眠り、想いを抱いて
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第42話 雪陵act.4―side story「陽はまた昇る」
北穂高岳まで戻ってきたのは16時半だった。
本気の国村が全力を出したお蔭で、17時には雪洞の中で落着けた。
相変わらずの手際よさと馬力だな?パートナーの底力に感心していると国村がザックの中身を広げ始めた。
「これだけあれば、足りるよね?」
からり笑って白い指が並べたのは、1ダースの500mlビールと2Lペットボトルに詰め直した日本酒2本だった。
これだと酒だけで約10kgの重量、これに2泊3日分の装備だから総重量は成人女性には充分なってしまう。
それでも普段から山岳救助隊員として互いを背負っての訓練は積んでいるから、この程度は自分達には軽い。
だとしても、よくこんなに酒を背負ってきたな?呆れながら英二は自分もザックの中身を出した。
「あのさ、今回って俺が酒、買ってくる約束だったよな?」
「うん、でも足りないと困るだろ?自販機なんか無いんだしさ。お、宮田、ワイン持って来たんだ?」
機嫌良く1.8L紙パック入りの白ワインを持って、国村は眺めている。
もう1つ日本酒の同サイズを出して英二は首を傾げこんだ。
「なあ?こんなに大量に酒ばっかでさ、飲み切れるわけ?」
「言っただろ?今日は呑みたいんだ、ってね。さ、飲みの準備するよ、」
からり笑いながら酒を集めると、さっさと雪の穴へと埋めていく。
喜んで酒を埋めるようすが楽しげで、なんだかリスとかの冬支度みたいだな?
そんなことを想いながら英二は、コンロに鍋をセットして下拵えしてきた材料を入れた。
チーズや生ハムを並べると鍋が煮えるのを待ちながら、国村は早速ビールを1つ渡してくれた。
「ほら、乾杯しようよ、」
「うん、ありがとう、」
素直に受け取って英二はプルリングを引いた。
それを待ちかねていた白い手が持つ缶ビールを、英二のビールにこつんとぶつけて国村が笑った。
「じゃ、尋問の夜に乾杯、」
あやうくビール缶を落とすところだった。
尋問だなんて穏やかじゃない、困らされる予感を想いながらも英二は微笑んだ。
「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ?今夜は密談日和だ、イロイロ聴かせて貰うからね、」
ビールに白い喉を鳴らしながら、細い目はご機嫌に笑んでいる。
きっと今夜は、タイミング悪く酒に口付けたら噴き出す羽目になるな?
警戒をしながら英二は素早くひとくち飲みこんだ。
「うん、旨いな、」
雪に埋めて冷やしたビールは、独特の甘みが旨い。
なにより今日は行動距離が長かった、すこし疲れた体にアルコールが快い。
ほっと息吐いて微笑んだ英二に、透明なテノールの声が訊いた。
「じゃ、酔っぱらう前に案件からな?おまえ、染み抜きって言っていたけどさ、どこに血痕を見つけたワケ?」
やっぱりあの電話だけでも解ってくれていた。
こういう呼吸の理解が嬉しい。本当に良いパートナーだなと思いながら英二は答えた。
「東屋の柱と、写真の一部だよ。それでさ、写真を貼ってあったはずのアルバムは、無かったんだ」
「ふうん、アルバムはじゃあ、焼却処分ってトコだろな?でさ、柱の血痕部分って少しでも削れそう?」
「うん、実は削ってきたんだ。写真のと照合くらいなら、出来るかな?」
「1962年の血痕だよね、いまから半世紀前か…ちょっと考えてみるけどね。で、じいさんの謎が解かったんだよな?」
「解かった、ってまでは、まだ言えないんだ。ホルスターらしい影が写真に写っている。帰ったら、ちょっと見てくれる?」
「もちろん、見てみたいね?で、じいさん達、周太と似てた?」
急に平和な話題になったな?
なんだか楽しい気持ちになって、英二は素直に答えた。
「曾おばあさんの雰囲気が一番、周太と似ていたよ、」
「ふうん、やっぱり女の子系なんだね、周太って。今回も周太、着物も着たんだろ?」
どうも国村は和装が好きらしい。
北岳の後で川崎に訪問した時も「お代官サマしたい」とか言っていた。
ほんとうを言えば英二も着物を着た、けれどそれは言わない方が良いかもしれない?
もし無理矢理に「お代官サマ」されたら困る、訊かれない事実は秘匿して英二は答えた。
「うん、父さんたちが来た時と、お茶の稽古の時にね、」
「いいね、見たいな?」
今回は1週間の滞在だったから、2度ほど周太も袴姿を披露してくれている。
その2回とも英二は写真を撮った、そのうち1枚を携帯から呼び出すとチェーンを付けたまま国村に渡した。
「へえ、可愛いね、今回も。あわい色が似合うな。で、ご対面はどうだった?」
幸せに携帯の画面に微笑んで見てくれる。
この笑顔に見える想いに切なくなってしまう、雅樹の願いと周太の想いは矛盾すると思い知らされる。
そして今はもう、雅樹の想いが心に遺って温かい。この分身のような想いに自分はどう応えたらいい?
この哀しみと温かな愛情を心深く見つめたまま、英二はいつもどおりに微笑んだ。
「うん、お互いに気に入ったみたいだったよ。でも俺はね、ほんと言うと綱渡りだった、」
「連れ戻されそうになった、とか?」
コップにワイン注ぎながら訊いてくれる。
まるっきり図星だなと可笑しくて、笑いながら英二は頷いた。
「当たり。湯原の家に、ご迷惑ではありませんか?こんな感じで切りだされた、」
「跡取り問題か?」
打てば響くよう応えてくれる。
こういう間合いが国村とは気楽で、楽しくて嬉しい。
ありのまま英二は頷いて微笑んだ。
「うん、周太、ひとりっこだからね。俺とだと、子供は出来ないだろ?」
「そうだね、遺伝子的には無理だな。オヤジさん、真面目だね。ホントおまえと似てるんだ?」
細い目を温かに笑ませながら聴いてくれる。
こういう理解が嬉しい、素直に微笑んで英二は頷いた。
「うん、似てる。父さんの考え方は、俺にはよく解るんだ。だから俺、なにも反論できなかったんだ。
父さんの言う通りだって思ったし、父さんに頭下げさせた責任が俺にはあるから。でも、お母さんは俺を、受け入れてくれたよ、」
素直に答えながらコップを受けとって、ひとくち飲んで息を吐いた。
父に言われた時なにひとつ反論が出来なかった、それが悔しいけれど仕方ない。
そんな英二に国村は、優しく笑いかけてくれた。
「そういう真面目なおまえがさ、俺は好きだね。おふくろさんもだろな、」
「ありがとう。あのとき俺、自分の未熟が心底悔しかった。早く自分の始末は全部自分で出来るようになりたい、って思った」
もっと自分で身を処せるようになりたい、あのときそう思った。
そして今はもう自分だけで考えるしか出来ない、この立場はもう覆されることは無い。
ほんの数日前から自分に生まれた責任に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれた。
「おまえ、分籍したって言っていたな?」
「うん、父さんたちが来た後の、最初の平日にね、」
もう英二は分籍をした。
分籍は戸籍を完全に独立させること、これをすれば2度と元の戸籍には戻れない。
こうすれば両親との扶養義務すら切れる、もう英二の戸籍は英二が戸籍筆頭者になった。
そして今の英二には戸籍上、家族は誰もいなくなった。
「7月の予定だったのに、ずいぶん早めたな?正式任官と、今回のご対面の影響?」
啜りこむワインに目を細めながら訊いてくれる。
重くも無く軽くも無い自然な雰囲気が居心地いい、この雰囲気に感謝しながら英二は素直に答えた。
「対面のこともあるけど、一番のきっかけは事故かな?…連れ戻される口実を作る可能性が、多すぎるって気づいてさ、」
「救助、山、周太のオヤジさん。危険だらけだもんな?親だったら、子供を危険から離したいだろね、」
底抜けに明るい目が大らかな温もりに笑んでくれる。
こういう優しい大らかさが自分は好きだ、頷いて英二は微笑んだ。
「うん、親の気持ちは、本当にありがたいけどね。守ってくれようとすると逆に危険だろ?
父さんたちを巻き込みたくないし。出来るだけ早く、独立したかったんだ。だから正式に任官した時、副隊長にも相談しておいたんだ」
周太を守って生きる。
そう決めたときからずっと、見つめてきた危険の可能性と今既にある辛い予兆たち。
これらから周太を守るには、警察組織のある部分は敵に回すことになってしまう。
この影響が計り難い、だから独立したかった。分籍して家族との縁を切れば、累を及ぼす可能性が軽減できるだろう。
そして今、戸籍上の英二は天涯孤独になった。
「後藤のおじさんも通したんだ、じゃあ人事の方も問題ないね?」
「うん。奥多摩に戻ってすぐ、戸籍謄本とか提出した。手続きは済んだよ、これでもう履歴書の家族欄は、真白になった、」
法律上の天涯孤独、家族欄も親族欄も空白になった自分。
すこし寂しいなと思う。
けれど周太の危険が終わるまでは、英二の身辺は出来る限り「謎」にしたい。
この「謎」が自分の自由を守ってくれる、そして自分の危険も減らされる。
この想いにアンザイレンパートナーは、大らかに笑んで頷いてくれた。
「そっか。じゃ、戻ったら人事ファイルもチェックしてみようね。ここが白くなっていないと、困るもんな?」
「うん、ありがとう、」
この「白」は寂しい、けれど幸せになる為の手段だから嬉しい。
分籍すれば英二が単独の戸籍だから、戸籍筆頭者の権利を得ることが出来る。
そうすれば周太と縁組をして戸籍に迎え法律上家族と認可される事も、全て英二の自由になる。
この権利と自由がほしかった。
―早く周太、嫁さんにしたいな?
1週間ほど静養を過ごした、川崎の家での時間。
周太と一緒にいる時間は心から幸せだった、なにより「大切な夜」が嬉しかった。
その記憶に重なる白ワインに幸せと口付けると、白い指に額を弾かれた。
「エロ顔になってるよ?どうせまた、お初のことでも考えてるんだろ?」
英二の口元から、ワインがすこしだけコップに戻された。
「…っこほっ、」
お初、って、何の?
この問いに続いて胸せりあがる感触が、喉を振るわせてしまう。
急いでコップを口から離すと、掌で口元を覆った。
「…っ、ごほっ、ごほこふっ、ごほっ…」
咽て止まらない。
困りながら咽こんでいると、国村が水のコップを渡してくれた。
「ほら、ゆっくり飲みなね、」
「…あり、ごほっごほっ、」
水を飲んで、ほっと息つくと何とか落着いてくる。
とりあえず喉は落着くだろうけれど、「お初」の追及は落着くか解からない。
まさか国村に事実は解っていないだろうと思う、けれど何か勘付いているのだろうか?
今夜はやっぱり黙秘かな?考えながらコップをテーブルに戻すと、愉しげにテノールが笑った。
「ふうん、図星みたいだね?ま、めでたいな、ほら、」
ぽん、と掌に何かを渡された。
何かなと見ると、コンビニで買ったらしい赤飯の握飯だった。
こんな準備までしている、そして「お初」と赤飯の組み合わせは恥ずかしい。
また得意のトラップだろうか?それとも何か証拠を掴まれている?
けれど証拠なんかある訳が無いだろう、とりあえず英二はパッケージを開いて微笑んだ。
「初登頂の祝い、ありがとうな、」
「うん?まあ、そっちのお初もあるよね、」
答えながら国村も、赤飯の握飯を頬張っている。
さっさと食べて飲みこむと、クライマーウォッチの時間に国村は笑った。
「星の良い時間だな、俺、ちょっと見てくるよ。カメラ使いたいしさ、」
言いながらカメラのレンズをセットし始めている。
星空はいいな?英二もコップを置いて、コンロの火を一旦落とした。
「俺も一緒に見るよ、鍋、一旦消したけど良いかな?」
「うん、良いよ。まだ途中だしさ、」
話しながら外へ出ると、青藍深い空に銀砂が輝いていた。
ふる星の光に雪陵が呼応するよう発光していく、深々と星の静謐が白銀にふりつもる。
ナイフリッジの鋭鋒は夜の虚空を突き聳え、峻厳が輝いていた。
「きれいだな…」
こぼれる賞賛に吐息は白く凍っていく。
凍れる真白な吐息の彼方、天指す鉾は冷厳の息吹を夜の沈黙へと吹きかける。
いま零下30度は軽く下回っているだろう、冷厳が頬撫でる体感が標高3,000mの夜だと知らせてくれる。
この高度感と眼前に聳える鋭鋒は、ずっと写真で見てきた世界だった。
いま、その世界に自分は立っている。この今の喜びと友人との約束に微笑んだ。
「日本のマッターホルン、っていう通りだな?」
「だろ?本物のマッターホルンに、登りに行こうな?」
―…今度の夏はね、俺、友達とマッターホルンに登るんだ。俺の生涯のアンザイレンパートナーで、一番の友達だよ
北鎌尾根の独標で、国村が雅樹に話してくれた言葉。
あの言葉がうれしかった、そして雅樹の想いが温かかった。
ふたつの想いに微笑んで英二は応えた。
「うん、登りに行こう。楽しみだな?」
「おう、楽しみだね、」
カメラのセッティングを調整して、国村は槍の穂先へレンズを向ける。
そしてシャッターを切りながら、からり笑った。
「ほんと楽しみ、マッターホルン。俺たちのハネムーン旅行だね?み・や・た、」
「ハネムーンは、やらないよ?」
すっぱり断って英二は微笑んだ。
けれど意に介さない顔で国村は、愉しげにシャッターを切って笑った。
「うん、今夜は星もイイ感じだね、」
凍れる夜の空ふる星は、張りつめ冴え渡る大気に響くよう輝いている。
この星々の光を雅樹は、この山で15年の星霜ずっと見つめていたのだろうか?
ふっと心ふれた想いに自然と口が開かれた。
「雅樹さん、この星空が好きだな、」
カメラ扱う手が止まる。
ゆっくり振向いた底抜けに明るい目が、凝っと見つめてきた。
真直ぐに無垢な視線を頬受けながら、空見つめて英二は微笑んだ。
「宇宙に近いな、この夜空は。星の光が近くて、鳴っているのが解かるよ。この空を見られて、幸せだよ、」
心に映る想いを素直に言葉に変えていく。
あふれる想いたちに、隣の純粋無垢な目は呆然と見つめてきた。
「それ、なんで…?」
不思議そうに驚いたように細い目が英二を見つめている。
なんか変だったかな?こちらも不思議に想いながら素直に英二は答えた。
「思ったままを、言っただけだよ?なんか変だったか?」
「思ったまま、か、…」
無垢な瞳は考え込むよう小首傾げている。
そして嬉しそうに笑って、青いウェアの腕が英二を抱きしめた。
「やっぱり宮田は、俺の最高のアンザイレンパートナーだね?愛してるよ、み・や・た、」
嬉しそうに笑いながら抱きついてくれる。
なんだか小さな子供みたいだな?微笑ましくて笑いながら、軽く背中を叩いてやった。
「愛してる、って台詞は周太に言うべきだろが?」
「周太にも言ってるよ?でも、おまえにも言いたいんだ、なんか問題あるわけ?」
無邪気に笑って訊いてくれる。
こんな顔で笑われると、ちょっと弱いかもしれない?
―雅樹さんの心が、残ってるのかな?
こんな不思議も、あるのかもしれない。
あの美しい医学生の山ヤを自分も好きだ、だからこれで良いのかもしれない?
想い素直に英二は微笑んで、アンザイレンパートナーに言った。
「大事に想ってくれるなら、うれしいよ?ありがとな、でも変なコトするなよ?」
「変なコト?俺、なんかしてるっけ、」
抱きついた腕をほどくと、可笑しそうに笑いながら国村は槍の鉾先に向き合った。
カメラを構えてシャッターを切りながら、さらり訊いてくれた。
「たとえば、どんな変なコト?」
カメラのファインダー見つめながら、テノールの声が訊いてくれる。
すこし困りながら英二は笑った。
「首のとこにキスマークつけるとかさ、ちょっと困るんだけど?」
「ふうん、ま、我慢しといて?…よし、」
さらり答えながらカメラをおろすと、愉しげに英二の顔を覗きこんだ。
覗いてくる底抜けに明るい目が愉快に笑っている、今の英二のお願いは「却下」だと告げてくる。
困ったな?そう微笑んだ英二の左腕を掴むと国村は、機嫌良く笑いながら雪洞へと踵を返した。
「さ、俺たちの愛の巣に戻ろう?熱い鍋食って酒呑んで、熱い夜を過ごそうね、」
「熱いと雪洞が溶けて困るだろ、普通の夜にしたいよ、」
「それとこれは別問題だよ?さ、今夜は呑もうね、」
「うん、呑むのは良いけど、」
相変わらずの国村節なエロトークが可笑しい。
笑いながら英二は引っ張りこまれるよう雪洞に入った。
元の席に落ち着くと国村は、コンロに火をつけてコップにワインを充たした。
「はい、改めて乾杯な、」
うれしそうに笑いながら国村はコップを持って笑っている。
英二も素直にコップを持つと、白い手が持つコップを軽くぶつけてくれた。
「じゃ、宮田の処女喪失に乾杯」
思わずコップを落としかけて、素早く英二はもう片方の手で受けとめた。
無事にコップを受けとめられて、ほっとしながら英二は微笑んだ。
「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ、おまえバック貫通したんだろ?」
どうして解るんだろう?
そんな驚きが内心起きるけれど、さらり英二は微笑んだ。
「それってセクハラですか?国村警部補、」
「ふうん?このタイミングで上司扱いしちゃうんだね、エロ別嬪巡査殿は」
この呼名はちょっと拙いだろう?
可笑しくて笑いながら、英二は反撃した。
「その呼び名、かなりセクハラだって。国村こそセクハラ警部補になっちゃうよ、」
「セクハラ警部補か。うん、宮田限定付でなら、悪くないね?」
「悪くないんだ?」
「うん、おまえだけならね?俺のセクハラ相手は限定付だからさ、好みが難しんだよね、」
からり笑って国村は機嫌よくワインを飲んでいる。
証拠があるわけではないだろうし、このまま逃げ切れるかな?
この核心部への沈黙に微笑んで、冷静に英二はワインをすすりこんだ。
そんな英二に細い目が可笑しげに笑んで、からりテノールが訊いた。
「ワインなんて、珍しいよな?」
「うん、川崎の家でね、お母さんと飲んで楽しかったんだ」
あの席はなかなか楽しかったな?
周太の母との楽しい「呑兵衛」な時間に笑った英二に国村も笑った。
「おふくろさんと呑むの楽しいよね。北岳の帰りの時、楽しかったよ。今回はサシ呑み?」
「そうだよ、周太が当番勤務の夜に2回とも、」
「へえ、仲良しで良いね。おふくろさん、サシだともっと面白いんだろ?」
言う通り2人でサシ呑みは面白かった。
楽しかった時間のお蔭で周太がいない夜の寂しさを紛らわせたな?素直に英二は頷いて微笑んだ。
「うん、なんかさ。お母さんって言うよりも、お姉さん、って感じで楽しかったな」
「そりゃ良いな。まさに、きれいなお姉さんって感じだね。周太は初心だからな?サシのが話せる範囲、広がるんだろ?」
「うん、お母さん自分で言ってた。『周だと、ちょっと言えないのよね』って、」
「あー、それ仕方ないよね?周太ってさ、エロトーク無理だし、アダルト系は一切アウトだもんな、」
「そんなにまで際どい話は、サシでもしないけどね?」
周太の母と父の桜の物語が、ふっと心を撫でていく。
出逢ったその日に夜を共にする、当時としては相当に「アダルト系」な話だったろう。
けれど桜の精だと互いに想い合って恋に墜ちた姿は、とても綺麗だと想ってしまう。
どこか神秘的で優しい桜の恋物語は、花木を愛する純粋な心の両親に相応しいなと素直に想える。
良い話を聴かせて貰えたな?そんな想いとワインを啜りこんだ英二に、国村もコップに口付けて笑いかけた。
「おふくろさん、湯治に行った、って言っていたな?ご対面の後に」
「うん、2泊3日が出来るチャンスは珍しいから、って言ってさ。楽しんできたみたいで、うれしかったよ」
「そりゃ良かったな。2泊3日は周太とサシか、それで、料理教わってきたんだ?」
「うん、酒のつまみになる簡単なのから教えてくれた。今度また続きを教わるんだ、」
一緒につくった料理は楽しかったし旨かった。
今度は何を教えてくれるかな?幸せな「今度」に微笑んだ英二に国村は訊いた。
「その共同作業の料理囲んで、周太ともワイン飲んだんだ?」
「うん、あまいのなら飲めるかな?って。周太、気に入ったみたいでね、結構たくさん飲んでたよ、」
本当に気に入ったらしく、周太は2晩続けて甘いワインを楽しんでくれた。
そして2晩とも英二に幸せな感覚と時間を贈ってくれた、あの「初めて」が幸せな記憶が嬉しい。
うれしい記憶に微笑んだ英二に、テノールの声は容赦なく笑った。
「ワインで眠らせた隙にでも、お初頂戴しちゃったんだろ?泥酔に童貞強姦だなんて鬼畜フルコースだね、このケ・ダ・モ・ノ」
酷すぎる誤解だ、驚いて英二は口を開いた。
「違う、酔っていたけど周太は起きてた、大人にしてって言ってくれたの、ちゃんと朝も覚えていたし…あ、」
しまった。
「へえ、周太ちゃんと自分から言えたんだ。で、可愛い童貞をモノにするために、おまえも処女を捧げちゃったんだね」
また国村の誘導尋問にひっかかった、それもこんな重大事で。
そして尋問者の上品な貌は、愉快でたまらないと笑っている。
心底から困った溜息と一緒に英二は曖昧な相槌を打った。
「…ん、まあ…」
「なに濁してんのさ?今更もう遅いよ、自白は取っちゃったからね、」
心底から愉しげに底抜けに明るい目が笑っている。
もう誤魔化しなんか効かないだろう、きっとこれから追及が始まってしまう。
―ごめんね、周太
話したと解ったら、周太は恥ずかしがって怒るかもしれない。
けれど嘘もつけない、英二が言わなくても国村が周太に話してしまうだろう。
どうしよう?困惑する心では愛する婚約者が真赤な顔に恥ずかしがっている。
心底困っている英二を眺めながら、愉しげに笑って国村はコップにワインを追加してくれる。
「ほら、祝杯しようね?お初交換に乾杯だ、」
「…なんて答えたら良いか、わかんないんだけど、」
さすがにこれは恥ずかしい。
頬が熱くなるのを感じながら、英二はワインを啜りこんだ。
「ほら、乾杯前に勝手に口付けてんじゃないよ?これでペナルティ1な、」
「あ、ごめん…」
困惑のまま謝った英二のコップに、またワインを追加してくれる。
注ぎ終わって、底抜けに明るい目は心底愉しげに笑いながら、コップをこつんとぶつけてくれた。
「はい、攻守チェンジに乾杯、」
かたん、
コップが手から滑り落ちて、雪洞の床に転がった。
「へえ、北穂にも祝杯のオスソワケか?粋なコトするね、み・や・た、」
「…いや、…うん、」
攻守ってなに?
そんな言葉が廻っている英二の前で、国村はコップを拾うときれいに拭いてくれる。
またワインでコップを充たして渡してくれると、愉快で堪らない目が尋問をスタートした。
「とうとう宮田がバック許すなんてね。ソンナに、お初に目が眩んじゃった?それとも実は周太、すんごいテクニシャンだったとか?」
「違う、俺が周太にしたんだ、…あ、」
「へえ、おまえが受けでも、攻め担当なんだ?じゃあ周太、されるがままか。可愛いオトナだね、おまえの婚約者はさ、」
「ん…可愛いよ?」
「そんな可愛い子をさ、おまえは前から後から愛しちゃったんだ?さぞオタノシミだったろね、どうせ昼間もヤリっぱなしだろ?」
「違う、朝はしたけど昼はキスだけ…う、」
「ふうん、朝もねえ?夜も朝もじゃ、周太も大変だな。で、昼はキスでイかせて愛しちゃったんだ。ホントおまえ、エロだね?」
「…なんて答えていいか、わかんないよ、」
恥ずかしい単語が次々と、上品な笑顔から発せられてくる。
とんでもない罰ゲームに遭わされている、どうしてこうなったんだろう?
国村は今日、最愛のザイルパートナーの慰霊登山に無垢の涙をそそいでいた。その姿は一途で、純粋な少年のまま美しかった。
それなのに今、同じ無邪気な笑顔はエロオヤジ発言に笑い転げている。
「着物姿が可愛くって、お代官サマやったんだろ?着替え中にでも、無理矢理にさ?ホントおまえ、鬼畜弩級エロ、」
「無理やりじゃない、着替え方を教えて貰って、それでつい…あ、」
「着替え方を教わった?へえ、おまえも着物、着たんだ?イイね、ぜひ、ご披露願いたいね?」
「こっちには置いてないから、無理だよ、」
「じゃ、川崎に行ったときな?楽しみだね、おまえの襦袢、ピンクとか?」
「そんなじゃないよ、黒っぽい赤だよ、」
「そりゃまた、妖艶な色だな?イイね、襦袢姿を拝みたいよ。その白い肌に黒紅が絡む、サイコーにエロだね。周太が羨ましいな、」
羨ましいと言う目が「最高の獲物を発見」と笑っている。
こんな目に襦袢姿を曝したら、何をされるのか解らない。
出来たらそんな事態は避けたい、けれど周太の母は国村をまた招きたいと言っていた。
―たぶん、桜の季節が危険だろうな?
花見に招待して英二に茶を点てさせる。
こんな展開は充分に有り得る、だからこのタイミングで着物を贈ってくれたのではないだろうか?
なんとか阻止できないかな?そう考えている目の前に、白い手が携帯の画面を差し出した。
「ほら、おふくろさんからメール貰ったんだ。染井吉野が咲いたら、花見の茶をしますから来てね、ってさ。
そんとき、おまえが点法だって言ってるよ?楽しみだな。着替えの時に、お代官サマさせてね。俺の麗しのアンザイレンパートナー?」
逃げられない。
それでも抵抗しようと英二は口を開いた。
「お代官サマはダメ、絶対ダメ、」
「ふうん?じゃ、代わりに周太を剥いちゃおうかな。周太だったら俺、好きに出来ちゃうもんね。恥らって可愛いだろな、ソソられちゃうね」
「もっとダメ!」
「嫌だね、身代わりになってもらうよ、周太にはさ?ほら、考えな?本人と身代わり、ドッチが良いかな、エロ別嬪パートナー殿?」
無邪気な笑顔は幸せそうに愉快に咲いてくれる。
この笑顔は嬉しい、けれど笑顔の理由が本気で困る。
困惑のまま尋問と要求に晒されて、途方に暮れながらもこんな自分が可笑しくて英二は笑った。
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食事の片づけも済んで、シュラフを出そうと英二はザックを開いた。
けれどすぐ白い手がザックのファスナーを閉めて、当然だと国村は笑った。
「シュラフはコッチだよ、手伝ってよね」
笑ってる国村の手には、谷川岳でも見たLLサイズの寝袋が掴まれている。
やっぱりそういうことなのかな?仕方ないなと英二は微笑んだ。
「やっぱり一緒に寝るんだ?」
「その方が温いだろ?ほら、ソッチの端、持ってよね、」
そんな調子に巻きこまれてLLサイズのシュラフに潜ると、結局また英二の背中には大きな子どもが張りついた。
いつものように英二の肩に白い顎を乗せて、無邪気な子供は心地よさ気に目を細め欠伸している。
こんなに懐かれるなんて、初対面の時は思わなかったな?半年前の記憶に英二は笑った。
「俺さ、最初に国村と会った時。大人っぽい物静かな人かな、って思ったんだよね、」
「よくそう言われるよ。外見が俺、お上品で美形だからね。でも今はエロオヤジって思ってるだろ?」
しれっと自分で言って国村は飄々と笑っている。
言う通りだろうけれど、可笑しくて英二は笑ってしまった。
「自分で美形だって、解かってるんだ?」
「まあね。俺って美白の美肌だし、体毛も薄いだろ?でかいし、顔も和顔の別嬪だしね。この美貌の所為で、好みのハードルが高いよ、」
のんびりと自賛して無邪気に笑っている。
普通なら嫌味になりそうなのに、国村だと率直に無垢で嫌みがない。
こういう所は好きだな、素直に英二は頷いた。
「うん、国村は確かに美形だよな?それでハードルを超えたのは周太なんだ?」
「うん?好みって意味では、周太はちょっと違うんだよね、」
意外な答えだな?
すこし驚いて英二は、肩に乗った上品な貌をふり向いた。
「周太、好みじゃないんだ?」
「そうだよ?きれいで可愛いし、大好きだけどね。でも、好みとか、そういう問題じゃないんだよね、」
ごく当然という顔で無垢な目が笑っている。
笑いながら透明なテノールの声は言葉を続けた。
「好みって意味ではね、宮田が弩ストライク。そして雅樹さんだよ。この2人だけだね、俺をゾッコンにさせるのはさ、」
すごいことを言われているな?
そんな感想と、そして雅樹への哀切と愛慕があまい痛みにふれてくる。
そっと寝返りをうって英二は自分のパートナーに向き合うと、きれいに笑いかけた。
「嫌じゃなかったらさ、雅樹さんの事、話してくれる?」
向き合った底抜けに明るい目がすこし大きくなる。
けれどすぐ嬉しそうに微笑んで、透明なテノールの声が話し始めた。
「俺が雅樹さんと出逢ったのは、雲取山の天辺だ。あそこで俺が生まれた時、立会ってくれていたんだよ。あの瞬間から大好きだ、」
鋭鋒に聳える雪陵の星宵。
静謐に抱かれて、ザイルパートナー達の物語は白銀の室に紡がれ始めた。
(to be continued)
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第42話 雪陵act.4―side story「陽はまた昇る」
北穂高岳まで戻ってきたのは16時半だった。
本気の国村が全力を出したお蔭で、17時には雪洞の中で落着けた。
相変わらずの手際よさと馬力だな?パートナーの底力に感心していると国村がザックの中身を広げ始めた。
「これだけあれば、足りるよね?」
からり笑って白い指が並べたのは、1ダースの500mlビールと2Lペットボトルに詰め直した日本酒2本だった。
これだと酒だけで約10kgの重量、これに2泊3日分の装備だから総重量は成人女性には充分なってしまう。
それでも普段から山岳救助隊員として互いを背負っての訓練は積んでいるから、この程度は自分達には軽い。
だとしても、よくこんなに酒を背負ってきたな?呆れながら英二は自分もザックの中身を出した。
「あのさ、今回って俺が酒、買ってくる約束だったよな?」
「うん、でも足りないと困るだろ?自販機なんか無いんだしさ。お、宮田、ワイン持って来たんだ?」
機嫌良く1.8L紙パック入りの白ワインを持って、国村は眺めている。
もう1つ日本酒の同サイズを出して英二は首を傾げこんだ。
「なあ?こんなに大量に酒ばっかでさ、飲み切れるわけ?」
「言っただろ?今日は呑みたいんだ、ってね。さ、飲みの準備するよ、」
からり笑いながら酒を集めると、さっさと雪の穴へと埋めていく。
喜んで酒を埋めるようすが楽しげで、なんだかリスとかの冬支度みたいだな?
そんなことを想いながら英二は、コンロに鍋をセットして下拵えしてきた材料を入れた。
チーズや生ハムを並べると鍋が煮えるのを待ちながら、国村は早速ビールを1つ渡してくれた。
「ほら、乾杯しようよ、」
「うん、ありがとう、」
素直に受け取って英二はプルリングを引いた。
それを待ちかねていた白い手が持つ缶ビールを、英二のビールにこつんとぶつけて国村が笑った。
「じゃ、尋問の夜に乾杯、」
あやうくビール缶を落とすところだった。
尋問だなんて穏やかじゃない、困らされる予感を想いながらも英二は微笑んだ。
「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ?今夜は密談日和だ、イロイロ聴かせて貰うからね、」
ビールに白い喉を鳴らしながら、細い目はご機嫌に笑んでいる。
きっと今夜は、タイミング悪く酒に口付けたら噴き出す羽目になるな?
警戒をしながら英二は素早くひとくち飲みこんだ。
「うん、旨いな、」
雪に埋めて冷やしたビールは、独特の甘みが旨い。
なにより今日は行動距離が長かった、すこし疲れた体にアルコールが快い。
ほっと息吐いて微笑んだ英二に、透明なテノールの声が訊いた。
「じゃ、酔っぱらう前に案件からな?おまえ、染み抜きって言っていたけどさ、どこに血痕を見つけたワケ?」
やっぱりあの電話だけでも解ってくれていた。
こういう呼吸の理解が嬉しい。本当に良いパートナーだなと思いながら英二は答えた。
「東屋の柱と、写真の一部だよ。それでさ、写真を貼ってあったはずのアルバムは、無かったんだ」
「ふうん、アルバムはじゃあ、焼却処分ってトコだろな?でさ、柱の血痕部分って少しでも削れそう?」
「うん、実は削ってきたんだ。写真のと照合くらいなら、出来るかな?」
「1962年の血痕だよね、いまから半世紀前か…ちょっと考えてみるけどね。で、じいさんの謎が解かったんだよな?」
「解かった、ってまでは、まだ言えないんだ。ホルスターらしい影が写真に写っている。帰ったら、ちょっと見てくれる?」
「もちろん、見てみたいね?で、じいさん達、周太と似てた?」
急に平和な話題になったな?
なんだか楽しい気持ちになって、英二は素直に答えた。
「曾おばあさんの雰囲気が一番、周太と似ていたよ、」
「ふうん、やっぱり女の子系なんだね、周太って。今回も周太、着物も着たんだろ?」
どうも国村は和装が好きらしい。
北岳の後で川崎に訪問した時も「お代官サマしたい」とか言っていた。
ほんとうを言えば英二も着物を着た、けれどそれは言わない方が良いかもしれない?
もし無理矢理に「お代官サマ」されたら困る、訊かれない事実は秘匿して英二は答えた。
「うん、父さんたちが来た時と、お茶の稽古の時にね、」
「いいね、見たいな?」
今回は1週間の滞在だったから、2度ほど周太も袴姿を披露してくれている。
その2回とも英二は写真を撮った、そのうち1枚を携帯から呼び出すとチェーンを付けたまま国村に渡した。
「へえ、可愛いね、今回も。あわい色が似合うな。で、ご対面はどうだった?」
幸せに携帯の画面に微笑んで見てくれる。
この笑顔に見える想いに切なくなってしまう、雅樹の願いと周太の想いは矛盾すると思い知らされる。
そして今はもう、雅樹の想いが心に遺って温かい。この分身のような想いに自分はどう応えたらいい?
この哀しみと温かな愛情を心深く見つめたまま、英二はいつもどおりに微笑んだ。
「うん、お互いに気に入ったみたいだったよ。でも俺はね、ほんと言うと綱渡りだった、」
「連れ戻されそうになった、とか?」
コップにワイン注ぎながら訊いてくれる。
まるっきり図星だなと可笑しくて、笑いながら英二は頷いた。
「当たり。湯原の家に、ご迷惑ではありませんか?こんな感じで切りだされた、」
「跡取り問題か?」
打てば響くよう応えてくれる。
こういう間合いが国村とは気楽で、楽しくて嬉しい。
ありのまま英二は頷いて微笑んだ。
「うん、周太、ひとりっこだからね。俺とだと、子供は出来ないだろ?」
「そうだね、遺伝子的には無理だな。オヤジさん、真面目だね。ホントおまえと似てるんだ?」
細い目を温かに笑ませながら聴いてくれる。
こういう理解が嬉しい、素直に微笑んで英二は頷いた。
「うん、似てる。父さんの考え方は、俺にはよく解るんだ。だから俺、なにも反論できなかったんだ。
父さんの言う通りだって思ったし、父さんに頭下げさせた責任が俺にはあるから。でも、お母さんは俺を、受け入れてくれたよ、」
素直に答えながらコップを受けとって、ひとくち飲んで息を吐いた。
父に言われた時なにひとつ反論が出来なかった、それが悔しいけれど仕方ない。
そんな英二に国村は、優しく笑いかけてくれた。
「そういう真面目なおまえがさ、俺は好きだね。おふくろさんもだろな、」
「ありがとう。あのとき俺、自分の未熟が心底悔しかった。早く自分の始末は全部自分で出来るようになりたい、って思った」
もっと自分で身を処せるようになりたい、あのときそう思った。
そして今はもう自分だけで考えるしか出来ない、この立場はもう覆されることは無い。
ほんの数日前から自分に生まれた責任に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれた。
「おまえ、分籍したって言っていたな?」
「うん、父さんたちが来た後の、最初の平日にね、」
もう英二は分籍をした。
分籍は戸籍を完全に独立させること、これをすれば2度と元の戸籍には戻れない。
こうすれば両親との扶養義務すら切れる、もう英二の戸籍は英二が戸籍筆頭者になった。
そして今の英二には戸籍上、家族は誰もいなくなった。
「7月の予定だったのに、ずいぶん早めたな?正式任官と、今回のご対面の影響?」
啜りこむワインに目を細めながら訊いてくれる。
重くも無く軽くも無い自然な雰囲気が居心地いい、この雰囲気に感謝しながら英二は素直に答えた。
「対面のこともあるけど、一番のきっかけは事故かな?…連れ戻される口実を作る可能性が、多すぎるって気づいてさ、」
「救助、山、周太のオヤジさん。危険だらけだもんな?親だったら、子供を危険から離したいだろね、」
底抜けに明るい目が大らかな温もりに笑んでくれる。
こういう優しい大らかさが自分は好きだ、頷いて英二は微笑んだ。
「うん、親の気持ちは、本当にありがたいけどね。守ってくれようとすると逆に危険だろ?
父さんたちを巻き込みたくないし。出来るだけ早く、独立したかったんだ。だから正式に任官した時、副隊長にも相談しておいたんだ」
周太を守って生きる。
そう決めたときからずっと、見つめてきた危険の可能性と今既にある辛い予兆たち。
これらから周太を守るには、警察組織のある部分は敵に回すことになってしまう。
この影響が計り難い、だから独立したかった。分籍して家族との縁を切れば、累を及ぼす可能性が軽減できるだろう。
そして今、戸籍上の英二は天涯孤独になった。
「後藤のおじさんも通したんだ、じゃあ人事の方も問題ないね?」
「うん。奥多摩に戻ってすぐ、戸籍謄本とか提出した。手続きは済んだよ、これでもう履歴書の家族欄は、真白になった、」
法律上の天涯孤独、家族欄も親族欄も空白になった自分。
すこし寂しいなと思う。
けれど周太の危険が終わるまでは、英二の身辺は出来る限り「謎」にしたい。
この「謎」が自分の自由を守ってくれる、そして自分の危険も減らされる。
この想いにアンザイレンパートナーは、大らかに笑んで頷いてくれた。
「そっか。じゃ、戻ったら人事ファイルもチェックしてみようね。ここが白くなっていないと、困るもんな?」
「うん、ありがとう、」
この「白」は寂しい、けれど幸せになる為の手段だから嬉しい。
分籍すれば英二が単独の戸籍だから、戸籍筆頭者の権利を得ることが出来る。
そうすれば周太と縁組をして戸籍に迎え法律上家族と認可される事も、全て英二の自由になる。
この権利と自由がほしかった。
―早く周太、嫁さんにしたいな?
1週間ほど静養を過ごした、川崎の家での時間。
周太と一緒にいる時間は心から幸せだった、なにより「大切な夜」が嬉しかった。
その記憶に重なる白ワインに幸せと口付けると、白い指に額を弾かれた。
「エロ顔になってるよ?どうせまた、お初のことでも考えてるんだろ?」
英二の口元から、ワインがすこしだけコップに戻された。
「…っこほっ、」
お初、って、何の?
この問いに続いて胸せりあがる感触が、喉を振るわせてしまう。
急いでコップを口から離すと、掌で口元を覆った。
「…っ、ごほっ、ごほこふっ、ごほっ…」
咽て止まらない。
困りながら咽こんでいると、国村が水のコップを渡してくれた。
「ほら、ゆっくり飲みなね、」
「…あり、ごほっごほっ、」
水を飲んで、ほっと息つくと何とか落着いてくる。
とりあえず喉は落着くだろうけれど、「お初」の追及は落着くか解からない。
まさか国村に事実は解っていないだろうと思う、けれど何か勘付いているのだろうか?
今夜はやっぱり黙秘かな?考えながらコップをテーブルに戻すと、愉しげにテノールが笑った。
「ふうん、図星みたいだね?ま、めでたいな、ほら、」
ぽん、と掌に何かを渡された。
何かなと見ると、コンビニで買ったらしい赤飯の握飯だった。
こんな準備までしている、そして「お初」と赤飯の組み合わせは恥ずかしい。
また得意のトラップだろうか?それとも何か証拠を掴まれている?
けれど証拠なんかある訳が無いだろう、とりあえず英二はパッケージを開いて微笑んだ。
「初登頂の祝い、ありがとうな、」
「うん?まあ、そっちのお初もあるよね、」
答えながら国村も、赤飯の握飯を頬張っている。
さっさと食べて飲みこむと、クライマーウォッチの時間に国村は笑った。
「星の良い時間だな、俺、ちょっと見てくるよ。カメラ使いたいしさ、」
言いながらカメラのレンズをセットし始めている。
星空はいいな?英二もコップを置いて、コンロの火を一旦落とした。
「俺も一緒に見るよ、鍋、一旦消したけど良いかな?」
「うん、良いよ。まだ途中だしさ、」
話しながら外へ出ると、青藍深い空に銀砂が輝いていた。
ふる星の光に雪陵が呼応するよう発光していく、深々と星の静謐が白銀にふりつもる。
ナイフリッジの鋭鋒は夜の虚空を突き聳え、峻厳が輝いていた。
「きれいだな…」
こぼれる賞賛に吐息は白く凍っていく。
凍れる真白な吐息の彼方、天指す鉾は冷厳の息吹を夜の沈黙へと吹きかける。
いま零下30度は軽く下回っているだろう、冷厳が頬撫でる体感が標高3,000mの夜だと知らせてくれる。
この高度感と眼前に聳える鋭鋒は、ずっと写真で見てきた世界だった。
いま、その世界に自分は立っている。この今の喜びと友人との約束に微笑んだ。
「日本のマッターホルン、っていう通りだな?」
「だろ?本物のマッターホルンに、登りに行こうな?」
―…今度の夏はね、俺、友達とマッターホルンに登るんだ。俺の生涯のアンザイレンパートナーで、一番の友達だよ
北鎌尾根の独標で、国村が雅樹に話してくれた言葉。
あの言葉がうれしかった、そして雅樹の想いが温かかった。
ふたつの想いに微笑んで英二は応えた。
「うん、登りに行こう。楽しみだな?」
「おう、楽しみだね、」
カメラのセッティングを調整して、国村は槍の穂先へレンズを向ける。
そしてシャッターを切りながら、からり笑った。
「ほんと楽しみ、マッターホルン。俺たちのハネムーン旅行だね?み・や・た、」
「ハネムーンは、やらないよ?」
すっぱり断って英二は微笑んだ。
けれど意に介さない顔で国村は、愉しげにシャッターを切って笑った。
「うん、今夜は星もイイ感じだね、」
凍れる夜の空ふる星は、張りつめ冴え渡る大気に響くよう輝いている。
この星々の光を雅樹は、この山で15年の星霜ずっと見つめていたのだろうか?
ふっと心ふれた想いに自然と口が開かれた。
「雅樹さん、この星空が好きだな、」
カメラ扱う手が止まる。
ゆっくり振向いた底抜けに明るい目が、凝っと見つめてきた。
真直ぐに無垢な視線を頬受けながら、空見つめて英二は微笑んだ。
「宇宙に近いな、この夜空は。星の光が近くて、鳴っているのが解かるよ。この空を見られて、幸せだよ、」
心に映る想いを素直に言葉に変えていく。
あふれる想いたちに、隣の純粋無垢な目は呆然と見つめてきた。
「それ、なんで…?」
不思議そうに驚いたように細い目が英二を見つめている。
なんか変だったかな?こちらも不思議に想いながら素直に英二は答えた。
「思ったままを、言っただけだよ?なんか変だったか?」
「思ったまま、か、…」
無垢な瞳は考え込むよう小首傾げている。
そして嬉しそうに笑って、青いウェアの腕が英二を抱きしめた。
「やっぱり宮田は、俺の最高のアンザイレンパートナーだね?愛してるよ、み・や・た、」
嬉しそうに笑いながら抱きついてくれる。
なんだか小さな子供みたいだな?微笑ましくて笑いながら、軽く背中を叩いてやった。
「愛してる、って台詞は周太に言うべきだろが?」
「周太にも言ってるよ?でも、おまえにも言いたいんだ、なんか問題あるわけ?」
無邪気に笑って訊いてくれる。
こんな顔で笑われると、ちょっと弱いかもしれない?
―雅樹さんの心が、残ってるのかな?
こんな不思議も、あるのかもしれない。
あの美しい医学生の山ヤを自分も好きだ、だからこれで良いのかもしれない?
想い素直に英二は微笑んで、アンザイレンパートナーに言った。
「大事に想ってくれるなら、うれしいよ?ありがとな、でも変なコトするなよ?」
「変なコト?俺、なんかしてるっけ、」
抱きついた腕をほどくと、可笑しそうに笑いながら国村は槍の鉾先に向き合った。
カメラを構えてシャッターを切りながら、さらり訊いてくれた。
「たとえば、どんな変なコト?」
カメラのファインダー見つめながら、テノールの声が訊いてくれる。
すこし困りながら英二は笑った。
「首のとこにキスマークつけるとかさ、ちょっと困るんだけど?」
「ふうん、ま、我慢しといて?…よし、」
さらり答えながらカメラをおろすと、愉しげに英二の顔を覗きこんだ。
覗いてくる底抜けに明るい目が愉快に笑っている、今の英二のお願いは「却下」だと告げてくる。
困ったな?そう微笑んだ英二の左腕を掴むと国村は、機嫌良く笑いながら雪洞へと踵を返した。
「さ、俺たちの愛の巣に戻ろう?熱い鍋食って酒呑んで、熱い夜を過ごそうね、」
「熱いと雪洞が溶けて困るだろ、普通の夜にしたいよ、」
「それとこれは別問題だよ?さ、今夜は呑もうね、」
「うん、呑むのは良いけど、」
相変わらずの国村節なエロトークが可笑しい。
笑いながら英二は引っ張りこまれるよう雪洞に入った。
元の席に落ち着くと国村は、コンロに火をつけてコップにワインを充たした。
「はい、改めて乾杯な、」
うれしそうに笑いながら国村はコップを持って笑っている。
英二も素直にコップを持つと、白い手が持つコップを軽くぶつけてくれた。
「じゃ、宮田の処女喪失に乾杯」
思わずコップを落としかけて、素早く英二はもう片方の手で受けとめた。
無事にコップを受けとめられて、ほっとしながら英二は微笑んだ。
「なに言ってんの、国村?」
「言った通りだよ、おまえバック貫通したんだろ?」
どうして解るんだろう?
そんな驚きが内心起きるけれど、さらり英二は微笑んだ。
「それってセクハラですか?国村警部補、」
「ふうん?このタイミングで上司扱いしちゃうんだね、エロ別嬪巡査殿は」
この呼名はちょっと拙いだろう?
可笑しくて笑いながら、英二は反撃した。
「その呼び名、かなりセクハラだって。国村こそセクハラ警部補になっちゃうよ、」
「セクハラ警部補か。うん、宮田限定付でなら、悪くないね?」
「悪くないんだ?」
「うん、おまえだけならね?俺のセクハラ相手は限定付だからさ、好みが難しんだよね、」
からり笑って国村は機嫌よくワインを飲んでいる。
証拠があるわけではないだろうし、このまま逃げ切れるかな?
この核心部への沈黙に微笑んで、冷静に英二はワインをすすりこんだ。
そんな英二に細い目が可笑しげに笑んで、からりテノールが訊いた。
「ワインなんて、珍しいよな?」
「うん、川崎の家でね、お母さんと飲んで楽しかったんだ」
あの席はなかなか楽しかったな?
周太の母との楽しい「呑兵衛」な時間に笑った英二に国村も笑った。
「おふくろさんと呑むの楽しいよね。北岳の帰りの時、楽しかったよ。今回はサシ呑み?」
「そうだよ、周太が当番勤務の夜に2回とも、」
「へえ、仲良しで良いね。おふくろさん、サシだともっと面白いんだろ?」
言う通り2人でサシ呑みは面白かった。
楽しかった時間のお蔭で周太がいない夜の寂しさを紛らわせたな?素直に英二は頷いて微笑んだ。
「うん、なんかさ。お母さんって言うよりも、お姉さん、って感じで楽しかったな」
「そりゃ良いな。まさに、きれいなお姉さんって感じだね。周太は初心だからな?サシのが話せる範囲、広がるんだろ?」
「うん、お母さん自分で言ってた。『周だと、ちょっと言えないのよね』って、」
「あー、それ仕方ないよね?周太ってさ、エロトーク無理だし、アダルト系は一切アウトだもんな、」
「そんなにまで際どい話は、サシでもしないけどね?」
周太の母と父の桜の物語が、ふっと心を撫でていく。
出逢ったその日に夜を共にする、当時としては相当に「アダルト系」な話だったろう。
けれど桜の精だと互いに想い合って恋に墜ちた姿は、とても綺麗だと想ってしまう。
どこか神秘的で優しい桜の恋物語は、花木を愛する純粋な心の両親に相応しいなと素直に想える。
良い話を聴かせて貰えたな?そんな想いとワインを啜りこんだ英二に、国村もコップに口付けて笑いかけた。
「おふくろさん、湯治に行った、って言っていたな?ご対面の後に」
「うん、2泊3日が出来るチャンスは珍しいから、って言ってさ。楽しんできたみたいで、うれしかったよ」
「そりゃ良かったな。2泊3日は周太とサシか、それで、料理教わってきたんだ?」
「うん、酒のつまみになる簡単なのから教えてくれた。今度また続きを教わるんだ、」
一緒につくった料理は楽しかったし旨かった。
今度は何を教えてくれるかな?幸せな「今度」に微笑んだ英二に国村は訊いた。
「その共同作業の料理囲んで、周太ともワイン飲んだんだ?」
「うん、あまいのなら飲めるかな?って。周太、気に入ったみたいでね、結構たくさん飲んでたよ、」
本当に気に入ったらしく、周太は2晩続けて甘いワインを楽しんでくれた。
そして2晩とも英二に幸せな感覚と時間を贈ってくれた、あの「初めて」が幸せな記憶が嬉しい。
うれしい記憶に微笑んだ英二に、テノールの声は容赦なく笑った。
「ワインで眠らせた隙にでも、お初頂戴しちゃったんだろ?泥酔に童貞強姦だなんて鬼畜フルコースだね、このケ・ダ・モ・ノ」
酷すぎる誤解だ、驚いて英二は口を開いた。
「違う、酔っていたけど周太は起きてた、大人にしてって言ってくれたの、ちゃんと朝も覚えていたし…あ、」
しまった。
「へえ、周太ちゃんと自分から言えたんだ。で、可愛い童貞をモノにするために、おまえも処女を捧げちゃったんだね」
また国村の誘導尋問にひっかかった、それもこんな重大事で。
そして尋問者の上品な貌は、愉快でたまらないと笑っている。
心底から困った溜息と一緒に英二は曖昧な相槌を打った。
「…ん、まあ…」
「なに濁してんのさ?今更もう遅いよ、自白は取っちゃったからね、」
心底から愉しげに底抜けに明るい目が笑っている。
もう誤魔化しなんか効かないだろう、きっとこれから追及が始まってしまう。
―ごめんね、周太
話したと解ったら、周太は恥ずかしがって怒るかもしれない。
けれど嘘もつけない、英二が言わなくても国村が周太に話してしまうだろう。
どうしよう?困惑する心では愛する婚約者が真赤な顔に恥ずかしがっている。
心底困っている英二を眺めながら、愉しげに笑って国村はコップにワインを追加してくれる。
「ほら、祝杯しようね?お初交換に乾杯だ、」
「…なんて答えたら良いか、わかんないんだけど、」
さすがにこれは恥ずかしい。
頬が熱くなるのを感じながら、英二はワインを啜りこんだ。
「ほら、乾杯前に勝手に口付けてんじゃないよ?これでペナルティ1な、」
「あ、ごめん…」
困惑のまま謝った英二のコップに、またワインを追加してくれる。
注ぎ終わって、底抜けに明るい目は心底愉しげに笑いながら、コップをこつんとぶつけてくれた。
「はい、攻守チェンジに乾杯、」
かたん、
コップが手から滑り落ちて、雪洞の床に転がった。
「へえ、北穂にも祝杯のオスソワケか?粋なコトするね、み・や・た、」
「…いや、…うん、」
攻守ってなに?
そんな言葉が廻っている英二の前で、国村はコップを拾うときれいに拭いてくれる。
またワインでコップを充たして渡してくれると、愉快で堪らない目が尋問をスタートした。
「とうとう宮田がバック許すなんてね。ソンナに、お初に目が眩んじゃった?それとも実は周太、すんごいテクニシャンだったとか?」
「違う、俺が周太にしたんだ、…あ、」
「へえ、おまえが受けでも、攻め担当なんだ?じゃあ周太、されるがままか。可愛いオトナだね、おまえの婚約者はさ、」
「ん…可愛いよ?」
「そんな可愛い子をさ、おまえは前から後から愛しちゃったんだ?さぞオタノシミだったろね、どうせ昼間もヤリっぱなしだろ?」
「違う、朝はしたけど昼はキスだけ…う、」
「ふうん、朝もねえ?夜も朝もじゃ、周太も大変だな。で、昼はキスでイかせて愛しちゃったんだ。ホントおまえ、エロだね?」
「…なんて答えていいか、わかんないよ、」
恥ずかしい単語が次々と、上品な笑顔から発せられてくる。
とんでもない罰ゲームに遭わされている、どうしてこうなったんだろう?
国村は今日、最愛のザイルパートナーの慰霊登山に無垢の涙をそそいでいた。その姿は一途で、純粋な少年のまま美しかった。
それなのに今、同じ無邪気な笑顔はエロオヤジ発言に笑い転げている。
「着物姿が可愛くって、お代官サマやったんだろ?着替え中にでも、無理矢理にさ?ホントおまえ、鬼畜弩級エロ、」
「無理やりじゃない、着替え方を教えて貰って、それでつい…あ、」
「着替え方を教わった?へえ、おまえも着物、着たんだ?イイね、ぜひ、ご披露願いたいね?」
「こっちには置いてないから、無理だよ、」
「じゃ、川崎に行ったときな?楽しみだね、おまえの襦袢、ピンクとか?」
「そんなじゃないよ、黒っぽい赤だよ、」
「そりゃまた、妖艶な色だな?イイね、襦袢姿を拝みたいよ。その白い肌に黒紅が絡む、サイコーにエロだね。周太が羨ましいな、」
羨ましいと言う目が「最高の獲物を発見」と笑っている。
こんな目に襦袢姿を曝したら、何をされるのか解らない。
出来たらそんな事態は避けたい、けれど周太の母は国村をまた招きたいと言っていた。
―たぶん、桜の季節が危険だろうな?
花見に招待して英二に茶を点てさせる。
こんな展開は充分に有り得る、だからこのタイミングで着物を贈ってくれたのではないだろうか?
なんとか阻止できないかな?そう考えている目の前に、白い手が携帯の画面を差し出した。
「ほら、おふくろさんからメール貰ったんだ。染井吉野が咲いたら、花見の茶をしますから来てね、ってさ。
そんとき、おまえが点法だって言ってるよ?楽しみだな。着替えの時に、お代官サマさせてね。俺の麗しのアンザイレンパートナー?」
逃げられない。
それでも抵抗しようと英二は口を開いた。
「お代官サマはダメ、絶対ダメ、」
「ふうん?じゃ、代わりに周太を剥いちゃおうかな。周太だったら俺、好きに出来ちゃうもんね。恥らって可愛いだろな、ソソられちゃうね」
「もっとダメ!」
「嫌だね、身代わりになってもらうよ、周太にはさ?ほら、考えな?本人と身代わり、ドッチが良いかな、エロ別嬪パートナー殿?」
無邪気な笑顔は幸せそうに愉快に咲いてくれる。
この笑顔は嬉しい、けれど笑顔の理由が本気で困る。
困惑のまま尋問と要求に晒されて、途方に暮れながらもこんな自分が可笑しくて英二は笑った。
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食事の片づけも済んで、シュラフを出そうと英二はザックを開いた。
けれどすぐ白い手がザックのファスナーを閉めて、当然だと国村は笑った。
「シュラフはコッチだよ、手伝ってよね」
笑ってる国村の手には、谷川岳でも見たLLサイズの寝袋が掴まれている。
やっぱりそういうことなのかな?仕方ないなと英二は微笑んだ。
「やっぱり一緒に寝るんだ?」
「その方が温いだろ?ほら、ソッチの端、持ってよね、」
そんな調子に巻きこまれてLLサイズのシュラフに潜ると、結局また英二の背中には大きな子どもが張りついた。
いつものように英二の肩に白い顎を乗せて、無邪気な子供は心地よさ気に目を細め欠伸している。
こんなに懐かれるなんて、初対面の時は思わなかったな?半年前の記憶に英二は笑った。
「俺さ、最初に国村と会った時。大人っぽい物静かな人かな、って思ったんだよね、」
「よくそう言われるよ。外見が俺、お上品で美形だからね。でも今はエロオヤジって思ってるだろ?」
しれっと自分で言って国村は飄々と笑っている。
言う通りだろうけれど、可笑しくて英二は笑ってしまった。
「自分で美形だって、解かってるんだ?」
「まあね。俺って美白の美肌だし、体毛も薄いだろ?でかいし、顔も和顔の別嬪だしね。この美貌の所為で、好みのハードルが高いよ、」
のんびりと自賛して無邪気に笑っている。
普通なら嫌味になりそうなのに、国村だと率直に無垢で嫌みがない。
こういう所は好きだな、素直に英二は頷いた。
「うん、国村は確かに美形だよな?それでハードルを超えたのは周太なんだ?」
「うん?好みって意味では、周太はちょっと違うんだよね、」
意外な答えだな?
すこし驚いて英二は、肩に乗った上品な貌をふり向いた。
「周太、好みじゃないんだ?」
「そうだよ?きれいで可愛いし、大好きだけどね。でも、好みとか、そういう問題じゃないんだよね、」
ごく当然という顔で無垢な目が笑っている。
笑いながら透明なテノールの声は言葉を続けた。
「好みって意味ではね、宮田が弩ストライク。そして雅樹さんだよ。この2人だけだね、俺をゾッコンにさせるのはさ、」
すごいことを言われているな?
そんな感想と、そして雅樹への哀切と愛慕があまい痛みにふれてくる。
そっと寝返りをうって英二は自分のパートナーに向き合うと、きれいに笑いかけた。
「嫌じゃなかったらさ、雅樹さんの事、話してくれる?」
向き合った底抜けに明るい目がすこし大きくなる。
けれどすぐ嬉しそうに微笑んで、透明なテノールの声が話し始めた。
「俺が雅樹さんと出逢ったのは、雲取山の天辺だ。あそこで俺が生まれた時、立会ってくれていたんだよ。あの瞬間から大好きだ、」
鋭鋒に聳える雪陵の星宵。
静謐に抱かれて、ザイルパートナー達の物語は白銀の室に紡がれ始めた。
(to be continued)
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