風惹く、唯ひとつの花へ
第65話 如風act.4―another,side story「陽はまた昇る」
逢いたくて夢見た相手が、現実に自分の前にいる。
見つめてくれる切長い瞳に自分が映る、その濃やかな睫から陰翳が蒼い。
仄暗い水底のような非常灯にダークブラウンの髪艶めいて、端正な貌は白皙まばゆい。
―やっぱり英二、だよね?
どこか夢の続きのよう見上げて首傾げてしまう。
その横をすり抜けるよう長身が部屋に踏みこみ、施錠音が鳴った。
かちり、
ふたり空間が閉じられた目の前、紺色のTシャツ姿が静かに微笑む。
ここは自分の寮室、けれど今もう5秒前と違う空気が部屋を充たしてしまう。
―香が変った、ね…すこし甘くて苦くて、深い森みたいな…英二の香、
懐かしい香に世界が変る、そして視界すら違って見える。
さっきまで独り静謐の眠れる場所、けれど今もう鼓動から熱が首筋へ昇らす。
こんな二人きりの空間はいつ以来?そんな時間経過に息つまらせる痛みすら甘い。
―1ヶ月半ぶり位だよね、それに…光一との夜からは初めてで、
このひとは他の人を抱きしめた、その現実が今さら胸を咬む。
咬まれた傷から初めての人を見るような、ぎこちない遠慮と少しの卑屈が蝕みだす。
その相手と比較された自分はどう見える?そう思うほど遠退きそうな想いへ切長い瞳が笑った。
「周太、逢いたかった、」
逢いたかった、ずっと君に逢いたかった。
そんな願いあふれるよう薄闇から長い腕が伸ばされて、温もりに肩が包まれ惹き寄せられる。
抱きこまれた広やかな懐から森の香くゆらす、頬ふれる鼓動のビートは少し速くて、けれど脈うつ時は頼もしい。
いま紺色のTシャツ2枚を透かして体温が通う、その温もりに溜息から本音だけが微笑んだ。
「ん…逢いたかったね、英二?」
「周太、」
名前を呼ばれて見あげる先、切長い瞳が幸せに笑う。
ふたりきり空間に籠められた夜、この瞬間に再び幸せを見るなんて想っていなかった。
ただ嬉しくて、けれど嬉しい分だけ体と過去が抱く現実は痛くて、自責が瞳の底にもう熱い。
―ごめんなさい英二、俺ほんとは約束と反対のことしようとしてるの…喘息のことも他のことも言えなくて、ごめんね、
ごめんなさい、そう言いたいけれど言えない。
この言葉は目の前の人にいちばん告げたくて、そして今日も電話した二人にも言いたい。
母にも告げたい、大切な誰もに告白したい、けれど今これを言えば自分の14年間と父への想いが傷だけになる。
そして恨みが残るだろう、そう解っているから秘密のまま静かに飲みこんだ周太に優しい誘惑が笑いかけた。
「周太、もし泊まっていくって言ったら、自分の部屋に戻れって叱ってくれる?それとも」
それとも、の続きを聴く時間だって今、もう惜しい。
そんな現実に微笑んで周太は唇のキスをした。
―どうか一緒にいて?
どうか今、この一瞬でも一緒にいてほしい。
どれだけ時間が残されているかなんて本当は解らない、今も二つの理由が迫っている。
ひとつ呼吸するごと瞬間は近づいて、それでも超えた向こうを信じたくて約束を続けていたい。
この願い微笑んで静かに唇離れて見つめあう、そのキスの残像がいつもながら恥ずかしいまま笑いかけた。
「あの…なんにもしないって約束ならいいです、」
ここは第七機動隊舎の寮室、そして隣には光一がいる。
自分の幼馴染で英二のアンザイレンパートナーで上司、そんな相手に至近距離で「なんにも」は困ってしまう。
そんな本音と見あげた先で端正な貌は首傾げ、綺麗な笑顔ほころばすと頷いてくれた。
「しないよ、でもキスだけは許してよ、周太?」
せめて体の一ヶ所だけは交える許可が欲しい。
そんな願いに見つめられて気恥ずかしい、また首筋駈けだす熱に周太は笑った。
「…えいじのえろべっぴん、」
アイツってエロ別嬪だよね?
そんなふう光一が言う通りだと今あらためて可笑しい。
そんな英二の貌が驚くことも愉しくて、笑って腕すりぬけると窓のカーテンを少し開いた。
いま虚空は夜風の渡るまま雲が奔ってゆく、ゆるやかに明滅する月の輪郭が嬉しくて周太は笑った。
「あ、きれい…英二、月がきれいだよ?」
きれいだから見にきて?
そう笑いかけながら本当は今、少し泣きたい。
だって本当はもう、この人を嫌いになりたいと想っていたから今、嫌えない心が泣きたい。
―他の人を英二が抱きしめたら、少しでも嫌いになれるって思ったのに、
自分以外の相手と愛しあったなら許せなくなる、そして嫌いになって離れる。
そんなことを本当は期待していた、少しでも嫌いになって遠ざかれば良いと思っていた。
そう願うから英二と光一に自分を忘れてほしくて遠ざけたくて二人の恋愛関係を望んだ。
そんな二人を見て幻滅したかった、そうして恋を磨り減らし消せたなら楽になれると思った。
―他の人を抱きしめた人なのに、それでも好き…すこしでも嫌いにならないとだめなのに、どうして?
今、父と祖父の真相が見えてくるごと真実は複雑化する、そんな現実に巻きこみたくなくて、だから嫌いになりたい。
だから英二に他の人と抱き合ってほしかった、その相手が光一なら自分も納得して諦めがつくと想っていた。
心も体も綺麗な最高の山ヤ、そんな相手に自分が敵う訳ないと言い訳が出来るから調度いい。
なによりも他の肌にふれた手を自分なら嫌って触らせない、生理的に嫌えるはずだった。
半月ほど前に大学で会った時は戸外で逃場があった、けれど密室で会えばきっと逃げたくなると思っていた。
それなのに今、抱きしめられた体温も香もただ、嬉しかった。
嬉しくて、少しでも傍にいたいと一瞬を願いキスしたのは、自分からだった。
そして一緒にいて良いと頷いてしまった、こんなはずじゃなかったのに今、もう嘘は想いつけない。
―ごめんなさい雅人先生、本当は俺、無理なことも解ってるんです…でも生きていたいから信じてたい、だから今も一瞬でもほしい、
密やかな本音が瞳から熱ひとしずくに零れゆく。
この場所に自分が生きる危険を本当は解かっている、雅人医師が無茶な挑戦を呑んだことも気付いている。
だからこそ今、こうして英二に触れられても生理的感情は体温と鼓動の喜びしか感じない?
そんな感覚に本音ごと見上げた月は銀色きらめいて、夏の深夜に静謐ふらす。
いま眠っている世界を見つめる背中、綺麗な低い声が微笑んだ。
「周太こそ綺麗だよ、」
本気でそんなこと言うの?
そう問いたがる自分の心に溜息と微笑んでしまう。
こんな質問にこそ相手への想い露呈する、それすら今は楽しいまま振り向くと周太は微笑んだ。
「英二、またカッコよくなっちゃったね、先月会った時より…べっぴんだよ?」
「ありがとう、なんか周太は大人っぽくなったね、すごく綺麗だ、」
綺麗な声と瞳が笑いかけ歩み寄ってくれる、その眼差しに惹かれるまま自分の足が踏みだす。
ふわり背後でカーテンが閉じられても透ける月光は相手を照らし、白皙の端正は綺麗に笑った。
「おいで、周太、」
そっと掌を取られ寄せられるままベッドへ体が惹きこまれる。
微かな軋み音に白いシーツが体重ふたつ受けとめて、いつもより体は深く沈んでしまう。
この音も感覚もいつもと違う部屋、どの変化もなにか気恥ずかしくて吐息ごと周太は微笑んだ。
「ん…ちょっと狭いね、英二?」
長身の英二には窮屈だろうな?そう笑いかけた先に幸せな笑顔が咲く。
月の薄明りに抱きしめられてTシャツ越し体温が重ならす、その熱から綺麗な低い声が笑った。
「くっつけて嬉しいよ、周太?それに狭い方が今は安全だろうし、」
「ん、なんで安全なの?」
なんでだろう?ただ不思議で尋ねた視界で切長い瞳が笑ってくれる。
そのまま端正な笑顔は幸せほころんで英二は嬉しそうに教えてくれた。
「ベッドが広いとセックス出来るだろ、でも狭いと難しいから安全ってことだよ、周太、」
いま何を言われたのだろう?
そう思案してすぐ弾けた困惑に周太は小さく叫んだ。
「…っば、ばかえっちへんたいっ、こんなとこでだめですっここはしょくばでしょっ、そんなこというひとはかえってっ、」
こんなところで何てこと言うの?
こんな時にそんなこと言うなんて困る、もう抗議に両手は広やかな肩を押し除ける。
けれど頼もしいまま肩も腕も動かずに幸せいっぱいの笑顔が囁いてきた。
「キスだけなら泊まって良いって周太、言ってくれたよね?…ね、狭くてセックス出来ないんだから安心して…キスされて?周太…」
囁きごと唇よせられ重ねられる、その唇が熱い。
抱きしめてくる鼓動が強くなる、その腕も発熱ごとふれて心を融かす。
今ふれる瞬間も隣にいる相手へ気恥ずかしくて、けれど幸せで深いキスに誘われるまま解らなくなる。
―好き、このひとが好き…英二と一緒に生きたい、
ほら、もう願いが瞳に熱をあふれて、けれど今は泣けない。
このひとを想うほど今は泣けなくて、その堪える背中を優しい熱が抱きしめてくれる。
こんなふう寄りそっていたい、ずっと傍にいてほしい、そんな願いに接吻けながらふと違和感が起きた。
―背中が妙に熱い、ね?
抱きしめられた背中に熱の輪郭が動く、その熱は直接素肌に触れてくる。
どういうことだろう?怪訝に感覚が落着いた瞬間に状況把握が驚いた。
―Tシャツが捲られちゃってるの?
捲られたTシャツのなか長い指の手が素肌を探りだす。
そんな掌の意図に気付いて周太はキスから離れ、小さく叫んだ。
「…だ、だめっ、やっぱりだめばかえっちちかんあっちいってっうそつきっ、」
本当になんて馬鹿なのだろう、やっぱり自室へ帰って貰う方が良い。
だいたい「キスだけ」って約束したのに意地悪すぎる、そんな想い睨んだ視界で幸せな笑顔ほころんだ。
「ね、周太…嘘なんて吐いてないだろ、キスだけしかしてない、」
「い…いまふくめくっててをいれてたでしょっだめでしょばかっ」
怒りながら困ってしまう、今のどこが「キスだけ」だと言うのだろう?
こんなに疎通できない英二といたら大変な事態になる、それを止めたい両手は英二の肩を押しても動じてくれない。
どうしたら良いのか困ったまま睨みつけて、それなのに嬉しそうな笑顔は頬よせて楽しげに囁いた。
「馬鹿でも嬉しいな…服めくるなんてセックスじゃないから安心して、応急処置の時だって服を捲るくらいするし…ね、周太…」
耳元へ声ごとふれるキスから熱が疼きだす、その熱に困惑した隙Tシャツ捲られて素肌を熱が抱きしめる。
もう隔たりが消された素肌ふるわせ鼓動が重なってしまう、こんな今に途惑う唇へと恋人の吐息が笑った。
「周太…肌がふれてるだけなのに俺、すごい幸せだよ?…服、脱いでないのにこうしてるだけで幸せ、」
笑った吐息ごと唇ふれてキスになる。
唇と唇、胸と胸、抱きしめられた背中に掌の輪郭がただ熱い。
熱に昇らす森の馥郁が心を融かしだす、長い脚に絡まれる下肢はもう逃げられない。
「周太、…周太は今、幸せ?」
吐息と少し離れた唇が囁き微笑んで、切長い瞳が見つめてくれる。
見上げる白皙の貌は端正なまま幸せに明るんで、カーテン透かす月光の明滅にダークブラウンの髪が煌めく。
その艶やかな光輪は大切な絵本の挿絵と似ているようで、記憶の幸せと今この瞬間への想いに周太は微笑んだ。
「ん、幸せだよ?…でもはずかしいのがこまってます…えっちえろべっぴんちかんばかえいじ」
本当に困ってしまう、けれど困惑すらも温かい。
傍にいてくれるから困らされることも出来る、この今が幸せだと想ってしまう。
そんな自覚へ鼓動と体温が素肌ふれあいながら、切長い瞳が幸せに笑ってくれた。
「恥ずかしがりの周太が好きだよ、大胆な時も好きだ…いつも大好きだから、ずっと俺の恋人でいて?」
いつも、ずっと、そんな言葉に永遠の願いが優しい。
この願いごとに頷けたら幸せだろう、けれど今の自分は本当に叶えられるか解らない。
どう答えて良いのか解らなくて、それでも唇にキスは重ねこまれるまま願いの吐息が口移し贈られる。
―いつも好きなのは俺のほう、ずっと好きでいてしまうのも…そうでしょう英二?
だって自分こそ嫌いになれない、もう他の人を抱いてしまった相手なのに?
いま拒んでも素肌をさらされ抱きしめられる、それを結局は許している自分こそ解らない。
だからこそ訊いてみたい正直な想いにキスから離れると、夜の静寂に声を潜め問いかけた。
「…そんなこと言うんなら正直に訊くけど、光一とベッドでその…時は俺のことなんて忘れちゃってた癖に、いつもとか嘘吐かないで、」
本当は「いつも」じゃ無いし「ずっと」でも無かったでしょう?
それならそうと認めてほしい、疑ったまま信頼なんて築けないから。
だから本気で永遠を願ってくれるなら今、ここで正直に喧嘩してしまいたい。
「あのね…光一と恋人の時間は本当にあったでしょ?その時は俺のこと大好きとか考えてなかったはずだよ、光一のことだけ見てた、
ずっとも、いつもも、今は違うでしょ?…それならそうって認めてほしいんだ、その場限りの言葉みたいのは欲しくないの、今そんなじ」
今そんな時間なんて無いから、
そう言いかけて想いごと言葉を呑みこんで止める。
只でさえ「異動」が近づく今を英二は恐れている、その不安を煽るようなことは言えない。
同じ不安がらせるなら他の感情から困らせたい、それも幸せだと笑ってほしくて周太は正直なまま拗ねた。
「このあいだ学校で言ったでしょ?お祖父さんのベンチのとこで…あの夜は俺だって泣いたって言ったでしょ、ほんとは嫌だから泣いたの、
英二が光一のこと本当に好きって解ってたから俺、自分から…自分から二人を認めちゃう方が楽だって想ったから認めただけなんだから、ね…」
英二が本気で恋したら、恋の相手をどうするのか?
そんなこと自分がいちばん解かっている、だから認めることを選んだ。
―本気なら英二は俺にあの夜したことをするだけ、どんな状況でも関係ないから…絶対に英二がしたいようにしちゃうから、
あの夜、去年の九月の終わりと同じことを英二は選ぶ。
あの夜は英二も迷っていた、けれど自身の本音に笑って周太を抱きしめた。
それが英二らしい誇りで恋愛だと解っている、それを止める術も無いと自分がいちばん知っている。
止められないなら認めた方が楽、けれど止められない英二も自分も哀しくて、そんな関係に迷いそうな本音がある。
この本音を今ここで全てぶつけてしまいたい、そんな我儘を自分に赦して周太は唯ひとつの想い懸けて精一杯に拗ねた。
「だから俺、いっぱい泣いちゃったんだから…賢弥の部屋でいっぱい泣かせてもらったの…ほんとは嫌に決まってるでしょ英二のばかえっち、
光一ならって納得できるから仕方ないって自分に言聞かせてただけなの…英二ほんとは光一のこと夢中になっちゃったくせに、解かるんだから、」
こんなこと言うなんて、みっともないって解ってる。
本当はずっと黙っているつもりだった、自分自身にすら沈黙して納得しようと決めていた。
けれど今、自分の体にある現実を思い知った今はもう小さな嘘も吐きたくない、後悔なんてしたくない。
―みっともなくても本当の気持ちで生きたい、この一秒だって後悔しないように、
後悔しないなら、我儘な自分は我儘を言えばいい?
そんな諦めは可笑しくて楽になる、いま明るむ想い笑って周太は拗ねた。
「ばか英二のえっちへんたい…エロ別嬪なんて綽名つけられちゃうなんて光一にえっちなこと散々したんでしょ?俺は知ってるもん、
ほんとに英二はえっちでベッドでも好き勝手するって知ってるからね?…だから今だってTシャツ勝手にめくるんだから…えっちばか嫌い」
嫌い、そう言った途端に抱きしめてくる力が緩む。
この一瞬に周太はくるり寝返り打って布団のなかに隠れこんだ。
「周太、…ね、嫌いって嘘だよね?そっぽむかないで?」
困惑の声が哀しげに訴えて、背から長い腕が抱きしめてくれる。
くゆらす森の香は布団越しにも優しくて、抱きしめてくれる鼓動も体温も温かに愛しい。
―やっぱり好き、だから…だから本気で拗ねて我儘を言いたい、もう誤魔化したくないから、ね
あのとき本音を裏切っても認めたのは、唯ひとり大切だったから。
その気持ちは今も変わらなくて愛しくて、尚更に離れられないと思い知らされる。
だから今すぐ笑って抱きしめたい、それでも布団と壁に笑い堪える沈黙に綺麗な低い声は囁いた。
「ごめん、周太の言う通りだ…光一に夢中で忘れた時ってある、でも富士で気がついたから…最高峰で俺ちゃんと気づいたから、赦して?」
最高峰で気がついた、そんな言葉にほら、あの花束とメッセージが記憶から温かい。
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
第65話 如風act.4―another,side story「陽はまた昇る」
逢いたくて夢見た相手が、現実に自分の前にいる。
見つめてくれる切長い瞳に自分が映る、その濃やかな睫から陰翳が蒼い。
仄暗い水底のような非常灯にダークブラウンの髪艶めいて、端正な貌は白皙まばゆい。
―やっぱり英二、だよね?
どこか夢の続きのよう見上げて首傾げてしまう。
その横をすり抜けるよう長身が部屋に踏みこみ、施錠音が鳴った。
かちり、
ふたり空間が閉じられた目の前、紺色のTシャツ姿が静かに微笑む。
ここは自分の寮室、けれど今もう5秒前と違う空気が部屋を充たしてしまう。
―香が変った、ね…すこし甘くて苦くて、深い森みたいな…英二の香、
懐かしい香に世界が変る、そして視界すら違って見える。
さっきまで独り静謐の眠れる場所、けれど今もう鼓動から熱が首筋へ昇らす。
こんな二人きりの空間はいつ以来?そんな時間経過に息つまらせる痛みすら甘い。
―1ヶ月半ぶり位だよね、それに…光一との夜からは初めてで、
このひとは他の人を抱きしめた、その現実が今さら胸を咬む。
咬まれた傷から初めての人を見るような、ぎこちない遠慮と少しの卑屈が蝕みだす。
その相手と比較された自分はどう見える?そう思うほど遠退きそうな想いへ切長い瞳が笑った。
「周太、逢いたかった、」
逢いたかった、ずっと君に逢いたかった。
そんな願いあふれるよう薄闇から長い腕が伸ばされて、温もりに肩が包まれ惹き寄せられる。
抱きこまれた広やかな懐から森の香くゆらす、頬ふれる鼓動のビートは少し速くて、けれど脈うつ時は頼もしい。
いま紺色のTシャツ2枚を透かして体温が通う、その温もりに溜息から本音だけが微笑んだ。
「ん…逢いたかったね、英二?」
「周太、」
名前を呼ばれて見あげる先、切長い瞳が幸せに笑う。
ふたりきり空間に籠められた夜、この瞬間に再び幸せを見るなんて想っていなかった。
ただ嬉しくて、けれど嬉しい分だけ体と過去が抱く現実は痛くて、自責が瞳の底にもう熱い。
―ごめんなさい英二、俺ほんとは約束と反対のことしようとしてるの…喘息のことも他のことも言えなくて、ごめんね、
ごめんなさい、そう言いたいけれど言えない。
この言葉は目の前の人にいちばん告げたくて、そして今日も電話した二人にも言いたい。
母にも告げたい、大切な誰もに告白したい、けれど今これを言えば自分の14年間と父への想いが傷だけになる。
そして恨みが残るだろう、そう解っているから秘密のまま静かに飲みこんだ周太に優しい誘惑が笑いかけた。
「周太、もし泊まっていくって言ったら、自分の部屋に戻れって叱ってくれる?それとも」
それとも、の続きを聴く時間だって今、もう惜しい。
そんな現実に微笑んで周太は唇のキスをした。
―どうか一緒にいて?
どうか今、この一瞬でも一緒にいてほしい。
どれだけ時間が残されているかなんて本当は解らない、今も二つの理由が迫っている。
ひとつ呼吸するごと瞬間は近づいて、それでも超えた向こうを信じたくて約束を続けていたい。
この願い微笑んで静かに唇離れて見つめあう、そのキスの残像がいつもながら恥ずかしいまま笑いかけた。
「あの…なんにもしないって約束ならいいです、」
ここは第七機動隊舎の寮室、そして隣には光一がいる。
自分の幼馴染で英二のアンザイレンパートナーで上司、そんな相手に至近距離で「なんにも」は困ってしまう。
そんな本音と見あげた先で端正な貌は首傾げ、綺麗な笑顔ほころばすと頷いてくれた。
「しないよ、でもキスだけは許してよ、周太?」
せめて体の一ヶ所だけは交える許可が欲しい。
そんな願いに見つめられて気恥ずかしい、また首筋駈けだす熱に周太は笑った。
「…えいじのえろべっぴん、」
アイツってエロ別嬪だよね?
そんなふう光一が言う通りだと今あらためて可笑しい。
そんな英二の貌が驚くことも愉しくて、笑って腕すりぬけると窓のカーテンを少し開いた。
いま虚空は夜風の渡るまま雲が奔ってゆく、ゆるやかに明滅する月の輪郭が嬉しくて周太は笑った。
「あ、きれい…英二、月がきれいだよ?」
きれいだから見にきて?
そう笑いかけながら本当は今、少し泣きたい。
だって本当はもう、この人を嫌いになりたいと想っていたから今、嫌えない心が泣きたい。
―他の人を英二が抱きしめたら、少しでも嫌いになれるって思ったのに、
自分以外の相手と愛しあったなら許せなくなる、そして嫌いになって離れる。
そんなことを本当は期待していた、少しでも嫌いになって遠ざかれば良いと思っていた。
そう願うから英二と光一に自分を忘れてほしくて遠ざけたくて二人の恋愛関係を望んだ。
そんな二人を見て幻滅したかった、そうして恋を磨り減らし消せたなら楽になれると思った。
―他の人を抱きしめた人なのに、それでも好き…すこしでも嫌いにならないとだめなのに、どうして?
今、父と祖父の真相が見えてくるごと真実は複雑化する、そんな現実に巻きこみたくなくて、だから嫌いになりたい。
だから英二に他の人と抱き合ってほしかった、その相手が光一なら自分も納得して諦めがつくと想っていた。
心も体も綺麗な最高の山ヤ、そんな相手に自分が敵う訳ないと言い訳が出来るから調度いい。
なによりも他の肌にふれた手を自分なら嫌って触らせない、生理的に嫌えるはずだった。
半月ほど前に大学で会った時は戸外で逃場があった、けれど密室で会えばきっと逃げたくなると思っていた。
それなのに今、抱きしめられた体温も香もただ、嬉しかった。
嬉しくて、少しでも傍にいたいと一瞬を願いキスしたのは、自分からだった。
そして一緒にいて良いと頷いてしまった、こんなはずじゃなかったのに今、もう嘘は想いつけない。
―ごめんなさい雅人先生、本当は俺、無理なことも解ってるんです…でも生きていたいから信じてたい、だから今も一瞬でもほしい、
密やかな本音が瞳から熱ひとしずくに零れゆく。
この場所に自分が生きる危険を本当は解かっている、雅人医師が無茶な挑戦を呑んだことも気付いている。
だからこそ今、こうして英二に触れられても生理的感情は体温と鼓動の喜びしか感じない?
そんな感覚に本音ごと見上げた月は銀色きらめいて、夏の深夜に静謐ふらす。
いま眠っている世界を見つめる背中、綺麗な低い声が微笑んだ。
「周太こそ綺麗だよ、」
本気でそんなこと言うの?
そう問いたがる自分の心に溜息と微笑んでしまう。
こんな質問にこそ相手への想い露呈する、それすら今は楽しいまま振り向くと周太は微笑んだ。
「英二、またカッコよくなっちゃったね、先月会った時より…べっぴんだよ?」
「ありがとう、なんか周太は大人っぽくなったね、すごく綺麗だ、」
綺麗な声と瞳が笑いかけ歩み寄ってくれる、その眼差しに惹かれるまま自分の足が踏みだす。
ふわり背後でカーテンが閉じられても透ける月光は相手を照らし、白皙の端正は綺麗に笑った。
「おいで、周太、」
そっと掌を取られ寄せられるままベッドへ体が惹きこまれる。
微かな軋み音に白いシーツが体重ふたつ受けとめて、いつもより体は深く沈んでしまう。
この音も感覚もいつもと違う部屋、どの変化もなにか気恥ずかしくて吐息ごと周太は微笑んだ。
「ん…ちょっと狭いね、英二?」
長身の英二には窮屈だろうな?そう笑いかけた先に幸せな笑顔が咲く。
月の薄明りに抱きしめられてTシャツ越し体温が重ならす、その熱から綺麗な低い声が笑った。
「くっつけて嬉しいよ、周太?それに狭い方が今は安全だろうし、」
「ん、なんで安全なの?」
なんでだろう?ただ不思議で尋ねた視界で切長い瞳が笑ってくれる。
そのまま端正な笑顔は幸せほころんで英二は嬉しそうに教えてくれた。
「ベッドが広いとセックス出来るだろ、でも狭いと難しいから安全ってことだよ、周太、」
いま何を言われたのだろう?
そう思案してすぐ弾けた困惑に周太は小さく叫んだ。
「…っば、ばかえっちへんたいっ、こんなとこでだめですっここはしょくばでしょっ、そんなこというひとはかえってっ、」
こんなところで何てこと言うの?
こんな時にそんなこと言うなんて困る、もう抗議に両手は広やかな肩を押し除ける。
けれど頼もしいまま肩も腕も動かずに幸せいっぱいの笑顔が囁いてきた。
「キスだけなら泊まって良いって周太、言ってくれたよね?…ね、狭くてセックス出来ないんだから安心して…キスされて?周太…」
囁きごと唇よせられ重ねられる、その唇が熱い。
抱きしめてくる鼓動が強くなる、その腕も発熱ごとふれて心を融かす。
今ふれる瞬間も隣にいる相手へ気恥ずかしくて、けれど幸せで深いキスに誘われるまま解らなくなる。
―好き、このひとが好き…英二と一緒に生きたい、
ほら、もう願いが瞳に熱をあふれて、けれど今は泣けない。
このひとを想うほど今は泣けなくて、その堪える背中を優しい熱が抱きしめてくれる。
こんなふう寄りそっていたい、ずっと傍にいてほしい、そんな願いに接吻けながらふと違和感が起きた。
―背中が妙に熱い、ね?
抱きしめられた背中に熱の輪郭が動く、その熱は直接素肌に触れてくる。
どういうことだろう?怪訝に感覚が落着いた瞬間に状況把握が驚いた。
―Tシャツが捲られちゃってるの?
捲られたTシャツのなか長い指の手が素肌を探りだす。
そんな掌の意図に気付いて周太はキスから離れ、小さく叫んだ。
「…だ、だめっ、やっぱりだめばかえっちちかんあっちいってっうそつきっ、」
本当になんて馬鹿なのだろう、やっぱり自室へ帰って貰う方が良い。
だいたい「キスだけ」って約束したのに意地悪すぎる、そんな想い睨んだ視界で幸せな笑顔ほころんだ。
「ね、周太…嘘なんて吐いてないだろ、キスだけしかしてない、」
「い…いまふくめくっててをいれてたでしょっだめでしょばかっ」
怒りながら困ってしまう、今のどこが「キスだけ」だと言うのだろう?
こんなに疎通できない英二といたら大変な事態になる、それを止めたい両手は英二の肩を押しても動じてくれない。
どうしたら良いのか困ったまま睨みつけて、それなのに嬉しそうな笑顔は頬よせて楽しげに囁いた。
「馬鹿でも嬉しいな…服めくるなんてセックスじゃないから安心して、応急処置の時だって服を捲るくらいするし…ね、周太…」
耳元へ声ごとふれるキスから熱が疼きだす、その熱に困惑した隙Tシャツ捲られて素肌を熱が抱きしめる。
もう隔たりが消された素肌ふるわせ鼓動が重なってしまう、こんな今に途惑う唇へと恋人の吐息が笑った。
「周太…肌がふれてるだけなのに俺、すごい幸せだよ?…服、脱いでないのにこうしてるだけで幸せ、」
笑った吐息ごと唇ふれてキスになる。
唇と唇、胸と胸、抱きしめられた背中に掌の輪郭がただ熱い。
熱に昇らす森の馥郁が心を融かしだす、長い脚に絡まれる下肢はもう逃げられない。
「周太、…周太は今、幸せ?」
吐息と少し離れた唇が囁き微笑んで、切長い瞳が見つめてくれる。
見上げる白皙の貌は端正なまま幸せに明るんで、カーテン透かす月光の明滅にダークブラウンの髪が煌めく。
その艶やかな光輪は大切な絵本の挿絵と似ているようで、記憶の幸せと今この瞬間への想いに周太は微笑んだ。
「ん、幸せだよ?…でもはずかしいのがこまってます…えっちえろべっぴんちかんばかえいじ」
本当に困ってしまう、けれど困惑すらも温かい。
傍にいてくれるから困らされることも出来る、この今が幸せだと想ってしまう。
そんな自覚へ鼓動と体温が素肌ふれあいながら、切長い瞳が幸せに笑ってくれた。
「恥ずかしがりの周太が好きだよ、大胆な時も好きだ…いつも大好きだから、ずっと俺の恋人でいて?」
いつも、ずっと、そんな言葉に永遠の願いが優しい。
この願いごとに頷けたら幸せだろう、けれど今の自分は本当に叶えられるか解らない。
どう答えて良いのか解らなくて、それでも唇にキスは重ねこまれるまま願いの吐息が口移し贈られる。
―いつも好きなのは俺のほう、ずっと好きでいてしまうのも…そうでしょう英二?
だって自分こそ嫌いになれない、もう他の人を抱いてしまった相手なのに?
いま拒んでも素肌をさらされ抱きしめられる、それを結局は許している自分こそ解らない。
だからこそ訊いてみたい正直な想いにキスから離れると、夜の静寂に声を潜め問いかけた。
「…そんなこと言うんなら正直に訊くけど、光一とベッドでその…時は俺のことなんて忘れちゃってた癖に、いつもとか嘘吐かないで、」
本当は「いつも」じゃ無いし「ずっと」でも無かったでしょう?
それならそうと認めてほしい、疑ったまま信頼なんて築けないから。
だから本気で永遠を願ってくれるなら今、ここで正直に喧嘩してしまいたい。
「あのね…光一と恋人の時間は本当にあったでしょ?その時は俺のこと大好きとか考えてなかったはずだよ、光一のことだけ見てた、
ずっとも、いつもも、今は違うでしょ?…それならそうって認めてほしいんだ、その場限りの言葉みたいのは欲しくないの、今そんなじ」
今そんな時間なんて無いから、
そう言いかけて想いごと言葉を呑みこんで止める。
只でさえ「異動」が近づく今を英二は恐れている、その不安を煽るようなことは言えない。
同じ不安がらせるなら他の感情から困らせたい、それも幸せだと笑ってほしくて周太は正直なまま拗ねた。
「このあいだ学校で言ったでしょ?お祖父さんのベンチのとこで…あの夜は俺だって泣いたって言ったでしょ、ほんとは嫌だから泣いたの、
英二が光一のこと本当に好きって解ってたから俺、自分から…自分から二人を認めちゃう方が楽だって想ったから認めただけなんだから、ね…」
英二が本気で恋したら、恋の相手をどうするのか?
そんなこと自分がいちばん解かっている、だから認めることを選んだ。
―本気なら英二は俺にあの夜したことをするだけ、どんな状況でも関係ないから…絶対に英二がしたいようにしちゃうから、
あの夜、去年の九月の終わりと同じことを英二は選ぶ。
あの夜は英二も迷っていた、けれど自身の本音に笑って周太を抱きしめた。
それが英二らしい誇りで恋愛だと解っている、それを止める術も無いと自分がいちばん知っている。
止められないなら認めた方が楽、けれど止められない英二も自分も哀しくて、そんな関係に迷いそうな本音がある。
この本音を今ここで全てぶつけてしまいたい、そんな我儘を自分に赦して周太は唯ひとつの想い懸けて精一杯に拗ねた。
「だから俺、いっぱい泣いちゃったんだから…賢弥の部屋でいっぱい泣かせてもらったの…ほんとは嫌に決まってるでしょ英二のばかえっち、
光一ならって納得できるから仕方ないって自分に言聞かせてただけなの…英二ほんとは光一のこと夢中になっちゃったくせに、解かるんだから、」
こんなこと言うなんて、みっともないって解ってる。
本当はずっと黙っているつもりだった、自分自身にすら沈黙して納得しようと決めていた。
けれど今、自分の体にある現実を思い知った今はもう小さな嘘も吐きたくない、後悔なんてしたくない。
―みっともなくても本当の気持ちで生きたい、この一秒だって後悔しないように、
後悔しないなら、我儘な自分は我儘を言えばいい?
そんな諦めは可笑しくて楽になる、いま明るむ想い笑って周太は拗ねた。
「ばか英二のえっちへんたい…エロ別嬪なんて綽名つけられちゃうなんて光一にえっちなこと散々したんでしょ?俺は知ってるもん、
ほんとに英二はえっちでベッドでも好き勝手するって知ってるからね?…だから今だってTシャツ勝手にめくるんだから…えっちばか嫌い」
嫌い、そう言った途端に抱きしめてくる力が緩む。
この一瞬に周太はくるり寝返り打って布団のなかに隠れこんだ。
「周太、…ね、嫌いって嘘だよね?そっぽむかないで?」
困惑の声が哀しげに訴えて、背から長い腕が抱きしめてくれる。
くゆらす森の香は布団越しにも優しくて、抱きしめてくれる鼓動も体温も温かに愛しい。
―やっぱり好き、だから…だから本気で拗ねて我儘を言いたい、もう誤魔化したくないから、ね
あのとき本音を裏切っても認めたのは、唯ひとり大切だったから。
その気持ちは今も変わらなくて愛しくて、尚更に離れられないと思い知らされる。
だから今すぐ笑って抱きしめたい、それでも布団と壁に笑い堪える沈黙に綺麗な低い声は囁いた。
「ごめん、周太の言う通りだ…光一に夢中で忘れた時ってある、でも富士で気がついたから…最高峰で俺ちゃんと気づいたから、赦して?」
最高峰で気がついた、そんな言葉にほら、あの花束とメッセージが記憶から温かい。
blogramランキング参加中!
にほんブログ村