萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第45話 朧月act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-06-08 23:38:32 | 陽はまた昇るside story
朧なる恩讐、追憶の彼方



第45話 朧月act.2―side story「陽はまた昇る」

花束を提げて歩く道、田には赤紫の雲かかるよう花が咲く。
その一角にモノトーンの長身は屈みこんで、白い指に可憐な草花を摘み始めた。
この花は英二も知っている、懐かしいまま英二も長い指を伸ばした。

「これ、蓮華草、って言うんだろ?周太が好きなんだ、」
「だね?この間ここで、周太も1本だけ摘んだよ、」

愉しげにテノールが笑って答えてくれる。
その話を周太も嬉しそうにしてくれた、草花を愛する俤に英二は微笑んだ。

「うん。周太、採集帳に載せるって喜んでいたよ、」

1週間前に周太は奥多摩を訪れた。その1日目は後藤と母と歩き、2日目は美代と国村に案内してもらっていた。
そのとき国村や美代の持山で、いろんな草花を分けて貰えたと喜んでいた。
ほんとうは英二が案内したかったけれど、2日間とも勤務日で巡廻と自主トレーニングしか一緒に出来なかった。
それでも夜は2人きり過ごして、たくさんの言葉と想いに周太は励ましてくれた。
あの時間があったからこそ、こうして国村と向かい合うことが出来ている。

「あの採集帳、ちょっとすごいよね?美代も感心してたっけ、学術名とか生えている場所の特徴が詳しい、ってさ」

いま隣で花を摘みながら国村は笑ってくれる。
この笑顔も周太がいなかったら、きっと哀しみに曇らせていただろう。
あの純粋で聡明な面影に微笑んで英二は頷いた。

「うん。美代さんに褒められたよって喜んでた、周太。今日も、その話をしているんじゃないかな?」

今日の周太と美代は、大学での公開講義に出席している。
ずっと2人は楽しみにして今日を待っていた、今頃は講義の感想を話して楽しんでいるだろう。

― ちょっと妬けるな、

ふたりは仲が良い、この間も2人で川苔谷の百尋ノ滝へと水源林を見に行っていた。
そして次回の約束も沢山したと周太は話してくれた、その声が弾んでいて幸せそうだった。
まだ周太の精神年齢は記憶喪失の為もあって、中学生くらいだろうと吉村医師にも言われている。
そういう周太だから、友達といる方が楽しいのかもしれない。
つい巡る考えに手が止まった隣から、白い指に額を小突かれた。

「ほら?おまえね、エロ顔とショゲ顔がミックスになってるよ?美代に嫉妬するの、いい加減にしろって、」
「…あ、ごめん、」

素直に謝った手許から、白い指が蓮華草を受けとってくれる。
仕方ないなと英二に笑いかけながら、あぜ道の岩に座って国村は手を動かし始めた。

「周太と美代は、マジで気が合うんだ。あの2人の繋がりにはね、おまえでも場違いだよ、」

場違い、その通りだろうと自分で思う。
制帽を脱ぎながら英二は、怜悧な友人へと笑いかけた。

「うん、一応は解かっているつもりなんだけどさ。ごめんな、俺、ほんと欲張りで、」
「おまえって、マジで強欲だよね?」

からり笑いながらも白い指は器用に草花を編んでいく。
涼やかな手並みを感心して見る英二に、底抜けに明るい目が笑いかけてくれた。

「美代はね、マジ佳い女だよ?ちょっと真面目すぎる上に純情でさ、子供っぽいトコあるけどね。その分だけ嫉妬とか無いよ。
良い意味でマイペースだ、なにより本気で植物を愛してる。周太と気が合うのは当然だね、ありゃ、滅多にいない佳い女なんだよ、」

透明なテノールが温かなトーンに話していく。
この口調に国村の美代への想いが解かるなと思う、そして言う通りだと英二も納得できる。
そんな賛同の意をこめて笑いかけた英二に、国村は言った。

「そんな佳い女をね、おまえは惚れさせているってコト。マジ、おまえって佳い男で、悪い男だよね、」

言われることへの自覚は英二にもある。
そして考えたところで最終的な選択も変わらないだろうなと解かっている、そんな諦観に英二は微笑んだ。

「途惑うよ、でも、出来る限りで大切にしたいな、って思う。おまえにも、周太にも、大切なひとだから、」
「おまえには、どうなの?」

白い手を止めないまま透明なテノールが訊いた。
その問いかけの素直な応えに、英二は笑んだ。

「大切だよ、俺の背中を押してくれた1人だから、」

周太の保護者に徹して生きよう。そんなふうに冬2月、英二は覚悟して周太との距離を作り直そうとした。
けれど、あのとき美代が真直ぐ見つめて周太と英二ふたりの背中押してくれた。
あんなふうに実直な恋慕を寄せられた事は、初めてだった。
あのときの驚きと温もりに微笑んだ英二を、透明な目が真直ぐに見つめて笑んだ。

「おまえが大切なら、俺も嬉しいね。美代は俺の家族だから、」

俺の家族。
この言葉は国村にとって切なく優しい。

国村は両親を一度に亡くした。
そして近親者は祖父母だけとなった国村は「家族」を求めて、この想いが幼馴染の美代を「姉代わり」にしている。
この想いは美しいけれど切なくて、その分だけ大切に守ってやりたい。
そんな想い見つめる先で、器用な白い指は草花を編み終えた。

「お待たせ、行こっかね、」

さらっと笑って国村は、編み上げた花輪を携え立ち上がった。
赤紫、白、黄色、青。蓮華草と野の花たちは、美しい花輪になって白い手に持たれている。
本当に器用だな?心から感心して英二は笑いかけた。

「きれいだな。毎年、作っているんだ?」
「うん。おふくろが好きなんだよね、こういうの、」

可憐な春の花輪を見る目は、おだやかに優しい。
そんな眼差しに母への尽きない想いが心触れてくる、この優しさに英二は微笑んだ。

「作り方、お母さんに教わったんだ、」

歩きながら、母似という綺麗な笑顔が英二を見た。
この面差の母子ふたり、春の園で花を編む姿は絵になったろうな?
そんな想いと見つめ返した先で、薄紅の唇が可笑しそうに笑った。

「いや、おやじから教わったんだよね、俺、」
「お父さんから?」

意外な返事に英二は首傾げこんだ。
どういうことだろう?そう見た隣は愉快に細い目を笑ませ教えてくれた。

「おふくろってさ、ピアノ弾くのと山登る以外はね、なんにも出来なかったんだよ。
俺が物心ついた頃にはね?ばあちゃんにキッチリ仕込まれて、家事も料理も上手くなっていたけどさ。それまでは全然ダメ。
で、こういうこともね、おやじの方がずっと上手なんだ。おやじは何でも器用でさ、その辺は俺、おやじに似たんだよね、」

国村の父親は息子と同じ一人っ子長男だった。
きっと家を守っていくために、何でも全て出来るように育てられただろう。いま隣を歩く息子と同じように。
こんなふうに親子のふれあった記憶が温かい、温もりへの愛しさに英二は微笑んだ。

「なんか良いな、そういうの、」

こういう両親との記憶は、英二には少ない。
父とは幾らかある。けれど仕事で忙しい父は、本社へ出向くため日本にすらいない時も多かった。
そして母とは当然の様に皆無で、それが哀しいことなのだとも最近まで気づかなかった。
けれど本当は、気づきたくなかっただけだった。

「ほら、山桜だね、」

指さす方を見ると、木立のなか白い花が豊麗に咲き誇っている。
森に佇む優しい花翳に英二は素直に笑った。

「きれいだな、」

青い空と森の深緑に純白の花が映える。
並んで歩く隣も愉しげに眺めながら、透明なテノールが笑った。

「山桜はね、俺の特別に好きな花だよ。おやじと、おふくろも好きなんだ、」

こんなふうに国村は、両親と死別しても温かい記憶を持っている。
けれど自分には母との記憶がない、それでも、英二の母はまだ生きている。
だから、まだ記憶を積み上げていく可能性は残されているかもしれない。
この可能性を作ってくれた人の俤が今、心に温かい。この温かな面影に英二は微笑んだ。

― 周太?俺は、君にたくさんの可能性を貰っているね、

英二が雪崩に遭った夜、周太は英二の母に真直ぐ向き合ってくれた。
息子の英二も、夫である父ですら彼女に真正面から向き合うことを避けてきた。
けれど周太だけは、真直ぐ母の目を見つめて頬を叩かれてくれた。
英二の想いを母に伝えて、母の想いも受けとめ周太は微笑んでくれた。
そして母に変化が現われ、父は川崎の家を訪れた。

きっと今、両親の時はゆっくりと、動き出している。
この動き出した時に向きあおうと、剱岳で佇んだ青と白の摂理に自分も決心できた。
あの決心に今、こうして歩く道に感謝が出来る。

― まだ生きてくれている、それだけで可能性はあるんだ、俺には、

このことに気付かせてくれたのは、純粋な黒目がちの瞳だった。
その俤を今、こうして歩く道野辺の花に見つめていく。
この優しさに今、充たされて温かい。



国村家の墓所は、きれいに掃除がされていた。
まだ雑草も抜いたばかりの土がやわらかに薫っている、この様子に底抜けに明るい目が嬉しそうに笑った。

「うん、やっぱり美代、今朝は掃除して行ってくれたね。ほら、」

白い指さす閼伽の花活には、巡回中に家々の庭で見る花たちが風に揺れている。
そして可愛らしい野の花の小さな環が、そっと墓前に供えられていた。

「美代さん、大学の講義へ行く前に来てくれたんだな?」
「だね、美代ってさ、ほんと真面目で優しいんだよね、」

小さな花輪を優しい眼差しで見つめて、重ねるよう白い手に携えた花輪を供えた。
そのまま持ってきた花束をひろげながら、透明な目は墓碑に微笑んだ。

「おやじ、おふくろ?それから、ご先祖がた。ちょっと騒がせて貰うからね、」

家の庭で摘んできたらしい花々を、白い手は花活に添えていく。
川崎の家でも見た優しい花々は、ひとつずつ墓前を彩和ませ風へ揺れる。
駘蕩ゆるやかな風のなか、薄紅の花びらが時おり墓碑と黒髪にふり懸り、また風に舞っていく。
どこか優しい光景に微笑んで、英二はポケットからサラシを取出した。

「国村、嫌じゃなかったら、磨かせて貰ってもいいかな?」
「うん?」

少し驚いたよう透明な目がふり向いてくれる。
そんなに意外だったかな?すこし可笑しく思いながら英二は笑いかけた。

「湯原の墓参りで俺、いつも墓石を磨かせて貰うんだ。お母さんと周太に教わったんだよ。だから、それなりに出来ると思うけど、」

嫌じゃなかったら、させてよ?
そう見つめて微笑んだ英二に、嬉しそうに透明な細い目は笑ってくれた。

「うん、ありがと。お願いするね、ア・ダ・ム、」

いつもどおり悪ふざけて、けれど無垢の瞳は幸せに笑っている。
こんな顔してくれるなら嬉しい、素直な想いに笑い返して英二は活動服の袖を捲った。
手桶から柄杓に汲んだ水でサラシをすすぐ、そして制帽を脱いで英二は墓石に合掌した。

― 今から、磨かせて貰いますね?

合掌を解いて制帽を被り直すと、英二は木立囲む墓所に入った。
ふるいけれど立派な墓碑を真中に、小さな墓碑が幾つか並んでいる。
その1つずつを磨きながら見た碑銘は、代々の夫婦が刻まれていた。
こんなふうに、亡くなってからも寄添いあって佇んでいる。それはどこか温かい姿で、憧憬を見つめてしまう。

いつか自分も、周太と寄添って眠れるのだろうか?
そんな想いの隣には今、共に墓碑を磨いているもう1人の「唯ひとり」への想いがある。
この唯ひとりは大切な親友、その絆は堅いままに「人間の恋愛」を国村は英二に見つめ始めた。
けれど英二には周太と守るべき家がある、国村と共に墓所へ入ることは出来ない。
それなら誰と寄添って国村は、ここに眠ることになるだろう?

― 俺が、孤独に追い込んでしまうのかもしれない…この大切なパートナーを

この罪悪感が胸を噛む。
いま磨く墓碑の人々へ、どうにもならない懺悔の想いが湧きおこる。
この親友の想いは誰が止めることも出来ず、誰の所為でもないかもしれない。
けれど、この想いの最後のトリガーを弾いたのは、剱岳で英二からしたキスだった。

あのキスは、軽い気持ちじゃない。
こんなに大切な相手に軽い気持ちでなんか、キスは出来ないから。
あの瞬間を幸せで充たしてあげたくて。幸せな親友の笑顔を抱きしめたくて、キスをした。
そんな想いのままに最高峰でもキスをして、あれからも幾度かキスを交わしている。
ただ幸せな笑顔を見たい、それだけの願いで。

けれど「夫婦」の墓碑を見てしまった今、また迷宮に囚われだす。
この優しい石碑の並びから、自分のしていることが正しい選択なのか、解らなくなる。
吉村医師に、周太に、肯定して貰っている。
それでも、親友を育んできた累代の想いと向き合っている今、自分の存在が罪なのかと想えてしまう。
そんな想いに手を動かしていく、そして最後の墓碑に英二は向かい合った。

いちばん新しい墓碑は、同じ命日がふたつ並んでいる。
その刻まれた行年ふたつとも、三十代半ばの若さだった。

『俗名 国村明広 奏子』

クライマー名鑑で見た名前が、寄添うよう刻まれている。
この名前見つめる英二の瞳から、すっと涙ひとつこぼれ落ちた。

「…あ、」

ちいさく声こぼれて、またひとつ涙こぼれだす。
ふたりの山ヤは11年前の今日、8,000m峰マナスルの氷雪で眠りについた。
いま見つめる偉大な山ヤの先輩に、懺悔の想いが心突き上げ、涙に傷みだす。
アンザイレンザイルを固く結びあい、冷厳の懐深くも掌を繋ぎあわせたまま、ふたり最期の呼吸する。
その瞬間の祈りが今、この心に響いてしまう。

『光一、幸せでいて?』

この最後の祈りに、自分は背いてしまう?
この偉大な山ヤたちの眠りを、この自分が妨げている?
この2人が繋ぎあった想いの結晶が、最高のクライマーを嘱望される山っ子を産んだ。
この大切な結晶を自分は傷つけている?こんな自分の罪は、赦されないのではないだろうか?

自分は、どうしたらいいのだろう?
こんな自分に、この墓碑を磨く資格などあるのだろうか?

「なに、泣いてんのさ?」

透明なテノールの声に、英二は顔をあげた。
見あげた先、底抜けに明るい目が温かに微笑んでいる。
そして隣並んでしゃがみこむと、透明なテノールが目の前の墓碑に言ってくれた。

「おやじ、おふくろ?これがね、俺のアンザイレンパートナーだよ。最高の別嬪だろ?だから俺、こいつに恋しちゃったんだ、」

きれいな笑顔が幸せに咲いて、墓碑を見つめてくれる。
白い手で握るサラシで、ゆっくり碑を磨きだしながら笑顔が振り向いた。

「ほら、おまえも一緒に磨いてよね?その方が、ふたりとも喜ぶからさ、」

笑顔の眼差しは真直ぐに温かい。
この眼差し見つめる想いに笑いかけて、英二は手を動かし始めた。

「ありがとう、国村、」
「こっちこそだよね。親の墓参りにまで、きっちり付き合ってくれるなんてさ、」

想い言葉に変える貌は、やさしい幸せに笑っている。
おだやかな静寂のなかサラシの音だけが、かすかな呼吸のよう聴こえていく。
特に言葉もないまま並んで、ゆっくり墓碑を磨き上げる。そうして磨き終えた墓碑を見、雪白の貌は幸せに笑った。

「うん、すごく綺麗になった。ありがとね、ふたりとも喜んでるよ、」
「喜んで貰えたなら、良かったよ、」

これ位しか出来ない、それでも喜んで笑ってくれる。
こんな無邪気なパートナーに切なさを見、同時に愛しさが心温めていく。
この温かな笑顔のままに少し羞んで、透明なテノールが願いに微笑んだ。

「ここで、今、キスしてよ?」

言って、雪白の貌に桜のいろが映りこむ。
きれいな幸せそうな含羞が真直ぐ見つめてくれる。この率直な表情に、ふっと英二の心がゆるめられた。

「俺にキスされるの、幸せなら、するよ?」

問いかけて、座りこんだまま笑いかける。
この問いかけに透明なテノールは、可笑しそうに微笑んだ。

「そうじゃなきゃさ、親の前で、キスしろ、とか言えないよね?」

ここは、国村の両親が眠る墓碑の前。
ほんとうに国村が言う通りだな?笑いかけたまま素直に英二は頷いた。

「そうだな。幸せって自信なかったら、親の前でなんてキス出来ないよな?」
「だろ?」

底抜けに明るい目が英二を覗きこんで、きれいに笑ってくれる。
そして透明なテノールが、真直ぐに想いを告げた。

「俺のこと、愛してるんだろ?ずっと一緒に最高峰、登るんだよね?だったら…キスしてよ、」

どうか「Yes」と言って、これが幸せだから。

透明な目が温かに笑んで想い告げてくれる。
気恥ずかしげで、けれど凛と覚悟が佇んだ透明な視線がまばゆい。
こんな目で見つめられたら、自分の覚悟も決められてしまう。この想い正直に英二は笑った。

「ずっと一緒に登るよ。親友として、アンザイレンパートナーとして、いちばん愛してる。光一、」

名前を呼んで、唇ふれあわせる。
ふっと清雅な香こぼれるまま重ねた唇から、香移りこむ。
見つめた長い睫がゆるやかにおりて、透明な瞳が閉じられる。おだやかな想いが静謐に充ちていく。
最高峰で唯ひとりキスふれられる、この温もりが今もただ優しい。

― 愛している、この「唯ひとり」も

もうひとりの「唯ひとり」とは違う想い。
それでも温もりは優しくて、比べられない絆と想いがあると今この瞬間に思い知らされる。
ふたりの「唯ひとり」この同時と相違に途惑うのも本音、自分は不実なのだと自責も痛い。
それでも偽りない心がもう頷いてしまう、どちらにも真実の温度が温かい。

どちらも真実に求めてくれるなら、正直なまま応えていけばいい?
もしこれが罪ならば、自分一人が背負えば良いのだから。

「…っ、」

ちいさな吐息、透明な香こぼれてキスが離れていく。
離れて見つめる真中で、ゆるく長い睫は披いて無垢の瞳が笑ってくれた。

「幸せだね、」

ひと言が、優しく微笑んだ。

やわらかい笑顔で立ち上がると、国村は手桶の水を汲んで手を濯いだ。
すぐに済ませ、また水汲んだ柄杓を今度は英二に差し出してくれた。

「ほら、おまえも手を出せよ?」
「うん、ありがとな、」

素直に笑って手をだすと、水を注いでくれる。
手桶に汲み置いた水はすこし温んで、陽射しの温かさが肌に伝わっていく。
洗い終えると残りの水を撒き、最後また合掌を捧げてから踵を返した。

「良い天気だな、今日、」

戻る道、明るい陽光に制帽を脱いだまま、英二は微笑んだ。
晩春の午後らしい温む風が心地良い、風揺れる黒髪透かして底抜けに明るい目が笑った。

「富士山も今日、きれいだよね。おふくろ喜んでるよ、きっと」
「お母さん、富士山が好きなんだよな?」
「うん、そうなんだよね、」

陽射しふる石畳の道に、ゆるく花びらが降ってくる。
どこかに桜の木があるのかな?そう見た先に人影を英二は見とめた。

小顔、長い手足、30前後の若い男。
ダークカラーのカジュアルスーツに、白いシャツ。
モノトーンに包んだ長身が、ゆっくり石畳を踏んでこちらに歩いてくる。
手には大きな花束を提げ、すこし俯き加減で花ふる風を進んでいく。その佇まいに、英二は見覚えを感じた。

どこかで、見たことがある?

そんな疑問に見つめ歩く先、モノトーンの長身が近づいてくる。
吹きぬける風の向う側、ふっと靡くよう高雅な香が届きだす。
擦れ違う、そのとき彼は顔をあげ、立ち止まった。

「…君は、」

透明なテノールが、立ち止まった男の唇からこぼれた。
声こぼした顔に映る面差は、いつも英二が見る俤と重なっていく。

― まさか?

心裡こぼれた声の隣、ゆっくり国村が振向いていく。
すこし不思議そうに透明な目が、男の顔を見つめている。
そして大きな花束の純白を見た瞬間、透明な目が瞠らかれた。

「っ、」

ひとつ呼吸する音が微かに零れて、薄紅の唇が噛みしめられる。
いま何も言いたくない、そんな意志きつい眼差しが男を見つめていく。
けれど男は真直ぐに透明な目を見つめて、テノールの声で問いかけた。

「君は、光一君だろ?…僕のこと覚えている、そうだよね?」

切長い細い目が懐かしげに、よく似た目を見つめている。
けれど、見つめられた透明な目からは、いつもの笑みが消えていく。
面差し似た貌に見つめられた雪白の貌が、氷雪のよう蒼白に強張っていく。

もう、解かってしまう。
いま、どんな事態がここで起きてしまったのか?
この男は、誰なのか?そんなこと訊かなくても、きっともう解っている。

「光一君、…」

呼ばれた名前に透明な目は、無表情のまま見つめている。
見つめる目と同じ、無言に凍結した氷の顔はただ男を見つめ佇んでいる。
なにも、言わない。
ただ沈黙が、冷厳を孕んで立っている。
ただ冷たく凍れる沈黙を前に、ゆっくり切長い細い目は瞬いて静かに微笑んだ。

「姉さんにあげて貰えるかな、…好きな花だったから、」

大きな花束を男は国村の腕に持たせた。
黙りこむ白い手は花束を抱え、純白の花翳から無表情が男を見つめている。
ただ見つめている蒼白の、けれど秀麗な貌へと男は切ない愛惜に微笑んだ。

「光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う…会えて、嬉しかった、」

瞬間、透明な目が瞠らかれ白い花束がふりあげられた。

「ふざけんな!」

透明な叫びと純白の花が、男に叩きつけられた。

カサブランカの花が、砕け散る。
高雅な香のまま壊れていく大輪は、ゆるやかな風に浚われる。
ダークスーツに白が散り、毀たれた純潔の花が石畳に散っていく。

ばさり、

カサブランカの骸が、やわらかな風に転ばされる。
花を束ねた青いリボンは風ほどかれて、ふわり空へと舞いあがる。
砕け散った花と香に立ち竦む、彼の白い頬を悲痛の涙が伝い墜ちた。

「ごめん、光一君…」

彼のテノールは、泣いている。
けれど山っ子は唇噛みしめた沈黙に、踵返すと歩き始めた。
もう何も聴かない、顔も見たくない。ただ拒絶の意思だけが白いシャツの背中滲ませ、足音は遠ざかる。

「…っ、」

息のむ嗚咽が、静かに彼の口元からこぼれだす。
とけるよう微かな慟哭は哀切で、再会の歓びだけ傷が穿たれる。
いま再会してしまった2つの傷が切ない、それでも微笑んで英二はハンカチを差し出した。

「返さなくて、良いですから、」

きれいに笑いかけ、英二は軽く会釈した。
切長の細い目は素直に微笑んで、ハンカチを受けとってくれた。

「…すみません、ありがとうございます、」

泣笑いに会釈返してくれた貌が、大切な俤を映しこんで胸が傷む。
この傷を見つめながら頭下げると、英二は友人の跡を辿り始めた。
すこしずつ足早に歩を進め、角を曲がっていく。そして彼から見えない場所まで来ると、英二は走りだした。

― どこにいる?

さっき踵返した国村の、一瞬の表情が忘れられない。
悲痛、そんな言葉が似合ってしまう苦しい傷み、あの顔が哀しい。
あの痛みを国村が癒すなら、いったいどこに行く?

―…山桜はね、俺の特別に好きな花だよ。おやじと、おふくろも好きなんだ

さっき聴いたばかりの言葉。
この言葉に向かって英二は、さっき歩いた道を駆けた。
その道を逸れ木立のなかへ入っていく、萌出たばかりの下草を踏み分け森を進む。

そうして見つけた白く輝く花の下、白いシャツ姿が佇んでいた。

「国村!」

呼んだ名前に、無表情の顔が振り返る。
透明な眼差しが見つめ、無垢の瞳は見えない涙こぼしていく。
涙も無いまま泣いている、その瞳に抉られた深い傷が、真直ぐ英二の胸を刺した。

「見つけた、」

ひと言だけ告げて、英二はきれいに笑いかけた。
笑いかけながら長い腕伸ばし、白いシャツの腕を掴む。
肩を寄せ、長身の細い体を抱きこんで、透明な瞳のぞきこむと英二は穏やかに微笑んだ。

「俺がいる、だから安心して泣けよ?…光一、」

名前呼んで、そっと唇でキスふれる。
すぐ離れて笑いかけると、無垢な瞳から涙こぼれだした。

「…っ、」

音にならない叫びが喉の奥から掠れだす。
掠れた声のまま涙あふれて、雪白の貌が泣顔に安らいでいく。
ようやく象られるままに、抉れた傷ふさぐよう溢れる哀しみが震えだす。
そして無声の叫び響く哀しみごと、ふるえる白いシャツの肩を英二は抱きしめた。




(to be continude)

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