萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第70話 樹守act.9―another,side story「陽はまた昇る」

2013-10-28 23:59:04 | 陽はまた昇るanother,side story
Rough winds do shake the darling buds of May,



第70話 樹守act.9―another,side story「陽はまた昇る」

やわらかな振動音に呼ばれて浮上する、そして瞳が開く。

「…ん、」

まだ潤んだような視界は熱が高い、そんな自覚にゆっくり頭を動かす。
窓のカーテンまだ開いた部屋は黄昏ゆるやかな光きらめいて携帯電話が鳴る。
もう夕暮の時刻らしい、そんな光ふるベッドで周太はサイドテーブルに手を伸ばし電話を開いた。

「あ、…美代さん、」

親しい名前は熱の意識にも嬉しくなる。
嬉しい着信人名と時刻から終業時間だと納得しながら通話を繋げた。

「こんばんわ美代さん…仕事、終わったばかりだよね…どうしたの?」
「湯原くん?今、どこか具合悪いの?」

繋がったばかりの電話向う、可愛い声は心配に尋ねてくれる。
もう用件などより体調を確認したい、そんな優しさに周太は素直と微笑んだ。

「ん…ちょっと熱が出ちゃってるの、でも実家にちょうど帰って来てる時だから良かったんだ…大丈夫、」

本当に、実家に帰っている時で良かった。
実家にいる安堵から心身が緩んだ所為もあるだろう、けれど今の状態ではいずれ熱は出している。
それなら安心して寝ていられる家族の場所で幸運だった、そんなふう微笑んだ電話ごしに友達は言ってくれた。

「お家にいるなら良かった、治るまで寮になんか戻っちゃダメよ?ね、いつまでお家にいるの?」
「ん…日曜の朝までお休みなんだ、…あ、電話の用事は?」

答えながら思い出して訊いてみる。
仕事終わり直ぐ電話をくれるなんて急ぎの用かもしれない?
そんな推測しながらブランケット引寄せた向こう、美代は少し安堵したよう笑ってくれた。

「あのね、秩父演習林のレポートと資料を渡したいなって電話したんだけど、土曜日に川崎のお家まで行ったらご迷惑かな?」

美代が家まで来てくれる?

こんな提案は楽しくなってしまう、そして3月の雪が懐かしい。
あのとき初めて森林学の聴講にふたりで行って、初めて青木准教授の研究室に遊びに行った。
三人でお茶を呑んで美代は青木の本へサインしてもらった、そんな楽しい時間の後も楽しかった。

―あのとき家に泊ってくれたね、雪で中央線が止まって…楽しかったな、

積雪で帰れなくなった美代は、この家に泊ってくれた。
そして母も一緒に三人で囲んだ夕食は楽しくて、書斎や屋根裏部屋の本を話せて嬉しかった。
それから初めて美代は大学の受験勉強をこの部屋でした、あの楽しい訪問の記憶から周太は微笑んだ。

「ん、来てくれたら嬉しいよ?…土曜日ならもう熱も下がってると思う、遊びに来て?」

遊びに来て?そう誘える友達が自分に居てくれる。
こんなことは普通の日常だろう、けれど自分にはそうじゃない。
ずっと孤独だった時間が今の日常を得難いと気づかせてくれる、この嬉しい先で可愛い声が弾んだ。

「うん、遊びに行かせて?手塚くんも一緒に行きたいと思うけど、誘ってみる?」
「ん、賢弥も声かけて?…前にお茶点てるの見たいって言ってたから、」

すこし前の記憶から答えて、眼鏡かけた明朗な瞳が懐かしい。
あの友達が大学院進学の夢をくれて、祖父の研究室にまで橋を掛け父の親友と出逢わせた。
そのお蔭で祖父が遺した学術基金を申請してもらえて森林学専攻とフランス文学の研究生になれている。
どれもが自分にとって大切な宝物、そんな出会いに微笑んだ電話ごしから美代は楽しげに提案してくれた。

「ね、お茶点てるなら宮田くんと光ちゃんも誘って良いかな?二人とも忙しそうだから息抜きになるし、久しぶりに私も会いたいの、」

宮田、

その名前に鼓動ひとつ打って、ゆるやかに締められる。
その名前で最期に呼び掛けてしまった瞬間の貌、あの哀しい瞳が傷む。
あのとき呼びかけ一つで傷つけてしまった、その自責は傷んで、それでも周太は微笑んだ。

「ん、美代さんに任せても良い?」
「じゃあ連絡しとくね。あ、山火事のこと湯原くん知ってるでしょう?地域ニュースにもなって、」

頷いてくれながら続いた話題が、とくん、鼓動ひとつまた敲く。
一週間前に見たニュースの画面は今もあざやかで、焦げた青いウィンドブレーカー姿が心に立つ。
ただ1分も見つめていない、それでも誇らしい眼差しに一週間を経ても惹きつけられるまま友達が教えてくれた。

「あれから宮田くん、すっかり奥多摩ヒーローになっちゃってるのよ?前だって人気すごかったけど、」

奥多摩ヒーローなんて特撮戦隊ものみたい?

そんな感想と一緒に想像図まで浮んで可笑しくなってしまう。
可笑しくて、つい笑いだした胸から噎せあげて笑いながら咳こんだ。
けれど思ったより痛くないことに安堵する、これなら喘息の発作じゃないだろう。

―いつもの疲れた時の癖だね…よかった、まだ酷くなったわけじゃないよね、

まだ悪化したわけじゃない、まだ持ち直せるだろう。
そんな安堵も嬉しくて笑いながら噎せる電話ごし、心配な声が尋ねてくれた。

「湯原くん?咳、苦しいのね?電話切った方が良いかな、」
「こほっ…だいじょうぶ、笑って噎せただけ…っこほ、すぐ治まるから待ってね」

笑いながら小さく深呼吸して咳を治めこむ。
こんなことも幼い頃からの習慣として当り前で、それが体質の現実を改めて教えてくる。
こんなふう咳が出やすいこと自体を深く考えていなかった、そんな自分の呑気に困ってしまう。

―そういえば俺、のんきさんって呼ばれてたね?…のんびりや呑気さん、って、

ふっと浮かんだ記憶から父の笑顔が振向いてくれる。
綺麗な切長い瞳は可笑しそうに笑って見つめて、深い声が陽気な綽名を呼ぶ。
そんな明るさが父にはあった、その温もり見つめながら咳は治まって周太は微笑んだ。

「ん…びっくりさせてごめんね?なんか奥多摩ヒーローって戦隊ものみたいで可笑しくて、笑っちゃったんだ、」
「あ、ほんと可笑しいね?あははっ、」

電話向うも一緒に笑ってくれる、その声の明るさに懐かしい。
2週間と少し前には隣で笑ってくれていた笑顔、講義室に並んで座り勉強していた。
けれど、その後に始まった2週間は秩父の森とコンクリートの箱に居場所は離れて遠い。
森林に廻らす生命を学んだ友人と銃火器の殺傷力を見つめた自分、そんな時間はあまりに遠すぎる。

―美代さん、俺にはまた秘密が出来ちゃったんだ…なんでも話せる友達なのに言えないの、ごめんね、

この2週間を見つめるまま瞳の奥が揺れてゆく。
こんなにも声聞くだけで明るくなれる大切な友達、けれど何ひとつ話せない現実が哀しい。
こんな隔たりを知りながら父の軌跡を選んで、隔てられる哀しみが怖くて孤独に13年間を生きた。
それでも今こんなに哀しくて、それでも声を聴いて笑いあえる今は幸せで嬉しくて、この今がある感謝は温かい。

「美代さん、電話ありがとう…なんか元気になったよ?」

本当にありがとう、そう想い本音から声になる。
何げない会話たち、それでも宝物になる時間をくれた人は笑ってくれた。

「私こそ元気になったよ?ほんとはね、今日ちょっと試作が巧くいかなくって悄気てたの、それで仕事終わってすぐ電話したのよ、」

悄気てたの、そんなふう素直に笑って話してくれる。
その声が明るいことが嬉しくて周太は微笑んで尋ねた。

「ん…前に言ってた柚子のパウンドケーキ?」
「そう、それも相談したくて電話したの、柚子の香と苦みが上手に出なくって。家では成功するのにJAの試作室だとダメなの、」

本当に困ったようなトーン、けれど朗らかに笑ってくれる。
こんな明るさが美代は楽しい、そんな友達を手助けしたくて周太は訊いてみた。

「あのね、熱伝導が違うんじゃないかな?…違うケーキ型だと熱の入り方が変るの、同じ材質でも厚みの違いとか…オーブンも違うし、」
「あっ、そういうのもあるわよね?気づかなかった、ケーキ系の試作って初めてだから解らなくて、」

電話ごし嬉しそうに声は明るんで弾む。
すこしでも手助け出来たら嬉しくて周太は言ってみた。

「ケーキ型の厚みとかオーブンの癖をデータ化すると上手くいきやすくなるんじゃないかな?…受験勉強も忙しいから大変だろうけど、
数学や物理の応用問題を解くのに役立つと思うよ、Excelにすれば簡単にできるし引継ぎもあるでしょ?…春には退職して進学するんだから、」

大学合格すれば美代は勤めているJAから退職することになる。
その未来を考えながら提案した先、驚いたよう笑いだした。

「私ったら、引継ぎのことも考えておかなくちゃダメよね?受験は自覚あるのに、入学と退職は現実感が無かったみたい、」

大学を受験する、それは美代が秘密に温めていた夢でいる。
それが現実になる可能性が近づいてくる今こそ夢心地なのだろう?
そんな友達の瑞々しい笑い声が嬉しくて楽しくて、周太も笑いかけた。

「美代さん、試作のケーキ土曜日に持ってきてくれる?…お茶菓子に遣いたいんだ、」
「ん、上手に作って持ってくね?土曜日うんと楽しみにしてるから、湯原くんも早く治して元気になってね、」

美代もさっきより元気になって笑ってくれる。
こんなふう互いに思い遣れることは温かい、その温もり笑いあって電話を切った。
そのまま携帯の画面を見つめる向う黄昏が窓そめて、あわいオレンジ色の静謐そっと微笑んだ。

「ん…早く治さなくちゃ、やりたいこと沢山ある…ね、」

微笑んでボタン押して携帯の画面が切り替わる。
小さな四角いっぱい青空あざやかに現われて、凛と銀嶺の聳え立つ。
蒼穹の点は高潔が佇んで、その尾根に咲く純白の花へ周太は笑いかけた。

「ね、英二…北岳草のこと憶えてる?」

北岳草、世界の唯一ヶ所にしか咲かない花。

標高3,193mの北岳はこの国で第2峰として佇む。
哲人とも呼ばれる高潔な山は氷河を今に抱きながら、白い小さな花を咲かせる。
この花を英二はメールで贈ってくれた、そして共にいつか登り見せてくれると約束してくれた。
いま約束を見つめる小さな四角の青空で北岳草は咲く、その純白の遥かな時間へ歌ひとつ口遊む。

「…君すまば甲斐の白嶺のおくなりと、雪ふみわけてゆかざらめやは…」

周、この山は歌があるんだよ?西行法師って人が詠んで、

遠い近い記憶から父が微笑んで古い歌を教えてくれる。
父と歩いた秋の森、その遥かな高み聳えるまま青空に輝いていた。
光景が歌ひとつに蘇えり懐かしい場所なのだと知らされる、そんな想いに扉が開いた。

「…周、起きてたのね?」

やわらかなアルトの声に見上げて、黄昏のなかスーツ姿の母が来てくれる。
ベッドの傍ら座りこんで白い手そっと額にふれて、そして母は少し笑った。

「よかった、熱はだいぶ下がったみたいね?おばあさまのお蔭だわ、」

おばあさま、そう母は顕子を呼んだ。
こんな呼び方は血縁を知ったのだろうか?それとも一般的な呼称だろうか?
まだ解らないまま見上げた笑顔は少し頬のライン細いようで、そっと周太は微笑んだ。

「お母さん、心配かけてごめんね?…お昼ごはん、ちゃんと食べたの?」
「まあ、こんな時まで周ったら、」

困ったよう、けれど楽しそうに黒目がちの瞳は幸せほころぶ。
その笑顔に安堵の明るさを見つめて周太は綺麗に笑いかけた。

「お母さん、俺ね、お父さんと北岳に登ったことあるよね?…てっぺんは行かなかったけど、草すべりって所まで、」
「小学校1年生の時ね、ちょうど今頃だったわ、」

微笑んで教えてくれる季節に、想いだしたばかりの古歌が映りこむ。
ちょうど今頃だから記憶は息吹き返したのかもしれない、そんな想いの真中で母が微笑んだ。

「周、宮田のおばあさまは親戚だったのね、」

告げてくれた言葉と声が、黄昏の静謐に響く。
その黒目がちの瞳は微笑んで、穏やかなアルトは教えてくれた。

「今、帰ってきてすぐ伺ったの、お父さんのお母さんと従姉妹だって。周にも正直に答えたって教えてくれたわ、家族に嘘は吐きたくないって、」

私も家族よ?家族には優しい嘘なんて要らないの。

そう言ってくれた通りに顕子は母にも話してくれた。
言うが通りに行ってくれる、この率直な真心に周太は微笑んだ。

「お母さん、おばあさまが家族で良かったね?…お父さんのこと教えっこ出来るね、」
「ええ、お夕飯しながら沢山お話するわ、今夜は泊って下さるから…周?」

名前を呼びながら微笑んでくれる。
その眼差し真直ぐ見上げて、穏やかな声が言ってくれた。

「私たちに優しい嘘は要らないわ、周、喘息が再発したのでしょう?」

とくん、

いま言われた言葉に鼓動が止まる。
言われた事実に見つめるまま母は微笑んだ。

「周が黙っていてもね、お母さんには解るのよ?周が小児喘息って解かった時から勉強してるもの、お父さんも一緒に調べたわ、
おばあさまは疲労からの熱よって教えて下さったけど、周が黙っていてってお願いしたんでしょう?お母さんに心配かけたくないって、」

なんでもお見通し、そんな瞳が悪戯っ子に笑ってくれる。
聡明な瞳は朗らかに明るく優しい、その眼差しに周太は微笑んだ。

「ん、すこし再発しかけてるの…だから一年後には警察を辞めるね、それまで心配かけるけど…ごめんね、お母さん、」

一年後には警察を辞めると、顕子とも約束をしている。
だから約束ごと今も正直に告げた真中で、黒目がちの瞳は嬉しく笑ってくれた。

「無理しないって約束してね、私よりも先に死なないって約束ちゃんと守って?ちゃんと樹医になって学者さんになるの、約束よ?」

樹医になる、この約束は父が遺してくれた夢で祈り。
そして学者になることは父の夢であり祖父の願いでもある。
なによりも自分がいちばん叶えたい、その素直な想いへ綺麗に笑った。

「ん、樹医になるね?だから俺ね、警察を辞めたら大学院に行こうと思うの…文学も勉強したいんだ、お父さんとお祖父さんの世界だから、」








【引用詩歌:西行法師『山家集』】

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