萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第67話 陽向act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2013-07-27 23:58:32 | 陽はまた昇るanother,side story
芳蹟、翳に光に



第67話 陽向act.5―another,side story「陽はまた昇る」

『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』 

二度めに立つ扉の前、掲げられた表札を呼吸ひとつ見つめる。
書かれた文字から鼓動が想い敲く、その響きに微笑んで周太はノックした。

「失礼します、」
「はあい、どうぞ?」

のんびりした返事がこの間と同じに温かい。
なんだか嬉しくて緊張すこし解かれるまま開いた扉、書架の空間が広がる。
そっと踏み込んだ空間は甘く重厚な香かすかに頬撫でて、窓の陽射し埃きらめいて本の山が影おとす。
先週よりは少し低い書類と書籍の積まれた山向こう、書斎机から癖っ毛くしゃくしゃの笑顔ほころんだ。

「おっ、来てくれたな、良い返事も一緒って貌に見えるけど?」

もう視ただけで解かる、そんな言葉と眼差しは明朗に笑ってくれる。
その笑顔に周太は素直なまま頭を下げた。

「はい、研究生として学ばせて下さい、よろしくお願いします、」
「よしっ、決まりだな?そこに掛けてくれ、」

答えに笑って教授は書斎机を立って作業机を指さしてくれる。
勧められるまま席に座ると差し向かい、日焼あざやかな手が資料を手渡した。

「人文社会系研究科の研究生用資料だ、聴きたい講義は好きなように履修登録してくれ。出席も出られる時だけ出るんで構わんよ、
社会人しながらだから自由出席って前提だ。手続きだが、もう青木から農学部のを受けとってるだろうが殆ど同じになる。登録書類はコッチだ、」

話しながら登録用書類を見せてくれる。
その氏名欄に視線を止めて田嶋教授は笑い出した。

「そういえば君の名前って聞いてなかったな?なのに勝手に話を進めてすまん、どうも俺はせっかちでなあ、」

可笑しそうに笑ってくれる底抜けに大らかな眼差しは明るく温かい。
この笑顔をきっと祖父も父も好きだった、そんな確信に微笑んで周太は名前を告げた。

「湯原周太です、よろしくお願い致します、」

名乗りと笑いかけた先、日焼あざやかな笑顔が瞳ゆっくり瞬いた。
いま聴かされた言葉を廻らす、そんな眼差しが周太を見つめて太く響く声が尋ねた。

「君は、湯原先生のお孫さんかい?」

名前を言っただけ、それだけで祖父の俤を辿ってくれる。
祖父の教え子が祖父の姿を自分に見つけてくれた、それが嬉しくて幸せで周太は綺麗に笑った。

「はい、祖父と父がお世話になりました、ご挨拶が遅れて申し訳ありません、」

笑いかけて頭を下げた向こう、がたり椅子の音が立つ。
顔上げた前でワイシャツ姿が身を乗り出す、その明敏な瞳が真直ぐ見つめてくる。
ただ驚き、喜び、懐旧が親しく笑顔になって、それから涙ひとつ日焼の頬こぼれ落ちた。

「湯原先生の孫なんだ、馨さんの息子なんだ、そうか、君だ…そうか、」

確かめるよう声にする、そんな笑顔を涙また落ちてゆく。
泣いてくれる瞳は真摯が篤く温かい、この想いが父に祖父に只嬉しい。

―お祖父さん、お父さん、こんなふうに泣いてくれるね?だから話せることは正直に話させて?

この大学と祖父に纏わる全てを父は秘密にしたくて、この友人とも父は音信を絶っていた。
それが友人を家族を護る方法だと父は信じて、だから息子にも妻にも何も言わず独り秘密を抱いて逝ってしまった。
それが父の友情で愛情なのだと解かる、そう解かるからこそ父の為に泣いて笑ってくれる人に伝えてあげたい。

―だってね、お父さん?本当に想う相手なら「知らない」ほど残酷なことって無いんだ、お母さんも俺もいっぱい泣いたよ?

14年前の春の夜からずっと、どれだけ母も自分も泣いたろう?

あの夜から泣いた涙は後悔だった「父を知らない」現実に苦しんだ。
父の真実を何も知らないまま永訣した後悔が苦しくて、苦しくて苦しんだ。
父が秘密に隠した想いを知りたかった、けれど父の声は二度と聴けず、父の涙を癒すことは不可能になった。

『銀河鉄道の夜』

小学校の図書室で読んだ『銀河鉄道の夜』は不慮の事故に遭った少年の死出の旅路の物語だった。
だから父も銀河鉄道に乗っていると思った、その夜から屋根裏部屋の天窓の下にマットレスを敷いた。
毎晩マットレスに寝んで夜空を見上げ朝まで起きていた、父の乗った銀河鉄道が通ることを願い天窓を見つめた。
夢でも良いから父に会いたくて2週間ずっと天窓を見あげたまま夜は眠った、けれど銀河鉄道は通らなかった。

あの天窓に待ち疲れた2週間、微睡む夢に現われる父は銀河鉄道の席に座ってはいなかった。
検案所で面会した命が消えた姿、現実には見ていない狙撃された瞬間の姿、そんな哀しい姿ばかりだった。
毎晩ずっと泣き叫んで目覚めるたび洗面室に駆けこんだ、吐いて声を殺して泣いて、泣き疲れ眠った床で朝を見た。
毎晩ずっと本当は母の懐で泣きたかった、けれど母も父を失った苦しみに耐えていると解っていたから出来なかった。

そうして2週間の夜が明けた朝、父の銀河鉄道が通らない事は自分への罰なのだと想った。
父に与えられた幸福を抱く資格など自分には無い、そう想えた。
そして9歳の自分は絶望を知った。

―お父さん、お父さんのこと何も知らない癖に幸せだって想ってた俺を、俺は赦せなくて…だから忘れたんだ、大切だから忘れたの、

父のことを何も知らない自分、父を本当には理解していない自分、そんな自分だから父は夢でも笑ってくれない。
そう想い募らす後悔が哀しくて苦しくて、そんな自分を赦せなくて大切な屋根裏部屋を鎖して心を閉じた。
父に纏わる記憶ごと夢も採集帳も何もかも、大切な宝物全てを屋根裏部屋ごと封印してしまった。
この絶望に泣いてきた自分だから田嶋の涙が解かる、この理解に周太は笑いかけた。

「田嶋先生と父は、アンザイレンパートナーなんですか?」

山岳部の先輩後輩で文学を語り合った友人、そう田嶋は前に教えてくれた。
その言葉は幼い自分が見ていた父の姿ありのままで、そして記憶ひとつ夏山を映す。
あざやかな緑と岩壁のグレー織りなす穂高の夏、あの涸谷でザイル担いだ青年二人組を見て父は微笑んだ。

『生涯のアンザイレンパートナーはなかなか出会えないよ…でもね、周、居てくれたら山ヤにとって本当に幸せなんだ、』

穏やかな深い声は微笑んで、けれど寂しげで、それでも父の眼差しは温かだった。
懐かしい遠くを見つめる、そんな切長い瞳は澄んだまま山を映して綺麗で、そして切なかった。
あのとき山ヤの青年たちに父が見つめた背中は誰なのか?その答えが目の前の学者に笑ってくれた。

「ああ、俺が君のお父さんのザイルパートナーだ、馨さんは俺の最高のアンザイレンパートナーだ、」

太やかに響く声は明るく笑って、その明敏な瞳ふたつ涙あふれだす。
午後の光きらめく窓に涙は落ちる、けれど幸せに日焼の貌は笑って口を開いた。

「マッターホルンの北壁も登ったんだよ、アイガーとグランドジョラスはノーマルルートだけどな、3つとも一緒に俺たちは登ったよ。
冬富士は3回一緒に登った、穂高も夏と冬と3回ずつだ、俺が1年の時から馨さんはパートナーに選んでくれたから3回ずつ、ずっと。
本当は俺が4年になったら六千峰もアタックする約束だったんだよ、オックスフォードにいる馨さんと現地集合しようって約束してた、」

低く明るい声は笑って教えてくれる。
大らかに明敏な笑顔はどこまでも温かい、その声が微かに詰まってゆく。

「だけど、な…馨さんが留学を辞めて警察官になったから延期になってな、そして本を寄贈に来てくれたのが会った最後になったんだ、
あの後から電話が通じなくなった、手紙を送っても返事が無くて、家にも行ったけど留守でな…近所の人に訊いたら独りだって言われた、」

武骨な手の甲が日焼の頬から涙を拭う。
ぽとん、ネクタイ緩まった衿元に涙ひとつ落として田嶋は教えてくれた。

「馨さんが、君のお父さんが留学辞退した理由の一つは、君の曾お祖母さんを独り残してイギリスに行けないからだって話したろう?
その曾お祖母さんが亡くなっていた、馨さんが警察官になった翌年の夏の初めだったそうでな、本を寄贈に来てくれた直前ってことだ。
もう留学に行けない理由なんか無いはずだ、そう思って俺は川崎駅の改札口で待ってたよ、どうしても馨さんと話したかったから待ってた、」

ひとつ吐息して日焼顔が笑ってくれる。
その瞳が窓ふる光に潤んで、けれど涙落とさず父の友人は微笑んだ。

「どうしても学問の世界に戻ってほしかったんだ、君のお父さんは文学の天才だって俺は信じてるから帰って来てほしかったんだ。
馨さんが心からイギリスの文学を愛しているって俺は知ってる、それを活かせることも俺は知ってる、あのひとの卒論は最高なんだよ、
だから帰って来てほしかった、馨さんのために文学のために、湯原先生のために、帰って来てほしくて俺は信じて待っていたんだ、ずっと、」

ずっと信じて待っていた、そう告げて逞しい手が目許を拭う。
くしゃくしゃ髪の学者はそれでも呼吸ひとつ微笑んで、言ってくれた。

「川崎駅で待っても会えなくて、だから警察庁に入った同期にまで頼んで探したんだよ、でも馨さんは警察の内部でも所在不明だった。
それが警察でどういう意味なのかは教えて貰えなかったよ、ただ馨さんに俺から連絡を取ることは不可能なんだって事だけが解かった。
それでも俺は信じて待っていたんだ、いつか馨さんはここに、文学に戻るって信じていた、それが馨さんの正しい運命だって俺は信じている、」

静かな仏文研究室の陽だまりに、堰を切ったよう想いは声あふれる。
いま14年の時を超えて父の友人が吐露してくれる、その想い見つめる真中が笑ってくれた。

「君のお父さんは学問に愛される人なんだ、だから必ず学者の道に立つべき人だって信じている、どんなに遠回りでも帰るはずだってな?
それが何年懸っても構わないから待とうって俺は決めてな、馨さんの寄贈書と湯原先生の研究室を守るためにもこの大学で教員になったんだ、」

お父さん、今、この人の言葉を聴いてるでしょう?

そう心裡に語りかけて記憶から笑顔が振り向いてくれる。
懐かしい切長の瞳は気恥ずかしげにほほ笑む、その俤に微笑んだ前で涙ひとつ零れた。

「だからあのとき、新聞のニュースで名前を見つけた時は嘘だって思った、こんなことあって良い筈が無いって信じたくなかった、
警察庁の同期に電話して確認して何とか納得したよ、それでその週末は穂高に登って泣いたんだ、オッサンがみっともないけどな、今も、」

また日焼の手に頬拭いながら田嶋は笑った。
その笑顔が父の為に嬉しくて、嬉しくて幸せで周太は綺麗に笑った。

「僕と穂高に行ったとき、父は大学生の二人組を見て、生涯のアンザイレンパートナーが居ることは山ヤにとって幸せだと教えてくれました。
そのとき懐かしそうに幸せに父は笑っていたんです…きっと田嶋先生のことを想いながら父は言ったんですね、一緒に穂高に登った時を想って、」

懐かしい夏の父の笑顔、あのときの父の想いを今ようやく伝言できる。
この想い嬉しくて笑いかけた先で日焼顔ひとつ幸せに笑ってくれた。

「ありがとう、君は馨さんと顔はあまり似てないのに声と話し方がそっくりだな?そうやって笑った貌が湯原先生と似てるよ、
君の声を聴いて君の笑った貌を見ていると信じた通りって想えるよ、君のなかに生きて馨さんも湯原先生もここに帰って来たって、なあ?」

自分の中に父も祖父も生きて、二人が愛した場所に帰ってきた。
そう言われることは自分にとって幸せで今、銀河鉄道に見つめた絶望が解かれだす。

―お父さん、お祖父さん、今なら銀河鉄道の窓から俺に笑ってくれてるね?

いま大学の窓は夏の午後に明るくて、空に銀河鉄道は通らない。
けれど遥か遠く近くで父も祖父も笑ってくれる、その全てが研究室の本たちから温かい。
ここは祖父が愛した場所、祖父が祖母と出逢い父が生まれる原点で、父が夢に笑っていた場所。
そこで今こうして祖父と父への果てない想いを聴かせて貰えた、この幸せに微笑んで周太は現実に問いかけた。

「先生、田嶋先生とアンザイレンパートナーを組んでいたんなら、父も先生と同じような背格好だったんですか?」

問いかけた学者の身長は自分より5cmは高い、その身長に真実のパズルはピースひとつ嵌まる。
この欠片に笑いかけた向こうティッシュで顔ぬぐった笑顔は答えてくれた。

「ああ、俺と馨さんは同じ身長だったよ、体格のバランスが良いからアンザイレンパートナーに選んで貰えてな、嬉しかったよ、」

ことん、
微かな音を立てて今、過去の真相がひとつ正体を見せる。
この真相にもう一つ事実を重ねて知りたい、その願いに周太は真直ぐ微笑んだ。

「祖父も山岳部だったんですよね、父が射撃部と山岳部を掛持ちすることに祖父は賛成だったんですか?」

山岳部、射撃部、この2つに真実の鍵がある。
この鍵が開く本の扉を見つめた先、過去の証人は懐かしそうに口を開いた。

「それがな、湯原先生も学生時代は射撃部と掛持ちされてたそうでな、それが大変だったから馨さんには射撃部は反対していたんだよ、」

『 La chronique de la maison 』

あの小説に描かれた主人公「彼」は学生時代、山岳部と射撃部に所属していた。
それが「彼」を罠へと惹きこんでゆく、その涯に罪は築かれて一丁の拳銃に相克は始まる。
祖父が一冊に遺したフランス語綴りの文章たち、それは物語でありながらきっと現実の記録。

“Je te donne la recherche”

祖父が父へ贈った一冊に遺したメッセージ、あの意味が2つながら今この場所で息吹きを還す。











(to be continued)

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