風、世界を統べる花に
第65話 如風act.2―another,side story「陽はまた昇る」
夕食の賑わう食堂、どこも膳の前で笑顔が寛ぐ。
一日の任務や訓練が終わった、そんな安堵が優しいけれど少しの緊張がある。
―なにか起これば出動なんだ、どんなに夜遅い時間でも、
事件が起きれば急行する、それは警察官である以上どこの部署でも同じだろう。
けれど交番勤務よりも緊張してしまうのは自分の個人的意識がある為かもしれない。
そんな意識に視線は動かされ食堂を見まわす、その視界で幾つかの笑顔と会釈を交わして、けれど探す人は居ない。
―英二、夕飯は済ませてきたのかな…それとも未だ着かない?
思案しながら丼飯を箸に運び飲みこんで、ため息を隠す。
さっきからメール1つも英二はくれない、それだけ異動初日は多忙だと解ってはいる。
しかも遭難救助まであれば私用メールなどする暇も無いはず、そんな納得ごと焼魚を呑みこんだ前から先輩が笑いかけた。
「来週は湯原、大学の日?」
「はい、講義とお手伝いがあります。箭野さんもですか?」
箭野は東京理科大の第二理学部に在籍している。
この努力家な先輩への好意と頷いた前、朗らかなトーンが答えてくれた。
「ああ、卒研が山場なんだ。今日も午前中は行ってきたんだよ、」
「学校のあと午後の訓練に出られたんですか?」
午後は実戦的射撃訓練で集中力が必要だった。
きっと研究でも集中した後だろうに?すこし驚いて尋ねた周太に先輩が笑った。
「出動なんて何時来るか解らんだろ?それと同じだよ、」
出動はいつ来るか解らない。
この言葉にある覚悟に、今、想っていた相手に心が向いてしまう。
―英二は卒配の時から覚悟してたんだ、ずっと、
あと1ヶ月で初任教養卒業から1年になる、その間を英二はこの緊張と生きていた。
けれど毎晩の電話にそんな気配は少なくて、それを英二が告げたのは2度だけだった。
1度目は初めての死体見分を行った夜。
2度目は御岳の写真家、田中老人を看取った夜だった。
生死の廻りを目の当たりにする、そんな瀬戸際の苦しみにだけ英二は任務の弱音を垣間見せた。
―まだ俺は看取ることはしていない、死体見分も無かった、
新宿署勤務の時、父を知るホームレスに応急処置をした。
けれど彼は病院で亡くなり自分の前にあった時は生きている、自殺者に遭遇したことも無い。
あとは田中老人の葬儀は参列している、けれど直接に遺体へ触れ「死」に直面するのとは違う。
―俺が目の当たりにした死は、お父さんだけだね…そのために今、ここにいるね、
自分が初めて見つめた死は、父だった。
新宿署の検案所で父の遺体と対面した、9歳4ヶ月だった春の夜。
あの夜はずっと父の傍で過ごした、目覚めぬ父の体の傍に微睡んで、独り洗面室で泣いて吐いた。
あのとき破けた喉の痛みも吐いた血の味も憶えている、だから今ここにいる覚悟に微笑んだ隣、親しい声が笑った。
「おつかれさまです、箭野さん、湯原。ここ座って良いですか?」
快活な声に見上げた視界、日焼の笑顔ほころんでくれる。
この一ヶ月で親しくなれた山ヤの警察官たちに周太は笑いかけた。
「おつかれさまです、高田さん、浦部さん。箭野さん、良いですか?」
「もちろん、どうぞ?」
箭野も笑って席を勧めて、ふたりは席に着いた。
高卒任官で7年目の箭野は高田と浦部にとっても年次では上になる。
年齢的には高田が最年長、けれど階級と年次が優先される警察では箭野が年長扱いになってしまう。
それでも気さくな笑顔はいつものよう、ふたりの山岳レンジャーに笑いかけた。
「いつもより少し遅かったですね?第2小隊の方達、皆さん見かけないけれど、」
箭野が言う通り、山岳救助レンジャー第2小隊のメンバーは今夜まだ見ていない。
けれど訓練が長引いている様子も無かった、その不思議に軽く首傾げた斜向かい端正な貌が微笑んだ。
「異動してきた人の挨拶があったんです、予定より遅れての到着だったから今になってしまって、」
異動してきた人、そう言われて鼓動が胸詰まる。
無事の到着に安堵して、再会への緊張と期待が迫り上げる想いに高田が笑いかけた。
「いま小隊長と挨拶に回ってますが青梅署の救助隊から異動なんです、2年目で宮田さんって言うんだけど湯原と同期だよな?」
やっぱり英二のこと、そう言われて声が一瞬止められる。
それでも呼吸ひとつで周太はいつものよう微笑んだ。
「はい、同じ教場でした、」
「お、良かったな?同期で同僚だと援けあえるよ、銃器と山岳で違うけどさ、」
明るい高田のトーンにすら、つい背筋から熱が昇りだす。
顔まで赤くならないことを願いながら笑顔で箸を動かして、けれどその前から箭野も言ってくれた。
「青梅署の宮田さんって、警察医の吉村先生と地域部長が可愛がってる人だろ?応急処置も山の技術も凄いって聞いたけど、」
「はい、その彼です。やっぱり宮田さん、有名なんですね?」
焼魚をほぐしながら浦部が端正な日焼顔ほころばせてくれる。
いま話題の人と少し似た穏やかな笑顔は楽しそうに続けてくれた。
「ウチの山岳会長が息子みたいに可愛がってるんですけど、今日の挨拶だけでもなんか納得です、」
「挨拶だけで納得って、カリスマなタイプってことだ?お、来たな、」
訊きながら箭野が目を遠くへやり軽く手を挙げる。
その視線を追って見上げた隣、本田と松木が揃ってトレイを抱え笑ってくれた。
「おつかれさまです、今の話題って宮田さんのことですか?」
「当たり、本田もここではぶっちゃけて良いよ?もう松木くんには話したんだろうけど、」
笑って促す浦部を見ながら本田はテーブルを回り、箭野の隣へトレイを置いて松木を見た。
そんな同期の眼差しを受けた松木は周太の横に座ると率直に先輩へと微笑んだ。
「箭野さん、オフレコしてもよろしいですか?」
「さっきからそうなってるよ、いつも通りにな、」
可笑しそうに笑って箭野がGoサインを出してくれる。
その笑顔を受けて本田は寛いだトーンで言った。
「箭野さんが居て下さると話し易いんですよね、黒木さんのコト気にしないでいられて。所属違うのに、いつも色々聴かせてすみません、」
「どういたしまして、でも黒木ってそんなに話解らない奴じゃないんだけど、」
すこし困ったようでも明るいトーンで箭野が言ってくれる。
そんな先輩たちの会話と前も見た「黒木さん」への態度に周太は首を傾げた。
―…高田さんには大学の山岳部の先輩でね、次の小隊長だろうって言われてた人なんだ。だから国村さん褒めるとちょっとね、
それくらい人望もある優秀な人なんだ、山岳部でも面倒見いい先輩だよ?ただちょっと堅すぎるって言うかさ、小隊長と正反対なんだ
大学に行く土曜の朝も「黒木さん」を見かけた浦部と高田はそう言っていた。
優秀で面倒見が良くて物堅い、そんな性格は英二と類似して光一とは根の部分が正反対だと思う。
この類似と正反対が山岳レンジャー第2小隊が箭野を頼ってくる理由なのだろうか?そう思案する隣から高田が教えてくれた。
「あのな湯原、黒木さんが仕事でもプライベートでも認めて仲良いのって箭野さんくらいなんだ。そういうの黒木さんには珍しいんだよ、
黒木さんって完璧主義者だからな、簡単には誰かを尊敬して認めるってしない人なんだ。そんな黒木さんが箭野さんだけには弱いんだよ、」
完璧主義者が公私とも箭野を認めたくなる。
その気持ちは自分もよく解る、そして嬉しくて周太は笑った。
「箭野さんを尊敬するって気持ち、俺も解かります。訓練や任務もきちんとされながら大学で研究するって、すごいことだから、」
「うん、そういうとこ黒木さんって解る人なんだよ?きちんと人を見られる目があるんだ、」
端正な笑顔で浦部も頷いてくれる、そのトーンは穏やかでフェアがある。
このフラットな空気が浦部は明るくて英二と少し違う?そんな差異にまた首すじ熱くなる隣から高田が困ったよう笑った。
「そういう鑑識眼ってヤツも黒木さんの人望なんだけどな、堅過ぎて厳し過ぎるのと、正直なとこ上から目線だなって感じがあってさ?
面倒見もよくて可愛がってくれるけど、結局は対等じゃない空気が息詰まっちゃうんだ。だから、こんな時は箭野さんに駆けこむわけ、」
堅すぎる、上から目線、対等じゃない空気。
この単語たちに昔の自分が重なって、心に溜息こぼれてしまう。
―警察学校に入った頃の俺みたいだね…ううん、お父さんが亡くなってからずっとそうだった、学校でも、
自分だけが全て把握して解っていて、周りは何も解っていない。
そう想うままに周囲を見下してしまう、そんな鎧と壁を以前の自分も作っていた。
そういう自分には黒木の気持ちが解かりそうで思案と佇む前、聡明な目が微笑んだ。
「そういうの黒木も本当は悩んでるんだよ?だけど立場もある三十男が態度とか変えるって大変だと思う、その辺は俺とは違うし、」
きちんと相手の気持ちや立場を箭野は考えることが出来る。
こうした配慮が自然と出来るからこそ箭野には所属を越えた人望も生まれていく。
そんな先輩と親しくなれたことが素直に嬉しくて、微笑んで汁椀を啜りこんだ隣から松木が尋ねた。
「そっか、箭野さんって黒木さんとは年次1こしか違わないし七機は同時に配属だけど、年齢は5つ違うんでしたよね?」
「うん、高卒任官だから湯原と1歳しか違わないんだ、いま青梅署にいる原とは年齢も一緒の同期だよ、」
気さくな答えに一瞬、座の空気が思案に停まる。
そのすぐ後に笑い声が寛いで、可笑しそうに高田が言った。
「なんか俺、いつも箭野さんって完璧に年上先輩って感覚で話してたけど、よく考えたら俺のが2歳上だったんだ?」
「そうだよ?高田さんって俺のこと三十歳くらいな気分で話してるよな、いつも、」
笑いながら箭野が醤油挿しをとり刺身に掛けまわしていく。
いつもの気さくな笑顔へと高田は素直に笑った。
「自白するとそうです、たぶんここに居る全員が同罪だと思いますよ?」
「はい、俺も高田と同じです。俺のが一歳上なのにすみません、」
謝りながら浦部も綺麗な手を軽く上げてしまう、その笑顔も明るい。
こんなふう部隊が違っていても箭野を中心に笑いあえる、この空気が楽しい。
―ね、お父さんが居た時もこんな雰囲気だったの?蒔田さんや安本さんと笑ってご飯、食べてた?
そっと心に父へ問いかけられる今、この場所にいる想いごと温かい。
こうした空気に父も佇んでいられたのなら?そんなふう願いは29年前に遡る。
that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である
29年前、父が母校の付属図書館に寄贈した一冊に記された言葉が今こんな時こそ解かる。
すこし前に父の後輩から聴かされた過去、そして自分の手に還ってきた祖父の遺著にあったサイン。
この2つから見つめた父の姿は、夢を絶たれた哀切と愛惜、それでも夢見た世界を援ける誇り、そして覚悟だった。
こうした全てを辿ってこられた「今」は、きっと英二に出逢って今の自分に成れなかったら出来なかったろう。
―英二が俺の孤独も意地も壊してくれたから黒木さんみたいに成らないでいれる、青木先生の冤罪を晴らして大学の道が繋がったのも、
あのひとは自分の唯ひとり、そう想ってしまう。
だから今もどうしているのか本当は気になって、そんな想い知るよう本田が口を開いた。
「宮田さんが挨拶しているとき、黒木さんの目がちょっと怖かったんですよね。たぶん人物鑑定みたいのしてる目だったんですけど。
そしたら宮田さんの目が黒木さんの目と合っちゃったんです、その瞬間に宮田さん、ほんと綺麗な笑顔になって黒木さんを受けとめて。
黒木さん一瞬だけど怯んでました、あの笑顔には俺も見惚れました。なんか国村さんや後藤会長の気持も解かるなって納得しちゃって、」
あの笑顔はほんとに反則です、
ついそう言いたくなって周太は丼飯を口に頬張った。
こんなこと恥ずかしくて自分には言えない、だって自分の婚約者を褒めるなど慎み無い。
けれど今から話題が始まれば気恥ずかしい連続になる?そんな予想通りに高田も浦部も話し始めた。
「そうなんだよね、あの笑顔はカリスマだなって俺も思いましたよ?小隊長も綺麗な顔だけど、宮田さんは何か雰囲気あるなって、」
「だよな?小隊長は話しやすいし愉快だけど、ちょっと人間離れしてるっていうか色んな意味で雲の上な人で。でも宮田さんはな?」
「うん、宮田さんは人間っぽくて身近に話せるよね?そこらのモデルより美形だけど普通に男でさ、俺らの目線と一緒に居る感じがする、」
交わされていく会話と空気から、英二への評価と立場がもう解かる。
まだ2年目で今月24歳になるばかり、それでも3人ともが「宮田さん」と呼ぶ。
―配属してきて2時間くらいで英二、もう皆の心を掴み始めてるんだね?まだ挨拶だけなのに、
まだ1時間足らずだろう、第2小隊で英二が立っていた時間は60分にも満たない。
それでも山ヤの警察官たちを惹きつけたのは11ヶ月の実績だろう、そう推定する通りに本田が頷いた。
「そうですよね、宮田さんって俺たちと同じ場所に居てくれるカリスマって思います。まだ山のキャリア1年なのに実績凄いですよね?
冬富士から三スラ、三大北壁の2つで記録まで作って。レスキューも凄いって言うし、後藤さんが抜擢しただけの実力は充分ありますよね、
でも、そういうの自慢する空気が無いんですよね、宮田さん。国村さんのパートナーってことも気負ってなくて話しやすい所がカリスマです、」
ほら、やっぱり英二はそこに居るだけで惹きつける。
ただ英二は信ずるままに想う通り言動する、それだけで人は惹かれ集いだす。
そんな姿を語ってゆく言葉たちに、さっき読んだばかりの詩は一節を謳いだす。
Rose of all Roses, Rose of all the World!
The tall thought-woven sails, that flap unfurled
Above the tide of hours, trouble the air,
And God’s bell buoyed to be the water’s care;
While hushed from fear, or loud with hope, a band
With blown, spray-dabbled hair gather at hand.
薔薇たち全ての中の薔薇、世界を統べる唯一の薔薇よ、
高らかな思考の織りなす帆を羽のごとく翻し、
時の潮流より上にと高く、大気を揺るがせ、
神の鐘は水揺らめくまま浮き沈み、
恐るべき予兆に沈黙し、または希望への叫びに、集う
風惹きよせ、飛沫に濡れ艶めく髪を手にかき集めるように
【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】
【引用詩歌:William Butler Yeats「The Rose of Battle」】
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第65話 如風act.2―another,side story「陽はまた昇る」
夕食の賑わう食堂、どこも膳の前で笑顔が寛ぐ。
一日の任務や訓練が終わった、そんな安堵が優しいけれど少しの緊張がある。
―なにか起これば出動なんだ、どんなに夜遅い時間でも、
事件が起きれば急行する、それは警察官である以上どこの部署でも同じだろう。
けれど交番勤務よりも緊張してしまうのは自分の個人的意識がある為かもしれない。
そんな意識に視線は動かされ食堂を見まわす、その視界で幾つかの笑顔と会釈を交わして、けれど探す人は居ない。
―英二、夕飯は済ませてきたのかな…それとも未だ着かない?
思案しながら丼飯を箸に運び飲みこんで、ため息を隠す。
さっきからメール1つも英二はくれない、それだけ異動初日は多忙だと解ってはいる。
しかも遭難救助まであれば私用メールなどする暇も無いはず、そんな納得ごと焼魚を呑みこんだ前から先輩が笑いかけた。
「来週は湯原、大学の日?」
「はい、講義とお手伝いがあります。箭野さんもですか?」
箭野は東京理科大の第二理学部に在籍している。
この努力家な先輩への好意と頷いた前、朗らかなトーンが答えてくれた。
「ああ、卒研が山場なんだ。今日も午前中は行ってきたんだよ、」
「学校のあと午後の訓練に出られたんですか?」
午後は実戦的射撃訓練で集中力が必要だった。
きっと研究でも集中した後だろうに?すこし驚いて尋ねた周太に先輩が笑った。
「出動なんて何時来るか解らんだろ?それと同じだよ、」
出動はいつ来るか解らない。
この言葉にある覚悟に、今、想っていた相手に心が向いてしまう。
―英二は卒配の時から覚悟してたんだ、ずっと、
あと1ヶ月で初任教養卒業から1年になる、その間を英二はこの緊張と生きていた。
けれど毎晩の電話にそんな気配は少なくて、それを英二が告げたのは2度だけだった。
1度目は初めての死体見分を行った夜。
2度目は御岳の写真家、田中老人を看取った夜だった。
生死の廻りを目の当たりにする、そんな瀬戸際の苦しみにだけ英二は任務の弱音を垣間見せた。
―まだ俺は看取ることはしていない、死体見分も無かった、
新宿署勤務の時、父を知るホームレスに応急処置をした。
けれど彼は病院で亡くなり自分の前にあった時は生きている、自殺者に遭遇したことも無い。
あとは田中老人の葬儀は参列している、けれど直接に遺体へ触れ「死」に直面するのとは違う。
―俺が目の当たりにした死は、お父さんだけだね…そのために今、ここにいるね、
自分が初めて見つめた死は、父だった。
新宿署の検案所で父の遺体と対面した、9歳4ヶ月だった春の夜。
あの夜はずっと父の傍で過ごした、目覚めぬ父の体の傍に微睡んで、独り洗面室で泣いて吐いた。
あのとき破けた喉の痛みも吐いた血の味も憶えている、だから今ここにいる覚悟に微笑んだ隣、親しい声が笑った。
「おつかれさまです、箭野さん、湯原。ここ座って良いですか?」
快活な声に見上げた視界、日焼の笑顔ほころんでくれる。
この一ヶ月で親しくなれた山ヤの警察官たちに周太は笑いかけた。
「おつかれさまです、高田さん、浦部さん。箭野さん、良いですか?」
「もちろん、どうぞ?」
箭野も笑って席を勧めて、ふたりは席に着いた。
高卒任官で7年目の箭野は高田と浦部にとっても年次では上になる。
年齢的には高田が最年長、けれど階級と年次が優先される警察では箭野が年長扱いになってしまう。
それでも気さくな笑顔はいつものよう、ふたりの山岳レンジャーに笑いかけた。
「いつもより少し遅かったですね?第2小隊の方達、皆さん見かけないけれど、」
箭野が言う通り、山岳救助レンジャー第2小隊のメンバーは今夜まだ見ていない。
けれど訓練が長引いている様子も無かった、その不思議に軽く首傾げた斜向かい端正な貌が微笑んだ。
「異動してきた人の挨拶があったんです、予定より遅れての到着だったから今になってしまって、」
異動してきた人、そう言われて鼓動が胸詰まる。
無事の到着に安堵して、再会への緊張と期待が迫り上げる想いに高田が笑いかけた。
「いま小隊長と挨拶に回ってますが青梅署の救助隊から異動なんです、2年目で宮田さんって言うんだけど湯原と同期だよな?」
やっぱり英二のこと、そう言われて声が一瞬止められる。
それでも呼吸ひとつで周太はいつものよう微笑んだ。
「はい、同じ教場でした、」
「お、良かったな?同期で同僚だと援けあえるよ、銃器と山岳で違うけどさ、」
明るい高田のトーンにすら、つい背筋から熱が昇りだす。
顔まで赤くならないことを願いながら笑顔で箸を動かして、けれどその前から箭野も言ってくれた。
「青梅署の宮田さんって、警察医の吉村先生と地域部長が可愛がってる人だろ?応急処置も山の技術も凄いって聞いたけど、」
「はい、その彼です。やっぱり宮田さん、有名なんですね?」
焼魚をほぐしながら浦部が端正な日焼顔ほころばせてくれる。
いま話題の人と少し似た穏やかな笑顔は楽しそうに続けてくれた。
「ウチの山岳会長が息子みたいに可愛がってるんですけど、今日の挨拶だけでもなんか納得です、」
「挨拶だけで納得って、カリスマなタイプってことだ?お、来たな、」
訊きながら箭野が目を遠くへやり軽く手を挙げる。
その視線を追って見上げた隣、本田と松木が揃ってトレイを抱え笑ってくれた。
「おつかれさまです、今の話題って宮田さんのことですか?」
「当たり、本田もここではぶっちゃけて良いよ?もう松木くんには話したんだろうけど、」
笑って促す浦部を見ながら本田はテーブルを回り、箭野の隣へトレイを置いて松木を見た。
そんな同期の眼差しを受けた松木は周太の横に座ると率直に先輩へと微笑んだ。
「箭野さん、オフレコしてもよろしいですか?」
「さっきからそうなってるよ、いつも通りにな、」
可笑しそうに笑って箭野がGoサインを出してくれる。
その笑顔を受けて本田は寛いだトーンで言った。
「箭野さんが居て下さると話し易いんですよね、黒木さんのコト気にしないでいられて。所属違うのに、いつも色々聴かせてすみません、」
「どういたしまして、でも黒木ってそんなに話解らない奴じゃないんだけど、」
すこし困ったようでも明るいトーンで箭野が言ってくれる。
そんな先輩たちの会話と前も見た「黒木さん」への態度に周太は首を傾げた。
―…高田さんには大学の山岳部の先輩でね、次の小隊長だろうって言われてた人なんだ。だから国村さん褒めるとちょっとね、
それくらい人望もある優秀な人なんだ、山岳部でも面倒見いい先輩だよ?ただちょっと堅すぎるって言うかさ、小隊長と正反対なんだ
大学に行く土曜の朝も「黒木さん」を見かけた浦部と高田はそう言っていた。
優秀で面倒見が良くて物堅い、そんな性格は英二と類似して光一とは根の部分が正反対だと思う。
この類似と正反対が山岳レンジャー第2小隊が箭野を頼ってくる理由なのだろうか?そう思案する隣から高田が教えてくれた。
「あのな湯原、黒木さんが仕事でもプライベートでも認めて仲良いのって箭野さんくらいなんだ。そういうの黒木さんには珍しいんだよ、
黒木さんって完璧主義者だからな、簡単には誰かを尊敬して認めるってしない人なんだ。そんな黒木さんが箭野さんだけには弱いんだよ、」
完璧主義者が公私とも箭野を認めたくなる。
その気持ちは自分もよく解る、そして嬉しくて周太は笑った。
「箭野さんを尊敬するって気持ち、俺も解かります。訓練や任務もきちんとされながら大学で研究するって、すごいことだから、」
「うん、そういうとこ黒木さんって解る人なんだよ?きちんと人を見られる目があるんだ、」
端正な笑顔で浦部も頷いてくれる、そのトーンは穏やかでフェアがある。
このフラットな空気が浦部は明るくて英二と少し違う?そんな差異にまた首すじ熱くなる隣から高田が困ったよう笑った。
「そういう鑑識眼ってヤツも黒木さんの人望なんだけどな、堅過ぎて厳し過ぎるのと、正直なとこ上から目線だなって感じがあってさ?
面倒見もよくて可愛がってくれるけど、結局は対等じゃない空気が息詰まっちゃうんだ。だから、こんな時は箭野さんに駆けこむわけ、」
堅すぎる、上から目線、対等じゃない空気。
この単語たちに昔の自分が重なって、心に溜息こぼれてしまう。
―警察学校に入った頃の俺みたいだね…ううん、お父さんが亡くなってからずっとそうだった、学校でも、
自分だけが全て把握して解っていて、周りは何も解っていない。
そう想うままに周囲を見下してしまう、そんな鎧と壁を以前の自分も作っていた。
そういう自分には黒木の気持ちが解かりそうで思案と佇む前、聡明な目が微笑んだ。
「そういうの黒木も本当は悩んでるんだよ?だけど立場もある三十男が態度とか変えるって大変だと思う、その辺は俺とは違うし、」
きちんと相手の気持ちや立場を箭野は考えることが出来る。
こうした配慮が自然と出来るからこそ箭野には所属を越えた人望も生まれていく。
そんな先輩と親しくなれたことが素直に嬉しくて、微笑んで汁椀を啜りこんだ隣から松木が尋ねた。
「そっか、箭野さんって黒木さんとは年次1こしか違わないし七機は同時に配属だけど、年齢は5つ違うんでしたよね?」
「うん、高卒任官だから湯原と1歳しか違わないんだ、いま青梅署にいる原とは年齢も一緒の同期だよ、」
気さくな答えに一瞬、座の空気が思案に停まる。
そのすぐ後に笑い声が寛いで、可笑しそうに高田が言った。
「なんか俺、いつも箭野さんって完璧に年上先輩って感覚で話してたけど、よく考えたら俺のが2歳上だったんだ?」
「そうだよ?高田さんって俺のこと三十歳くらいな気分で話してるよな、いつも、」
笑いながら箭野が醤油挿しをとり刺身に掛けまわしていく。
いつもの気さくな笑顔へと高田は素直に笑った。
「自白するとそうです、たぶんここに居る全員が同罪だと思いますよ?」
「はい、俺も高田と同じです。俺のが一歳上なのにすみません、」
謝りながら浦部も綺麗な手を軽く上げてしまう、その笑顔も明るい。
こんなふう部隊が違っていても箭野を中心に笑いあえる、この空気が楽しい。
―ね、お父さんが居た時もこんな雰囲気だったの?蒔田さんや安本さんと笑ってご飯、食べてた?
そっと心に父へ問いかけられる今、この場所にいる想いごと温かい。
こうした空気に父も佇んでいられたのなら?そんなふう願いは29年前に遡る。
that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である
29年前、父が母校の付属図書館に寄贈した一冊に記された言葉が今こんな時こそ解かる。
すこし前に父の後輩から聴かされた過去、そして自分の手に還ってきた祖父の遺著にあったサイン。
この2つから見つめた父の姿は、夢を絶たれた哀切と愛惜、それでも夢見た世界を援ける誇り、そして覚悟だった。
こうした全てを辿ってこられた「今」は、きっと英二に出逢って今の自分に成れなかったら出来なかったろう。
―英二が俺の孤独も意地も壊してくれたから黒木さんみたいに成らないでいれる、青木先生の冤罪を晴らして大学の道が繋がったのも、
あのひとは自分の唯ひとり、そう想ってしまう。
だから今もどうしているのか本当は気になって、そんな想い知るよう本田が口を開いた。
「宮田さんが挨拶しているとき、黒木さんの目がちょっと怖かったんですよね。たぶん人物鑑定みたいのしてる目だったんですけど。
そしたら宮田さんの目が黒木さんの目と合っちゃったんです、その瞬間に宮田さん、ほんと綺麗な笑顔になって黒木さんを受けとめて。
黒木さん一瞬だけど怯んでました、あの笑顔には俺も見惚れました。なんか国村さんや後藤会長の気持も解かるなって納得しちゃって、」
あの笑顔はほんとに反則です、
ついそう言いたくなって周太は丼飯を口に頬張った。
こんなこと恥ずかしくて自分には言えない、だって自分の婚約者を褒めるなど慎み無い。
けれど今から話題が始まれば気恥ずかしい連続になる?そんな予想通りに高田も浦部も話し始めた。
「そうなんだよね、あの笑顔はカリスマだなって俺も思いましたよ?小隊長も綺麗な顔だけど、宮田さんは何か雰囲気あるなって、」
「だよな?小隊長は話しやすいし愉快だけど、ちょっと人間離れしてるっていうか色んな意味で雲の上な人で。でも宮田さんはな?」
「うん、宮田さんは人間っぽくて身近に話せるよね?そこらのモデルより美形だけど普通に男でさ、俺らの目線と一緒に居る感じがする、」
交わされていく会話と空気から、英二への評価と立場がもう解かる。
まだ2年目で今月24歳になるばかり、それでも3人ともが「宮田さん」と呼ぶ。
―配属してきて2時間くらいで英二、もう皆の心を掴み始めてるんだね?まだ挨拶だけなのに、
まだ1時間足らずだろう、第2小隊で英二が立っていた時間は60分にも満たない。
それでも山ヤの警察官たちを惹きつけたのは11ヶ月の実績だろう、そう推定する通りに本田が頷いた。
「そうですよね、宮田さんって俺たちと同じ場所に居てくれるカリスマって思います。まだ山のキャリア1年なのに実績凄いですよね?
冬富士から三スラ、三大北壁の2つで記録まで作って。レスキューも凄いって言うし、後藤さんが抜擢しただけの実力は充分ありますよね、
でも、そういうの自慢する空気が無いんですよね、宮田さん。国村さんのパートナーってことも気負ってなくて話しやすい所がカリスマです、」
ほら、やっぱり英二はそこに居るだけで惹きつける。
ただ英二は信ずるままに想う通り言動する、それだけで人は惹かれ集いだす。
そんな姿を語ってゆく言葉たちに、さっき読んだばかりの詩は一節を謳いだす。
Rose of all Roses, Rose of all the World!
The tall thought-woven sails, that flap unfurled
Above the tide of hours, trouble the air,
And God’s bell buoyed to be the water’s care;
While hushed from fear, or loud with hope, a band
With blown, spray-dabbled hair gather at hand.
薔薇たち全ての中の薔薇、世界を統べる唯一の薔薇よ、
高らかな思考の織りなす帆を羽のごとく翻し、
時の潮流より上にと高く、大気を揺るがせ、
神の鐘は水揺らめくまま浮き沈み、
恐るべき予兆に沈黙し、または希望への叫びに、集う
風惹きよせ、飛沫に濡れ艶めく髪を手にかき集めるように
【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】
【引用詩歌:William Butler Yeats「The Rose of Battle」】
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