萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第65話 如風act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2013-06-08 23:40:53 | 陽はまた昇るanother,side story
君の時間、夢の扉たちへ 



第65話 如風act.3―another,side story「陽はまた昇る」

窓の外、雲間から星が顕われる。

昏い夜空に輝きは多くない、けれど新宿の摩天楼よりずっと光は強い。
視線に辿る星数が嬉しくなる、光ひとつごと明るんでゆく心が今に弾む。
この弾みに記憶から父が笑ってくれる、いま狭い寮の窓にも周太は微笑んだ。

「…ね、お父さん?またいつか山小屋に泊まって、山の星を見たいね…」

15年前の夏は父と山に居た、あのとき見上げた星空が意識に映りだす。
ずっと忘れていた記憶ひとつまた蘇える、そして自由になる心が解いた記憶が懐かしい。
幼い日に父と登った山の樹木たち、花ほころぶ高山植物、仰ぐ木洩陽の向こうに見た蒼穹と白い雲。
あのとき見た空も梢も今あるのだろうか?そんな思案とカーテンを閉じるとポケットで携帯電話が震えた。

「…ん、」

メールなら3回の振動、けれど長い響きに電話を開いて見る。
そこに表示された発信者名が嬉しくて、笑って周太は通話を繋いだ。

「こんばんわ、賢弥?」
「よ、周太。今って時間だいじょうぶ?」

電話を通しても明朗な声は楽しげでいる。
なにか良い報せだろうか?そんな予想と周太は笑いかけた。

「ん、もう夕飯とか済んだし大丈夫だよ?」
「よかった、じゃあ遠慮なく時間もらうな、」

ほっとしたよう笑ってくれる、その空気に気遣いが優しい。
いつもながらの友人が嬉しくて微笑んだ向こう、賢弥が笑ってくれた。

「あのな、田嶋先生から周太に伝言なんだ。この間の翻訳、日本語も英語もすごく評判良かったから研究生になってくれってさ?」

あの田嶋教授の研究生に自分がなる?
その伝言に驚かされて、途惑ったままの声が出た。

「あの…俺が田嶋先生の研究生になるの?」
「そうだよ、周太に仏文研究室の研究生になってほしいから、まず俺から言っておいてくれって言われたんだ、」

友人の声が笑って告げてくれる言葉に、何か動きだす。
自分が東京大学のフランス語フランス文学研究室で研究生になる、その意味が鼓動へ響く。

―お祖父さんの研究室で勉強できるの?お祖母さんが勉強したところで…お父さんがいた文学部で、

あの研究室は、祖父の大切な場所だった。
そこで祖母は学び祖父と結婚した、そして生まれた父も文学部で学んでいる。
祖父、祖母、それから父、この大切な人たちが学んだ軌跡を自分も少しでも辿れるだろうか?

―でも学費のことがある、時間も、

軌跡を辿れる期待は嬉しくて、けれど現実問題がある。
研究生なら月々の学費が掛かるはず、なにより農学部の勉強と仕事の両立もある。
考えていくとフランス文学の勉強まで兼ねることは難しい、そんな思案に口開きかけたとき提案が告げられた。

「それでな?仏文で研究生してくれるならタダで良いって田嶋先生からの提案なんだよ、農学部と兼学して良いし学費も心配するなってさ、」

タダで良い、学費の心配はいらないってどういうこと?
言われた意味が急に呑みこめなくて、呆気のままで声が出た。

「え…、あのタダって?」
「学費無償ってことだよ、ちょっと驚くよな?あははっ、」

電話の向こう可笑しそうに笑ってくれる。
ただ明るいトーンのままで賢弥は教えてくれた。

「田嶋先生な、プロの翻訳家を雇うより研究生の学費は安いって大学にゴリ押したんだよ、周太が公務員で給料も出せないからってさ?
せっかくの才能に学ぶ機会を与えなかったら最高学府の名が廃る、しかも国立なんだから公務員の勉強代くらい出せって説得したってさ、」

こんな論法が通用するなんて、本当は田嶋教授の立場は大きいのではないだろうか?
そう気づかされながら小さく息呑みながら周太は訊いてみた。

「あの、田嶋先生の気持ちはすごく有難いんだけど、でも青木先生は?」
「もちろん田嶋先生に説得されちゃったよ、あの先生ってホント俺様ペースだからさ。あとは周太の気持ち次第なんだ、」

もう御膳立ては整っている、そんな空気が賢弥の声から伝わらす。
この予想外の展開に驚かされるまま腰が落ちてベッドに座りこんだ。

―森林学とフランス文学と、両方とも勉強していいの?

フランス文学は幼い頃から身近だった。
書斎に並ぶ本たちは祖父の愛蔵したフランス文学が多くて、それを父は読み聞かせてくれた。
だから読み書きとヒアリングなら出来る、けれど田嶋に学べば会話も出来るようになるだろう。
そうして祖父や父にまた近づけたなら嬉しい、並行して森林学も続けられるのなら頷きたいと思う。

―チャンスを与えられたなら素直に頷けば良いのかな…お父さん、お祖父さん、どう思う?

このチャンスを掴んだら自分の道はどこに繋がるだろう?
そんな思案ため息吐いた先、明朗な声は電話越し笑ってくれた。

「とりあえず伝言だからさ、来週の聴講の時にでも返事をしてくれたら良いって言ってたよ?ただ俺からもお願いあるんだけどさ、」
「ん、何?」

賢弥からお願いって何だろう?
訊いてみたくて笑いかけた向こう、友達は楽しげに言ってくれた。

「仏文の研究生になっても、大学院には一緒に森林専攻に来てくれよな?周太がいないと夢と研究計画の相棒いなくなっちまう、」

夢と研究計画の相棒、そんな呼名が鼓動に打つ。
そう呼んでもらえることは自分にとって、どれだけ望みたいことだろう?

―嬉しい、ほんとうに…だから体のことも頑張りたい、ね?

この体は喘息を抱え込む、それなのに今日も訓練で無理をした。
それでも回復を信じたい、その願いのまあ静かにベッドへ横たわると周太は笑った。

「ん、大学院は俺、森林学に行くよ?樹医が俺の夢だし、賢弥と協力してほしい研究があるから、」

樹医になること、それは父と見つけた夢でいる。
この夢は父が贈ってくれた幸福が培った、だからこそ叶えたい想いに学友は笑ってくれた。

「おう、一緒にやろうな。共同研究の論文って俺、ちょっと憧れなんだ、」
「ん、あれってカッコいいよね?賢弥となら良い研究が出来るだろうし、」

きっと出来るはず、そう信じられるまま嬉しくて笑顔になる。
笑って見上げる天上はデスクライトに青白くて、けれど山の空を見る想いに賢弥が笑った。

「小嶌さんにも相談役してほしいよな?きっと学部生の最初っから研究室にいるだろうし、」

自分たちが大学院に進む時、美代も学部生として在学している。
この前提を疑わないと言葉に空気に解って、嬉しくて笑いかけた。

「そうだね、きっと美代さんだったら暇さえあればって感じだと思うよ?」
「な?小嶌さんって植物の世界に恋してるってカンジする、演習でも一番熱心だろな?あ、レジュメの相談ちょっと良い?」
「ん、良いよ。テキスト広げるね、秩父演習林のとこでいい?」
「うん、そこなんだけど夜間の作業についてだけどさ、」

楽しいトーンが話してくれる世界は、夜の部屋にも明るい。
いま座っているのは警視庁第七機動隊の寮室、ここから森の世界は遠すぎる。
それでも繋いだ電話からは豊穣まばゆい緑の夢が笑う、こんな瞬間を与えられる「今」が嬉しい。
ベッドから天井を仰ぎながら手許にテキスト広げ笑いあう、そんな一時を過ごし電話を切ると周太は微笑んだ。

「ん、きっと大丈夫、…やりたいこと、いっぱいあるから頑張れるね?」

いま告げられた仏文学のチャンスが、森林学の夢に加わってくれた。
こんな現実に祖父と父の願いが重なるようで、そして希望と勇気がまた温まる。
この温もりを叶えたい、そう祈るままに周太はデスクライトを点けたままベッドにもぐりこんだ。

―早く寝よう、でも眠る瞬間まで勉強したい…出来るだけ一秒でも多く、

この一瞬も無駄にしたくない、今の精一杯を尽くして生きていたい。
そんな願いと繰るページから参加できない演習すら独学でも読める、そして演習林の夏が輝く。
いつか行きたい森、学びたい植物の世界、そこにある水と樹木の絆と自分の道に今、この時すら夢に風光る。

「…雅人先生、俺、生きますね、」

そっと独り言に微笑んで見つめるページの彼方、記憶から笑顔は温かい。
あの篤実な医師を信じて明日も信じる、その先にある来年、来年が積まれゆく先もずっと信じたい。
そうして叶えたい夢と約束がある、そんな全ての中でいちばんに願いたい相手に心つぶやいた。

―今ごろ光一と話してるのかな?訓練とかいろいろ…逢いたい、けど…今夜は忙しいよね、英二、

本当は今すぐ逢いたい、そう想っている。
逢いたくて待っていたい、部屋の場所が解かるなら扉をノックしたい。
けれど出来ないと解かっている、それでも想う俤に微笑んだまま眠りは穏やかに訪れる。



ふっと瞳が披いて、夜の天井が映りこむ。
ただ静謐だけが優しい薄明り、カーテン透かす窓は仄明るい。
眠りから時間は過ぎて深更になった、そんな空気に枕元のクライマーウォッチを周太は見た。

「…0時過ぎ、だね、」

時刻に微笑んで腕を伸ばし、そっとベッドサイドへ置き直す。
その隣へ携帯電話も並べ置いて、ふと見た扉下からごく細い光が青く射す。
もう廊下も非常灯が照らす刻限、そんな理解に見つめる光に周太は首傾げた。

―人影?

黒い影が、青い光に翳されている。
もし無人なら光は扉下に一閃して見えるはず、けれど今は途切れている?
そう気がついて見つめる視界、佇んだまま動かない影に懐かしさが漂った。

もしかして?

そんな期待に起きあがり、忍ばせた足音に扉へ近づく。
そっと戸口の隙間から細い釣糸を外し、呼吸ひとつでドアノブ回して引いた。
そして開かれた扉前の視界、眠りの残滓と見上げた貌へ周太は想ったままを尋ねた。

「…さっきから何してるの?」

問いかけた先、すこし大きくした切長い瞳に自分を映し、英二が立っている。




(to be continued)

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