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お墓参りで父の故郷である岡山県山手村を訪れてきた。
数年前、この村は市町村合併され、今は岡山県総社市の一部になっている。
父はこの市町村合併が気にくわない。
たまに口を開くと「不当な措置だ」と憤る。

父の話によると山手村は隣接する清音村と同じく江戸時代は天領だったそうで、統括する役所は倉敷に。
したがって、統合するなら「倉敷市山手」となるのが当然だったと主張する。
それだけではない。
総社市山手と呼ばれるよりも、倉敷市山手と呼ばれた方が印象も良い。
しかし、現実は厳しい。
倉敷市と村との間には山がある。
この地理的要因が邪魔をして、山手が総社市に合併されてしまった原因のひとつになったとも思われる。

倉敷市は日本でも有数の石油コンビナートを有していたり、大原美術館で有名なクラボウに代表される繊維化学産業が盛んで財政面でもしっかり。
それと比べて、総社市は....となりそうだが、こっちは故橋本龍太郎の地元で金回りは悪くないようだから、どっちに合併されてもよさそうなものだが、やはり倉敷。
ブランドイメージが大違い。

どれだけ違いがあるのかというと、関東で例えると「神奈川県で合併されるなら横浜市がいい?それとも川崎市?」、また関西で例えると「芦屋市がいい?それとも尼崎市?」と言うぐらいにブランドイメージが異なる。

ともかくそんなこんなを考えながら、山手に着いた。

その昔、と言っても私が子供の頃の30年から40年くらい前。この辺りはまったくの「田舎」なのであった。
山手を通る中鉄バスは1時間に一本あるかどうか、と記憶している。
村にお店は二、三軒。
ありきたりの日用品は手に入るのだが、ちょっとした買い物はバスに乗って小一時間かけ、総社か倉敷の駅前まで行かなければならなかった。

道路も狭かった。
旧山陽道が村の真ん中を東西に貫いているのだが、それがメインロードなのであった。
なんといっても江戸時代に作られた街道。
道幅数メートル。
バスが双方向からかち合うと、道路幅が狭いのでバックしたり前進したりですれ違うのが一苦労。
大阪生まれの大阪育ちの都会っ子の私には、とてつもない田舎に感ぜられたのであった。

祖父の家。つまり父の実家は農家だった。
江戸末期に建てられた茅葺き屋根の家は独特の香りがした。
この典型的農家の便所は屋敷の裏の田圃に面したところにあった。
冬はトイレに行くのが寒し、夜は怖いし、子供のわたしには大変だった。
でも、そこから見える備中国分寺の五重の塔が見える景色が、焼けた稲藁や養鶏檻、田圃や畑の肥やしのニオイ等と共に今も鮮明に記憶に残っている。

それが今や観光地。
「吉備の国」の中心地。

道路も整備され、すいすい走れる。
コンビニやレストランはもちろんのこと、お洒落なカフェまでできている。
10年ちょっと前に山陽自動車道も全通し、倉敷ICからも総社ICからも僅か10分ほど。
大阪から渋滞がなければゆっくり走っても2時間かからないところになった。
規模の大きな農産品の直売所が数ヶ所あり、賑わい溢れる場所であることが見て取れる。

高速道路を下りてそんな便利になった県道を乗って走っていると備中国分寺の五重の塔が目に入ってきた。



秋の空の下、「吉備路」を代表する景色が広がる。

ちょうど国分寺前の畑では地元の農家が大切に植えているという秋桜が満開になっていた。
天気も良い。
大勢の観光客がデジカメ片手に散策しながら写真を写していた。
半分地元である私も最近はめったに来れない「田舎」なので、いっちょ写真をパチリとしようと観光駐車場に自動車を止めて他の観光客に交じってコスモス畑で写真撮影。

薄いピンク、濃いピンク、白の秋桜。
たわわに実った稲穂。
緑深い森。
青空に、さっと刷毛で掃いたような白い雲が浮かび、五重の塔のシルエットが粋な味わいを演出している。

来て良かった。

写してきた写真を見ると、確かにそんなにあちこちで見られるような景色じゃない。
まるで奈良、大和の国、まほろば、という言葉を当てはめてもおかしくないような超和風で素敵な景色が記録されていたのだ。

なるほど。
父が地名ブランドにこだわった理由がなんとなくわかった。
「吉備路」にマッチするブランドはかなり重要だ。

ということで、土日なら高速料金が中国池田ICから往復たったの3000円弱。
吉備路に行くなら秋桜が咲き誇る今が旬かもわからない。




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