萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第36話 春淡act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-18 22:48:45 | 陽はまた昇るanother,side story
※念のため冒頭部だけR18(露骨な表現は一切ありません)

ふれて、かさねられる記憶



第36話 春淡act.4―another,side story「陽はまた昇る」

ゆるやかに頬ふれる陽光に周太は瞳を披いた。
目覚めていく体には昨夜の幸せが、素肌いっぱいに残されて温かい。
白いシーツとリネンと、白皙の肌にうずもれている自分の体が気恥ずかしい。
けれど、気恥ずかしさ以上に幸せに身をゆだねながら、微笑んで周太は瞳をあげた。

「ん、…おはようございます?…あの…俺の、花婿さん?」
「おはよう、周太。俺の花嫁さん、」

きれいな笑顔が幸せに咲いて、やさしい朝のキスを贈ってくれる。
穏かで優しいキスが温かで幸せな想い充たしてくれる、幸せに微笑んで周太は腕を伸ばし白皙の肢体に寄りそった。

「ん、…うれしい、英二?ね…可愛いの?」
「うん、いちばん可愛いよ?だから、ね、周太?…そんなにくっつくと、困るよ?」

困ったような微笑みが綺麗に咲いて、周太の瞳を見つめ返してくれる。
どうして困るのだろう?こうして寄り添うことが幸せで止めたくなくて、周太はわがままを言った。

「どうして困るの?くっつきたいのに…ね、英二?昨夜みたいに、俺のこと…おふろにいれて?」
「昨夜みたいに?」

気恥ずかしいけれど、昨夜の幸せな記憶のまま周太はおねだりした。
昨夜は、光一が作った驚異的なアルコール度数の日本酒を誤って飲んで、すっかり周太は酔っぱらって眠りこんだ。
けれど23時前には気がつけて、酔いは幾らか残っていたけれど英二の手助けで風呂を済ませることが出来た。
そのとき見た英二の肌が湯気に上気して綺麗で、つい見惚れてしまいながら幸せな時間を過ごした。

…また見たい、なんて…ちょっと言えない、けど、

はだかをみたいなんてじぶんもえっちなんだ。

そんな自覚が余計に首筋も顔も真赤に熱で染めあがる。
いくら恋人で婚約者とは言え、こんな「おねだり」はさすがにストレートには言い難い。
けれどきっと英二は断れないはず?気恥ずかしさに頬熱くしながら周太は英二を見つめた。

「そう…ね、英二?言うこと聴いて、愛してるんでしょ?…どれいなら逆らえない、でしょ?」

恋の奴隷だよ?そう何度も囁きながら英二は、昨夜も周太を体ごと愛してくれた。
奴隷なら言うこと聴くんでしょ?ねだる誘惑をかけたい想いに、抗わず身を任せて周太は英二に寄りそった。
ほら、言うこと聴いて?微笑んで見上げた端正な顔の頬が、すうっと綺麗な紅いろに染めあげられていく。
そろそろきっと頷いてくれる?そう見つめた先で照れたように英二が微笑んでくれた。

「うん。逆らえないよ?…おいで、周太?」

長い腕が体にまわされて、そっと宝物のように抱き上げてくれる。
額に額をくっつけて幸せに微笑むと、そのまま立ち上がって浴室へと英二は連れて行ってくれた。
こんなに自分が大胆になるなんて?自分自身の言動に途惑って呆れて、ほんとうは心底から恥ずかしい。
けれどもう、わがままに正直に求めて、こんな今の自分のすべてを曝け出していたいと思ってしまう。
だから今も、わがままをさせてね?恥ずかしさに真赤になりながら周太は唇を開いた。

「ね、えいじ?…ゆうべみたいに、あらって、よ…お願い、」

こんなおねだり、恥ずかしすぎる。
けれど昨夜、湯気と酔いの残滓にぼんやりしていても、洗ってもらう甘えた幸せが嬉しかった。
だから今も洗ってほしいな?お願い、と瞳で訴えながら見つめた先で、端正な顔が上気しながら微笑んだ。

「ツンデレ女王さまだね、周太?仰せのままに従うよ、でも…出掛ける時間、遅くなる、かな…山頂に行けなくなるかも?」

どうして遅くなるの?
そんな質問に開きかけた唇を、そっと閉じた。
この恋してくれる美しい奴隷が言いたいことが、なんとなく解かったかな?赤い顔のまま周太は答えを告げた。

「お昼ごはんはね、あのブナのとこで食べたい…あとは、すきに、ね?…ゆるしてあげる、」

こんな朝からなにしているの?
そう思う自分がいる、けれど愛し愛されたい想いが強くて止められない。
だってもう、この時間にはピリオド打つ日が来ると、あの大会で決められただろう。
だからせめて今は、この愛する想いだけ見つめられる時間を心から愛しんで止めたくない。
そんな想いに微笑んだ周太を、きれいな笑顔が静かに抱きしめてくれた。

「うん、それには間に合うから…可愛い、周太。好きにするよ?」

ふれあう肌が湯気にけぶって温められる、肌の温もりと湯のやさしさに融けていく。
こんなに愛するひとを求めてしまう自分が恥ずかしい、けれど幸せに酔いしれたい想いもある。
あの射撃大会で自分の運命は、この優しい幸せから遠くへ行くことが、もう定められたと解っている。
そして英二はもう、山岳レスキューに立つ山ヤの警察官として、危険地帯の救助に生きる責任を決めてしまった。

…今日だって、解からない。週休の今日だって、召集があれば、行ってしまう…

このひとが危険地帯に立ってしまう、その不安を想うと苦しくて、おかしくなりそう。
けれど英二は、この道に生きる誇りを見つめ認められ、夢に笑って輝き始めている。
その輝きを自分が一番に望んでいたい、目を逸らさず、ずっと見つめたいと願い続けたい。
だからこの今も英二が求めてくれるまま応えていたい、そして帰って来たいと英二に強く願ってほしい。
祈りと願いを見つめて周太は湯気のなか微笑んだ。

「ね、えいじ?ずっと帰ってきてね、隣に…やくそくして?」

どうかお願い約束してほしい、あなたの無事を祈り続けている自分の想いに応えて?
きっと「自分の隣」は難しくなると解っている、それでも幸せな約束に今だけでも酔いたい。
あまやかな湯気に見つめる想いのなかで、綺麗な笑顔が幸せに華やいだ。

「うん、約束するよ?周太…おいで?」

約束と一緒に英二は、周太の体を抱き上げてくれる。
そして浴室の扉を開くと、白いベッドへと周太の素肌を沈めこんで抱きしめた。



野陣尾根のブナ林に佇んだとき10時をクライマーウォッチは示した。
アイゼンで雪踏みしめていく森は、ぱさりと梢ふる雪の音が静かに響く。
踏みしめられる雪音がどこか懐かしい、樹木の肌しずむグレーと白銀の静謐を進みながら周太は微笑んだ。

「しずかだね、冬の山って…」
「うん。雪がね、音を吸ってしまうから、」

谷側を歩いてくれながら英二は周太に笑いかけてくれる。
慎重に運ぶアイゼンワークで仕事道に分け入りながら、きれいな低い声が教えてくれた。

「冬の山は、物音が少なく感じるよ。とくに雪山は。ほんとうにね、冬に山が眠っているって感じがする」
「冬に眠る…ん、そんな感じがする、ね」

幼い日に父と訪れた雪の奥多摩、あのときも雪の山を見た自分はそんな感想を抱いた。
このことを英二にも聴いてもらいたいな?懐かしい父との記憶の時間を周太は紡いだ。

「雪の山を初めて見たときにね、竜が眠っている、って想ったんだ…きれいな銀いろの白い竜だな、って」

こんなこと言うと変かな?
すこし気恥ずかしくなりながら見上げた隣は、楽しげに笑ってくれた。

「白銀の竜か、うん、そんな感じするな?うん…ほんとうにね、周太。雪山は竜だと思うよ、」
「ほんと?ね、英二はどんな時に、そう感じたの?…あ、」

周太が訊いた時、連なる樹間の細い仕事道から広やかな空間に出た。
居並ぶブナの木たちが囲んだ空間に、青空を梢に戴冠するブナの大きな姿が佇んでいる。
この木に会うのは11月以来のことになる、久しぶりの再会に微笑んで周太はブナへと歩み寄った。

「こんにちは、久しぶりだね?…雪にも、強いんだね?」

話しかけながら根を踏まないように巨樹の前にと進んでいく。
ふとやかな幹の前に立って見上げると、雪凍る梢の合間から如月の青空が輝いていた。
梢まとう雪氷はまばゆい光の花になって満開に咲き誇る、美しさへのため息交じりに周太は微笑んだ。

「ん…きれいだね、ふれさせてもらうね」

登山グローブを外すと両掌で、雪の無い幹にしずかにふれた。
冷たい雪山のはざま冷えた樹皮のした、ふれる場所から仄かな温みが伝わってくる。
どこか感じる温もりが嬉しい、そっと周太は幹へと耳をつけた。

かすかな水音が、ゆるやかな静寂の奥深くに響いていく。
ふれる頬と耳には大気に冷やされた樹皮がざらりと感触を伝えながら、芯に流れる生命の温度が静かにふれてくる。
この雪の冷たさにもブナの巨樹は佇んでいる、こんな光景がこのブナの巨樹には、いったい幾星霜と繰り返されてきただろう?

…きっと、自分よりもずっと永い時を、この木は生きて…

樹木は永遠に沈黙へと佇んでいる。
けれどこうして耳を澄まし掌でふれる時、たしかな生命の息吹と血流に出会っていく。
このブナの巨樹はこの場所で、ずっとなにを想っているのだろう?
このブナの巨樹が生まれた悠か遠い時間、ここに佇んだのはどんな人だろう?
このブナの巨樹の前では自分の想いも悩みも、生涯の生命すらも小さな時の一瞬かもしれない。
いま、こうしてブナにふれている自分の掌。
この掌はいつか哀しい任務の血に染まることになるだろう。
けれどその時にも、このブナの巨樹はこうして自分の掌を受けとめてくれるだろうか?

…生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?

この疑問には、どんな答えを見出すことが出来るのだろう。
この疑問の原因に、父はどのように向き合ってきたのだろう?

この疑問に生きた父の真実と想いを知りたくて、自分はこの道に立つことを選んだ。
ほんとうは揺らいでしまう自分がいる、そのたび覚悟を幾度も泣きながら繰返して、それでも逃げたくはない。
この道に立って父の想いも自分の運命も見つめて答えを得たい、この覚悟も望みも本音。
それでも疑問も涙も決して止むことが出来ない。

…この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

ずっと廻り続けていく疑問と涙。
あの春の夜を過ごし、訪れない銀河鉄道の夜に泣いて、そして選んでしまった今立っている道。
この道に立った瞬間からずっと、終わることない疑問と涙のリンクに心が竦んでいる。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

すこし止んでも、また廻りだす疑問に竦んだ心のままに自分は孤独に生きることを選んできた。
この選んでしまった道の冷たさと重たさに誰も巻き込みたくも無かった。
この道で苦しむのは自分だけで良い、父を「殉職」のレッテルで見られる事もされたくない。
そう思って会話すら母としかしてこなかった。
それなのに。

…それなのに、…英二は、この運命に佇んでしまう…

警察学校で出逢ってから、ずっと英二は隣にいてくれた。
山岳訓練で滑落した時は救助に来てくれた背負ってくれた、立籠もり事件の時も隣に来てしまった。
父の殺害犯と対峙する時もそう、射撃競技大会でもそう。いつも英二は隣にいてくれる。
ほんとうは英二の普通の幸せを奪いたくなかった、なのに求められて嬉しくて、応えてしまう弱い自分がいる。

ずっと13年間を覚悟し続けた孤独と贖罪で造り上げた心の鎧。
本当は弱虫で泣き虫な自分、それでも鎧にこめ続けてきた偽りの強さに生きようと決めていた。
けれどもう、綺麗な笑顔のやさしさに、すべてが崩れて壊れて、独りでは立てなくなった。
与えられた英二の愛を受けとめて、寄添って生きていく。この幸せを抱きしめてしまった。

これが正しい選択なのか?

今だってずっと迷っている、婚約すらしたのに迷っている。
ほんとうは心から願っているから、祈ってしまうから、迷っている。
こんな自分の危険に踏み込まないで、英二が本来立つべき場所で輝く姿を願っている。
山に登り最高峰で輝いていく姿を、きれいな笑顔が咲き続けてくれることを、心から願っている。
この願いを祈っている、だから本当は、

…だから、離れたかった…英二、

だから本当は冬富士の雪崩の後、威嚇発砲して罪を犯せば、否が応でも離れられると思った。
もし光一に返り討ちにされたとしても、自分が消えてしまえるのだから良いのだとも思った。
こんな思惑も本当は心に隠しながら、あの弾道実験のザイル狙撃銃座で自分は拳銃を手にしていた。
こんな罪を犯したら、もし返り討ちに殺されたら。どれだけ周りに迷惑がかかるのか?大切な母を哀しませるのか?
ほんとうは考えなかったわけじゃない、けれど他にもう方法が想いつかなかった。
自分が選んだ危険から英二を守る方法が、もう、他に何も見えなかった。

「Le dernier amour du prince Genghi」

源氏の君の最後の恋―『Nouvelles orientales』にある恋愛小説。
光源氏は美しく才能あふれた恵まれた男、けれど母の愛に恵まれず孤独のままに「無償の愛」を求めていた。
けれど源氏は「無償の愛」を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
最初に読んだときは、忘れられたら哀しいと思った。
けれど自分は、忘れられても良いと思うようになった。
たとえ忘れられてしまっても、ひとときでも英二を安らがせてあげられたなら。
そうして一度でも名前を呼ばれて愛された記憶があるのなら、それで幸せだと想えた。

そして思ってしまった「むしろ英二は周太を忘れた方が幸せになれる」かもしれない?

自分を忘れることで英二が幸せになれるのなら、それでいい。
こんな危険な道に立つことを選んだ自分を守る、そんな危険を冒してほしくない。
だから、自分の事なんて忘れてくれていいから、遠くへ行きたかった。

周太が英二の手の届かない遠くへ行けばいい

そうしたら英二も自分を諦めてくれるだろう。
もう英二は周太の危険に巻き込まれない、普通の幸せに戻る事も出来る。
そして英二は「山」に全てを懸けてい生きられる、輝く山嶺の世界で自由な誇りに生きていける。
そんなふうに、夢に輝いていく姿のままで、幸福な人生を全うしてほしい。
そんな英二の姿を一番に望んで祈りたくて、邪魔な自分を消したかった。
けれど、消えたい想いと表裏になって、傍にいたい願望は温かすぎた。

「英二の帰る場所は自分だけ、それなら傍にいてあげたい」

そんな願いを言い訳にして、英二の想いを受入れてきた。
そうして与えられる幸せは、本当に温かくて心も体も救われ続けてきた。
この幸せのままに、与えられるままに、英二が望んでくれるなら一緒に危険な道も歩けばいい。
そんなふうに甘えながら自分は英二の愛情を受入れて、そして、愛してしまった。

…ほんとうは、離れたくない 愛してしまったから

けれど光一の姿を見てしまった。
光一の能力を目の当たりにしてしまった。
そして光一が英二の体を要求したと聴いてしまった。
英二にとって、唯ひとりのアンザイレンパートナーだと光一を認めてしまった。
それで想ってしまった。

「自分よりずっと光一の方が英二の居場所にふさわしい」

だからもう、自分は居なくなればいいと思ってしまった。
自分が居なくなっても光一がいる、英二には居場所がある、大丈夫。
そう思ってしまった時にはもう、自分が英二の傍にいていい理由が消えてしまった。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

ひととき止んでも廻りだす疑問、竦んでしまう心。
この終わらない疑問と涙に疲れてしまう自分がいる。
いま立っているこの「父の軌跡を追う道」は大切な母を泣かせても自分から選んだ。
けれど気づかされていく幸せの温もりに、この掌が辿る運命に待つ現実の冷たさが怖くなっていく。
この掌を穢すことになる覚悟が、この掌を愛してくれる人への想いと矛盾して身動きができない。

疑問と涙、冷たい現実への恐怖。
それでも逃げたくはない、父への責任と、誇りと意地。
それなのに「きれいな英二の笑顔を守りたい」この唯ひとつの祈りと願いには、自分の選んだ道は矛盾する。
この矛盾が本当は辛くて痛くて堪らない。

もう、終わりにしたい?

そんな本音がときおり穏やかに囁いてくれる。
そんな本音があのとき心と掌を動かして「トリガーを引く」選択になった。
英二の体を守りたい。この願いも本当の気持ち。けれど、そんな願いの翳で本当は「囁き」に耳傾けながらトリガーを引いた。
こんな自分の危険に英二を巻き込まないで済む方法、もう、他には想いつけなかったから。

こんな愚かな自分だから「父の軌跡を追う危険な道」を、歩むことも止められなくて。
けれど本当は、英二の幸せな笑顔だけが大切で、その為なら何を捨てても構わなくて。
この2つの意地と願いの狭間に顕れた答えが「自分を消す」ことだった。

光一に銃口を向けること

威嚇発砲の罪でも、返り討ちでの絶命でも良い。
とにかく自分が英二には追いかけられない場所に行けばいい。
これなら確実に、英二が追いかけられない遠くに自分は行ってしまえる、そう思った。
これがもう、英二が普通の幸せに戻れる最後のチャンスかもしれない、そう思ってしまった。

ほんとうは自ら命を絶てば良かったのかもしれない。
けれど、どうしても、自分には出来なかった。

だから光一に自分を消させてしまいたかった。
もし光一が自分を消したなら、きっと光一は自分を忘れられなくなる。
そうしたら光一はいつも自分の存在を意識して、そのぶんだけ英二を大切にする。
そして一度は英二に愛された自分の「意地」を英二の隣に佇む存在へと刻んでしまいたかった。
こんな自分にも優しくしてくれた光一を、自分の想いの為に利用しようとした。

それなのに、光一は、周太の罪を被って背負ってしまった

まさか、光一が自分の初恋だとは告白の瞬間まで思わなかった。
まさか14年間この自分を想ってくれた人がいるなんて?
まさか嫉妬の相手がその人だなんて?
あの告白の時は驚きと、戻り始めた記憶への途惑いが心を揺らした。
思ってもいなかった結果に途惑って、それでも寄せられた想いが嬉しかった。
自分が消えるはずだった「銃口」の前で、光一はあざやかに14年前の「山の秘密」と初恋を蘇らせてくれた。
自分を消してしまうはずだった瞬間の緊張、それが14年間の愛を告げられる瞬間の温もりに転化した。
消える、は、蘇える になった。

自分はもう、消えることは出来ない?

覚悟が肩透しにあった脱力感。
孤独だった時間もずっと、自分の幸せな笑顔に逢いたいという祈りがあったと知った喜び。
もう英二を自分から自由にしてあげられない?この安堵と哀しみとの矛盾。
初恋のひとに自分が向けた残酷な行為の罪悪感と大らかな愛情の引力。

あのとき、沢山の想いに竦んだまま、光一の掌に曳かれて下山した。
そして竦んだ心は14年前の雪の森に佇んで、帰りたがらなかった。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?もう、終わりにしたい?
この14年間の忘却の罪をどうやって償えばいい?
忘れていた瞬間が甦った今は英二に告げてきた「初めて」は嘘になる?

増えていく疑問が心に廻って竦んでいく。
増えた疑問から目を逸らしたかった、しばらく14年前の雪の森に閉籠りたかった。
心は聴かされ思い出したばかりの、美しく楽しかった14年前の雪の森から帰りたがらなかった。
独りぼっちにしていた光一への想いに少しでも償いたい、この想いに尚のこと雪の森に佇みたかった。

ほんとうは、弱い自分がすべて悪い。
弱いままに父の死を受けとめられなかった、そして記憶も忘れてしまった。
弱いままに自分は英二の愛と自分の選んだ道の矛盾から、逃げたくて罪を犯してしまった。
弱いままに求められたら嬉しくて甘えたくなって、光一の14年間の想いに心を繋いでしまった。
こんな自分の弱さに尚更に、英二の隣にいる資格が自分には無いと思ってしまった。
もう英二の愛を受けとる資格も自信も、すべてを見失ってしまった。

…だから、嫌いになりたかった、英二のこと

だから本当は「体を無理強いされた」理由のままに、嫌いになって突き放してしまいたかった。
もし自分から本気で拒絶し続けたなら、英二も諦めて遠くに行ってくれる。
自分から遠いところで、ただ山に生きる幸せに英二は生きて輝いてくれる。
そうしたらもう、こんな自分の危険な道に巻き込まないで済む。
こんな「嫌いになる」課題を持って1ヶ月を過ごそうとも考えていた。
それなのに。

…それなのに、離れた分だけ、逢いたかった…逢いたくて寂しかった、英二…

逢いたくて、逢いたくて。
無理強いの恐怖に竦んだはずの体まで「逢いたい」と求めた。
ただ「英二に逢いたい」それだけしかもう、考えられなくなっていった。
クロワッサンの香にすら英二の面影と記憶を見つめて、英二と一緒にいた過去の自分に嫉妬した。
こんなに求めたかったのに「逢いたい」と自分からは言えなかった。

14年間の忘却への贖罪と記憶への愛情のまま、光一の初恋を手放すことが出来ない自分。
積み上げた14年間の時のまま「一生ずっと」と告げてくれる光一に、14年分ごと向き合って見つめたい。
こんな願いをもった自分には「逢いたい」と英二に言う資格はない、逢って何が言えるのかも解らない。
たくさん結んだ約束の幸せを、叶えて受けとる資格も自分にはもうないのだと諦めようとした。
たくさんの幸せな記憶と約束の面影を、見つめるごとに哀しくて苦しかった。

そして再会した拳銃射撃競技大会で、英二の胸に縋ってしまった自分がいた。
そしてもう離れたくなかった、だから土曜日は勝手に決めて奥多摩まで着いて来てしまった。
一緒に奥多摩へかえる「奥多摩鉄道の夜」は嬉しくて。
正直な想いを晒して受留められた事が幸せで、わがままに求めて応えてもらえて嬉しくて。
ありのままの自分を見つめられながら求め合って、再び体と心を繋いだ瞬間は心から幸せだった。
こんなふうに、わがままな自分の弱さごと受留められたら。もう独りで立てない、どこにも行けない。

それでも本当はまだ迷っている。
こんな自分の危険な運命に、愛する人を巻き込みたくはない。
だから美代の想いを知った上で、英二と美代をふたりきりで映画にも行かせてしまった。
もし、あのままに、ふたり想いを繋いでしまっても、構わないと想ってしまった。

けれど、拗ねて哀しくて苦しくて、取り戻したいと思ってしまった。
こんな弱い狡い自分は結局は、わがままに正直でいることしか出来ない。
もっと強くて賢くなれたなら、もっといい方法も見えるのだろうか?

ブナの木、この自分の想いが聴こえますか?

このブナの木に今日、会いに来たかったのは、この心の全てを聴いてほしかったから。
このブナの木は英二が大切にする木で、大切な安らぎの場にしている。
だからこの木に自分の想いを全て聴いて、覚えていてほしかった。
この掌が穢れる前に、このブナの木にもう一度ふれたかった。

…ね、ブナの木?この掌はもう、何かを救うために使えない、のかな…

英二の掌は人命救助と尊厳を守るために血に塗れる。
けれど自分の掌に待ち受ける運命は、きっと真逆の理由になっていく。

この掌をいつか英二の為だけに遣いたい、妻になって温かな家庭を作る掌にしたい。
そんな願いも祈りも本当で、けれどその前に掌が犯す罪の穢れが冷たくて。
そんな冷たい穢れに染まった掌で、ほんとうに温かな家庭など作れるの?

ブナの木、どうか覚えていてください。
この掌がまだ穢れて冷たくなる前の感触を、温もりを、あなたに覚えていてほしい。
そして英二がここに安らぐときに、この掌の記憶もどうか伝えて温めてあげて?
どうか覚えていてください、いまこの掌の温もりを。
この冬が終わって春が来て、夏が来たらもう、この掌は冷たくなるかもしれないから。

…だから、この冬のうちに、あなたに会いに来たかったんです、ブナの木…

閉じた瞳の奥から想いあふれて、涙が頬を伝っていく。
自分で選んだこと、それでも涙は止まってくれない。
この掌が冷たくなった後の自分は、大切な母と英二に料理を作ってもいいのだろうか?
誰よりも大切な家族、愛する二人の為に、この掌は遣っていもいいの?
そんな冷たい穢れに染められた掌を、美しい初恋相手の純粋無垢な山ヤは何と言うのだろう?
そして大好きな友達は、美しい野菜を育んでいく尊い掌を持った友達は、自分の掌の正体をどう思うだろう?

この疑問の答えは、どこ?

この先にある道の涯が、この間の射撃大会で一歩現実に近づいてしまった。
そんな今の現実に心が軋みあげていく、疑問の答えはどこと求める声が大きくなる。
こんなに弱くて泣き虫の自分に、この現実は支えきれるのだろうか?
そう思った周太の心にそっと一節の文章が寄りそった。

―…樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています 
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています…
 君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります…どうか君に誇りを持ってください。

…生命の一環を、救った真実…誇りを持って

ちいさな呟きが心にこぼれ落ちていく。
こぼれ落ちた呟きは声になって森の空気にひっそり融けた。

「…誇り、」

そっと呟いた唇に、やわらかな温もりがふれた。
温もりは幸せな熱を運んでくれる、この温もりの正体を自分は知っている。
ふれる温もりの幸せに微笑んで、しずかに周太の瞳が披かれた。

「…英二?キス、うれしい、よ」

しずかに見つめた綺麗な切長い目が穏やかに微笑んでくれる。
もう一度やわらかなキスを贈って、きれいな低い声が言ってくれた。

「周太、愛してる。ずっと、いつまでも、君を愛してる」

きれいな笑顔が見つめてくれながら、ブナの木にふれる掌に長い指の掌を重ねてくれる。
やさしい熱に包まれていく周太の両掌は、そっとブナの木から離れて端正な口許へと運ばれた。

「なにがあっても変わらない、君と、君の掌をね、俺はずっと愛してる」

きれいな唇が、やさしいキスを両掌に温もりと想いを贈ってくれた。
こんなふうに贈られる、やさしさに、美しさに、温もりに、心が響いてしまう。
響いていく想いのまま、心の底にしまい込んでいた本音が迫り上げられた。

「…英二、…ほんとうはね?嫌いになりたかったんだ、英二のこと…遠くに、行って、ほしかった、」

言葉と一緒に涙あふれて頬伝っていく。
あふれていく涙に端正な唇がふれて、やさしいキスが涙を吸ってくれた。

「遠くに、行ってほしい?」

きれいな低い声が穏やかに訊いてくれる。
ほんとうはそんなこと思っていないだろ?そう目が笑いかけて微笑んで。
こんな顔で訊かれたら素直に答えてしまう、正直に周太は首を振った。

「嫌…遠くに行ってほしくない、傍にいてほしい…でも、ね、英二?俺の掌は、夏が来たらもう…きっと、今と変わって…」
「周太。変わらないよ、周太も、周太の掌も、」

綺麗な低い声が明確に告げて、切長い目が真直ぐに周太の瞳を見つめてくれる。
見つめられる視線が真摯で美しくて、ただ周太は見惚れながら低い声に心傾けた。

「なにがあっても、周太は変わらない。君の純粋無垢は勁いってことを、俺は知っている。
そしてね、これも知っている。周太は俺を愛してくれて、俺の幸せを…普通の幸せを俺にくれようとしている。そうだろ?」

もう今は何を隠したって仕方ない、きっと英二を誤魔化すことなんかもう出来ない。
わがままな周太も全て見つめてくれた英二には「正直」しか通らないから。
こくんと涙ひとつ飲みこんで周太は頷いた。

「俺の危険に、巻き込みたくない…重荷を背負わせたくない。もっと、ただ、幸せに生きて、笑っていて、ほしくて…」

こんな願いも本当の想い。
けれどもっと正直な願いが自分にはある、それを願っていいのか解らない。
真直ぐに見つめ返す切長い目は穏やかに、真摯な想いを見つめながら微笑んだ。

「俺の幸せはね、周太?周太の隣でしか見つけられない、だから隣に帰りたいよ?
だから周太、覚えていてほしい。もし君が、この世から消える日が来た時は、きっと俺もこの世から消えてしまう」

いま、なんて言ってくれたの?
驚いて見上げた想いの真中で、綺麗な笑顔が幸せに笑ってくれた。

「言っただろ?俺はね、ずっと周太の隣に必ず帰る。周太のいる場所が俺の帰る場所。
だからね、周太?君がこの世から消えたとしても、俺は君のいる場所に帰ってしまうから…きっと、そうなるから、だから」

長い指が周太の両掌をやさしく包んで、宝物のように温めてくれる。
こんな優しくされたらもう、どうしたらいいの?そんな想いと見つめる先で英二は綺麗に笑った。

「だから、もう逃げないで、離れないで、周太。そして俺を縛り付けていて?だってね、君は俺のツンデレ女王さま、だろ?」

こんなときに、そんな言い方するなんて?
可笑しくて思わず笑ってしまう、まだ涙に濡れた瞳のまま周太は微笑んだ。

「女王さま、なの?…じゃあ、ずっと、一緒にいて言うこと聴いてくれるの?」
「うん、周太。ずっと一緒にいて、言うこと聴くよ?どんな命令でも、おねだりでも、聴くから…離れろ、以外ならね?」

幸せそうに想いを告げながら、綺麗な笑顔が咲いてくれる。
やさしく長い指の掌が周太の掌を惹きよせると、大らかな優しい想いが周太の瞳を覗きこんだ。

「周太、絶対の約束をするよ?俺はね、必ず君の隣に帰ります。君の笑顔を見つめていたいんだ。
最高峰でも君を想っている、だから永遠に告げていくよ?世界中の最高峰から、君を愛していると俺は、永遠に告げていく。
君が他のひとに恋しても憧れても、俺の気持ちは変わらない、必ず君を守っていく愛していく。俺の幸せは君の隣だけにある」

こんな告白は幸せだと心から想う。
素直に頷いて抱きついて、キスして応えられたらいいのにと想う。
けれど自分がふさわしいのか解らない、想いと迷いに正直に周太は唇を開いた。

「…俺は、きっと、…罪を犯すことになる…それに、光一の想いを無視することも出来ない…それでも、いいの?」
「どんなこともね、俺の想いは変えられないよ、周太?」

迷いなく即答をくれた。

…もう、嘘がつけない

黒目がちの瞳から、隠し続けた本音が涙になってあふれていく。
あふれた本音は言葉になって、周太の口を開かせた。

「…お願い、英二…聴いて?ほんとうの気持ち…お願い、英二…あなたを、全部、俺にください」

弱い自分は狡い、けれど英二は好きだと言ってくれた。
わがままも泣き虫も好きだと言ってくれた。
だからもう、本音を隠してなんかおけない。
泣き虫の本音のまま、涙こぼしながら周太は英二に正直に縋りつく想いを告げた。

「ずっと俺だけを見つめて、ずっと隣にいて?…お願い、
どんな罪に堕ちても俺を捨てないで?…穢れても、愛して?心も体も愛して?
どんなに穢れても、罪に堕ちても、傍にいて…英二の全てで、俺を受けとめてよ?…愛してるなら、言うこと聴いて?」

弱くて泣き虫わがまま、愚かで甘えたがり。
こんなみっともない自分なのに、これから先には穢れて罪にすら堕ちていく。
染められていく罪の冷たさに、掌だって冷え切ってしまうかもしれない。

こんな自分でも本当に、ずっと愛し続けてもらえるの?
愛情を盾に命令して、こんな涙で縋りついてもいいの?

「うん、周太。言うこと聴くよ?」

真直ぐ見つめた想いの真ん中で、心から幸せな笑顔が花開く。
きれいな笑顔に華やいで低い声が約束を告げた。

「約束するよ、周太。一生ずっと俺の全ては君のもの、ずっと君を受けとめて愛する。それがね、俺の幸せ」

掌を包んでくれたまま、真直ぐな目が見つめて微笑んでくれる。
こんな約束をくれる人に自分も精一杯の想いを贈りたい、見上げて周太はきれいに笑った。

「ん、…受けとめて?愛して?一生ずっと隣に帰ってきて?
なにがあっても、ごはん作って待ってるから…おふとん干してあげるから、一緒に眠って…ずっと体ごとあいして?」

最後はほんとうに恥ずかしい。
けれど伝えたかった想いが遂げられて幸せに周太は微笑んだ。
微笑んだ唇に、きれいな笑顔の唇がそっと近づいて笑ってくれた。

「うん、愛し続ける…周太、誓いのキス、してもいい?」
「ん、…して?」

素直に笑った周太の唇に、穏やかに熱いキスに唇が重ねられた。
やさしい想い、大らかな愛情、守りたい気持ち。心と体で求め合いたい想い。
それから、互いに願う「傍にいたい」やさしい素朴の切ない祈りがふれあっていく。
梢ふる冬の木洩陽まばゆい光のなかで、約束とキスに結ばれた2人の翳が白銀の雪へと青く描かれた。





(to be continued)

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