With a soft inland murmur.-Once again 声もう一度、
harushizume―周太24歳3月下旬
第85話 春鎮 act.65 another,side story「陽はまた昇る」
大叔母は、何も訊かなかった。
「おかえりなさい周太くん、」
ただ笑って、温かなカップひとつ差し出して。
風呂の支度してあるわと笑って、おやすみなさいと微笑んだ。
月の波うつ潮騒が香る、そんな町のマンション一室。
ぱたん、
髪ゆらせて一滴、頬ふれてタオルぬぐう。
灯り穏やかな部屋しんとして、深くなる夜ひそやかに沈む。
カーテン染める薄青い闇、ものしずかなベッドに座りこんだ。
「は…、」
ため息こぼれて肩そっと緩まる。
どこか緊張していた想いに、周太はスマートフォンの画面ひらいた。
「…、」
指先ふれて受信ボックス開ける。
届いている名前ふたつ見つめて、最初の一つあらためて開いた。
……
From 湯原美幸
件名 出張になりました
本文 急にごめんね周太、今から大阪支社に出張なの。
明日の夜、19時にはそちらに戻るはずよ。
おばさまには出張のこと電話したわ、菫さんにもメールしてあります。
奥多摩は雪だったのかしら、風邪なんてゼッタイにひいちゃだめよ?
今日は話したいこと色々あったけど、今夜はおたがい一人が良いのかもしれないね?
……
綴られる電子文字、母の気遣い行間くゆる。
どうして息子には電話しなかったのか?理由に唇なぞった。
「おたがいひとりで…そうだね、」
話したいこと色々ある、自分も母も。
だからこそ「一人」が良いのかもしれない、今日あの一日の後は。
―お母さんもいろんなこと考えたんだね、今日…美代さんのこと、英二のこと、
今日、ふたり。
あの二人にめぐる想いと約束、その全て母は聴きたいだろう。
聴いて話して、そうして結論いくつか見つけなくてはいけない。
―ここにいつまでもいたらいけない、
ここは安楽の場所、大叔母に守られて。
それを大叔母も望んでいる、けれど自分も母も同じ気持ちだ。
「…お父さんの家に帰りたいね、おかあさん?」
想い唇にして慕わしい、あの家には父がいるから。
『…今日は何を読もうかな、周?』
あの家で父は生まれて、生きて、そして最後の夜を過ごした。
そして父が愛した本がある、そんな書斎にひとり母は過ごす。
あの時間いつも母は父と過ごしていた、それは自分も同じだ。
父がいる家、だから帰りたい守りたい。
それから、それだけじゃない。
『お母さんにもらったんだ、』
あのひとが笑って見せた、ちいさな金属細工。
あの小さな一片に母が籠めた想い、もう、話し合わないといけない。
―きちんと考えないといけない僕は…英二、
あのひとを、自分はどうしたい?
そんな結論とっくに解っている、最初から同じだ。
そのために選ばなくてはいけない道、もう一通をひらいた。
……
From 小嶌美代
件名 ありがとう
本文 さっき田嶋先生のお宅に着きました、奥様とってもキュートなひとよ。
先生ったら周太くんの自慢話ばっかりするもんだから、
なんだか妬けちゃうねって娘さん笑ってたよ。
娘さんが引越しを手伝ってくれるの、初対面なのに気さくで安心できる人。
今日はたくさんごめんなさい、それ以上にたくさんありがとう。
……
今日ずっと共にいた声が、電子文字から笑いかける。
笑っても泣いても快活な女の子、その聡明に微笑んだ。
「僕こそありがとう、たくさん…」
画面を閉じて顔をあげて、窓のカーテン薄青い。
青色ゆらす音やわらかい、その響きにベッド立ちあがった。
かたん、
床から窓へ、カーテン開いて錠を外す。
かすかな軋みガラス開かれて、潮騒あまやかに頬ふれた。
「…あかるい、」
夜の海、月が波を渉る。
墨色なだらかな光ゆれる、かすかな潮騒やわらかな響き。
ふかく藍色にじむ空、黄金よこたわる波きらめいて鎮む。
―夜だけど明るいんだ、こんなに…海、
街灯り海岸線、黄金の橋が海を渡る。
金色はるかな水平線あおいで、月光のデッキに立った。
「きれい…」
月まばゆい潮騒の風、まだ冷たいくせに温かい。
もう三月も終わる海辺の町、木枠の手すり凭れた。
―お父さんも海に来たのかな、田嶋先生と…、
ほら、また考えてしまう父のこと。
父を知る人に逢ったからなおさら、ほら想いだす。
『…Shall I compare thee to a summer's day?Thou art more lovely and more temperate.』
父の声なぞる異国の言葉、それは讃える歌。
あの夏の日に父が謳ったのは一人の文学者で山の男、父の唯ひとりのアンザイレンパートナー。
「…あなたという知の造形は 夏より愉快で調和が…美しい、」
そんなふうに想えるひとに父は出逢えた。
それは父にとって幸福で、そんな人生ならばこそ生きてほしかった。
そんな願い見つめるから想ってしまう、あんなふうに讃える相手は自分にとって誰だろう?
「ぼくのたいせつなひと…」
見あげる月まばゆい、波うつ潮騒あまく香る。
海ばかり見て聴いて、山の雪すべて夢幻になつかしい。
雪ふる奥多摩の森、白銀たたずんだ時間と、眩しい激しい色。
「…あ、」
カーディガンのポケット震える。
この振動はメールじゃない、取り出して鼓動ひっぱたかれた。
この番号きっと、予兆に通話つないだ。
「…えいじ?」
呼びかけて唇が熱い。
耳もと熱やわらかに昇りだす、その中心に呼ばれた。
「しゅうた…俺だよ、」
呼んでくれた声、瞳、深紅色の背中。
ただ幸せな幻、けれど瞬いても消えない唯ひとつの赤。
※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey, 」William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」】
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