど作曲できます。ね、ベートーヴェンみたいでしょ。」

とほざいて来たわけなので、シュローダーならずとも「馬鹿にするな」と怒りたくなるのも当然の行為だ。

結局得るものは何もない、というのが、今回の「構想の死角」というわけで、殺人事件さえ起こらなかったが、刑事コロンボのエピソードと非常に似通った結末なのであった。

なお、刑事コロンボの「構想の死角」は監督が大学を出たばかりの若き日のあのスティーブン・スピルバーグだけに秀逸な作品に仕上がっているが、こっちの方は明日にも忘れ去られていそうな出来の悪い現実なのであった。

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先日、小泉今日子の昔のビデオをCSで見ていて、

「きょんきょんって、下手やけど、上手い」

というようなことをカミさんと言っていたことは、このブログにも書いた。
しかしその下手さが彼女の魅力であり、今日もそれは変わっていない恐ろしい生涯アイドルとしての力量ではないか、と思うと何が幸いするのかわからなくなってくる。

そんなこんなを考えていると、これまた先日、不思議なことに気がついた。
いや、別に不思議でもなんでもないのだが、考えてみると不思議なのだ。
それは何かと言うと、

「歌の下手な歌手はいるが、演奏の下手な伴奏オーケストラはいない」

ということだ。
これはオーケストラよりも編成の小さなバンドにも言える。
歌が下手で「味がある」と云われることはあるけれども、演奏が下手ならきっと「味がある」なんて言ってもらえるわけがないのだ。

アイドルの歌というのは抜群のテクニックを持って演奏する伴奏に支えられているのだ、と断言しても過言ではないだろう。
例えば伴奏が下手ならどうなのか。
クオリティは中学生の音楽の授業の合奏レベル。
「1,2,3.はい!」
でスタートした演奏は太鼓だけがやたら元気で、管楽器は音が外れ、ピアノだけが独自の道をゆく、というものであったりしたら、きっと恰好悪いに違いない。
AKBの単品アイドルでもプロと思ってしまうのは、まさにプロの演奏をバックにするからで、これを中学生の音楽の授業の演奏レベルまで落とすと、正直言って、格好わるいを超越し、なんか別のバラティお笑い番組じゃないか、と思ってしまうこと請け合いだ。

そういえば、ZONE以来度々出てくる中学生、高校生バンドもプロであるかぎり歌が下手でも演奏はなかなかなテクニックだ。

たぶんこれは、下手な絵も立派な額に入れると高価に見える、というのと同じなのかもしれない。
今私は自分で気づいたアートな法則に驚いている。

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子供の頃はテレビで歌っている歌手の力量などあまり気にすることはなかったように記憶する。

私は1960年代の生まれなので、極端なへたくそな歌手はそう簡単に見つからない時代でもあったのかもしれない。
ところが小学生高学年の時に浅田美代子が現れ、「歌手は歌が上手い」という思い込みは、単なる幻想にすぎないことがわかった。
「赤い風船」
を歌った浅田美代子の歌唱力は当時、群を抜くへたくそさで、それでいて大ヒットしたのだから、小学生の私にも歌謡曲のヒット条件は必ずしも歌のできではないことがわかった。
それでもまだまだ、
「浅田美代子は特別だ」
との微かな願いを、胸に秘めていたのだが、やがて大場久美子が登場し、田原俊彦がアイドルの頂点に経つに至って、
「歌の質などどうでもいい」
という境地に到った。

先日、民放で懐かしのアイドルのビデオ特集が放送されていて、
「お~、昔はこんな歌の下手な歌手がいたものだ」
と感無量になったのだが、少し間を置いて愕然としたのは、そのへたくそな歌に妙な愛着をもってしまっていることと、ついでながら、現在のアイドルの上手いようでメチャクチャへたくそな歌に味わいのないことに気づいてしまったことであった。
たとえば、私が大学生時代のアイドルと言えば松田聖子や小泉今日子なのであったが、松田聖子はともかく、小泉今日子の歌唱力は浅田美代子や大場久美子と比べても遜色のないくらいに「音痴」なのだ。
ところが、この小泉今日子の音痴の魅力は、それがなんてったってアイドル的に、いわゆる今日も魅了されているきょんきょん的魅力に直結していることで、あのつたない歌唱力が小泉今日子の魅力を十二分に増幅していたのであった。

小泉今日子よりも若年世代になるカミさんなども、
「きょんきょんって、下手やけど、上手い」
とわけの分からない評価を、テレビを見ながら下していたのであった。

他にもヘタッピ歌手はたくさん現れた。
とりわけジャニーズ系アイドルは3人以上のグループを形成しているのだが、現在のアイドルグループと比較しても歌のテクニックは「上手い!」とは言いがたく、それでいて味があるのはどうしてなのだろうか、と思ったのであった。

とどのつまり、昔のアイドルと現代のアイドルではプロとアマもしくはセミプロといった違いがあるのではないか、と思ったのであった。

きょんきょんはきょんきょんで小泉今日子の舌ったらずの歌い方で魅了するよう綿密にプロモーションされており、それは他の売れたアイドルすべてに言えることではないかったのではないか。
おニャン子登場以来の「素人っぽさ」を売りにするようなことはなく、ティーンズはティーンズとしてのプロのアイドルとしてしっかりとプロモートしていたのだろう。
だから当時のアイドルはスキャンダルも少なく、やっている本人もプロ意識があるので、失言はほとんど聞かなかった。
今のように、男を作っては丸坊主になったり、左遷されたりするということもなかったのだ。

ということで、アイドルの歌唱力を真剣に考えるのは無粋なことかもしれないが、それはそれで芸能界のプロ精神をはかるには、なかなか面白い尺度かも知れないと思ったのであった。

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その昔、アイドルは神聖なものであった、というような気がする。

百恵ちゃんはトイレには行かない。
とか、
淳子ちゃんは屁をこがない。

といった基本的な要素はともかくとして、男性女性に限らず、アイドルはある意味、仮想の恋愛対象であったのではなかろうか。
従って、

聖子ちゃんは清純だ。
とか、
今日子ちゃんはいつもキラキラしている。

といった恋人相手に考える幻想まで加味されてアイドルは神聖化されていたように記憶するのだ。

芸能プロダクションもアイドルの教育に対してはプロフェッショナルだった、と思う。
これらファンが持ち続けている幻想を打ち消すようなスキャンダルが絶対に起こらないようにマネージメントに努めていたことが伺える。
伝える方も、スターはスターとして扱い、それなりの敬意を払って「幻想」が打ち消されないように努力した。
それはまるで、色街のルールと似通った、厳しい仕来りのようなものがあったのではないかと思われてならない。
ある意味、それはアイドルは芸人としてプロの中のプロの時代だったのだろう。

例えば、山口百恵と三浦友和のカップルは当時、大いに注目され、羨望の的であったが、二人がプライベートにデートをしているところも、ましてやホテルから出てくるなんてところは一切報道されることはなかった。
二人が理想的なカップルである、というイメージはグリコのCM、映画、明星・平凡といった雑誌などで伝えられ、プロモートされていった。

だから逆にスキャンダルについては一切厳禁だった。
もし、事実が外に漏れるとそのアイドルは抹殺されもした。
城みちると伊藤咲子、高部知子、その他、色々。
事例を挙げれば切りはない。

アイドルは生身の人間だが、芸能の世界に生きる限り、幻想を貫き通すのがプロというもので、それは演じる方も、演じさせる方も、見る方も、すべてお約束として成立していた。

あれから数十年。

今、アイドルは神聖なものではなくなってしまった。
お友達感覚のアイドルはお粗末な歌と踊りを優れたビデオ編集技術でごまかしている。
芸が幼稚だから飽きられやすい一方、ギャラが安いうちが人気の絶頂期に当たるため、ギャラが上がってから起用する必要がないのでカネがかからにというメリットがある。
しかし、このようなご都合がいい芸人は、畢竟奥行きがない。
だから独立して単品タレントになった元グループアイドルは、関西生まれの一般人のインパクトもないのだ。

現代アイドルの代表選手AKB48のメンバーの一人が文春の記者に恋人の男とお泊りした所をスクープされ、反省の印として坊主頭になった。
女が坊主頭。
空恐ろしいというか、やり過ぎの不気味というか、「阪神タイガースが優勝を逃したら坊主にします」、はよく聞くセリフだが、「男が出来たので坊主にします」というのは私の知る限り初めてだ。

「あんたと一緒のところを見られたのよ!私坊主になるわ」

なんて言われたら相手の男はきっと「なんでやねん!」と自信をなくすことだろう。
それを考えただけでも、アイドル=虚像の資格は無いように思う。

AKBはもしかするとアッカンベーの略なのかもしれない。

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日本経済新聞の文化欄を読んでいると、「フィンガー5が今年で40年」という記事が載っていた。
三男の玉元正男氏が往時の思い出を語っている記事で、当時は知らなかったことが書かれていて興味を惹かれたのだった。

フィンガー5といえば、大人気の頃は私は小学生。
同じクラスの女の子が、

「ファンレター送ったらサイン入りのハガキが届いてん!」

と皆に自慢して回っていたのを思い出す。

当時私はまだアイドルに興味を持つような精神年齢に達しておらず、どちらかというとスペクトルマンやレインボーマン、ジャイアントロボ、仮面の忍者赤影の方がお気に入りで、

「女の子というのは、変わってるな。何がオモロイんやろか」

と思ったことを記憶している。

とはいえ、フィンガー5といえば人気グループでテレビのチャンネルをどこに合わせても登場してくるような人気者、という印象が残っている。
とりわけ人気だったボーカルの男の子と女の子は私と対して年齢が変わらないのが不思議だった。
どうしてあんなに歌や踊りを上手にすることができるのか。
学校はどうしてるんだろ?
で、究極は「もしかすると白木みのるみたいなもんなんかもわからんな」

と、子供を演じている大人かも知れないという疑問さえ抱きながらテレビを見ていた。

今回の新聞記事を読んでいて初めて知ったことは、彼ら5人はもともと沖縄の米軍基地周りのプロのシンガーだったことだ。
人気が出るまでかなりの下積み期間も結構長く、それだけ基礎になる技量を持っていたということなのであった。
私はてっきり彼らは、今風に言えば、AKB48のようにプロモーターが企画演出して作り上げた「出来合いのアイドル」だったのではないかと思っていたのだ。
だから正直なところかなり意外だった。

沖縄での実績を武器にして上京。
全国区になろうとしたが鳴かず飛ばずで「もうそろそろ沖縄に帰ろうか」とやけくそで小学生だった二人の弟妹を引き込んでオーディションを受けたらめちゃくちゃ目を引いた、というのがフィンガー5だったという。
しかも、グループ名もやけくそ的で「ジャクソンファイブ」にあやかって「フィンガー5」。
バッチモン臭いのだが、それで大ヒット。

米国の人気グループのコピーのような要素を加味して大人気になることができる、まだまだ発展途上な時代だったのだろう。

フィンガー5が活躍していた頃は未だよちよち歩きだった嫁さんにはこの話をしてもほとんど通じない。
少し残念で、少し「ほほ~」という感じがして、ちょっとしたジェネレーションギャップを楽しむことができる。
そういう意味でも、フィンガー5は興味の尽きないアイドル時代のランドマークなのだ。

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