萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第36話 春淡act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-19 23:55:49 | 陽はまた昇るanother,side story
運命、さだめられたもの




第36話 春淡act.5―another,side story「陽はまた昇る」

おだやかな陽射しふる雪の森で、英二はココアとホットサンドを作ってくれた。
クッカーを使う手つきもすっかり慣れて、手際よく作ってくれる。
簡単な昼食だけれど籠められた温かさが嬉しくて、ひと口ずつが周太には宝物だった。
大きなブナの梢を見あげながら幸せな昼食を摂り終えると周太は質問をした。

「ね、英二?英二はどうして雪山は竜だって、感じたの?」

ブナの林を歩きながら話していた「雪山が白銀の竜が眠るように想う」こと。
さっきこのブナの巨樹を見た瞬間に、ブナに気を取られて自分はまた他をすっかり忘れてしまった。
どうして自分はいつも、他を落っことすように何か一つにしか集中できないのだろう?
こんな子供っぽさは恥ずかしい、熱くなりそうな頬を片掌で撫でながら見つめた先で、英二は笑って答えてくれた。

「うん、山ってね、啼くんだよ」
「山が啼く?」

どういうことだろう?
不思議で首傾げた周太に、綺麗な低い声が教えてくれた。

「風が林や森を吹き抜けるとね、木々が音をだすんだ。それが俺にはね、竜が啼いているように感じるんだ」

―…銀の龍の背。そんなふうに言うひともいるよ?ほんとにさ、山って竜が眠っているようにも、見える
 …ん、木を風が駆ける音かな?…竜がね、吼える声ってこんなかな…?
 …梢を風が駆ける音だ。木の種類によっても音は違う

光一が英二を酒で眠らせた夜、光一に連れられて行った雪山で見つめた白銀の山嶺。
あのときに光一が言ったことと同じことを教えてくれながら、英二は「山が啼く」と言っている。
あのとき自分も木々の風音を、竜が吼える声のようだと思った。
同じように英二も感じてくれている?こんな同じが嬉しくなって周太は微笑んだ。

「ん、…俺もね、竜が吼えているみたい、って想うよ?」
「周太も想うんだ、同じだな?」

きれいな笑顔が嬉しそうに咲いてくれる。
こんな「同じ」を英二も喜んでくれる?嬉しいなと見つめた先で、すこし首筋を赤らめて英二は言葉を続けた。

「あとはね、…雪崩を見た時に、想ったんだ」

あの冬富士の雪崩のことだ。
あの雪崩にまつわる哀しい記憶が心に起きあがってしまう、周太は1つ息を呑んで記憶を治めこもうとした。
そんな周太を頼もしい腕が優しく包んで、そっと温もりに抱きとってくれた。

「ごめん、周太。…嫌なこと、想い出させたね?」

ほら、すぐ気付いてしまう、そして温めてくれる。
こんな「すぐ」に安らいで周太は、わがままを言った。

「ん、…ほんとにごめんって想うんなら、…きすしてよ」

わがまま言いながら恥ずかしい、頬が熱くなってくる。
でも言うこと聴いて?そう見上げた先で幸せな笑顔が咲いて、やさしいキスを贈ってくれた。
ふれる温もりの穏やかさに微笑んで、幸せに周太は笑った。

「ね、英二?雪崩を見たとき、どう想ったの?…教えて?」

このひとが感じたことを自分も共有したい。
そんな細やかな願いを見つめた先で、端正な唇が微笑んでくれた。

「初めにね、感覚の底で『来る』って想ったんだ。
それから登山靴の底を沸くように地響きが叫びをあげ始めた。それがね、大きな動物の足音の響きみたいだった」

穏かな冬の陽ざしのなか、やさしく周太を抱きしめてくれる。
温かな懐に包んでくれたまま、静かに英二は冬富士の記憶を紡いでくれた。

「迫ってくる轟音がホワイトアウトの底で吼えるのが、ほんとうに竜の吼え声のようでさ。
氷と雪の粒が体中を叩きながら…空気の塊が押し寄せるのはね、大きな動物がすり寄ってくるようだった。
氷の割れる音は、牙を噛み鳴らす音に聴こえたよ。雪が斜面を飲みこむ音は、空気を吸い込む大きな呼吸。
あのとき富士の山は、誇り高らかに吼えあげていた。ほんとうにね、白銀の竜が咆哮する響きが、全身を貫いたんだ」

白銀の竜が眠っている、そう自分は雪の山を見ていた。
けれど英二は、その竜が起きあがった暴威のなかに佇んだ。
その記憶に語られる光景が冷たい氷になって不安を産んでしまう、思わず広い胸にしがみついて周太は見上げた。

「…そんなところに、立っていたの?」
「うん、そんなところにね、立会ってきたよ?人間は小さいな、って心から肚の底から想えた」

なんでもない顔で英二はきれいに笑った。
どうして、そんなふうに笑えるの?そう見つめた先で英二は楽しげに想いを口にした。

「ね、周太?あの雪崩の姿を想い出すと不思議な気持ちになるんだ。
たしかに、あの雪崩で俺も国村も危険に晒された。けれどそれ以上に俺はね、山の神様に会えたんだって想えるんだ。
あのとき本物の竜に会えた、そんなふうに想えてしかたない。だから俺はね、やっぱり雪山に立ちたいって想ってしまうんだ」

話してくれる綺麗な笑顔の頬に、冬の陽がひとすじの細い線を透かして見せる。
この細い線は雪崩に跳んだ、最高峰の氷が裂いて刻みつけた傷の痕だった。
この傷がまだ生傷だったとき、まるで誓約の証の様に見えて哀しかった。
この傷が「最高峰に生きる運命に立つ」そんな契約の聖痕のようだと思ってしまった。

…やっぱりこの傷は、最高峰の運命の聖痕なの?

もう英二はクライマーとして任官してしまった。
最高のクライマーである光一と生涯を共に最高峰へ登ることが公式文書にも記されてしまった。
そんな英二は雪崩にも「山の神さまである竜」を見つめて憧れている。

「…英二、」

名前を呼んで周太は、そっと指を伸ばして英二の頬の傷にふれた。
ふれても傷の場所はわからない、それなのに陽光あざやかに傷痕はうかんでいる。
この傷痕の意味を、どういってあげることが英二は嬉しいだろう?そっと周太は微笑んだ。

「この傷痕はね、…最高峰の竜が、英二が山で生きられるようにって、つけてくれた、お守りだね?」

この頬を裂いた最高峰の氷は、白銀の竜の爪。
この美しい山ヤを、自分の元へと惹きよせるために刻んだ聖痕。
ようやく自分の「山」の運命に目覚めたばかりの美しい山ヤを、惹きよせ愛でる為に刻んだ護符。

…きっと、そう…英二なら、山の神さまにだって、竜にだって愛される、

「ほんと?周太。そう思ってくれる?」

綺麗な低い声で訊いてくれながら、うれしそうに英二が微笑んでくれる。
きっとそうだろう、哀しみと畏敬と、そして愛するひとへの祝福に周太は微笑んだ。

「ん、ほんとう。きっとね、英二は『山』に愛されてるよ?」

どうかお願い、山よ、この人の立つ道に祝福をしてください。
どうかお願い、ブナの木、この人の願いを受けとめ抱いていて?
そして無事にずっと山に登る自由を贈ってあげてほしい、祈りのなか周太はきれいに笑った。

「英二、北岳の話も、また聴かせてね?」

もうすぐ英二はこの国の第二峰へと立ちに行く。
どうかその道にも幸せな山ヤの時間が待っていますように。
祈りに見上げた先で英二は綺麗に笑ってくれた。

「うん、聴いてほしいよ、周太?必ず隣に帰るよ。北岳からそのまま川崎の家に帰るから、待ってて?」

やさしい綺麗な笑顔が幸せに見つめてくれる。
この笑顔をずっと見つめていけたら?そんな想いに周太は心から笑いかけた。

「ん、帰ってきて?ごはん作って、待ってるから…英二?」

どうかこの笑顔が無事で帰って来ますように。
祈りと願いを込めて周太は、そっと愛するひとへキスを贈った。



翌日の英二は勤務日だった。
ほんとうは一緒に御岳山の巡回に行きたいな?そう思ったけれど周太は我慢することにした。
この間の日曜に来た時に、自分がつい雪道を走ったせいで英二は怪我をしてしまった。
あんなふうに自分がまた冷静さを落っことして、怪我をさせたくない。
このすぐあとに英二は北岳の登山が予定されている、万が一にも怪我をするようなことは避けたかった。

「おはよう、周太…今朝もきれいだね、俺の花嫁さん?」

朝、温かな懐の目覚めに微笑んだとき、穏やかな切長い目が優しく笑いかけてくれた。
きれいな幸せな笑顔が嬉しくて、幸せで、やっぱりもう、自分は独りで立てないと思い知らされた。
この優しい幸せな時が欠片も無くなってしまったら、なにを自分の生きる理由に出来るのだろう?
そんな想いが尚更に、足手まといになることは避けたい願いになって、御岳山巡回の同行は言えなかった。
それでも見送る朝は寂しくて、部屋から出ていく背中を見送るのはため息が出た。

…でも、勤務が終わったら、またここに英二は帰ってきてくれる

朝、部屋の扉が閉められた瞬間から「あと何時間で英二に逢える?」とカウントダウンが始まった。
けれど、今夜を一緒に過ごしたら、明日には新宿へ戻らなくてはいけない。
早く夜になって逢えたらいいのに、けれど明日は来てほしくない。
そんな矛盾を抱いたまま周太は英二を見送った。

「行ってらっしゃい、英二?…あの、ゆうはんはどうしたい?」
「ここで、ふたりで食べたいな?周太が嫌じゃなかったら」

綺麗な低い声が、あまやかな約束をねだってくれる。
うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…仕度しておくね?なに食べたい?」
「そうだな、ゆっくり周太と楽しめるものが良いな、酒の肴みたいなのかな?」
「ん。わかった、」

駅に併設された食品街に夕方は行こうかな?
そう考え込みかけた周太に、綺麗な笑顔が笑いかけてくれた。

「ね、周太?夕飯どうしたいなんてさ、ほんとに嫁さんみたいだね?うれしいよ、」

綺麗に幸せな笑顔が目の前で咲いてくれる。
気恥ずかしいけれど、素直な幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…英二、今日も気をつけてね?」
「ありがとう、周太。今日は国村とのデート、楽しんできて?それで楽しかった話を聞かせてほしいな、必ず帰るから…」

やさしいキスが周太の唇にふれて「行ってきます」と告げてくれた。
そんな優しい穏やかなキスと想いをのこして、英二は部屋の扉を開いて1日の業務に向かった。

…さびしい、な。英二…

独りになった部屋はひどく広くて。
父の書斎から持って来た山行録の本を開いても、英二と一緒に読むときより楽しくない。
元々ひとりっこの周太は、ひとりの時間を楽しむことが好きでいる。
それなのに、今朝は全く楽しくない。

…どうしちゃったのかな、活字が頭に入らないなんて

こんなにも独りが楽しめないなんて?
こんなことは今までになかった。だからもう楽しめない原因は何か?なんてすぐ解ってしまう。
こんな自分を持て余して周太はソファのクッションを抱え込んだ。

…やっぱり、巡回に行きたいって、わがまま言えばよかった…

今更もう遅いのに?
邪魔したくないと自分で決めたのに?
こんな自分の弱さもわがままも哀しい、困惑ばかりが心身を支配していく。
ぼんやり周太はクッション抱えて、白銀の山波が映る窓を眺めていた。

「そろそろ目を覚ましてほしいな?俺の眠り姫さん、」

透明なテノールの笑い声と、耳元にふれる温もりに周太の瞳が披いた。
驚いて見上げると、雪白の貌が愉しげに笑って覗きこんでくれる。
クッションを抱えたまま、自分はソファに眠りこんでいたらしい。
いつのまに自分は眠っていたのだろう?
それに、いつのまにこんな至近距離に来ていたの?困惑に驚いたまま周太は尋ねた。

「光一?…いつから、ここに居たの?」
「20分位前かな?あんまり寝顔が可愛いからさ、つい見惚れてたよ?」

白いミリタリーマウンテンコート姿が周太に被さるよう見おろしている。
ソファに横たわってクッション抱え込みながら、そっと周太はお願いした。

「ん、…はずかしくなるよ?起きるから…ちょっと、どいて?」
「嫌だね、」

あっさり断られて周太は驚いて見上げた。
そんな驚いた顔を底抜けに明るい目が覗きこんで、愉しげ笑った。

「驚いた顔も可愛いね?さ、起きてよ周太?今日はさ、俺が一日ずっと独り占めできるんだからね」

告げながら光一は周太を抱きおこすとソファから立たせてくれた。
なんだか呆然としてしまうな?途惑いながらも周太は、渡されたダッフルコートを素直にはおった。
登山靴を履いてビジネスホテルのフロントから外へ出ると、ゆるやかに雪嶺から吹く風はどこか清々しい。
御岳山も雪が残っているだろう、登山道のコンディションはどうなのだろう?

…今日も一日、英二が無事でありますように

見あげた稜線に心裡でそっと祈りながら周太は四駆の扉を開いた。
光一の四駆に乗ってシートベルトを締めると、運転席から底抜けに明るい目が愉しげに微笑んだ。

「さて、ドリアード?今日はね、ちょっと連れて行きたいとこあるんだけど。でも、リクエストあらば仰せのままに?」

心から楽しげに雪白の貌が笑いかけてくれる。
こんなに光一は楽しそうなのに、自分はつい英二のことを考えてしまう。つきんと胸刺す痛みに微笑んで周太は答えた。

「ん、…夕方までに戻ってこれるなら、いいよ?ね、光一、どこに連れて行ってくれる?」
「夕方ね、宮田の勤務が終わる前ってことか。了解だよ、で、どこかはついてのお楽しみね」

からり笑って光一はエンジンキーを回した。


助手席の扉を開いて一歩降りると、さくり粉雪が登山靴をくるんでいく。
やわらかな雪を踏んで見上げるむこうには、雄渾な冬富士が青空を従え佇んでいた。
午前中の陽光ふる山頂が白銀にまばゆい、すぐ目前ひろやかな雪氷が現実感に迫ってくる。
いつも遠望する富士山の優美な姿とまた違う、猛々しさ秘めた荘厳の気配が肌感覚に響いた。

―…富士の山は、誇り高らかに吼えあげていた…白銀の竜が咆哮する響きが、全身を貫いたんだ
 本物の竜に会えた、そんなふうに想えてしかたない…やっぱり雪山に立ちたいって想ってしまうんだ

昨日ブナの木の前で英二が話してくれた冬富士の雪崩に見つめた竜の姿。
いま見つめている白く青く裾ひいた大きな姿に、英二が話してくれた言葉が実態を持って顕れだす。
これが、英二が言っていた白銀の竜が棲む山。呼吸忘れたようにただ周太は冬富士を見ていた。

「周太、富士山は初めて?」

透明なテノールに話しかけられて周太は振り向いた。
底抜けに明るい目が温かに笑んで見つめてくれる、ちいさく笑って周太は答えた。

「ん、小学校2年生の夏休みに、父と登った事がある…でも、冬は初めて、」
「そっか。夏とね、冬は全然見た目も違うだろ?」
「ん…すごいね、」

素直に頷きながら見上げる周太の頬を、峰から吹きおろす雪風がさあっと撫でていく。
その風に、白い花びらが舞いふるのを太陽の光が輝かせた。

「…きれい、」

ため息にこぼれた言葉と微笑んだ周太の前に、しずかに雪の花びらが舞いおりる。
そっと掌で受け留めると、白い花は掌のうえ陽光に輝きながら、ゆるやかに雫へと還っていく。
隣から周太の掌を覗きこみながら、楽しそうに笑って光一が口を開いた。

「富士の風花だね、」
「富士山の、風花?」
「うん。冬富士はね、突風がすごいだろ?あの風に飛ばされた雪が風花になるんだ」

冬富士から飛んできた雪の花。
いま掌に融けていく風花に周太は微笑んだ。

「ん、…最高峰の雪の、風花だね?」
「そうだよ、きれいだよね、」

風花ふる富士の風のなか、白いミリタリーマウンテンコートが翻っていく。
愉しげな足取りで駐車場の雪面を歩きながら、光一は最高峰の風花と遊ぶように空を見あげた。

「想ったとおり、よく降ってくれるね?これ、光の花みたいだろ。見せたかったんだ、周太に」

透明なテノールが歌うように楽しげに周太を振向いてくれる。
青空にふる光輝く雪の花のなか、雪白の秀麗な顔は幸せに笑っていた。

「ほんとはね、最高峰の景色を見せてあげたいよ?でもね、冬富士はエベレスト6,000m級の気象条件になるから」
「エベレスト6,000m級?」

風花ふるなか、真白な裾ひるがえす長身の姿に周太は訊きかえした。
富士山は標高3,776m、それでも冬富士はエベレスト並と呼ばれることは周太も知っている。
けれど6,000m級だなんて?驚きに見つめる先、ふりそそぐ光の雪に愉しげに笑いながら光一は口を開いた。

「そ、6,000m級だ。気圧は標高4,000mに該当する、固く締る雪は鏡面状態の場所もある。
厳冬期の穂高や剣よりはマシだろ、って思う人も多いけどね?現実には同レベルの危険度だよ、突風がなにせ危険だから」

いま立っている駐車場にも、ときおり強い風が吹きつけてくる。
マフラーをきちんと結び直しながら周太は光一の話を聴いた。

「富士山は周りに同レベルに高い山が無い、いわゆる孤立峰だ。
だから冬は季節風の北西風を猛烈にくらう。で、いちばん過酷な時は風速80m/s、気温は零下40℃になる。
もろな突風に遭ってさ、アイゼンとピッケルを氷に打ち込んで俯せたまんま、何時間も動けないこともある。これが冬富士、」

風速80m/s、零下40℃。
過酷な冬富士の実態に、周太はちいさく息を呑んだ。

「…そんなに、すごい風なんだね?」
「まあね。風って言うよりさ、空気の塊がドンってぶつかる感じかな?」

英二が話してくれた「雪崩のとき」と似ているのだろうか?
きらめく風花に透かす真白な長身の姿に周太は訊いてみた。

「英二はね、雪崩のとき、空気の塊が押し寄せるのが『大きな動物がすり寄ってくるようだった』って…そんな感じに風も?」
「ああ、良い表現だね?まさにそんな感じだよ…ふうん、宮田ってさ、やっぱり文才あるね?」

底抜けに明るい目が愉快に喜んで、舞いふる風花に掌をさしのべた。
大空にむけた繊細な白い指の掌に、ふわり一片の風花が舞いおりてくる。
そっと手中におさめた雪のかけらに微笑んで、光一は周太を見つめた。

「周太、俺のドリアード。最高峰の雪を君に贈るよ?」

きれいに笑いながら、周太の掌を取ると風花の掌に重ねあわせた。
透明な冷たさが掌ゆるく融けていく、そのまま掌を繋ぐと光一は幸せに笑った。

「この国の最高峰を支配する竜の涙だ。いま、君の掌に融けこんだよ」

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

昨日、ブナの木に聴いてもらった廻り続ける「自分の掌」への疑問たち。
この「掌の疑問」を光一は気がついているのだろうか?
隣に佇む純粋無垢に真直ぐな目を周太は見つめた。

「教えて?…最高峰の竜の涙が融けこんだ掌は、どうなるの?」

英二の頬に「山ヤの護符」聖痕を刻んだのは氷のフリした最高峰の竜の爪。
それなら最高峰の雪は、竜の涙は、この掌に何を残してくれるのだろう?
いま隣に佇む山の申し子と呼ばれる人は、なんて答えるのだろう?
どうか教えて?見つめる想いの真ん中で、底抜けに明るい目は温かく笑んだ。

「不可侵の純粋。それから、生命と尊厳の守り手になる」

どうして?
光一はこの掌がこの先に染める罪を知っている。
それなのに、こんなことをなぜ言えるのだろう?
どうして光一?哀しい疑問のまま周太は口を開いた。

「ね、光一?きっと俺の掌はね、任務のために罪を犯すことになるよ?
任務だから合法的には許される。けれど…山の掟では赦されない、でしょう?…なのに純粋って、どうして守り手って言える?」

「言えるよ?決まっているからね、」

からり笑って光一は即答した。
大らかに周太に笑いかけながら、繋いでいない方の掌も天に向けて風花ひとつ受けとめる。
ひとつの雪の涙を載せたまま光一は、もう片方の周太の掌に重ねて繋いだ。

「ドリアード、君はね?絶対に罪には堕ちない。どんな場所に立っても、君は純粋なままだ。そう約束するよ?」
「…どうして、そんなことが言えるの?」

ふたつの掌に最高峰の雪を融かされながら、周太は山の申し子を見つめた。
いつものように山っ子は愉しげな笑顔で、透明なテノールに想いを謳いあげた。

「だってね、周太?君を守るのは、俺と宮田だ。俺たち二人一緒ならね、マジで何でも出来るんだよ。
で、俺たちはね?君が大好きで、やさしい君の掌が大好きなんだ。だから絶対に守るよ?そう決まっているからね、大丈夫」

底抜けに明るい自信が周太をくるんで笑っている。
この明るい目を見ていると、何でも明るい方へと向かうような気持ちになってしまう。
たくさんの勇気と約束を昨日は英二から受け取った、だから今も明るい勇気に立っていたい。微笑に周太は頷いた。

「ん、ありがとう、光一?…竜の涙の御守り、大切にするね」
「うん、大切にしな?」

きれいに笑って光一は、繋いだ両掌を捧げるよう少し見つめた。
見つめる視線が惹くよう唇をよせると、ふわり周太の手の甲にキスの温もりが刻まれた。

「…っ、こういち?」
「これはね、周太?山っ子からの御守りだよ、きっとスゴイ効き目があるね?」

不意を見つめた周太の視線先、細い目が悪戯っ子に笑ってくれる。
ほら驚いたね?うれしげな明るい笑顔が咲きながら、そのまま周太の耳元にもキスをした。

「…っ、」

ふれられた所に熱が生まれる、首筋から熱が昇って顔が熱くなってしまう。
やっぱり馴れない困ってしまう?けれど両掌を繋がれて、真赤になっても逃げることも出来ない。
こういうのは英二なら恥ずかしくても大丈夫なのに?
赤い顔も他ごとも恥ずかしくて俯いたとき、愉しげにテノールの声が訊いてきた。

「で、さ?あいつの頬っぺた、君も気付いたろ?」

繋がれた右掌だけは解放してくれながら、左掌はマウンテンコートのポケットにしまわれた。
やっぱり手は繋ぐんだな?なんだか気恥ずかしくて困りながらも、周太は質問に答えた。

「ん、…陽に透けると、見える傷痕のこと?」
「そ、アレのこと、」

頷いて心底から愉しそうに無垢な目が笑っている。
繋いだ掌を繊細な指にくるんでくれながら、光一は教えてくれた。

「あの傷痕はさ、竜の爪痕だろね?君の掌にとけた涙とは、対なカンジだろ?」
「ん、そうだね?…あ、」

そのために光一は周太の掌に風花を贈ってくれたのだろうか?
英二の頬と揃えられたような掌に、励ましを贈ってくれている?

…英二への想いを知っているから、こんなふうに、お揃いにしてくれた?

どうしていつもこうなのだろう?
どうして光一はいつも、ただ周太の想いを大切にしようとしてくれる?
ほんとうは光一にも願っていることがある、それでも敢えて周太の英二の向ける愛を大切にしてくれる。
こんなにも無垢にやさしい人に、自分は今なにを応えたらいいのだろう?ささやかな祈りと願いに周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…俺ね、自分の掌を大切にするね?光一、」

きっとこの先に自分が立つのは、暗く穢れにも充ちた哀しみの底。
ただ任務に生きる誇りだけが尊ばれるために、個人の涙と尊厳には目を背けさせられる。
それでも自分は、どこに立っても必ず、この自分の掌を信じたい。

いま立っている最高峰の麓に広がる森の梢には、青木樹医が贈ってくれた言葉を想いたい。
自分が彼の掌を救った事実には「生命の一環を救った真実」がある、この自分の掌は尊い樹医の掌を救うことが出来た。

いま心に映る大いなるブナの木には、英二が心からの愛と告げてくれた想いがふれてくる。
なにがあっても自分は変わらない。子供じみた自分だけれど、英二が愛してくれる純粋も無垢も、きっと勁い。

いま見上げている雄渾な冬富士の霊峰に、光一に与えられた「山」おくる護符が掌に温かい。
この掌には愛するひとと対になる守りが融けこんだ、この想いと温もりはきっと自分の心ごと温めてくれる。

…だから、自分は大丈夫

いまこの時、冬富士に自分は勁い誓いを見つめよう。
この最高峰からふる風花に、白銀かがやく山の神おくる祝福が、自分にも与えられたと信じたい。
そうして勇気ひとつと勁い心を抱いて、どこにいても真直ぐ運命に生き抜きたい。
大らかな想いと雄大な山姿に微笑んで、周太はきれいに笑った。

「ね、光一?俺はね、最高峰に登ることは難しいね?…でも、俺だけにしか歩けない道でなら、最高峰を目指せるかもしれないね?」
「うん、当然だね、」

底抜けに明るい目が笑って頷いてくれる。
きらめく雪のかけら透かして、秀麗な貌が愉しげに言ってくれた。

「周太には、周太にしか出来ないことがある。君の掌はその為に使われるって、決まっているね。
だから大丈夫、君の掌は決して、罪に穢れることは無い。これはね、人間がどうこう出来ないよ?もう決まっているからね、」

光一はいつも笑顔で、こういうことを言う。
愉快気な笑顔だけれど内容は自信に満ちて、きっぱりと話してしまう
こんなひとが自分の初恋相手なのも不思議だ、そして何故か信じていいと思える。
自分を廻る不思議を見つめながら周太は微笑んだ。

「ん、決ってるんだね…信じるよ?」

きっと、父の軌跡を辿り終えることが出来る。
そして自分の道に辿り着いて自分の「最高峰」に立ちに行く。
そうして自分も相手の想いを受けとめ温められるほど、心の広い大きいひとになりたい。

…きっと、自分の掌には出来るはず、そう信じよう

生まれたばかりの自分への信頼に、きれいに周太は微笑んだ。



夜19時に英二は周太の隣に帰ってきてくれた。
青梅署独身寮で着替と風呂を済ませたきた英二に、周太はすこしだけ拗ねた。

「どうして風呂済ませてきたの?…ここで入ってくれたら、もっと、早く逢えたのに」
「ごめんね、周太?着替えてくる方が荷物が無くて楽だな、って思っちゃったんだ。それに、国村に掴まってさ、」
「ん、…光一に?」

さり気なく周太は光一を名前で呼んだ。
最初は「ふたりだけの時に名前で呼んで」と光一に言われていた。
けれど、こういうことも英二には内緒にしたくない。今日これを光一に訊いてみたら「いいよ、」とあっさり許可してくれた。
どんなふうに英二は反応してくれるのかな?そう見上げた切長い目は大らかに微笑んだ。

「名前で呼ぶことにしたんだってね、周太?」
「もう、聴いたの?」

ふたりはこの話をもうしたんだ?
こんな素早い情報共有に少し驚きながら尋ねた周太に、綺麗な低い声が教えてくれた。

「うん、さっきね。俺が御岳駐在から戻ってきた所を、あいつに掴まえられたんだ。
でね、風呂につきあえって連れ込まれて、今日のデートの話を聴かされたよ。遅くなってごめんね、周太。待たせちゃったかな、」

今日の話をきちんと光一はしてくれた。
先に話が通っているなら周太も遠慮なく英二に話しやすい、こんな配慮が光一は細やかだ。
ありがたいなと思いながらも、わがままに周太は微笑んだ。

「ん、待ったよ?でも、仕方ないから許してあげる…ね、ごはん食べたいな?」
「ありがとう。ね、周太?拗ねてもらえて嬉しいよ?」

愉しげに笑いながら英二は、やさしいキスで額にふれてくれた。
こんなの嬉しい、けど気恥ずかしいな?赤くなる額を気にしながら周太は仕度しておいた夕食の皿を出した。
サイドテーブルに並べた皿には、カッティングした野菜を使ったオードブルがある。
11月に雲取山へ登ったとき、周太はトラベルナイフで同じように食事の支度をした。
あのとき喜んでくれたのが嬉しくて今日も同じように作ってみた。
前より量は多めに仕度したけれど、喜んでもらえるかな?そう見上げた先で幸せそうな笑顔が咲いてくれた。

「周太、作ってくれたんだね?ありがとう、」
「ん…切って並べただけで、悪いのだけど。でもね、…あいじょうはこめたつもりだから」

最後はやっぱり恥ずかしい、でも正直に言おうって自分は決めた。
それでお熱い頬を撫でていると、きれいな笑顔が周太の目の前で華やいだ。

「愛情を、って…ちょっと嬉しすぎて困るよ、周太?」

こんなに喜んでもらえてる?嬉しくて赤い顔のまま周太は微笑んだ。
やっぱり正直に言って良かった。だから今日、冬富士に想ったことも英二に聴いてもらいたい。
缶ビールを英二に渡しながら周太は、きれいに笑って正直な想いを話し始めた。

「あのね、英二?俺の掌にね、最高峰の竜が御守りをくれたんだ…英二と、お揃いだよ?」




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