「今、教育の世界は「アクティブラーニング」が盛んに行われているんです。
だからそれに合わせた什器の提案が必要なんですね。」
と数年前から取引先の事務器メーカーの人が話していた。
私は、
「なるほど」
と思い、
「そうか、アクティブラーニングなんですね」
などと返していたのだ。
何も知らないくせに知ったかぶりをしてたのだ。
アクティブラーニングとは授業のカリキュラムでテキストを使った一方的な学習ではない。
実際のシュチュエーションを想定した校外学習やシミュレーションなどを行うなかなか前向きな学習だ、と私は勝手に思っていた。
でも、これって大きな誤解であったことがよくわかった。
しかも新しい試みでもなく画期的な手法でもなんでもなかった。
師範学校の時代からこれまで何度も繰り返してきては失敗をしてきた理想の教育方法。
使いようによってはとても有用である一方、大変困った手法であることがよくわかったのであった。
実のところアクティブラーニングについてはきっちりとした書籍を読んであやふやな点をなくす必要を感じていた。
仕事と何らかの関係性が出る可能性もある、「勝手な思い込み知識」では恥をかいて今後の活動に影響が出るかもしれないと思っていたからであった。
そうこうしているうちに見つけたのが「アクティブラーニング 学校教育の理想と現実(講談社現代新書 小針誠著)」。
日経の書評欄で紹介されているのを見つけて買い求めたのだ。
本書ではアクティブラーニングの歴史を紐解き、そのメリットと同時に問題点も指摘されているのが興味深かった。
とりわけ戦争を遂行させるためのプロパガンダの役割取りとして実施された歴史を持つ。
一般的な授業ではなく、いわゆる竹槍を持って集団で訓練をする、防火訓練をする、といった類のものだ。
現在の道徳教育に相当する修身教育もそのようなプロパガンダ教育の1つであるとこの本では位置づけている。
戦争中に実際に修身の授業を受けていた両親をもつ私のような世代には、この意見は少々偏見に汚染されているように思える。
しかし戦後の価値観で見ると、そう受け取ってしまう雰囲気があることを簡単に否定することができないのも、また歴史なのだろう。
何がいいたいかというと小学生や中学生レベルの子どもたちに対してアクティブラーニングという「自分で考えて学ぶ」という行為は少々早すぎるのではないかと思えたことだ。
昨今、ワークショップやセミナーなど、ビジネスや自己啓発を促すイベントが盛んだが、テーマを与えられて個人やグループで作業や議論を行う時、やはり基礎知識は必要だし、しかもある程度は自分の中で消化しておく必要がある。
背景に知識があることでアクティブラーニングは生きてくるのであって、それなくして白紙の状態で実施すると学習の流れは、それを指導する教師の誘導されるがままになっても気づかないし、わからない。
実に恐ろしい手法でもあるのだ。
それでもアクティブラーニングに何かしら魅力があるからこそ文科省を始め多くの業者や教育関係者が群がるのだろう。
知ったかぶりの「アクティブラーニング」。
知ったかぶりで終わると、結構危険であることがよく分かる一冊なのであった。
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