<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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手塚治虫の「鉄腕アトム」は20世紀に生み出されたテクノロジーの粋を集めて21世紀に誕生した人型ロボットだ。
100万馬力の力を持ち、空も宇宙も飛行することができる。
人工知能は非常に優秀で人と寸分変わらない感情を持ち、とりわけ正義感は人以上だ。

この驚異のロボット「アトム」の開発・組立は天馬博士ただひとりで実施。
研究実験室にこもって、ひとりでアトムの開発設計、組立、プログラミングまでこなした天才だ。

マンガや映画の世界ではこのようにたったひとりの科学者が偉大な発明や開発を行うということが少なくない。
古くはフランケンシュタイ博士や80年代はタイムマシン"デロリアン"を開発したエメット・ブラウン博士などが挙げられる。
しかし、21世紀に繰り広げられている実際の科学の世界ではひとりの学者が何かを開発したり発明したりすることはほとんどなく、チームで研究が行われている。

ニコラス・ウェイド著「ノーベル賞の決闘」は、そんな科学の世界をビビットに、そして残酷に、そして醜く描き出した傑作だ。
ほ乳類の生殖を司るホルモンの発見に対して1973年に二人の学者に贈られたノーベル賞がその題材。
発見に至るまでのその二人の競争が克明に記されてる。
本書でも語られているとおり研究活動というものはチームで行われるもので、某博士というのは映画で言うとプロデューサーやデレクターに相当していて実際の研究活動に当たるのはスタッフなのだ。

ノーベル賞というのは、言うなればアカデミー監督賞や作品賞に相当する存在であることも本書を通じてよく理解することができる。
映画の祭典がそうであるように実際の研究活動でスポットライトが当たるのは研究室や研究機関の代表者ということになるらしい。
そういう意味においてノーベル賞はアカデミー賞と比較して、より一掃一個人を讃える賞ではないかと思われる。
少なくとも映画はスタッフロールにすべてのスタッフや関係した業者の名前が刻まれるわけだし、アカデミー賞を取ったからといって、その後の映画人生が保証されるということはいっさいなのだから。

「ノーベル賞の決闘」では研究実務の生々しさや、自分が勝者になるためにはなりふり構わない科学者の姿が描かれており、これまでイメージしてきた研究・実験活動に没頭する「善」としての科学者と、自己の名誉と利益のために奔走する「悪」としての科学者が入れ替わり、科学の発展というものを見る目が大きく変わりそうな印象を受けた。
チームスタッフは使用人。
自己の目的を達成するためには使用人個人がトライしたい研究活動など従事させない。
独裁者。
紳士の仮面。
などなど。

どこの世界にも競争は存在する。
科学の世界とて同じもの。
むしろノーベル賞を狙う世界的な科学者ほどその闘争心はむき出しで卑しいものなのかも知れない。

~「ノーベル賞の決闘」ニコラス・ウェイド著 丸山工作、林泉訳 岩波書店~


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