<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





新年最初の映画は映画館ではなく自宅のリビング。
レンタルしてきたピクサアニメーションの「インサイドヘッド」を鑑賞した。
この映画はロードショーされていた時は最寄りの劇場では日本語吹替版しか公開されておらず、なかなか劇場に足を向けることができずに結局見逃してしまった作品だ。
最近の洋画は字幕ではなく吹き替えで公開されることが少なくない。
吹き替えは大きな画面の劇場で鑑賞するにはいささか難がありついつい敬遠してしまう。
とりわけ子供が主な観客になりそうな映画は吹き替えなので面白そうと思っても劇場に行かない事が多い。。
見たら見たでリジナルの雰囲気が楽しめず、幻滅することになる。
これまで日本語版で最悪だったのがシュレックの日本語版と怪盗グルーの日本語版。
主人公が声優としては素人の関西弁丸出しのお笑い芸人を充てるのは観客に対して失礼ではないかと思う。

そういうこともあってアニメ作品はDVDになってからレンタルで見ることが多くなった。

ピクサーの「インサイドヘッド」は人の基本的な5つの感情に人格を持たせて、記憶の世界と人の世界を結びつけて展開する冒険物語だった。
いや、冒険物語と一言で片付けてはいけない。
人の世界の方は家族の物語で、頭の中が冒険物語。
この2つが絶妙な繋がりを見せることで楽しさと感動が引き出されている。
そういう物語なのであった。

ピクサーの映画は「カールじいさんの空飛ぶ家」あたりからしんみりとさせる作品が増えてきた。
笑いあり、驚きあり、アクションあり。
最後に涙がある。
かなり古い例えだけれども藤山寛美が座長をしていた頃の松竹新喜劇のキャッチフレーズ「泣き笑い劇場」。
観客を笑わせながらクライマックスで涙に誘い、そしてエンディングで笑いを呼び起こす。
何か相通じるものがあるように感じられるのだ。
ピクサーは演劇としてのオーソドックスな手法を正当に駆使しているのかもしれないと思った。

もうひとつ、この映画を見ていると技術的なことにも目が留まった。
映画に登場するサンフランシスコの街並みや人の表現がCGということはわかるのだが、随分リアルであり、かつ絵画的であったことだ。
「トイ・ストーリー」が発表された頃のCGには描画には技術的制約が無数にあり、リアルな人物や街を描くのが超不得意であった。
形状の単純な「おもちゃ」を主人公にした映画だったのにも、そのあたりに原因があったのだと思う。
数年後に作られた「トイ・ストーリー2」でプレミア玩具の販売を行っている悪人が居眠りをしているシーンがある。
主人公ウッディーがその悪人の顔によじ登るのだが、その時の皮膚の産毛まで表現されていたことが当時の日経CGだったか、月刊PIXELだっかたの専門誌で絶賛されていたことを思い出した。
「インサイドヘッド」
を見る限りもうそんなことは当たり前。
CGアニメは観客の感情にどのように訴えるのか。
技術が発達した一方、その技法にもはや限界はなくなりつつあるだけに、描画の苦労は明らかに違う方向へ向いていることが感じられた。

なお「インサイド ヘッド」というタイトルは間抜けな邦題だ。
そもそも心は頭の中にあるのか。
「心はどこですか?」
と単純に訊ねたら、多分多くの人は自分の胸に手を充てるのではないだろうか。
記憶は脳細胞に蓄積されるのだから「インサイドヘッド」か。
それってちょっと短絡的すぎはしないか。
原題の「インサイド・アウト」は物語と関連したそれなりに深い意味があるのだが、インサイドだけ引き継いで映画の表面しか捉えていないのではないか。
ディズニー日本のスタッフのセンスも案外「?」ではないかと思ったのであった。

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京阪神の新年最初のイベントは十日戎。

「えべっさん」と親しまれるこの祭は商売繁盛を占う結構大切な祭でなのだ。
とりわけ商業の街大阪ではえべっさんは天神祭と並ぶ大きなイベントでもある。
難波エリアの今宮戎か西宮の西宮戎が有名だが、えべっさんは各地で祀られ、ここにえべっさんの祭を開催しているのだ。

私は堺で生まれ育ったので、子供の頃は自営業を営んでいた父を中心にして堺戎神社にお参りをした。
堺戎神社は南海電車堺駅と堺東駅のちょうど真ん中。
チンチン電車の阪堺線が走る大道筋近くの開口神社の境内にある。
えべっさんの時は周囲に露天が立ち並び多くの人で賑わっていたものだ。

今は往時の賑わいから比べると随分と静かになってしまい、「えべっさん」の祭文化も少し変わりつつあるのではないか、と少し寂しく感じているところだ。

今年、私も久しぶりに「えべっさん」にお参りしてきた。
仕事が変わることもあり、願掛けに出かけたのだ。
参拝してきたのは岸和田駅前の天神戎神社。
境内には飴売り、焼きとうもろこし、回転焼きなどの何軒かの露天が並びそこそこの人出で賑わっていた。
スピーカーからは地元の歌手が歌う「商売繁盛で笹もってこい!」の歌声が響き少々騒々しいのだが、それはそれ。
商売繁盛の神様だけに静かなよりは良いのかもしれないと思った。

翌日。
同じ岸和田市内の兵主神社での「えべっさん」にも立ち寄った。
この兵主神社は地域でも最も古い神社の一つなんだそうだが、境内では松の大木が森をつくり、木漏れ日が本殿を照らし出し、ひと味違ったえべっさんを演出していた。
春木川に沿った参道では早くも梅が咲いていた。

温かいえべっさん。
商売は季節通りの気候がいいのだが、果たして今年は吉と出るのか。
ホノボノとした関西の春の始まりなのであった。



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海外旅行の行き先と言えばほとんどがアジアの私。
タイにミャンマー、ベトナム、シンガポール、台湾、マレーシア、ラオス。
台湾を除くといずれも東南アジアの国ばかりだ。
「中国とか韓国、香港には行ったことはないんですか?」
と訊かれることがある。
その都度、
「ありません」
と即答している。
「どうして?」
と続いて訊かれると、
「行きたくないから」
と、これも答えることにしている。

しかし実は韓国の金浦空港にだけは一度だけ降り立ったことがある。
たしか1988年初めのこと。
私はロサンゼルスへ向かうため途中金浦空港でトランジットしたのであった。
つまり何を考えたのか大韓航空機を利用してしまったのだ。

大韓航空機。
あのピーナッツ娘で有名な韓国の航空会社だ。
なぜ大韓航空機を利用したのかというと安かったから。
理由はただそれだけ。
当時は大阪出発の国際線といえば関西空港が無かったので伊丹空港から。
大阪伊丹からの北米路線はサンフランシスコ行きがあるだけで、他はすべて成田経由。
成田を経由するのもソウルを経由するのも大阪からであれば時間も手間もさして変わらない。
しかも航空券がより安いとなれば、とソウルを選んだ。

ところが航空券を買ってから大変な事態が発生した。
北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾で大韓航空機が爆破墜落させられたのだ。
ミャンマー上空で炸裂した機体はアンダマン海に散逸した。
実に出発数ヶ月前のことであった。

家では急遽、家族会議が開かれた。
乗るべきが乗らざるべきか、というやつである。
散々悩んだものの何度も何度も続けて爆破されることは無いだろう、と言う「爆弾の落ちた場所に再び爆弾が落ちる確率はかなり低い」と同じ論理で結論に至った。
つまり予定通り搭乗した。

今も昔も直行便ではなく乗り継ぎは非常に面倒くさい。
電車の乗り継ぎと異なり、飛行機の乗り継ぎは数時間待たなければならない。
この時は3時間ほど待たされた。
金浦空港内ではすることもない。
初めての場所なので落ち着いて読書をする感覚もない。
仕方がないので売店でビールを買って飲むことにした。
多少酔っ払うと、リラックスできると思ったのだ。
店へ行くとカウンターの中で若い男と女の店員が笑いながら話をしていた。

「ビールください」

と私が英語で頼むと、二人の表情から笑顔が消えた。
なんじゃこれは、と思った。

「ビール、1杯ください」
「?」
「ビール」

返事もせずに男の店員がビールを紙コップに注ぎ、グラスを「トンッ!」と置いた。
なんとも無愛想である。
日本では考えられない態度だ。

「いくら?」
「.......(看板を指差す).....」

今の私ならビールカップも受け取らない代わりに、金も払わず立ち去るところだが、この時は指された金額を払ってむかっ腹立てながらカップを持ってを立ち去ったのであった。
尤も、今の私ならそもそも大韓航空やアシアナ航空には乗らない。

この韓国人のスタッフの無愛想は大韓航空機内でも同じであった。
客室乗務員は笑わない。
笑顔も見せない。
隣に座った韓国人ビジネスマンは無愛想ではなかったのだが、客室乗務員が軒並み無愛想なのであった。
私は韓国人の無愛想は文化なのかも知れない、と思ったのだが、白人の客に対しては愛想よくしているので、文化ではなく性格なのだと確信した。
以来、こんなエアライン誰が乗るもんかい!と利用する気持ちが起こったことすらない。

今日、在韓国の日本大使と領事が一時帰国したことが大きな話題になっている。
慰安婦像なる売春婦像の設置に対する日本政府の抗議の表れだ。
今回の件と、30年近く前の無愛想さを思い出して考え合わせると、一時帰国ではなく、もう向こうに戻る必要はないのではないか、と思えるのだ。

はなはだ厄介で異質で、相変わらず無愛想な隣人である。

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「こら!お前らはしゃぎすぎるな!やかましい!外へ行けって遊ばんか!」

と怒鳴っていたのは50年前、岡山に住んでいた私のお爺ちゃん。
私はちっとも覚えていないのだが、少し上の従兄弟連中が寝たっきりになっていや祖父の周りで走り回っていた。
そのときに布団の中から頻繁に怒鳴っていたらしい。
体は動かなくとも口は達者だったようだ。
で、私はというと祖父の枕元で祖父のために置かれたお菓子を静かに物色していたらしい。
当時私は6人ほどいる内孫でのうちで最も幼かったうえに、普段は大阪で生活しているため祖父もめったに会うことができず、しかも私が寝たっきりだった祖父に相当懐いていたようで怒られる対象にならなかったようだ。

このように自分の孫が走り回っていても喧しいぐらいだから、近所に保育所ができて他人のお子様たちが走り回ると「うるさい!」と感じる人がいないはずはない。

私が20年ほど前まで住んでいた堺市内の団地の中には保育園があった。
私の家からは100mぐらいだったが、それこそ賑やかなガキどもの声が家まで届いてきたものだ。
とりわけ朝と夕方、そして運動会などの行事のある時は賑やかを通り越してうるさいぐらいだった。
でも、私は何も「うるさい!」とか「静かにしろ!」と思ったことは一度もなかった。
子供が大勢いてワイワイガヤガヤするのは「普通」だったからだ。

保育園がなくても私の子供の頃は私のような子供が団地の中を走り回っていた。
子供のはしゃぐ声が団地の建物と建物を間をこだまし、縄跳びが跳ね、プラスチックの刀が振り回され、自転車のベルの音がチリリンチリリンと鳴り、草野球のボールが壁にぶち当たり「こら〜!」と叱られた。
それがごく自然な環境音なのであった。
だから昨今、こどもの少ない地域にいて遊ぶ声が聴こえないと、
「ん〜〜〜、この街は死んでいる」
と思うことも少なくない。

読売新聞の報道によると保育施設が煩い!という苦情を受けたことのある自治体が75%にも上るという。
しかもその苦情のために施設の開園を中止したり延期したりしたケースが16件もあるという。
保育施設は公害施設なのか。
苦情を言う人の感覚がわからないでもないが、それでも公害レベルに扱うそのセンスは理解できない。
子供がはしゃぎ、歌う声は私には「うるさい」ではなくて「賑やか」と思えるのだが。

地域に子供が多いのは国が富むことにも繋がるわけで、子供のいないことを望むコミュニティは非常に寂しい。


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小池百合子東京都知事が「都議選を制するまで酒を飲みません」という断酒宣言をしたという。
これって頭パー、フォーマンスではないだろうか。

小池百合子都知事は当選したその時は何かを期待させるものがあった。
少なくとも一般都民にはそうであっただろう。
大阪の橋下前知事と同じような改革を橋下前知事より遥かに穏やかで上品に、
「改革を実行してくれるもの」
と期待されていたはずなのであった。
ところが、その期待は半年もするとボロが出てハチャメチャになりつつある。
しかも中途半端な期待はずれではなく、完璧な期待はずれ。

実はこの人。
政治家ではなくパフォーマーなのであった。

パフォーマーなら上野公園か秋葉原あたりで観光客相手にパフォーマンスでもやってくれていたら無害であっただろう。
ところが都知事になって権力を武器にパフォーマンスをやったものだから多くの人に迷惑がかかった。
それも膨大な金額がぶっ飛びながら迷惑がかかった。
築地市場の移転問題。
東京オリンピックの会場建設問題。
どれもこれも問題提起がお仕事で、具体的代案、結論をお持ちではなかったのだ。
これではまるで安モンの経営コンサルタントではないか。

そもそも一見大きな問題に見える事項を取り上げマスコミを使って打ち上げ花火の如く権力を行使すると、畢竟人々の目が集まる。
ニュースキャスターは原稿読むだけで人々の目が集まったのだから、その快感が忘れられず、違った形でパフォーマンスを演じるのだろう。

で、次第にネタがなくなってきて今回出たのが「断酒宣言」。
お酒を飲まないことが美徳と言う印象を与え、決意の程をうかがわせるものだ。
「好きな酒を断つなんてえらいね、お嬢さん」
と言ってもらいたかったのかわからないが、ご贔屓のプロ野球球団が優勝するまで酒飲みません、という程度のノリでの発言。
これひとつとっても経済感覚、市井の意見はまるで理解できない頭パーフォーマンスといえるのではないだろうか。

断酒するということは酒は悪いもので飲まないほうが良い、と言っているのに等しい。
東京にも大手は別として造り酒屋10軒以上あり、どこもかしこも売上向上に苦心している。
「酒を飲まない」は決意の表明かもしれないけれども、「飲まないほうが良い」なんて思う酒関係者はいないはず。
酒飲まないのは個人の勝手だが、東京都というひとつの行政区の長が宣言するのはあまりにアホらしく、華がない。
いっそ「東京の酒をしっかり飲んで、ワイワイやりながら策を一緒に練りましょう!」ぐらい言えないかったのか。

日本酒のメッカ灘の近くの芦屋のお嬢さんの実力がこれです、というのであれば関西人にとってもいい迷惑なのは間違いない。

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年末。
久しぶりに嵐電に乗った。

嵐電は京都市内に残る唯一の路面電車だ。
路線には四条大宮から嵐山とを結ぶ嵐山本線。そして嵐山本線の途中駅である帷子ノ辻駅から北野白梅町を結ぶ北野線の2路線がある。
ちなみに帷子ノ辻は「かたびらのつじ」と読む。
京都の地名はなんだか小むづかしい。

私が今回乗ったのは四条大宮から嵐電天神川までのわずか10分ほど。
とある交流会に出席するための利用であった。
10分間ではあったものの、それになりに京都の下町を楽しめる風情があったような気がしている。

四条大宮駅は阪急電車京都線との乗換駅だ。
阪急は四条通の地下を走り、嵐電は大宮通りと四条通の南西角に駅がある。
ちなみにこの四条大宮駅前には京都餃子の王将の第一号店があって、私はなぜかここへ来ると大宮定食というこの店のオリジナル定食が食べたくなる。
もちろんこの日も大宮定食を食べたのであった。
内容はシンプルだ。
ご飯、味噌汁、唐揚げ、あんかけ卵焼き、肉団子、サラダ、という文字だけ表現するとかなり豪華な感じなのだが、要はおかずがちょぼちょぼと入った中華定食なのである。
この定食を前回食べたのは10年以上前であった。
その時も嵐電に乗る予定で、あの時は嵐山まで出かけたときなのであった。
10年前に食べたとき、確か大宮定食はたったのたったの500円なのであったが、今回は700円近くもして、王将とて物価の上昇には勝てないのかといささか残念に思った。
大宮定食が他の定食と似たような値段になってしまっては大宮定食の価値をそれほど感じられず、もしかすると次回は大宮定食を注文しないだけではなく、餃子の王将1号店そのもの行かなくなるのではないかと思った。

で、値上げされていた大宮定食で腹を満たした後、嵐電に乗った。

嵐電に乗るとしばらく四条通の南側の建物に挟まれた専用線を走る。
このあたりには壬生寺があったりするので新撰組ゆかりの地である。

最初の停車駅は西院だ。
この西院。
読み方が京都らしく小難しい。
何が小難しいかというと、阪急電車では「さいいん」と読むのだが、嵐電では「さい」と読む。
なんとなく、こばやしまことのマンガ柔道部物語の挨拶みたいだ。
どちらが正解なのか私は全く知らないが、そのうち暇ができたら調査してみたいと思っているところだ。

ここで嵐電は大きく進路を北に向け四条通を渡る。
渡ったすぐのところに車庫がある。
路面電車の車庫はなんとなく鉄道模型の車庫みたいで趣がある。
さらに少しく走ると道路の上を走ることになる。
「これから道路の上を走行しますのでご注意ください」
みたいなアナウンスが流れるのだ。
久しく路面電車に乗ったことがないので最近はこういうアナウンスがどこの路面電車でも流されるのだろうか。
近々地元の阪堺電車でチェックしてみたいと思った。

電車はやがてノーベル賞受賞者田中耕一さんを排出した島津製作所本社前を通り、再び専用線に入る。
私が下車した嵐電天神川駅はこの専用線に入って最初の駅だった。
天神川駅は地下鉄東西線との乗り換え駅で、バスターミナルや右京区役所なんかもあってかなりモダンなところだ。

この嵐電は京福電鉄が経営する鉄道線で、もともとは北山を越えて大原を越え、鯖街道と呼ばれる古道をつっきって福井県まで通じる予定であったのだが、野望はついに実現せず。
現在に至っている。

などということを考えながら利用したのだったが、やはり走っているところが観光地と住宅地が混在しているところなので車内は結構混雑していた。
インバウンドの影響もあるのだろう。
今後も廃止されるような悲しい運命は巡ってこない、どころか今話題の都市交通システムLRTとして走り続けるのだろう。
文化の首都・京都にマッチした路面電車「嵐電」なのであった。


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ここ1〜2年、パソコンソフトの購入方法に大きな変化が訪れている。
昔はパソコンソフトは電気製品やCDと同じようにパッケージで「もの」として購入していた。
ところがここんところネットが発達したからどうかは分からないが、月極もしくは年度払いで料金を徴収する、あるいはしようとするソフトウェアが増えてきたのだ。
とりわけ「業務用」に分類されるソフトにはその傾向が強い。
しかしMS-Officeのように個人利用者が多いソフトウェアでもOffice360とかなんとか言って毎年料金を徴収しようとする試みがスタートしている。
さすが時代に取り残されつつあるマイクロソフト商売というところか。

昨年は会社で使っていたAutocadがライセンス契約の月極払いとなってしまい「固定費が余計にかかる」と社内の評判は芳しくない。
代理店のなんじゃら商会の担当者の言葉も奥歯にものが挟まったような案配だ。
それでAutocadは仕事だけなので私個人が負担するものではない。
問題はAdobeのPhotoshopやIllustratorなのである。
こちらも業務系に近いソフトであるけれどもMS-Offceと同様に私のような個人ユーザーが多いこともあり、月極ライセンス支払い制は正直言ってかなりの負担でありがたくない。
プロのデザインナーならいざ知らず月に数度しか使わないソフトウェアに毎月5千円ちかくも払えるか!ちゅうものなのであった。
プロのデザインナーでも関西に多い個人で何もかもやっているフリーの人には思いっきり負担になっているのではないだろうか。

「印刷業界は俺さまのものだい!」
というAdobe社の露骨な想いがそのまんま現れているということも言えるだろう。
ユーザーや印刷業者は文句も言えない。

で、私はこのAdobeのCS5という結構古いバージョンの製品を昨年末まで使ってきた。
仕事で使う提案書や簡単なチラシ、報告書など、さまざまな分野に駆使してきたのだ。
そもそもCS5を購入する時は清水の舞台を飛び降りるくらいの決断が必要だった。
それは個人で買い求めるには非常に高額なソフトウェアだったからだ。
当時私はクラリスワークスから転じたiWorkや名作日本語ワープロソフトEG-Wordで十分仕事をこなせていた。
正直言って画像補正はcolor it! ベクトル描画はiWorkで、で十分なのであった。
ところが職種が企画職になって自分のプライベートな時間も仕事に割くようになって、あれもやりたいこれもやりたいといっているうちに、カミさんも情報誌の編集みたいなことを始めてしまったので、
「CS5が要るな」
ということになったのだった。
購入価格は20万円強。
カミさんも使うのに、なぜか私の出費と相成ったのであった。

そのCS5も使い続けること8年ほどが経過し、いよいよ最新のMac OS Sierraでは使えないという事態に発展した。
正直、現在使っている一つ前のOS EL Capitanでのエラー出まくりでなんとか使っているという状況なのであった。
長年使っているためか、使いにくいという感覚は無かったのだが、時々出るエラーには少々参っていた。
で、新しいものを買おうかと悩んだのだが、とんでもないことになることがわかった。
かなりの費用がかかる。
それも半端ではなく、自動車が買えそうなほどの費用がかかることがわかったのだ。
ソフトはパッケージ版はなくなっていた。
ライセンス料を払わなければならない。
その額、毎月約5000円。
たとえばこれでCS5のように8年間使い続けると固定経費は48万円にもなるのだ。
まったくもってアホな価格だ。
しかもこれまでは2台のMacにインストールして同時に使用することもしていたが、今後はできないのだという。
そういうことになればカミさんと同時に使用するために2ライセンスを買い求めなければならず、8年間の固定経費は96万円。
なんと100万円の負担になってしまう。
Adobeよ、アホなのか賢いのか。
個人でそんな金額負担できるわけなかろう!

そんなこんなしているうちに娘が大学生になりそうなので、娘のためにMacを買わねばならない。あるいは娘が貯めた小遣いで買わねばならない。
今時の大学生はレポートやプレゼンはMacで作成するものだ。
だからといってソフトを3ライセンスも買うことはできない。
で、どうしたもんかと悩んでいたら、今月号の雑誌「Mac Fan」の小さな記事に、
「Affinity Design」
というソフトウェアが紹介されていたのを見つけた。
まさに運命の出会いなのであった。

Affinity DesignはIllustratorのようなベクトル描画のソフトウェアでイラレの機能のほとんどを網羅していることに加えてユーザーインターフェース、つまり操作性に優れているというのだ。

こういうソフトの紹介は度々目にする。
しかし実際に使ってみると、
「こりゃあかんわ」
というものが少なくないのも現実だ。
しかし短いながらも結構褒めている記事なので早速ネットでAffinity Designのサイトをチェックしてみた。

結果、ビックリしたのであった。
デモのビデオ画像を見る限り、しっかりとイラレの代わりが務まりそうなのであった。
個人的な範疇では。
Affinity Designはイギリスのソフトメーカーの製作のようで最近の中国製の怪しげなソフトではないようだ。
それも期待できそうで嬉しい。
サイトをチェックしていると、Affinity Photoというソフトがあることも知った。
こちらはPhotoshopの代用になるものらしい。

これは凄いではないか。
PhotoshopもIllustratorも代用できるとなると有望である。
CS5を買った時は他にもDreamWeberだとかFlashだとか色々ついていたものの、結局2つ以外に使えるソフトはAcrobat Proぐらいであった。
抱きわせすんなと思ったものだった。
しかもPhotoshopの代用になるというAffinity Photoは期間限定特価のわずか¥4800。
しかもしかもApp Storeで購入すると家族の間では最大6台のMacにインストールすることができる。
これは試してみる価値がある、と私は即断。
即断した割には口コミをチェックしたのだったが、ソフトそのものが誕生して2年ほどしか経過しておらず、最新の口コミが見当たらない。
そこで「β版を試しました」なんていう口コミもチェックして納得した上でApp Storeで買い求めたのであった。

今年はじめての買い物であったAffinity Photoはズバリ、当たりだった。
最初は操作画面が当然のことながらAdobe製品とは異なるので使い勝手に戸惑ったものの、30分間も遊んでいるとPhotoshopで操作していた各種レタッチ、歪曲修正、コントラスト調整、色調整、切り取り、合成、文字入れ、その他諸々は難なくできることが判明。
しかも早い!
快適だ。
それにCS5と違って私のiMacのRetinaディスプレイを存分に活かせる。
これも有りがたい。

さっそくカミさんのiMacにもインストールしてみたところで申し分なく動いていた。
しかし、
「私、Photoshopのほうがええわ」
とカミさん。
使い勝手が変わることに抵抗があるらしい。
それでもしかし、
「4800円やで」
と私が言った瞬間、
「めっちゃええソフトやん。新しいPhotoshopいらんわ」
となったのであった。

今、慣れるためにゴチャゴチャ遊んでいる。
そしてもともと使えるかもと思っていた「Affinity Design」も体験版をダウンロードして試しているが、これもイラレよりも遥かに使いやすい。
難があるとすれば素直な縦書き機能が無いことか。

ということで、
さらばPhotoshop!
これからはAffinity Photoで十分なのだ。

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明けましておめでとうございます。
本年もこのブログ「宇宙エンタメ前哨基地」をよろしくお願い致します。

さて、今年も初詣に出かけてきた。
お参りに訪れたのは南海電車高野線堺東駅近くにある方違神社。
この神社は毎年参拝している神さんである。
ちなみに関西、とりわけ京都、大阪では神様のことを神さんという。
結婚式もこの神社で挙げているので、親しみのあることでもある。

この方違神社は現在本殿が新築中で今年の初詣は工事中の仮設壁に向かってお参りする無粋な新年になってしまったのであった。
とはいえ、方違さんと地元では呼んでいるこの神社は創建2100年になるという。
従って過去にお参りした人も著名人が多く、例えば空海は遣唐使として出発する時に旅の安全を願いここに参詣。
その他、平清盛、徳川家康などのも参詣したとの記録があり、恐れ多くも賢くも仁徳天皇もご参詣されたという神社なのだ。
今回の本殿建て替えはそれを記念したイベントであって使われる建材には伊勢神宮の遷宮で出たものを使うという。
まあ、さすが堺でも最も歴史の長い神社の本殿建て替えにふさわしいものと言えるだろう。

ところで年末京都で開催した大学時代の友人たちとの忘年会でオモシロイ話が出てきた。
「京都も観光客が多くて。どこもかしこも拝観料で儲けているけど、それはお寺さんの話。神社で拝観料取っているところは無いな」
というものであった。
確かに、全国各地津津浦浦。
お寺へ行くと「拝観料」の名目で「入場料」が徴収されることがほとんど。
安いところで200円程度から高いところで1000円ぐらいは徴収される。
で、何があるかというと「綺麗な庭が見るられる」「素晴らしい屏風が観られる」「古い建築物が観られる」「国宝の仏像が拝める」というもので、なぜ仏教の最も重要な要素である「ありがたい仏僧のお話が聴ける」というのは皆無だ。
ともかく坊主丸儲けの世界がここにもあった。

そこへいくと神社で拝観料をとるところにお目にかかったことがない。
伊勢神宮しかり、靖国神社しかり、先の方違さんしかりなのである。

これは外資系(仏教)と日系(神道)の違いなのかどうかは定かではない。
なぜなら同じ外資系でもキリスト教は教会に入るのに料金の徴収はないからなのだ。
恐らくこれは日本の仏教がそれだけ俗っぽくなってしまっている一つの証拠なのだろう。

神社というのは日本固有の宗教ないしは哲学を体現している場所であって、その根幹を成すものは一体何なのか。
そのことを普段は全く考えておらず、その機会もあまりなかった。
たまたま読むことになった上田篤著「鎮守の森の物語」を読んで感じたのは神社というものは日本人のコミュニティの中心であるばかりではなく、日本人特有の自然と人との関わりを奥深くまで考え感じ取るための重要な場であるということであった。

日本列島は世界でも稀に見ぬ森林に覆われた土地であることは知っているようであまり知らない。
日本の森林の割合は7割。
そこには人の寿命を遥かに超える生命の物語が存在し、かつ水を始めとする人の生活に欠かせない様々な恵みを提供してくれるエネルギーが蓄積されている。
ここ100年間ほどに進んだ国土開発はそういう豊かな大地を破壊し、多くの災害を生み出した。
ところが度重なる震災が多くの日本人に本来の自分たちを見直すきっかけをもたらした。
とりわけ日本人が見せた海外とは明らかに異なる自然に対する対応力と意地、さらには共存するための知恵と工夫は神社を中心とする社会形成がなぜ2000年以上も以前から続き、根付いているのかを改めて考えさせるものとなっている。

神社は必ず自然の森または太陽を伴っていて、それは日本人の自然と人との関わりに関する哲学の根幹を成しているものである。
確かに言われてみればそうだといえる。
方違さんを毎年訪れていて鈍感な私は気づかなかったのだが、たまたま本殿建て替えで賽銭箱の向こう側が工事の壁になっていて、その向こうに工事中の土地があったのだは、さらにその向こう側からは太陽が昇りつつあったのだ。
そう、方違さんの拝礼の方向は明らかに旭日の方向なのであった。
気づかないうちに太陽を拝んでいたというわけだ。

堺ではもう一つ参拝する神社で百舌鳥八幡宮という祭で有名なお宮さんがある。
ここは樹齢800年の天然クスノキの大木がある。
そして他の多くの木々ともに地域の中心としての場であり続けているのだ。
まさに鎮守の森がそこにあったというわけだ。

「鎮守の森の物語」では若狭湾を取り囲む各地域の山と森と人と神社の繋がりに関する調査が記されていた。
こういうことを読まなければ決して気づかなかった灯台下暗し的な自分の文化に気づく。
そういう機会を与えてくれた素敵な一冊なのであった。

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