萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第42話 雪陵act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-05-07 23:59:11 | 陽はまた昇るside story
「Requiem」安息を、永訣と祝福に



第42話 雪陵act.6―side story「陽はまた昇る」

英二が周太の声を聴けたのは、穂高連峰から戻った翌日の夜だった。
当番勤務に詰める新宿東口交番の休憩室から、夜23時コールが繋がる。
着信の名前に微笑んで、英二は通話を繋いだ。

「おつかれさま、英二?…昨日と今日は救助、大変だったね、」

大好きな声が労いを贈ってくれる。
ほっと心が温まる、窓ふる雪を見ながら英二は微笑んだ。

「周太こそ、おつかれさま。ずっと電話できなくて、ごめんな、」
「ん…仕事も山も、英二は一生懸命だから、…そっちは雪、ふってる?」

素直に謝った英二に電話の向こうで微笑んでくれる。
昨日は青梅署に戻った途端に召集が掛かり、夜間捜索に入って今日まで続いた。
そのために昨夜は電話が出来ず、穂高連峰にいる間は当然メールしか出来ないから、4日ぶりになる。
久しぶりに聴く穏やかな気配が嬉しい、寛いでゆく心に英二は笑った。

「うん、夕方から雪が降りだした。新宿はどう?」
「さっき雪に変わったよ?…でも、すこしだけ…あ、穂高と槍ヶ岳の写メール、ありがとう。雪山きれいだった」
「気に入ってもらえたなら良かったよ?そっか、新宿も雪なんだ、」
「ん、夕方は雨だったけど、…そっちは積もってるよね?気をつけてね、」
「うん、気をつける。周太、明日は美代さんと公開講座だよね?雪積ると、電車とか遅れるからさ。気をつけて行ってこいな、」
「ありがとう、すごく楽しみなんだ、明日は…雪でも絶対行こうね、って美代さんと約束したんだ、」

何気ない会話が安らがせてくれる。
この4日ほど電話できなかった分、尚更に心がほっとさせられる。
この4日間に周太は、拗ねたりしてくれたかな?そんな期待に英二は訊いてみた。

「ね、周太。4日ぶりの電話だね、寂しいなとか思ってくれた?」
「ん、…それは、さびしいよ?…暫く一緒だったから、余計に、ね?」

気恥ずかしげな声が、そっと言ってくれる。
寂しがって想ってくれるのは嬉しい、うれしくて英二は微笑んだ。

「うれしいな、俺、周太のこと、いっぱい考えてたよ?」
「そうなの?…いつも?」

優しいトーンが遠慮がちに聴いてくれる。
この穏やかな空気が大好きで嬉しい、素直に英二は応えた。

「うん、いつも。俺ね、ワイン持っていったんだ、だから夜も周太のこと、想いだして話してさ。あの夜が懐かしくて、逢いたかった」
「ん、…恥ずかしいね…でも、うれしいな?」

きっといま真赤だろうな?そんな気配が電話越しに伝わってくる。
紅潮に桜染まる恋人の肌をふっと想って、幸せに微笑んだ英二に穏かな声は尋ねた。

「ね、俺のこと、光一と、どんな話をしたの?」

この話が、問題。
けれど正直に言わないわけにはいかない、申し訳ない気持ちいっぱいに英二は電話の向こうへと頭を下げた。

「ごめん、周太。周太を大人にしたこと、自白しました、ごめんなさい!」
「…っ、」

きっと新宿東口交番の2階休憩所では、真赤な顔の困惑が座りこんでいる。



ゆるやかな夜明けの部屋で、ベッドに片胡坐に座りこんだ英二はぼんやりしていた。
見つめる窓の外は春の雪に曙光が射しはじめていく、静かな雪の静謐に世界は眠っている。
そっと目を瞑ると聴いている曲の歌詞が、一昨日まで立っていた場所の記憶にふれだす。



まだまだ夢は覚めないね この道の向こう何が待ってるんだろう?
きっときっと答えはあるから 諦めきれない立ち止まれないんだ
でも後ろ髪ひくあと少しだけでも その柔らかな笑顔の隣に居たいけれど
まっすぐに駆けだす晴れ渡る青空が眩しい
追い風に煽られ新しい旅が始まる
いつかまた会えるよう振り返らずに明日へ向かうよ

きっときっと後悔しないで
笑い合えるよう進み続けるんだ

移り行く世界の片隅で君に会えてうれしい
あふれそうな想いを言葉に出来なかったよ
いつかまた会えたらもっとうまく伝えられるかな?
遥かな虹を超えて
Good luck my way 信じる道へ



この曲を、穂高連峰から戻る車中で国村はカーステレオにかけていた。
これは自分が前に買ったCDにある曲、そしてIpodに入れたことを思い出した。
そして今、改めて聴いてみると歌詞も曲も、槍ヶ岳で見つめていた想いに重なってしまう。
明るい曲調で、けれど歌詞は大切な相手との別離を詠っている。

…永訣の歌、だ

国村は雅樹と永訣をした。
北鎌尾根を歩き槍の穂先を超えて、雅樹最期のトレースを国村は自分に繋げた。
雅樹が槍ヶ岳で眠りについて15年。ようやく雅樹の死を受容れて、国村は泣いた。

―…会いに来てよ!一度きりで良いから、大人の俺とアンザイレン組んでよ、俺との約束を果たしてよ…
  救けたかった、生きて一緒にいたのに、嫌だ、いやだよぉっ…ふれられないのは寂しいよ…
  一緒に山に生きたかった、救けたかったのに、ごめんなさい…もっと早く大人だったら…あの時、俺が、大人だったら

北鎌尾根で、雪洞で、見つめた涙は今も胸に痛い。
それでも涙を流した国村は、どこかまた明るさを増した。
そして帰って来た日から昨日まで、遭難救助に一緒に立っている。
救助現場ではいつもの国村節で遭難者に怒っていた、そんな変わらない様子に安心した。

これで壁は、越えられたのだろうか?

「…そうだといいな、」

ふっと呟いて英二は窓の外を見た。
いま午前5:58、夜明けは空と雪をあわい朝へと染めていく。
そろそろ仕度しようかな?立ち上がりながらIpodのイヤホンを外すとデスクに置いた。
今日は週休だから久しぶりに丸1日、吉村医師の手伝いに入る約束をしている。
こういう診察日用と決めている組合わせで服一式を出すと、スラックスから履き替えた。
そしてシャツのボタンを外し始めたとき、かちり開錠の音がして扉が勝手に開いた。

「おはよう、国村、」

ふり向かないで挨拶しながら、英二はシャツを脱ぐとTシャツに手を伸ばした。
その背後から白い手が伸びて背中から抱きつかれた。

「おはよ、俺のアンザイレンパートナー、今日も美人だね、」

肩に雪白の顔を乗せて、機嫌よく国村が笑っている。
Tシャツを掴んだまま英二は、肩に乗った頭を掌で撫でて微笑んだ。

「褒めてくれて、ありがとな。ほら、着替えるから離して?」
「嫌だね、」

からりテノールの声が笑って断った。
肩越しにふり向くと、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。

「昨夜はさ、ちゃんと俺、自分の部屋で寝たんだよ?だから今ちょっと甘えさせて貰うからね、」
「おまえ、今日は出勤だろ?こんなことしてる暇ないよ。俺だって寒い、風邪ひくから、ほら、」

仕方ないなと笑いながら英二は腕から抜けようとした。
けれど活動服のネクタイとシャツ姿の国村は笑ったまま離さない。

「まだ6時前だからね?時間は5分は充分にあるよ、おさわりを楽しませて?ね、ア・ダ・ム、」
「雪の朝に5分も裸は寒いよ、おさわり解禁してないし。って、こら!そんなとこさわるなって無理!」

くすぐったくて英二は笑いだした。
こんな早朝に騒いでいたら拙い、けれどくすぐられて可笑しくって仕方ない。

「ちょっ、やめてってば国村!それ無理無理っ、やめろって、」
「あら、アダム?ちょっとこの表情、ス・テ・キ。もっと悶えて?愛するイヴの為に、ね?」
「こんな馬鹿力のイヴはいないってば、やっ、待てって、やめろってば、」

朝から笑い過ぎて腹筋が痛くなってくる。
なんどか腕から逃げようとするのに、国村は笑って離さない。

「ホントすてきね、悶え顔。愛してるわ、ア・ダ・ム、」
「なにしてんのダメ!キス要らないキス要らない、っ」

やわらかい感触が首筋にふれて英二は笑いながら、顔を逸らした。
そんな英二を見て底抜けに明るい目が愉快に笑いながら、活動服のシャツの腕はしっかり抱きついている。
これは雪洞の続き?困りながら笑っている背後で、がちゃり扉が開いた。

「なに騒いでんの宮田?…あ、」

開いた扉には、人の好い笑顔のまま藤岡がびっくりした目をして立っていた。
そんな藤岡に国村は、さらり指示を出し嫣然と笑んだ。

「藤岡、ソコ閉めて?いま、愛の営み中だから。お・ね・が・い、」
「あ、うん。ごめんな?」

テノールの声で我に返って、藤岡は素直に謝った。
そして扉を閉めながら、英二と国村に手を振り笑いかけた。

「黙秘するから安心しろよ、湯原にも言わないから。じゃ、仲良くしなね、」
「違う!そうじゃないよ藤岡、助けてよ、」

声を掛けたけれど、ぱたんと扉は閉じられた。



食堂に行くと、藤岡は2杯目の丼飯を受けとっている所だった。
国村と3人で食卓に就くと、可笑しそうに笑って藤岡が英二の衿元を指さした。

「宮田?それ、やばいって、」
「うん?なに?」

海苔の袋を開けながら英二は首傾げこんだ。
そんな英二の衿元に白い指を入れて、隣から国村が上機嫌に微笑んだ。

「ココ、ちゃんとマーキングしてあるからね?」
「マーキング?…っ、」

すぐ意味が解かって、英二はワイシャツのボタンを一番上まで閉めた。
今日はネクタイを締めることにしよう、そうすれば衿元を自然に隠せる。
そう決めながら肉じゃがに箸をつけた英二に、からり藤岡が笑った。

「穂高で仲良くなっちゃんたんだな。ま、恋愛は自由かもな?」
「それは大きな誤解だよ?」

きっぱり笑顔で断言して英二は箸を口に運んだ。
そんな英二の隣で国村は、底抜けに明るい目を細めて艶麗に笑いかけた。

「つれないこと言わないでよね、宮田。俺たち、深ーく、愛を確かめ合っちゃったのにさ?」

じゃがいもが英二の喉に詰まった。

「…っ、」

声も詰まったままコップの水に口付けて、一息に飲みこむ。
ほっと息吐いている英二を余所目に藤岡は、感心したよう頷いている。

「へえ、やっぱりそうなんだ?宮田って、ほんとモテるな?」
「ね?そんな男と愛し合っちゃってさ、お蔭で俺、ちょっと嫉妬深くなりそう。困るよね、」

可笑しそうに笑いながら国村は、空いた英二のコップに水差しから注いでくれる。
注いでもらったコップを素直に受けとりながらも、断固と拒否を口にした。

「藤岡、それ誤解。俺は国村とは、そういう愛じゃ無いよ?アンザイレンパートナーとして、だから、」
「あ、そういう意味?」

素直に笑って藤岡は頷いてくれる。
丼飯に目玉焼きを乗せながら、藤岡は明るく言葉を続けた。

「よかった。初任総合で湯原に会ったら俺、困るなって思ってたんだ。黙秘してもさ、なんか気まずいだろ?」
「大丈夫、後ろめたいこと無いから、」

微笑んで英二は味噌汁の椀に口付けた。
けれど藤岡は首傾げて、なにげなく訊いてくれた。

「でも宮田、さっき裸で抱かれてたよな?あれって後ろめたくないか?」
「…っ、」

英二の口付けた椀から味噌汁が、藤岡のトレイにぶちまけられた。

「あーあ、全部が味噌味になっちゃったね?ま、肉じゃがは味噌味もあるけど?」

飄々と言いながら国村は、持ち上げていた自分のトレイをテーブルに戻した。
そして食卓の隅にあるティッシュ箱を手にとると、英二と藤岡の間に差し出してくれた。
口許をティシュで拭いながら英二は藤岡に謝った。

「ごめん、藤岡…、」
「うん?」

謝った先で藤岡もティッシュを手にしながら、いつもの人の好い笑顔を向けてくれる。
トレイを拭き始めながら、からり明るく藤岡は言ってくれた。

「まあ、ほとんど食べ終わってるしさ。味噌味も好きだから、俺、」

なんて人が好いんだろう?

いつもながら英二は、この同期の人柄に感心しながら溜息を吐いた。
すぐ詫びを示したいけれど、自分の膳をほぼ食べ終えているから膳の交換をするわけにもいかない。
困りながら英二は、申し訳なくて提案した。

「ほんとごめん、お詫びにさ、今夜ちょっと呑もうよ?俺、今日は週休で吉村先生の手伝いだけだから、酒買ってくる」
「あ、うれしいな。でもさ、なんか逆に悪いな?」
「いいんじゃない?タダ酒は、特別に旨いしさ。ね、俺のア・ダ・ム、」

さらり笑って透明なテノールが英二に言ってくる。
その言葉に、藤岡が軽く首を傾げた。

「宮田がアダム?なんでそんな呼び名になったんだ?」
「なんでもないから、」

笑いながらも遮って英二は話題を封じようとした。
けれど透明なテノールは愉しげに笑って、由来を言ってしまった。

「俺たちね、山のエデンで雪の花に祝福を受けちゃったんだよね。それがアダムとイヴの失楽園シーンと一緒なワケ、」

失楽園シーン、ってなんか嫌だな?

この妙に艶っぽい禁忌な雰囲気はなんなんだ?
なんだか呆気にとられた英二を置き去りに、藤岡と国村は愉しく話し始めた。

「それで宮田がアダムなんだ?じゃあ、国村がイヴ?」
「だよ。それで可愛いイヴはね、山のエデンでアダムと愛を深めたのでした、」

透明なテノールが幸せに笑っている。
こういう笑顔は嬉しいけれど話の内容が困る、なのに話を止める言葉も浮ばない。
ちょっと憮然としたまま朝食に口動かす前と隣は、艶っぽい話に笑っている。

「なるほどね。確かさ、イヴがアダムを誘惑するんだよな?やっぱり国村が宮田を誘惑したんだ?」
「俺の場合はさ、この可愛い姿自体が誘惑になっちゃうからね、」

飄々とテノールが自賛の言葉に笑っている。
無事だった目玉焼き丼を食べながら、藤岡も笑って頷いた。

「たしかに国村って、きれいだよな。身長でかいし、細くても筋肉質だから男っぽいけど、女顔だしさ?」
「うん、おふくろに似てるからね。藤岡も誘惑されたい?」
「国村は美形すぎてパス。それにイヴは、アダムと愛を深めないといけないだろ?」
「そ、イヴはアダムにぞっこんだからね。愛してるわ、彼のこと。相思相愛なの、」

話しながら、底抜けに明るい目が可笑しくて仕方ないと笑っている。
あのとき雪洞で号泣していた姿を思えば、こんなふうに笑っている姿は嬉しい。
けれど困ってしまう。食べ終えてコップを手に取りながら英二は、話の付け足しをした。

「その愛はね、ザイルパートナーとしてだから、」

言って微笑むと英二はコップの水に口付けた。
藤岡もコップの水を飲んで、感心と困惑のハーフ顔で口を開いた。

「そっか…ザイルの方が赤い糸より強力だよな?そんなに堅く愛し合っちゃたんだ?俺、初任総合のとき困るなあ?…湯原どうしよ、」

だから違うって藤岡?
そう言おうとした英二の気管に、飲みかけの水が落ちこんだ。

「…ごほっ、ごほこほんっ、こんっ、…」

今度は水に咽て、また英二はティッシュ箱をアンザイレンパートナーから受け取った。
ティッシュで口押さえて咽こんでいる隣で、機嫌よく国村が藤岡に答え始めた。

「黙ってれば大丈夫、周太ってアダルト系は鈍いからね、」
「あー、確かに。湯原って、大人の話とか無理っぽいよな?普通にしてれば平気かな?」
「そ、普通にしてれば解んないから大丈夫。俺たちのエデンを守るのに、協力よろしくね?」
「うん、黙ってる方がさ、平和だよな?俺は平和な方が好きだよ、」

人の好い笑顔と悪戯っ子の笑顔の間を、話が勝手な方向へ転がっていく。
早く話を止めたいのに、すっかり咽こんで口がきけない。

「こほっこんこんっ、ちがっ、ごほっ…ごかい、だごほっごほっ、」
「あら、アダム?咽ながら話しちゃダメよ、ほら、水呑んで?」

優しいトーンで話しかけながら嬉しげに笑んだ細い目は、まさに小悪魔か悪戯な天使のよう。
そんな様子に人の好い同期は微笑ましく笑いかけてきた。

「なんか幸せそうだな、ほんとイヴなんだ?」
「そうだよ?俺はアダムに愛されているイヴだね、愛されてホント、し・あ・わ・せ、」
「ちがっ、ごほんごほっ、…こんこほっ、」

否定したくても声が出ない、この状況に英二は心底、困り果てた。



診察室の朝のセッティングを終えて、留置人の検診に行く支度も整えた。
定期的な検診がちょうど今日に当った、吉村医師が忙しい日に丸一日を手伝えるのは嬉しい。
今日が週休で良かったな?思いながら隅にあるロッカーから白衣を取出し羽織ると、英二の姿に吉村医師が微笑んだ。

「白衣もすっかり馴染みましたね、宮田くん、」
「ありがとうございます。でもちょっと面映ゆいんですけどね、」

素直に礼を言いながらも英二はすこし照れた。
この白衣は現場立会や検診などには必要だろうと、吉村医師が支度してくれた。
せっかくの厚意だから着させてもらっているけれど、文系だった英二は白衣自体が珍しい。
なんとなく気恥ずかしいな?思いながら診察用具を持とうとした英二に、吉村医師が言ってくれた。

「宮田くん、ネクタイ外しましょう。たぶん大丈夫ですけど、念のため、」
「あ、…はい、」

素直に頷きながらも英二は内心困った。
留置人の診察時は絞首防止のため、精神科医と同様にネクタイなど首回りのものは外す。
やはり留置人には精神的不安定が見られることもある、そうした相手に犯罪を重ねさせない注意が必要となる。
だから当然外さないといけない。仕方なしに英二はネクタイを外し、けれど第一ボタンは外さなかった。

「おや?どうして今日は第一ボタン、外さないんですか?」

何気なく吉村医師に訊かれて、英二は困り顔で微笑んだ。
この質問は当然だろう、いつも英二はネクタイをしない時はボタンを外している。
診察用具を持ちながら、観念して英二は答えた。

「今朝、国村の悪戯でキスマーク、つけられちゃったんです、」
「国村くんが?ああ、はははっ、」

可笑しそうに吉村医師は声を出して笑い始めた。
診察室を戸締りして「留置所」の看板を扉に掛けると、廊下を歩く英二の左足元を見て吉村医師は軽く頷いた。

「うん、調子いいですね。穂高でも問題なかったでしょう?」
「はい、ご心配をおかけしました、」

鋸尾根の雪崩から2週間、負傷した左足は完治している。額の傷も綺麗に痕なくふさがった。
けれど、この遭難が周知されることのリスクは大きい。いかなる理由でも2度と、同じ過ちは繰り返せない。

―…これは、最高峰の竜の爪痕だよ。ここに山っ子がキスをした、これで最強の護符になったね。
  もう、おまえは遭難には掴まらない

北穂高岳の雪洞で国村が贈ってくれた言葉は、最愛のひとへの哀惜と懺悔が紡いだ。
あの言葉の想いと温もりに応えていけたらいい。そんな想い微笑んだ英二に、吉村医師は笑いかけて口を開いた。

「国村くんね?雅樹にも同じこと、していたんです、」
「雅樹さんにも?」

雅樹は英二や国村より15歳年上になる。
だから当時の国村は8歳以下だろう、そんな頃からこんな悪戯をしていたなんて?
でも納得かな?そんな考え巡らす英二に、吉村医師は教えてくれた。

「雅樹は、月一は私の実家に帰っていました。その度にね、いつも国村くんは遊びに来てくれたんです。
保育園に入った4歳からは泊りに来てくれて。その翌朝は山を登りに行って、下山の後も泊まって。ふたりは本当に仲良しでした。
寝る時も一緒で、いつも雅樹が抱っこして。それでね、雅樹の首のあたりに顔くっつけて寝ていたんですよ、国村くん。そうするとね?」

いったん切って、ちょっと可笑しそうに吉村医師は笑った。
その可笑しい懐かしい記憶に吉村は微笑んだ。

「まだ小さかった所為もあるかな?おしゃぶりの癖で、寝惚けて雅樹の首を吸っちゃうんですよね。
だから朝起きるとね?雅樹の首のところに、いつも可愛いキスマークがついていました。それが可笑しくて可愛くてね。
国村くんが家に来てくれた後は、今でも家内や雅人と話します。おしゃぶり光ちゃんが、あんなに大きくなったな、ってね」

おしゃぶり光ちゃん。
その呼び名が可愛くて、今の大人になった姿とのギャップが可笑しい。
ちょっと笑いながら英二は訊いてみた。

「ずいぶん可愛い呼び名ですね?雅人先生まで、仰るんですか?」
「可愛い呼び名でしょう?雅人がつけたんですよ。雅人も、国村くんを可愛がっていますから。でも、雅樹にべったりでしたね、国村くん」

兄と慕う青年に抱きついて、首筋をおしゃぶりにして幼い子が眠っている。
それは微笑ましい可愛い光景だったろう、そして、ふたりはお互いに大切な存在だったと解かる。
こんな大切な記憶があるから国村は、いつもあんなこと言うんだな?納得しながら英二は笑って頷いた。

「国村、俺に言うんです『甘えん坊の俺は、おしゃぶりがほしくなる』って。それで山でも一緒に寝て、つけられちゃうんです」
「ほんとうに彼は、変わっていませんね?」

楽しそうに吉村医師は笑っている。
懐かしい幸せな光景が心を充たしている、そんな優しい笑顔で吉村医師は言ってくれた。

「きっとね?寝ている時のキスマークは、無意識だと思いますよ。彼はずっと雅樹にしていましたから。だからね、」

ほっと、ひとつ息を吐いた。
そして穏やかに微笑んで、吉村医師は教えてくれた。

「あの時も雅樹は私の実家に泊まって。いつものように国村くんと眠って、朝早く送り届けて。それから上高地へと入ったんです。
その翌日に雅樹は亡くなりました、だからね?雅樹の首には、可愛いキスマークが残っていました。薄いけれど、ちゃんと、あったんです」

微笑んだまま、ゆっくり1つ吉村医師は瞬いた。
そして懐かしみ、哀しみ、愛おしむ目で英二に微笑んだ。

「山っ子のキスマークつけたまま、雅樹は逝ったんですよ。山と医学ばかりの男には光栄で、幸せだった、そんなふうに想います」

きれいな笑顔は慈愛と敬意に、おだやかだった。
こんなふうに親から話して貰える雅樹は幸せだろう、英二は微笑んだ。

「はい、きっとそうですね…幸せです、きっと」

そんなふうに笑いあって、吉村医師と英二は留置所に入った。
いつもどおりに診察を進めて、無事に終わらせると英二は診察室でコーヒーを淹れた。
熱いマグカップに掌を温めながら、芳ばしい湯気の空気に吉村医師は、さきほどの続きを話してくれた。

「我が息子ながら雅樹は、本当に佳い男でした。けれどね、年頃なのに恋人らしい女性も、いなかったんです」
「そうなんですか?」

意外で英二は訊きかえしてしまった。
この診察室の机に微笑んだ写真の雅樹は、英二の目から見ても佳い男だと思う。
端正な顔立の長身、優しい穏やかな笑顔は美しくて、真直ぐな視線が強靭な芯を感じさせる。
きっと女性にも人気があったろうに?不思議で首傾げた英二に、ちょっと得意げに吉村は笑ってくれた。

「意外でしょう?それがね、雅樹は見た目ソフトな癖に、物堅い性格でね、いわゆる遊ぶことは少なくて。
学校と家と山の他には、本屋か図書館にしか行かないような、堅物だったんです。恋人の付合いをするには、面白みが無いでしょう?
たぶん、女性とキスしたことも、無かったんじゃないのかな?ほんとうに雅樹は、山か医学ばかりの男でした。親として困る位、真面目でね」

本当に少し困っていた、そんな雰囲気に吉村医師は笑っている。
英二も微笑んで、思ったままを正直に言った。

「そういう人、俺は好きです。でも雅樹さん、女性から声は掛けられていたと、思いますよ?」
「宮田くんが言うと信憑性が高いですね?私もそう思います。だってね、雅樹と歩いていると、よく女性がふり向きましたから、」

愉しそうに笑って吉村医師はコーヒーを啜りこんだ。
英二もひとくちコーヒーを飲むと、吉村医師は可笑しそうに笑いながら教えてくれた。

「そんな雅樹が学校の友人以外で、定期的に逢ったのはね?考えてみたら国村くん位なんですよ。
可笑しいでしょう?大学生や高校生の男が、小さな男の子に逢いに通うなんて。 いくら山ヤ仲間で奥多摩だからって、ね?
でも雅樹はね、国村くんと山に登ることが、本当に楽しかったんです。だから想いました、年齢を超えた繋がりもあるんだな、と」

そんな紐帯が雅樹と国村にはある。
それを断ち切られた国村の痛みを想いながら、英二は口を開いた。

「俺も、雅樹さんのこと大好きです。先生、今回ね?槍の穂先から、北鎌尾根の独標まで往復してきたんです、国村と一緒に」
「国村くん、北鎌を登ったんですか?」

驚いたよう吉村医師が訊いてくれる。
きっと吉村医師なら、国村が竦んでいたことを気付いていただろう。
そして心配してくれていた、その想いに英二は静かに笑って頷いた。

「はい。国村と一緒に、雅樹さんの慰霊登山をさせて頂きました。間ノ沢を見つめて、そこから独標まで行って頂上へ折り返したんです」
「宮田くんが一緒に登ってくれたんだね。ありがとうございます、雅樹は喜んだでしょう。国村くんの様子は、どうでしたか?」

うれしそうに微笑んで、すこし心配そうに訊いてくれる。
あの瞬間に立会わせて貰った素直な感謝を抱きながら、英二は口を開いた。

「国村、槍の点に雅樹さんと手形を押して、泣いて笑いました。そうやって国村はね、雅樹さんのトレースを繋げたんだと思います。
だから雅樹さん、今は国村と生きています。きっと、ふたりはアンザイレンしていますよ?見えなくても、ずっと一緒に山を登っていくんです、」

「そうでしたか、…よかった」

ほっと息吐いて吉村医師はコーヒーをひとくち飲んだ。
穏かに微笑んで、英二を見て言ってくれた。

「うん、そうですね?あの2人なら、きっと一緒です、」

微笑んだ吉村医師の目許には、うすく涙が浮んだ。
きっと想いがあふれるだろう、英二は空のマグカップを手にとり立ち上がった。

「先生、おかわり淹れますね、召し上がるでしょう?」
「はい、ありがたいですね、お願いします、…」

笑顔で頷いて吉村医師は、そのまま顔を俯けている。
そっとティッシュ箱をサイドテーブルに置くと、英二は背を向けて流しに立った。
流しの水をいつもより強く流す、やさしい水音が白い部屋を穏やかに充たしていく。
そして、かすかな嗚咽が診察室を温めた。

マグカップを洗い、水を流したままカップを拭く。
拭いたカップにインスタントのドリップコーヒーをセットして、ゆっくり湯を注いでいく。
やさしい水音と湯の音を聴きながら、眺める窓の外は春の雪が静謐の底ふりつもる。
奥多摩にふる雪に、蒼穹の点に舞った雪の花を見つめて、15年の涙に英二は佇んだ。

15年、その雪陵の壁を今、超えていくのは、山っ子の涙が繋いだアンザイレンザイルのトレースが道しるべ。





【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「Good luck my way」】

(to be continued)

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