現場とプライド、その温度
第60話 酷暑 act.1―side story「陽はまた昇る」
空は青、太陽がもう高い。
夏8月の奥多摩は5時前に日が昇る、いま7時前の食堂は陽光に明るい。
制服姿で箸を動かす向かい、浅黒い顔は瞼が落ちかかりまた披く。
その手元から丼が傾きかけて、素早く英二は手を伸ばし受け留めた。
「ナイスキャッチ、宮田、」
からっと横から藤岡が笑って、愉しげに拍手ひとつ打った。
その音に前の精悍な目が瞬かせ、こちらを見ると原は気まずげに唇噛んだ。
「すまん、」
「はい、」
ひと言に一言の笑顔と丼を返して、また箸を食膳に運ぶ。
いつものよう食事していく朝、けれど4日前とメンバーが違う。
―光一、今頃は周太と朝飯かな、
味噌汁を口にしながら二人を想い、寂しさが微笑んでしまう。
ふたりから自分が離れて独りでいる、こんな初めての状況にふと孤独が刺す。
けれど今は落ちこんでいる場合では無い、そう自覚に笑った横から人の好い顔が笑った。
「原さん?宮田のトレーニングはキツイって署では有名なんですけど、やっぱり厳しいですか?」
「あ…いや、」
頷きかけて、けれど否定して原は微かに笑った。
もし厳しいと認めてしまったら山ヤのプライドが傷つく、そんな依怙地が日焼顔に見える。
これだけクライミングに対する強気が原にある、それなのに北壁二つの遠征訓練を急遽辞退してしまった。
―これだけ山にプライドがあるのに、どうして原さんは辞退したんだろう?
今回の異動に対する反抗の意志表明、そう聴いてはいる。
既に光一は第二小隊に異動し、追って英二が9月に異動すると同時に光一は小隊長に就く。
それは弱冠24歳の光一が小隊長に就任し、その実際的な補佐に山岳経験が浅い自分が就くことになる。
そのことへの反感が第二小隊に起きている、この反感も後藤と蒔田からすれば好機と判断して人事決定された。
―…七機に行けば試されるよ、俺の縁故だと知っているだけに視線も厳しい…それでも国村は組織をまとめていく立場にある
警察組織の中から山の世界を護っていく、その為に光一は警視庁山岳会の全員から認めれられ、信頼される必要があるよ
―…敢えて今回、宮田を後任者の教育係に決めたんだ。男同士の嫉妬や削り合いも経験させたほうが、良い指導者にもなれるだろう?
そんなふうに後藤は話し、励ましてくれた。
この期待に応えることが今の自分には最優先事項、それが「あの男」と戦うツールを増やしてく。
そのためには「なぜ原が遠征訓練を辞退したのか?」真意を知っていく必要がある。
―単純に反感だけで動く男だって思えない、原さんは、
考えながら前に座る男を視、自分の印象を確認する。
あまり口数が多くないのは元来が口下手なのだろう、そんな雰囲気が原にはある。
この口下手は質朴なのか、俗にいう引っ込み天狗なのか?その答えは恐らく後者らしい。
このあたりに遠征辞退の真意があるだろうか、そう考えながら箸を置いた横から藤岡が提案してくれた。
「宮田、昼の自主トレに越沢やろうって大野さんと言ってるんだけどさ、よかったら一緒しない?」
皆と一緒に行動する機会が多いほど、原は馴染みやすくなるだろう。
それを藤岡も気遣ってくれている、大らかな藤岡らしい提案に英二は微笑んだ。
「おう、一緒させて?ちょうど大野さんに教わりたかったんだ、」
「滑りやすい岩のコツだろ?あれ巧いよなあ、大野さん、」
愉しげに人の好い笑顔が頷いてくれる、その前から視線がこちらを向く。
たぶん「巧いんだよなあ、」が原も気になるのだろう、こんな山ヤらしい反応が嬉しい。
この通りに原は技術の研磨に意欲的で、この4日間の姿を見ていて訓練辞退は「矛盾」としか思えない。
―俺のことは嫌いだろうけど、山は別次元なんだ。なのに、反感だけで辞退するなんて有得ない、
確かに英二へのライバル心と反感は強い、それは4日間の態度で解かる。
けれど個人的感情とクライミング技術を磨くことは原にとって別次元の問題だろう。
むしろライバル心が強いから技術を盗もうという意欲も高い、だから毎朝の登山訓練にも弱音を吐かず食事も同席する。
―こんなに山のこと大切に出来る男が、なぜ折角のチャンスを無駄にしたんだろう?
ずっと山岳救助隊に憧れていたとも原の同期である木下から聴いている。
クライミング技術へのモチベーションも高い、それなのに三大北壁2つにトライする権利を放棄した。
こうした原の矛盾に首傾げてしまう、その思案ごと麦茶のコップに口つける隣から藤岡が言った。
「そういえばさ、内山からメール来たんだけど意味不明なんだよなあ?うわっ!」
藤岡、その名前出すのは気を付けてよ?
そう今さら言っても遅いだろう、もう麦茶は噴き出したから。
なによりも、いま麦茶を噴き出してしまった「先」が大問題だ。
「ごほっ、原さっこほっ、すみませごほほんっ」
噎せ込んで止まらない、謝る言葉も上手くいかない。
そんな自分の向かいには、水浸しになったトレイを前に原先輩が憮然と座っている。
この4日間で幾度か見てきた仏頂面、その貌に困りはじめた隣から同期は明るく笑ってくれた。
「また噎せちゃったなあ、宮田?すみません、原さん。宮田、ほら水、」
「ごめっ、ごほっほんっ!」
コップを渡してくれる藤岡の向かいから、仏頂面のまま原はこっちを見ている。
縦社会が常識の警察組織で5年後輩、しかも気に入らない、そんな男に水噴きかけられたら怒って当然だ。
―失点だ、こんなのは、
やらかしてしまった、今が大事な時なのに?
その悔しさが胸を噛んでしまう自分も、相当にプライドが高い。
そんな自分に困りながら可笑しくて、けれど笑う訳にもいかない前から不意に声が起きた。
「ふはっ!」
堪えたのが破裂した、そんな笑いが日焼顔をほころばす。
笑いながら5年次先輩の男は、ティッシュボックスに手を伸ばして言った。
「あんたもヘマってするんだなぁ、なあんだ、あははっ!ほら、」
自分も数枚を取って、こちらに箱を押しやってくれる。
その笑顔が想った以上に人懐っこくて、嬉しくて英二は咽ながら礼を言った。
「ごほっ、ありがとごこほんっ、ます、ほんっ、」
「無理に喋んなくっていい、ははっ、大丈夫かよ?」
寛いだよう笑ってくれる、その貌になんだか安心させられる。
それと同時に起きた疑問を新たに抱えながら、英二はティッシュで口許を押えた。
―怒ってないのは良かったけど、なんで「なあんだ」なんだ?
考えながらコップに口付け水を飲み、すこし噎せたのが収まっていく。
なんとか呼吸を整えていると、珍しく原から藤岡に尋ねた。
「意味不明のメールってなに?差支えなかったらで良いけど、」
「あ、そうそう、原さんも謎解きしてくれますか?」
人の好い笑顔が楽しそうに応えるけれど、危険が怖い。
そんな経験則に従って英二は立ちあがり、ふたりへと笑いかけた。
「先に行きます。原さん、昨日と同じ時間にロビーで待っていて下さい。それまで診察室にいます、」
「ああ、」
また一言だけど頷いてくれる、その表情がさっきより柔らかい。
なにか原には変化が起き始めた、この明るい兆しに笑って英二は下膳口に向かった。
陽光あかるいデスクの上、今日も写真立てに笑顔は咲いている。
カルテのファイルを抽斗へ戻しながら、いつものよう英二はそっと微笑んだ。
―おはようございます、雅樹さん。光一、昨夜の電話も笑ってたけど。本当は少し疲れてますよね?山が恋しいって言ってたし、
心で語りかけ、写真の雅樹に相談してしまう。
こんなとき雅樹ならどんな言葉を掛けるのか、何をしてあげるだろうか?
そう考え廻らせながら流しに立ち、2杯のコーヒーを淹れて吉村医師と向かい合った。
「今朝も佳い香ですね、戴きます、」
朗らかに笑って口付けてくれる、その笑顔にほっとする。
勧めてくれる茶菓子を半分口にして、英二もマグカップを啜りこんだ。
ふわり熱い芳香が喉すべり落ちていく、内から温まる感覚に寛ぎながら話し始めた。
「先生、俺ね?今朝また噎せて、麦茶を噴いてしまったんです。そうしたら原さんのトレイにぶちまけちゃって、」
「おや、原くんにですか、」
相槌で穏やかに笑ってくれる、その眼差しに英二は頷き微笑んだ。
そして少し前の出来事に首傾げながら、状況を出来るだけ言葉に再現した。
「山の経験年数も浅い俺です、しかも5年後輩ですから原さんに怒られて当然だと思います。でも原さん、大笑いしたんです。
あんたもヘマってするんだな、なあんだ。そんなふうに笑って、俺にティッシュ箱を渡してくれて。そのあと藤岡と話しだしました。
言葉数は少ないけれど前より表情がやわらかくて、ずっと気さくになった感じです。どうして原さん、雰囲気が変わったんでしょう?」
自分が噎せて失敗をした、それなのに怒るどころか態度が軟化した。
その理由がいま一つ解らない、この疑問へと吉村医師は可笑しそうに微笑んだ。
「そうですね、『あんたも』と『なあんだ』って言ったことが、ヒントじゃないでしょうか?」
この2つの単語に挟まれるのは「ヘマをする」だった。
それがヒントの導く答えになるだろうか?考えながら英二は訊いてみた。
「俺も失敗する、ってことが理由なんですか?」
「そうです、宮田くんの失敗が原さんのね、君への壁を崩したんだと思いますよ?」
自分が失敗したことが原の態度軟化の理由?
どういうことだろうと首傾げた先、芳香の湯気に医師は笑って教えてくれた。
「宮田くん、君はね、ご自分が想っている以上に完璧に見えるんです。だから原くんも宮田くんのこと、馴染み難いのだと思います、」
「俺なんかが完璧、ですか?」
意外で訊き返してしまう、自分のどこがそうなのだろう?
山の経験も1年未満で警察官も2年目、しかも同性で結婚するため実家まで捨てた。
その実家だって体裁は良く見えても両親の実態は仮面夫婦、自分も夜遊びへ逃げ込む卑怯者だった。
こんな自分のどこが完璧なのだろう?解らなくて首傾げこんだ英二に、吉村医師は可笑しそうに続けてくれた。
「まず鏡を見たら良いですよ?とても君はハンサムで笑顔が素晴らしい、優しくて真面目で、性別や年齢を問わず好かれています。
上司や同僚からの信頼も期待も大きくて、それに充分応えられる才能と努力がある。そしてね、なによりも山の実績と経験値があります。
たった1年という短期間で君は、北壁2つで記録を立てるほど高度な技術力を得ました。そんな君をね、他人は天才だって羨むんです、」
この自分が天才?
そんな予想外の言葉に驚かされ、困ってしまう。
だって自分は本物の天才たちを知っている、その1人の写真を見て英二は微笑んだ。
「先生?雅樹さんの写真の前で天才だなんて言われたら俺、恥ずかしいです。雅樹さんは本当の天才だって、俺も解ってますから、」
「はい、雅樹は天才です、」
さらっと愛息への褒詞を認めて吉村医師は微笑んだ。
その切長い目を愉しげに笑ませると、可笑しそうに口を開いた。
「心も体も、医学と山の才能も、本当に優れた男です。父親ながら見事な天才だと思います、けれど雅樹自身は解っていませんでした。
ただ自分が持てる精一杯を活かして生きて、周りの笑顔を援けたい。そう考えてね、ひたすら努力ばかりしていた真面目な物堅い男です、」
これが雅樹という男だと自分にも解る、いつも光一を透して見る雅樹はこの通り無垢な天才だと思う。
だからこそ自分との違いを理解して「違う」と知っている、けれど吉村医師は言ってくれた。
「そういう一途な努力が出来る才能が、天才の条件だと思います。そしてね、本当のハンサムも自分の魅力には興味が少ないようですね?
だから才能と容姿の自己評価について、周囲との温度差が大きいんです。それが相手によっては悔しい気持ちにさせて、溝にもなります。
この溝になる境目が、宮田くんと雅樹が全く違うところでもありますね?宮田くんは器用だから、なお完璧に見え過ぎるのだと思いますよ」
確かに自分は何事も器用だ、それが完璧に見せると言われたら納得がいく。
そんな自分の器用さこそが「天賦」の輝きと違わせる、この自覚に笑って英二は頷いた。
「俺が噎せて麦茶をぶちまけて、その失敗が完璧を崩したから良かった、ってことですよね?」
「はい、人間的になって、親近感が持てたのでしょうね、」
可笑しそうに頷いてマグカップに口付けてくれる。
その眼差しは楽しげに温かで、こうして話すことを喜んでくれると伝わらす。
こんな毎朝の時間が自分には大切で、けれど一ヶ月後には違う朝が始まっていく。
―異動してもお手伝いさせてもらおう、休みの時とか出来るだけ、
肚から想う、これは純粋に願い。
けれど打算も起きあがる、目的には必要と気付いてしまう。
こんな自分の意志は苦く切なくて、ふと4日前の紫煙が記憶から薫った。
―打算的って意味では昔の俺と似てる、煙草吸ってた頃と同じだ、
自嘲が込みあげてほろ苦い、けれど4日前に吸った2本の煙草は悪くなかった。
後藤と笑いあった煙草の味、光一の前で吸った香。それぞれ違う煙だったのは煙草の違いだけじゃない。
どちらも切なくて明るい会話だった、それでも苦みと甘みが違って感じていたのは相手への感情の差だろう。
―光一、俺のこと今はどう想ってるんだろう…周太は俺のこと必要って、想ってくれてるのかな、
煙草の記憶から俤ふたつ想ってしまう、これから1日が始まる時なのに?
また水を被りたい気持に困りながらマグカップに口付けて、熱い芳香が唇にほろ苦い。
こんな物想いは八月一日の夜以来だ、今日まで引継ぎの繁忙に紛れて考え込まずに済んだから。
「宮田くん、すこし疲れてるかな?」
「え、」
穏やかな声にあげた視界、ロマンスグレーの笑顔が受けとめてくれる。
深く澄んだ眼差しは温かい、その静穏にほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「はい、正直なとこ少し疲れています。体はそうでも無いって思いますけど、」
「昨夜も遅くて、今朝も夜明け前だったんでしょう?」
尋ねてくれる通り、昨夜も自分は遅かった。
レスキューの復習、救急法と鑑識の勉強、原への引継用資料の作成、今日の訓練メニューの考案。
それから馨の日記帳と晉の小説を読みあわせた、その記憶が尚更に精神的疲労になっているだろう。
昨夜に見つめた過去のほろ苦い現実を、いま制服の懐に抱いた合鍵の輪郭に想い英二は微笑んだ。
「はい。でも俺、睡眠時間が短いのは昔からなんです、」
深く長く眠れることなんて、滅多に無い。
けれど二人だけ自分を眠らせられる相手がいる、その二人の心が今、解らない。
だから今朝も藤岡の台詞で麦茶を噴いてしまった、それが引金になってつい二人を想ってしまう。
―ごめんな、内山?おまえは何も悪くないんだけどさ、むしろ俺がミスしたんだ、
推定無罪の同期に心謝って、唇ふれる芳香がほろ苦い。
たしかに内山は「あの男」の気配がある、それは無意識の被害者としてだと信じたい。
だから内山が周太に接触したがることも仕方ない、けれど光一にまで絡んでくるのは自分の判断ミスだ。
こんなケアレスミスも苦くて、つい煙草を吸いたくなりそうだ?そんな朝らしくない気分に温かい声が笑ってくれた。
「なるほどね、ショート・スリーパーは優秀な方に多いと言いますし、宮田くんらしい習慣です、」
「そんな大したものじゃないですよ、俺は、」
言われた言葉に笑ってしまう、吉村医師の笑顔がただ温かくて。
きっと言うなれば「親馬鹿」の笑顔じゃないだろうか?
―後藤さんも同じような貌してくれてた、煙草吸った時、
四日前の夜、後藤と吸った煙草は苦くても優しい味だった。
燻らした紫煙の向こうで笑ってくれた貌は、今も見ている笑顔のよう誇らしげに幸せだった。
この笑顔が自分に向けられる、何を言わなくても受けとめてもらえる、それは厳しい自立の底に湧く慈愛だ。
そんな無条件の懐が今、ただ心に優しい。
(to be continued)
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第60話 酷暑 act.1―side story「陽はまた昇る」
空は青、太陽がもう高い。
夏8月の奥多摩は5時前に日が昇る、いま7時前の食堂は陽光に明るい。
制服姿で箸を動かす向かい、浅黒い顔は瞼が落ちかかりまた披く。
その手元から丼が傾きかけて、素早く英二は手を伸ばし受け留めた。
「ナイスキャッチ、宮田、」
からっと横から藤岡が笑って、愉しげに拍手ひとつ打った。
その音に前の精悍な目が瞬かせ、こちらを見ると原は気まずげに唇噛んだ。
「すまん、」
「はい、」
ひと言に一言の笑顔と丼を返して、また箸を食膳に運ぶ。
いつものよう食事していく朝、けれど4日前とメンバーが違う。
―光一、今頃は周太と朝飯かな、
味噌汁を口にしながら二人を想い、寂しさが微笑んでしまう。
ふたりから自分が離れて独りでいる、こんな初めての状況にふと孤独が刺す。
けれど今は落ちこんでいる場合では無い、そう自覚に笑った横から人の好い顔が笑った。
「原さん?宮田のトレーニングはキツイって署では有名なんですけど、やっぱり厳しいですか?」
「あ…いや、」
頷きかけて、けれど否定して原は微かに笑った。
もし厳しいと認めてしまったら山ヤのプライドが傷つく、そんな依怙地が日焼顔に見える。
これだけクライミングに対する強気が原にある、それなのに北壁二つの遠征訓練を急遽辞退してしまった。
―これだけ山にプライドがあるのに、どうして原さんは辞退したんだろう?
今回の異動に対する反抗の意志表明、そう聴いてはいる。
既に光一は第二小隊に異動し、追って英二が9月に異動すると同時に光一は小隊長に就く。
それは弱冠24歳の光一が小隊長に就任し、その実際的な補佐に山岳経験が浅い自分が就くことになる。
そのことへの反感が第二小隊に起きている、この反感も後藤と蒔田からすれば好機と判断して人事決定された。
―…七機に行けば試されるよ、俺の縁故だと知っているだけに視線も厳しい…それでも国村は組織をまとめていく立場にある
警察組織の中から山の世界を護っていく、その為に光一は警視庁山岳会の全員から認めれられ、信頼される必要があるよ
―…敢えて今回、宮田を後任者の教育係に決めたんだ。男同士の嫉妬や削り合いも経験させたほうが、良い指導者にもなれるだろう?
そんなふうに後藤は話し、励ましてくれた。
この期待に応えることが今の自分には最優先事項、それが「あの男」と戦うツールを増やしてく。
そのためには「なぜ原が遠征訓練を辞退したのか?」真意を知っていく必要がある。
―単純に反感だけで動く男だって思えない、原さんは、
考えながら前に座る男を視、自分の印象を確認する。
あまり口数が多くないのは元来が口下手なのだろう、そんな雰囲気が原にはある。
この口下手は質朴なのか、俗にいう引っ込み天狗なのか?その答えは恐らく後者らしい。
このあたりに遠征辞退の真意があるだろうか、そう考えながら箸を置いた横から藤岡が提案してくれた。
「宮田、昼の自主トレに越沢やろうって大野さんと言ってるんだけどさ、よかったら一緒しない?」
皆と一緒に行動する機会が多いほど、原は馴染みやすくなるだろう。
それを藤岡も気遣ってくれている、大らかな藤岡らしい提案に英二は微笑んだ。
「おう、一緒させて?ちょうど大野さんに教わりたかったんだ、」
「滑りやすい岩のコツだろ?あれ巧いよなあ、大野さん、」
愉しげに人の好い笑顔が頷いてくれる、その前から視線がこちらを向く。
たぶん「巧いんだよなあ、」が原も気になるのだろう、こんな山ヤらしい反応が嬉しい。
この通りに原は技術の研磨に意欲的で、この4日間の姿を見ていて訓練辞退は「矛盾」としか思えない。
―俺のことは嫌いだろうけど、山は別次元なんだ。なのに、反感だけで辞退するなんて有得ない、
確かに英二へのライバル心と反感は強い、それは4日間の態度で解かる。
けれど個人的感情とクライミング技術を磨くことは原にとって別次元の問題だろう。
むしろライバル心が強いから技術を盗もうという意欲も高い、だから毎朝の登山訓練にも弱音を吐かず食事も同席する。
―こんなに山のこと大切に出来る男が、なぜ折角のチャンスを無駄にしたんだろう?
ずっと山岳救助隊に憧れていたとも原の同期である木下から聴いている。
クライミング技術へのモチベーションも高い、それなのに三大北壁2つにトライする権利を放棄した。
こうした原の矛盾に首傾げてしまう、その思案ごと麦茶のコップに口つける隣から藤岡が言った。
「そういえばさ、内山からメール来たんだけど意味不明なんだよなあ?うわっ!」
藤岡、その名前出すのは気を付けてよ?
そう今さら言っても遅いだろう、もう麦茶は噴き出したから。
なによりも、いま麦茶を噴き出してしまった「先」が大問題だ。
「ごほっ、原さっこほっ、すみませごほほんっ」
噎せ込んで止まらない、謝る言葉も上手くいかない。
そんな自分の向かいには、水浸しになったトレイを前に原先輩が憮然と座っている。
この4日間で幾度か見てきた仏頂面、その貌に困りはじめた隣から同期は明るく笑ってくれた。
「また噎せちゃったなあ、宮田?すみません、原さん。宮田、ほら水、」
「ごめっ、ごほっほんっ!」
コップを渡してくれる藤岡の向かいから、仏頂面のまま原はこっちを見ている。
縦社会が常識の警察組織で5年後輩、しかも気に入らない、そんな男に水噴きかけられたら怒って当然だ。
―失点だ、こんなのは、
やらかしてしまった、今が大事な時なのに?
その悔しさが胸を噛んでしまう自分も、相当にプライドが高い。
そんな自分に困りながら可笑しくて、けれど笑う訳にもいかない前から不意に声が起きた。
「ふはっ!」
堪えたのが破裂した、そんな笑いが日焼顔をほころばす。
笑いながら5年次先輩の男は、ティッシュボックスに手を伸ばして言った。
「あんたもヘマってするんだなぁ、なあんだ、あははっ!ほら、」
自分も数枚を取って、こちらに箱を押しやってくれる。
その笑顔が想った以上に人懐っこくて、嬉しくて英二は咽ながら礼を言った。
「ごほっ、ありがとごこほんっ、ます、ほんっ、」
「無理に喋んなくっていい、ははっ、大丈夫かよ?」
寛いだよう笑ってくれる、その貌になんだか安心させられる。
それと同時に起きた疑問を新たに抱えながら、英二はティッシュで口許を押えた。
―怒ってないのは良かったけど、なんで「なあんだ」なんだ?
考えながらコップに口付け水を飲み、すこし噎せたのが収まっていく。
なんとか呼吸を整えていると、珍しく原から藤岡に尋ねた。
「意味不明のメールってなに?差支えなかったらで良いけど、」
「あ、そうそう、原さんも謎解きしてくれますか?」
人の好い笑顔が楽しそうに応えるけれど、危険が怖い。
そんな経験則に従って英二は立ちあがり、ふたりへと笑いかけた。
「先に行きます。原さん、昨日と同じ時間にロビーで待っていて下さい。それまで診察室にいます、」
「ああ、」
また一言だけど頷いてくれる、その表情がさっきより柔らかい。
なにか原には変化が起き始めた、この明るい兆しに笑って英二は下膳口に向かった。
陽光あかるいデスクの上、今日も写真立てに笑顔は咲いている。
カルテのファイルを抽斗へ戻しながら、いつものよう英二はそっと微笑んだ。
―おはようございます、雅樹さん。光一、昨夜の電話も笑ってたけど。本当は少し疲れてますよね?山が恋しいって言ってたし、
心で語りかけ、写真の雅樹に相談してしまう。
こんなとき雅樹ならどんな言葉を掛けるのか、何をしてあげるだろうか?
そう考え廻らせながら流しに立ち、2杯のコーヒーを淹れて吉村医師と向かい合った。
「今朝も佳い香ですね、戴きます、」
朗らかに笑って口付けてくれる、その笑顔にほっとする。
勧めてくれる茶菓子を半分口にして、英二もマグカップを啜りこんだ。
ふわり熱い芳香が喉すべり落ちていく、内から温まる感覚に寛ぎながら話し始めた。
「先生、俺ね?今朝また噎せて、麦茶を噴いてしまったんです。そうしたら原さんのトレイにぶちまけちゃって、」
「おや、原くんにですか、」
相槌で穏やかに笑ってくれる、その眼差しに英二は頷き微笑んだ。
そして少し前の出来事に首傾げながら、状況を出来るだけ言葉に再現した。
「山の経験年数も浅い俺です、しかも5年後輩ですから原さんに怒られて当然だと思います。でも原さん、大笑いしたんです。
あんたもヘマってするんだな、なあんだ。そんなふうに笑って、俺にティッシュ箱を渡してくれて。そのあと藤岡と話しだしました。
言葉数は少ないけれど前より表情がやわらかくて、ずっと気さくになった感じです。どうして原さん、雰囲気が変わったんでしょう?」
自分が噎せて失敗をした、それなのに怒るどころか態度が軟化した。
その理由がいま一つ解らない、この疑問へと吉村医師は可笑しそうに微笑んだ。
「そうですね、『あんたも』と『なあんだ』って言ったことが、ヒントじゃないでしょうか?」
この2つの単語に挟まれるのは「ヘマをする」だった。
それがヒントの導く答えになるだろうか?考えながら英二は訊いてみた。
「俺も失敗する、ってことが理由なんですか?」
「そうです、宮田くんの失敗が原さんのね、君への壁を崩したんだと思いますよ?」
自分が失敗したことが原の態度軟化の理由?
どういうことだろうと首傾げた先、芳香の湯気に医師は笑って教えてくれた。
「宮田くん、君はね、ご自分が想っている以上に完璧に見えるんです。だから原くんも宮田くんのこと、馴染み難いのだと思います、」
「俺なんかが完璧、ですか?」
意外で訊き返してしまう、自分のどこがそうなのだろう?
山の経験も1年未満で警察官も2年目、しかも同性で結婚するため実家まで捨てた。
その実家だって体裁は良く見えても両親の実態は仮面夫婦、自分も夜遊びへ逃げ込む卑怯者だった。
こんな自分のどこが完璧なのだろう?解らなくて首傾げこんだ英二に、吉村医師は可笑しそうに続けてくれた。
「まず鏡を見たら良いですよ?とても君はハンサムで笑顔が素晴らしい、優しくて真面目で、性別や年齢を問わず好かれています。
上司や同僚からの信頼も期待も大きくて、それに充分応えられる才能と努力がある。そしてね、なによりも山の実績と経験値があります。
たった1年という短期間で君は、北壁2つで記録を立てるほど高度な技術力を得ました。そんな君をね、他人は天才だって羨むんです、」
この自分が天才?
そんな予想外の言葉に驚かされ、困ってしまう。
だって自分は本物の天才たちを知っている、その1人の写真を見て英二は微笑んだ。
「先生?雅樹さんの写真の前で天才だなんて言われたら俺、恥ずかしいです。雅樹さんは本当の天才だって、俺も解ってますから、」
「はい、雅樹は天才です、」
さらっと愛息への褒詞を認めて吉村医師は微笑んだ。
その切長い目を愉しげに笑ませると、可笑しそうに口を開いた。
「心も体も、医学と山の才能も、本当に優れた男です。父親ながら見事な天才だと思います、けれど雅樹自身は解っていませんでした。
ただ自分が持てる精一杯を活かして生きて、周りの笑顔を援けたい。そう考えてね、ひたすら努力ばかりしていた真面目な物堅い男です、」
これが雅樹という男だと自分にも解る、いつも光一を透して見る雅樹はこの通り無垢な天才だと思う。
だからこそ自分との違いを理解して「違う」と知っている、けれど吉村医師は言ってくれた。
「そういう一途な努力が出来る才能が、天才の条件だと思います。そしてね、本当のハンサムも自分の魅力には興味が少ないようですね?
だから才能と容姿の自己評価について、周囲との温度差が大きいんです。それが相手によっては悔しい気持ちにさせて、溝にもなります。
この溝になる境目が、宮田くんと雅樹が全く違うところでもありますね?宮田くんは器用だから、なお完璧に見え過ぎるのだと思いますよ」
確かに自分は何事も器用だ、それが完璧に見せると言われたら納得がいく。
そんな自分の器用さこそが「天賦」の輝きと違わせる、この自覚に笑って英二は頷いた。
「俺が噎せて麦茶をぶちまけて、その失敗が完璧を崩したから良かった、ってことですよね?」
「はい、人間的になって、親近感が持てたのでしょうね、」
可笑しそうに頷いてマグカップに口付けてくれる。
その眼差しは楽しげに温かで、こうして話すことを喜んでくれると伝わらす。
こんな毎朝の時間が自分には大切で、けれど一ヶ月後には違う朝が始まっていく。
―異動してもお手伝いさせてもらおう、休みの時とか出来るだけ、
肚から想う、これは純粋に願い。
けれど打算も起きあがる、目的には必要と気付いてしまう。
こんな自分の意志は苦く切なくて、ふと4日前の紫煙が記憶から薫った。
―打算的って意味では昔の俺と似てる、煙草吸ってた頃と同じだ、
自嘲が込みあげてほろ苦い、けれど4日前に吸った2本の煙草は悪くなかった。
後藤と笑いあった煙草の味、光一の前で吸った香。それぞれ違う煙だったのは煙草の違いだけじゃない。
どちらも切なくて明るい会話だった、それでも苦みと甘みが違って感じていたのは相手への感情の差だろう。
―光一、俺のこと今はどう想ってるんだろう…周太は俺のこと必要って、想ってくれてるのかな、
煙草の記憶から俤ふたつ想ってしまう、これから1日が始まる時なのに?
また水を被りたい気持に困りながらマグカップに口付けて、熱い芳香が唇にほろ苦い。
こんな物想いは八月一日の夜以来だ、今日まで引継ぎの繁忙に紛れて考え込まずに済んだから。
「宮田くん、すこし疲れてるかな?」
「え、」
穏やかな声にあげた視界、ロマンスグレーの笑顔が受けとめてくれる。
深く澄んだ眼差しは温かい、その静穏にほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「はい、正直なとこ少し疲れています。体はそうでも無いって思いますけど、」
「昨夜も遅くて、今朝も夜明け前だったんでしょう?」
尋ねてくれる通り、昨夜も自分は遅かった。
レスキューの復習、救急法と鑑識の勉強、原への引継用資料の作成、今日の訓練メニューの考案。
それから馨の日記帳と晉の小説を読みあわせた、その記憶が尚更に精神的疲労になっているだろう。
昨夜に見つめた過去のほろ苦い現実を、いま制服の懐に抱いた合鍵の輪郭に想い英二は微笑んだ。
「はい。でも俺、睡眠時間が短いのは昔からなんです、」
深く長く眠れることなんて、滅多に無い。
けれど二人だけ自分を眠らせられる相手がいる、その二人の心が今、解らない。
だから今朝も藤岡の台詞で麦茶を噴いてしまった、それが引金になってつい二人を想ってしまう。
―ごめんな、内山?おまえは何も悪くないんだけどさ、むしろ俺がミスしたんだ、
推定無罪の同期に心謝って、唇ふれる芳香がほろ苦い。
たしかに内山は「あの男」の気配がある、それは無意識の被害者としてだと信じたい。
だから内山が周太に接触したがることも仕方ない、けれど光一にまで絡んでくるのは自分の判断ミスだ。
こんなケアレスミスも苦くて、つい煙草を吸いたくなりそうだ?そんな朝らしくない気分に温かい声が笑ってくれた。
「なるほどね、ショート・スリーパーは優秀な方に多いと言いますし、宮田くんらしい習慣です、」
「そんな大したものじゃないですよ、俺は、」
言われた言葉に笑ってしまう、吉村医師の笑顔がただ温かくて。
きっと言うなれば「親馬鹿」の笑顔じゃないだろうか?
―後藤さんも同じような貌してくれてた、煙草吸った時、
四日前の夜、後藤と吸った煙草は苦くても優しい味だった。
燻らした紫煙の向こうで笑ってくれた貌は、今も見ている笑顔のよう誇らしげに幸せだった。
この笑顔が自分に向けられる、何を言わなくても受けとめてもらえる、それは厳しい自立の底に湧く慈愛だ。
そんな無条件の懐が今、ただ心に優しい。
(to be continued)
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