<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



早いものでキャンディーズのスーちゃんこと田中好子が亡くなって早くも今日で1年が経過した。
1年前の今頃というと東日本大震災の大災害の映像がテレビに現れるのが、やっと少なくなってきた頃で、

「ああ、やっと普通の番組になってきた」

と思っていたところへの訃報だった。
とりわけ印象的だったのは彼女がファンや関係者の人々に肉声の遺言を残していたことで、テレビで何回も放送されては、ファンではなかった私のようなものまでを悲しませた。
病床で力を振り絞って語りかける田中好子のエネルギーはこれからも生き続けなければならない者たちに、強い勇気を与えてくれたのであった。
田中好子は死しても未だ人々の心に生き続ける、すごい女優さん、もといアイドルであった。

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ここのところ訃報が相次いで、寂しい限りだ。

ついこのあいだ、作家の小松左京が亡くなり、一昨日はマエタケこと前田武彦が亡くなった。
そして今日、歌手のジョー山中が亡くなったというニュースが報道され、子供の頃から中学、高校、大学と、慣れ親しんだ名前が次々に消えていき、気が付けば知らないタレントや俳優、歌手ばかりになってるのかも知れない。

ジョー山中は正直言って「人間の証明」のテーマ曲以外、何を歌っていたのか皆目知らないのだが、「人間の証明」の歌のインパクトが強烈なため、記憶に深く刻まれている歌手なのだ。

歌は、上手かった。

今活躍中の歌手で「歌唱力」というものが問われれば、「ホントにこの人がシンガーなの?」と疑ってしまう人が多い。
アイドルはもちろん論外。
ヒット曲は概ねどうでもいい歌い方で、奇を衒った者が多く、いわゆる「一発屋」になる傾向が顕著だ。

そういう意味ではジョー山中も一発屋の要素が無いこともないのだが、ディープなところでファンを掴んでいたことは、どうやら間違いないらしい。

ボクサー出身の歌手、とういうことで多くの武勇伝も伝えられるジョー山中だが、病との闘いには打ち勝つことはできなかった。

Mama,do you remember?

久しぶりに「人間の証明」のテーマ曲を聴きたくなったのであった。

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FM放送を聞きながら車を運転したら、懐かしい小泉今日子の歌声が聞こえてきた。
知らない歌だったので、はじめのうちは誰が歌っているのか分からなかったが、柔らかなトーンでちょっと甘え気味な歌い方は、
「おお、小泉今日子やんか」
とわかる特徴ある声なのであった。

そこでふと気づいた。
最近の女性アイドルはどのグループも同じような歌声だな、と。

単品売り出しのアイドルがほとんどいなくなり、グループばかりなので声が似てくるのも当然かも知れない。
さらに、私がオッサン化しているために、若いアイドルの声はもとより、顔も名前も覚えられなくなっていることも原因しているのだろう。
しかも、我が家で頼りの中一の娘はアイドルに無関心。周囲では極めて珍しいタイプで、アイドルよりもルパン三世やシャーロック・ホームズがお気に入りなので、同じ世代の友達との話についていけるかどうか、心配になってくるくらいなのだ。

で、同じ声に聞こえる女性アイドル。
その共通の歌声は「キーキー声」。
その昔、アイドルになるための登竜門だった「スター誕生!」だったら審査員の松田トシ先生なんかが、
「その歌い方はいけません」
と注意しそうな歌い方のアイドルばかりなのだ。

このキーキー声で平気で歌うようになったのはカラオケが大きく影響していると思われる。
子供の頃からカラオケで鍛えた声は、民謡や童謡で鍛えた声とは異なり、声ではなく、音を出す練習をさせているのかもわからない。

そもそもこの頃のキーキー声はどこから始まったのだろう。
私は「スピード」というグループあたりが初めではなかいと思っている。
というのも、先日メンバーの田中好子が亡くなったキャンディーズもキーキー声ではないし、ピンクレディーもそう。
WinkもCOCOもキーキー声ではなかった。

「キーキー声」と「下手くそ」はもちろん意味が異なる。
歌の下手くそなアイドルは昔からそれなりに存在していて、それなりに市民権を得ていたと思う。
大場久美子。
浅田美代子。
の二人はその代表だが、どちらも現在でも活躍しており、ともにキーキー声ではあかった。

先述したように、昔は主流だった単品アイドルに至っては各々が特長ある歌声で小泉今日子に限らず、声を聞いただけで誰が歌っているのか知らない歌でもよくわかる。

山口百恵に桜田淳子、松田聖子に中森明菜。
太い声、柔らかい声、甘えた声、しゃくりあげる声など、様々なのであった。
それぞれに個性があり、それぞれに価値があったように思われる。

ここのところ韓国のアイドルが隆盛を誇ってきていて日本のそれを凌駕し始めているが、案外、こういうところが日本製アイドル衰退の原因なのかもわからない。
普通の人は、お金を出してまで素人の歌は聞きたくないものだ。

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かつてのアイドルは時代のシンボルであり、現代のそれとは比較にならないほどの輝きを放っていたように記憶している。
キャンディーズもまたそのアイドルのひとつであったことは間違いない。

キャンディーズが人気絶頂であった頃、私はまだまだ洟垂れ小僧の小中学生で、アイドルとしてのその魅力はさっぱりわ理解できず、
「なんか派手なお姉ちゃんたちやな」
程度にしか感じていなかった。
アイドルよりも玩具の方が興味あるという年齢で、ずっと年上の女性を「可愛い」対象にはできなかった、というのが正直なところだ。

それでもドリフの番組を中心に活躍するキャンディーズの女性アイドルグループという新しい輝きだけは感じ取ることができていたように思える。

そのキャンディーズの田中好子が亡くなったというニュースはあまりに唐突だった。
仕事に疲れて深夜帰宅して開いたインターネットのニュースを見て、愕然とした。
しかも二十年間もの間、闘病生活をしていたことなどちっとも知らなかっただけに、驚きは何倍にもなって衝撃を与えた。
私よりも年上の、キャンディーズ世代のファンのひとたちには、もっと信じられないことだったに違いない。

その田中好子死去のニュースは意外なかたちで、人の死と人の生き様について考えさせられることになった。

ちょうど羽田空港で帰りの飛行機を待っている時にロビーに置かれている大型テレビから田中好子の声が流れてきたのだ。
消え入りそうな弱々しい声で語られるその挨拶は、死の淵にあっても震災で亡くなった人々を支えようとする言葉で始まっていた。
しかも「病気に負けるかもしれません」という死を覚悟した言葉からは天国へ行っても、亡くなった被災者を励まします、という言葉に言い表すことのできない意志の強さを感じた。
私は不覚ながら空港の出発ロビーで涙が出そうになったのであった。

さらに「妹夏目雅子のようにいつの日か復活する時に」の言葉は女優でありアイドルである田中好子を喪った喪失感と悲しみをファンであった人々とファンでなかった人々の両方に抱かせた。
人の生き方、死の見つめ方を真剣に考える機会を失ってしまっている現代において、田中好子が遺した最期のメッセージテープは、一人の元アイドルの死というものでは済まされない凄みを感じた。
締めくくりの「その日まで、さようなら」の一言は、大震災に悲しみ、そして悩み苦しむ日本人にとって「生きることはどういうことなのか」ということを思い起こさせる強い言葉になったと思われてならない。

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数年前に初めて仙台を訪れたとき、街の中心部でJAZZ FESTIVALが開催されていて、しばし仕事を忘れて聞き惚れていたことがあった。
仙台でJAZZ。

関西人はJAZZといえば神戸が有名で、最近では大阪高槻市のJAZZストリートも毎年テレビに取り上げられるほど知名度が上がってきている。
昨年は大阪ミナミでJAZZ FESTAが開かれ、道頓堀で生演奏、なんて風景も見られた。

初めての仙台で偶然にJAZZを聞くことになったのは、実際のところかなり意外な感じがしないでもなかった。
もちろん、悪い意味での意外ではない。
JAZZの洒落た大人のリズムが、とってもよく似合う街だと思ったのだ。

仙台という街は、想像以上に市街地が美しかった。
とりわけ定禅寺通りの背の高い並木は印象的で、洒落たレストランやブティックなどが並ぶ様子からは、ファッションセンスの上で実に洗練されたところだという印象をもったのであった。

その景色とJAZZの音楽が頭の中で融合して、大した仕事もしないままだったにも関わらず、仙台に対する良い印象を持って大阪に帰ってきた。

実のところ、仙台を訪れJAZZを耳にするまでは、仙台の音楽といえば、月並みかもしれないがさとう宗幸の青葉城恋唄なのであった。
ちょうど私が高校生の時にヒットした曲で、ザ・ベストテンでこの歌を耳にするたびに、
「なんて美しい詩なんだろうか」
と、ちょっとキザッポク思ったものだった。

「清瀬川、流れる岸辺......」
で始まる歌詞はキラキラと輝いているようで、季節が夏の歌だけに暑いけれども爽やかな感じがしたものだ。
でも、歌詞の締めくくりは1番から3番まで、すべて「あの人はもういない」。
別れた人の思い出を語る寂しい歌だと気がついた。

「あの人はもういない」
今回の震災は、この歌の歌詞に別の意味を持たせてしまったのではないだろうか。
なんとなく、ネットで購入した青葉城恋唄を聴いていて、目頭が熱くなった。



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アップルのホームページでiTunesに関する「お知らせがあります」との告知があったのが確か一昨日。
何が起こるのかな、と思っていたら昨日の午後、日経オンラインで「アップルがビートルズの音楽配信か」との速報が。

で、今朝起きてアップルのホームページを開けて見ると日経の報道の通り、ビートルズの楽曲の販売がアップル社のiTunesミュージックストアで始まっていた。

ビートルズの名前を知らない人はいないかもしれない。
50代、60代の人にとって、ビートルズは絶対的な存在で、彼らの世代の音楽には欠かすことはできないだろう。
しかし、冷静になって考えて見ると、私のような40代以下の世代にはそれほど特別な存在だとも思えないのだ。
そんなことを書くと団塊の世代のオッサンやオバハンから、
「そら、あんた、なにもわかってへんわ」
と言われそうだが、事実そうで、子供の頃から何度も耳にしているビートルズの歌はオリジナルもさることながら、アレンジされた楽曲を耳にしていると、巷に溢れる他の音楽と変わらなくなってしまったいるのだ。
ちょうどクラシックにおけるベートーベンが他のクラシック音楽となんら変わらない存在であるように。

とは言え、ビートルズの曲には魅力があり、その「特別な存在」と、ビートルズの音楽レーベル「アップル」とコンピュータとモバイルソリューションの最大手「アップル」のコラボは忘れられないお知らせであることは間違いない。


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クレージキャッツのトロンボーン奏者谷啓が亡くなった。
享年78歳。
新聞記事によると階段から足を滑らせて頭部を強打。
脳挫傷で亡くなったのだという。

これでクレージキャッツのスターは全て亡くなってしまったことになり、避けることのできない時間の流れながら、なんとも寂しい限りと言わざるを得ない。
まさにガチョーン!なショックなのだ。

しかし、実際のところ、私のような40代半ばの世代にはクレージキャッツはクレージキャッツとしてそんなに親しみを持っている世代ではない。
どちらかというとクレージーを手本に活動を始めたドリフターズ世代というのが私たちだ。
だから、「8時だよ全員集合!」は見ていたが、それが「8だよ、出発進行!」になると、なんとも見る気を失ってしまったことを今もありありと思い出すことができる。

植木等や谷啓はクレージーのメンバーというよりも、俳優さんとしても記憶の方が強いタレントさん達だ。

とはいえ、時代の流れ。
ここ最近、子供の頃からいつもテレビの向こう側で私たちを楽しませてくれた人たちが一人一人と星になっていくことに、強い寂寥感を覚えるのも、私だけでないことは間違いない。

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ミャンマーの土着信仰に「ナッ神」というのがある。
これはベトナムやタイの土着信仰「ピー」に相当するもので、いわゆる「お化け」だ。

亡くなった人が幽霊となり人々に悪戯をしたり災いをもたらしたりするというもので、いわば仏教では正式には「そんなものん無い!」という分野の宗教なのだ。

一昨日放送されたNHK紅白歌合戦の小林幸子の衣装と舞台は、そのナッ神そのものなのであった。

ああ、縁起悪る~。

これまで紅白歌合戦というと、見たい時は録画しておいて後日、つまり年が改まってから見たいミュージシャンの出演部分だけを早送りで探し出し観賞するのが普通だった。

ところが今年は家族が紅白を見たいという大胆なことを言い出したので、他に見たい番組もなかったことから昨年買った液晶テレビの前に陣取ってハイビジョンで紅白歌合戦を視聴した。

すでに最近の流行歌は私にとって馴染のものではない。
社会人になって約25年。
流行り歌にどんなものがあるのかサッパリ分からない人間になったばかりではなく、そういうちゃらちゃらした流行歌にはまったく興味を示さなくなっている私に驚きを感じているところだ。
気がついたら「最近の若いもんは~」というジジイになっていたというわけだ。

したがって紅白歌合戦を観ていても若いミュージシャンの演奏や歌はNHKのど自慢と同等であり、ある意味、金を出して見るほどのものではない。

そんななか、ぼんやりと画面を眺めていると小林幸子の衣装を舞台が画面に現れると私は一瞬にして4000kmの彼方にあるミャンマーの大地を思い出していたのだった。

「おお!これは巨大なナッ神ではないか!」
と。

ということで、衣装で話題を吊らなければならない歌い手さんも何やら悲しいものがあると思った紅白なのであった。

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中学生の頃から面白いと思った映画はパンフレット同時にサントラ盤も欲しくなるという癖があり、
「小遣いそんなにあげられへんで!」
とお袋によくしかられた。
それでも高校生頃から小遣いでサントラ盤を購入するようになり、30年経過した今も大切に保管している。

初めの頃に買ったのは「アドベンチャーファミリー」「007私を愛したスパイ」「ルーツ」「未知との遭遇」「スターウォーズ」などで、このうちスターウォーズだけは数年前CD版を買い直した。

先日お伝えしたようにピクサーアニメの最新作「カールじいさんの空飛ぶ家」は非常に面白い映画だった。
ピクサーアニメは中身が優れていることはもちろんのこと、いつも音楽がしゃれていて大好きだ。
この点、同じアニメでも宮崎アニメと共通するような気がして「良きアニメには良き音楽」という、勝手な理論を持っている。

そこで映画を見終わって自宅に帰ってアマゾンドットコムで「カールじいさんの」のサントラを購入しようとアクセスしたところサントラ盤がヒットしない。
絵本やそれに類似した書籍類か、未発売のDVDばかりヒットするのだ。
検索方法が悪いのかと思い「カールじいさんの空飛ぶ家 サントラ」と入力してみたが、引っかからない。
「もしや」
と思ってアップルのiTunesミュージックストアにアクセスするとちゃんと販売されていたのだ。

で、色々調べてみるとこの映画のサントラはインターネット配信でなければ買えない製品になっていた。

考えてみれば「音楽」という製品はインターネットでの販売が最も容易な製品だ。
インターネットで配信するとCDを流通させるための「製造費」「運賃」「倉庫費」「店頭小売マージン」などが不要になる。
これは大きい。
在庫は必要なくなるし小売店のマージンがなくなり、その分を顧客と製作元で分配することができる。
現物の無いことやジャケットのデザインなどを楽しめないというデメリットはあるが、メリットの方が多いようにも感じるのだ。

そこで気になるのが街のレコードショップ、もといCD&DVDショップ。

その昔、高校生の時に近所のショッピングセンターにあった新星堂の店員の兄ちゃんと親しくなり音楽について色々話したり、教えてもらったことがあった。
でもインターネットになれば口コミはあるものの、そういう生身のコミュニケーションはなくなってしまう。

「カールじいさんの空飛ぶ家」のサントラは、売れるけれどもネット配信、という新しい音楽産業のスタイルを如実に表しているのかもわからない。

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インターネットチケット販売のe+で申し込んでいた大阪城ホールでのアリスの復活ライブの先行チケットが抽選で外れた。
正直、ショック半分、安堵半分。

ショックなところはやはり、あのアリスのライブを生で聴くことが出来ないという残念さ。
もちろん通常発売日に、ドドドドドとアクセスすれば買い求めることの出来る確立はまだ残っているが、多分仕事で無理。
「冬の稲妻」
「チャンピオン」
「ジョニーの子守歌」
「遠くで汽笛を聞きながら」
「君の瞳は10000ボルト」
「走っておいで恋人よ」
などなど。
カラオケのレパートリーを本人らの歌で、しかも生の声で聞くチャンスを逸したのだ。

これは辛い。

安堵したのは、チケット代を払わなくて済むことだ。
アリスともなればチケット代はクラシックコンサートレベルだ。
なんといっても堀内孝雄、谷村新司、矢沢透の三人である。
一人一人でもきんちゃん以外はコンサートで客入りも満員(だと思う)の人たちだ。
安かろうはずはないのだ。

思い起こせば前回のアリスの復活ライブのチケットを買い求めることができたのは偶然なのであった。
JCB会員向けの販売当日、大阪城ホールのファイナルを買い求めようとJCB大阪チケットセンターに電話をかけ続けた。
ところがやはりアリスである。
電話がアクセス集中で全然繋がらなかったのだ。
この時突如、
「JCBのチケットセンターやったらどこでもええんやから、九州にかけたろ」
と閃いた。

で、福岡のチケットセンターに電話をすると一発でオペレーターと繋がって、あっという間にアリスのチケットを購入することができたのであった。

9月のライブは忘れがたいものになった。
何といっても、ライブの観客を見渡すと、私が最も若い世代に属しているのに驚いた。
アリスが最も人気を誇ったあの頃。
高校生だった私はアリスのファンでももっとも若年層に属していたのだ。

そしてライブの感動も冷めやらぬ1週間後、ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込み、ペンタゴンにもう1機、そして中部の州に乗客がテロリストと格闘した飛行機が墜落したのであった。
いわゆる9.11は前回のライブ直後に発生したのであった。

ともかく、アリスのライブチケットが外れたことは、もう、元気で生きている三人の最後のライブを見逃したことになやも知れず、暫く眠れそうにない。

残念だ。

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