<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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深夜に米国テレビシリーズ「M.A.S.H.」が放送されていた頃、私はちょくちょくチャンネルを合わせてその馬鹿馬鹿しいコメディを堪能していた。
「朝鮮戦争」を舞台にした珍しいドラマだなと思って見ていたのだが、それが実は衣装もセットもベトナム戦争そのもので、舞台だけ、つまり地名や年号だけを朝鮮戦争に合わせた完全なベトナム戦争ドラマであったことはデイビット・ハルバースタム著「朝鮮戦争」を読むまで、まったく気付かなかった。
まったくもって不注意であった。

いうなれば、それだけベトナム戦争たけなわの頃はコメディドラマでも直接ベトナム戦争を批判することができない不自由な時代だったわけで、人民の人民による人民のための政治をしている国、米国の本質を疑いたくなる要素がある。
まるで赤穂浪士の討ち入りを室町時代に置き換えた仮名手本忠臣蔵のような作品だったわけだ。

裏を返せば、朝鮮戦争はベトナム戦争にすり替えることのできるほど存在感のない戦争だったということもできるのではないだろうか。
天然資源も人材も何にもなかった極東のやせ細った半島の戦争は単なる騒動程度に扱われ今日に至っている。
かなり驚きだ。

思えば第2次大戦後すぐに勃発した朝鮮戦争がどのような戦争なのであったのか。
正直隣国のことなのにあまり知らなかった。
まったくもって、再びここでも不注意であった。
戦後日本の経済的復興のきっかけになった戦争だ、という程度の知識しかなかったのだが、本書を読み進めるとかなりディープな部分が明らかになってきて面白かった。

朝鮮戦争。
主役は李承晩でも金日成でもなく、ダグラス・マッカーサー、トルーマンと毛沢東、スターリン。
これら2人を取り囲む人たちの人間模様が絶妙で、とりわけ「現場を見ようともしないマッカーサー」と「聞く耳を持たなくなりはじめている毛沢東」はこの時代の真の歴史を表現していると思えるのだ。
その中でも最も気になる部分のひとつがマッカーサーの取り巻き達の構成と態度だ。
マッカーサーの取り巻き達は「バターン組」と呼び、特別扱いされていたのだ。
バターンとはまさしく死の行進エピソードのそれであり、今日もなお一方的に日本軍を悪者にしなければならなかった理由が、まさにこの当たりにあるのだろうか、と考えずにはおかれないものがあった。
つまり米国の日本占領を正当化するための理由としてバターンがある、ということだ。

ダグラス・マッカーサーは日本では戦後の日本復興を支えた人としてとらえる向きがないではない。
しかしその本性は朝鮮戦争で露になる。
自己中心的。
強欲。
名誉欲。
愛国心よりも自己愛。
軍人としての人格的欠陥。
などなど。

デイビット・ハルバースタムはアフガン、イラクの鏡として朝鮮戦争を描いたのだろう。
しかし日本人の目から見るとアフガンではなく冷戦初期における露骨な利益のみを追求する米国、中国、ソビエトの極東の占領政策が見えてくるのだ。

~「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争 上下巻」文藝春秋社~

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