萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

山霜act.2―side story「陽はまた昇る」

2011-12-02 22:45:14 | 陽はまた昇るside story
山で聴く




山霜act.2―side story「陽はまた昇る」

5:20、食堂からそのまま3人で青梅署ロビーへ向かった。
この時期の奥多摩は、夜明けは6時半を過ぎる。窓の外はまだ暗い。
周太は今頃あの曲を聴いてくれているかな。思いながら国村と藤岡の会話を聴いていた。
ロビーに降りると、ちょうど吉村医師が入口から入って来る。英二は笑いかけた。

「先生、おはようございます」
「お、宮田くん。おはようございます、今日も元気そうですね」
「はい。だって先生、昨日まで周太と一緒でしたから」
「なるほど。私も湯原くんと会えて、元気を頂きました」

今朝も吉村医師は、穏やかに微笑んでくれる。
今日の訓練登山に備えて、吉村医師も早出だった。
国村と藤岡も吉村へ、おはようございますと頭を下げる。

「国村くん。この間の干柿ね、旨かったです。ご馳走様でした」
「去年と比べて、いかがでした?」
「そうですね、今年の方が柔かい印象でした」
「干し方をね、ちょっと工夫してみたんですよ。来年はJAから出す案もあるんで」

兼業農家の警察官である国村は、この時期は青年団で干柿を作って配る。
英二や藤岡も貰ったが、結構おいしかった。

「うん、藤岡くん。今朝もたくさんご飯食べられたね?」

こんどは、吉村は藤岡の顔を覗きこんだ。
快活に笑って、藤岡は元気に答えた。

「はい、2人と一緒に4杯食べました」
「そう。じゃあ元気だな。しっかり山歩きしておいで」
「はい。先生、ご心配すみませんでした、」
「いいんだよ、私が勝手に心配したいんだから。うん、君の元気な顔がうれしいです」

藤岡は2週間程前に、初めて自殺者の死体見分に臨んだ。
藤岡が勤務する鳩ノ巣駐在所の管轄、鳩ノ巣渓谷での溺死自殺。朝の巡回で藤岡が発見した。
その日の英二は、御岳駐在所の勤務中に報を受けた遭難救助で、御前山に入っていた。
そのために青梅署戻りが20時半を過ぎ、藤岡に会わないことに気付けなかった。
そして非番だった翌日、診療室の手伝いに行って初めて聴かされた。

「そのご遺体は、あまり良いお顔ではありませんでした…残念な事です。状態も決して良くは無くて。
 そして藤岡くんは初めての見分でした。初見であの事例は残酷だったと思います。たとえ警察官であっても」

そう語った吉村医師の表情は、沈痛だった。
夕食時に姿を見せない藤岡を、英二はただ待つしかないと思った。
英二は卒業配置の間もなく、死体見分を経験した。独り見つめて超える必要を、身をもって知っている。
同じように国村も、静かに藤岡を見守っていた。

この奥多摩では、自殺者と凍死者の死体見分も多い。
都心から奥多摩は1,2時間で来られる、それが原因だった。
都内という気軽さが誘発する遭難事故。整備された登山道から死場所を求める疲れた人間。
都内の山岳地域であることの暗部が、そんなふうに蹲っている。

奥多摩に警察官として赴任した以上、死体見分は通る道だった。
そして向き合えなければ、奥多摩の警察官としては立てない。
まして山岳救助隊員なら、さらに無残な遭難死体とも直面する可能性がある。
どんな状況だとしても黙って自力で見つめて、超えなくてはならなかった。

藤岡は、その後2日間なにも食べられず、げっそり窶れてしまった。
3日目から食事するようにはなったが、食事量は落ちていた。
それでも一週間前から食事量は戻り始め、ようやく通常に復したばかりでいる。

「ちゃんと今朝もね、よく噛んで食べていますか?」
「あ、さっきちょっと早食いしました」

話す藤岡は、元来の快活さを取り戻している。ようやく超え切ったのだろう。
これで藤岡は、山岳救助隊員として生きていけるだろう。
ほんとうに良かった、英二は微笑んだ。
ふりむいた吉村医師が、英二に笑いかけてくれる。

「宮田くん、今日も山を楽しんでおいで、そして無事に帰っておいで」
「はい、行ってきます。今日はこのまま勤務に入る予定なので、帰りは19時過ぎます」
「うん、そうか。あと宮田くん、これを」

感染防止用のグローブを5枚ほど、パックに入れたものを渡された。
グローブは救助者ごとに使い分ける必要がある。複数の予備はいつも英二も持っていた。

「一昨日は初雪が降りました、霜からの凍結も今日は考えられます。
 けれど軽装備の気軽なハイカーが、この時期は多いのです。まして天祖山は滑落事故が多い。
 無い方が良いことですが、今日は使うかもしれません。念のため、多めに持っている方が安心でしょう」

さっきチェックした時は3枚入っていた。
けれど吉村医師が言う通り、足りなくなると困るだろう。
なにより吉村の気遣いが有難い。うれしくて英二は微笑んだ。

「ありがたく使わせて頂きます。先生、帰ったらコーヒー淹れますね」
「うん、気をつけて帰っておいで。コーヒー待っています」

診療室へ向かう吉村を見送ると、点呼が掛かった。
ロビーでの訓練説明は歯切れよく、コンパクトに終わった。
パトカーに分乗して、八丁橋登山口へ向かう。
駐車場へ歩きながら国村が、細い目を笑ませた。

「コーヒー良いな、俺も飲みに行こうかな」
「うん、良いけどさ。でも国村は訓練の後は非番だろ、実家帰るんじゃないの?」
「まあね、そのつもりだったけどさ。藤岡は週休だったよね」

国村の細い目が、藤岡の方へ向いた。
訊かれて藤岡が、うれしそうに笑って答えた。

「うん、そうだよ。今日はさ、夜稽古も無いんだ。午後は久しぶりに自由時間なんだよ」
「あ、そうなの?じゃあさ、今夜飲む?あの酒」

うれしそうに国村が提案する。
明日の国村は週休、存分に飲めると思っているのだろう。
まして今日は登山の後になる。国村としてはさぞ、旨い酒になるだろう。
言われて藤岡が、うれしそうな顔になった。

「あ、良いなあそれ。俺、明日は朝稽古だけど、飲みすぎなければ平気」
「じゃ、決まり。宮田、コーヒー4人前ね。私服に着替えてから来いな、診療室からそのまま行くよ」

なんだか話が勝手にまとまった。
そしてたぶん、酒の肴は自分と周太の事になるだろう。だって国村の唇の端が上がっている。
きっと朝食の話の続きをしたいのだろうな。思いながら英二は微笑んだ。

「うん、解った。着替えてから行くよ」
「おう、早く帰ってこいな。仕度しとくからさ」

ミニパトカーの運転席に乗り込みながら、国村が機嫌よく笑う。
後部座席に乗りながら、藤岡が訊いた。

「仕度?なんの仕度するんだ、国村」
「うん、飲みの仕度だよ」

高卒の国村は4年先輩になるが、同年の気安さで親しくなった。
特に英二とは御岳駐在の同僚で、山でもパートナーを組む。
それがきっかけで、国村と英二はコンビになっていった。
そんな国村は、周太との事も自然に受入れてくれる。

そうして最近は藤岡も「国村」と呼び捨てるようになった。
国村は英二の口調が移ったらしく、いつのまにか「藤岡」と呼んでいる。
そんなふうに同年同士、3人つるむことも増えてきた。
こういうのは良いな。思いながら英二は、助手席から藤岡を振り向いた。

「国村の飲みはさ、山でやるんだ」
「山で飲み?へえ、おもしろそうだな。いいね、」
「だろ、」

ミニパトカーが動き出す。
ハンドルを捌きながら、国村は楽しげに笑った。

「藤岡もさ、仕度手伝ってくれな」
「うん、楽しみだな」

他愛ない話をしながら、まだ暗い青梅街道を走っていく。
車窓の山嶺はまだ、深い山闇の眠りに横たわっていた。
往路は夜間登山の訓練も兼ねている、急峻な天祖山では結構きついだろう。

昨夜は新宿から戻ったのは22時、眠ったのは23時頃だったろう。
すぐ洗濯や風呂を済ませて、電話で周太と繋ぎながら眠った。
そして今朝は、随分とさわやかな目覚めでいる。
睡眠の時間はすこし短めだが、質が良いらしい。頭も体もすっきりしている。
こういうことも今度、吉村医師に訊いてみようかな。思っているとパトカーが停まった。

「まだ暗いな、」

八丁橋で駐車して、ヘッドライトなどの装備を整える。
クライマーウォッチは6:10、日の出30分ほど前だった。
登山口に直行した後藤副隊長と合流して、総勢7名で今日は登る。
再度点呼をとると、後藤副隊長が注意点を述べていく。

「いきなり30分間の急登、しかも九十九折りだ。
まだ夜間で足許も暗い、そして降霜で滑りやすい可能性がある。よく注意して登るように」

終わってパートナーごと組んで歩き始めた。
危険個所は石積みをして作られた、急斜がずっと続いていく。時折に狭い個所もあった。
これでは足を踏み外せば、止まれないだろう。下山時が危険だと国村も言っていた理由がよく解る。
確実に英二は足を進めていった。

「星、凄いな」

すぐ後ろの藤岡の声に、足許に注意しながら山嶺の上を見た。
よく澄んだ晩秋の黎明時、星の輝きは鮮やいでくる。
響くようふる星明りが、山に返響していくようだった。
横から国村が、静かな声で教えてくれる。

「雪山だとさ、もっと星が透明にかんじるよ」
「透明?」

穏やかな英二の問いに、ヘッドライトの蔭で細い目が笑った。

「うん。雪に音が吸われてね、すごい静かになる。そうすると星もそんな感じに見えるんだ」

雪山、そっと英二の心が響いた。
警察学校で見た、雪山の山岳救助隊の姿。今でも鮮やかに想える。

白銀の世界に立つ、スカイブルーのウィンドブレーカーの背中。
すっきりと逞しい背中には、厳しさに真直ぐ生きる男の誇りが眩しかった。
そして、誇らかな自由を感じた。

自分もこんなふうに生きられたら。
素直にそう想えた。

山岳救助隊を知ったのは、周太のお蔭だった。
学校の山岳訓練で滑落事故に遭った周太を、初心者のくせに英二は志願して救助に行った。
経験不足は英二の肩にザイルの擦過傷の痕を残した。今でも風呂などで温まると、赤い線が浮きあがる。
周太を背負って下山する道、山での想い出を少しだけ周太は話してくれた。
そのとき「山の警察官っているのだろうか」と初めて興味を持った。
山の警察官になって、周太を軽々と背負えるようになったらいい。
そんなふうに最初は思った。

ほんとうは、周太と同じ進路を選びたかった。
けれど体格も性格も適性も違いすぎて、それは不可能だとすぐに解った。
だから周太の進路を救けられる、そういう方面へと進もうと切替えた。
そんなときに山の警察官、山岳救助隊の存在を知った。

調べて、すぐに気がついた。
きっと山岳救助隊の道は、周太の進路に添って行ける。そして自分には適性がある。
それを知った時、うれしくて笑った。これで離れないで済む、そう思った。
まだあの時は、周太への想いを一生告げないつもりでいた。
だから尚更うれしかった。周太と想い交せなくても、見つめ続ける資格と立場が手に入るから。

そして山岳救助隊になるため、努力を重ねていった。
そのなかで見つめていった山岳救助隊の姿は、いつしか本当の英二の夢になった。
白銀の世界に立つ、スカイブルーのウィンドブレーカーの背中。
峻厳な山の生死を見つめ、山の救助に懸け、そして山ヤの誇りに自由な心を持つ。
山ヤの警察官の誇り高らかな背中。

自分もこんなふうに生きていこう。そうして生きる意味、生きる誇りを見つけたい。
そんな自分になれたら、きっと周太のことも救けられる。
そんなふうに想い願い、努力した。そうして今、ここに立つことが出来た。

そんなふうに結局、自分はいつも周太ばっかり見つめている。
周太を見つめることで、自分の生きる道も見つけることが出来た。
だからいつも誇らしい、周太の隣に立てること。
だからいつも隠せない、いちばん大切で抱きしめたくて、愛していること。

急峻なガレ道を、ジグザグに登っていく。
その坂のむこう、ゆるやかに紺青の空へと薄紅がうかびはじめた。
山の遅い夜明けが、登っていく山にも訪れる。
終わりかけた黄葉、渋い朱茶をふくんだ梢、白灰色の幹の林。
あわい曙光がゆるやかに、林間をあかるく照らしていく。

「…きれいだ」

しずかに英二は笑った。
山の夜明けは美しい、見るたびに心魅せられ惹かれる。
そして心から想う、ここに立てることが幸せだ。

周太と出会い、周太を想った。
その唯ひとつの想いに、自分は山に立つ生き方と出会い選んだ。
その為に自分は母を泣かせ、そのまま置いてきた。けれど正直な自分は後悔も出来ない。
愛する場所と心底に愛する人。それを見つけた今を、後悔なんか出来るわけがない。

「宮田、顔、」

横から国村に言われて、英二は振り向いた。
細い目が英二を見ながら、呆れながら笑っている。

「おまえさ、山いいなあのボケ顔とね、エロ顔が混じってるよ」
「なに俺、そんな複雑な顔になってる?」
「複雑っていうよりさ、単純なだけだろ」

明るくなる曙光のなかで、国村の秀麗な顔が笑っている。
国村は文学青年風の上品な風貌なのに、言うことはオヤジ視点なのが面白い。
そして適確に物事の中心を言ってくる。そういう国村が英二は好きだ。
きれいに笑って、英二は答えた。

「うん、俺は単純だよ。いつも結局はさ、同じことしか考えていない」

真直ぐに国村の細い目を見て、英二は笑った。
見返しながら国村は、呆れたまま微笑んだ。

「自分を良く解っているよな、宮田ってさ」
「おう。なんかさ、山を歩くと自分と向き合えるからさ」

ふうんと頷いて、国村も笑った。

「うん、それはそうだね。俺も同じだな」
「だろ、」

こういう会話が国村とは出来る。
山の話、仕事の話、誇りや恋愛の話、国村とは何でも笑える。
山ヤ仲間として同じ男として、国村とは共感できる部分が多い。
こういう奴と友人になれた、それも英二にはうれしかった。

「ほら、これがさ、天祖神社。ここで8月1日の山開きをやるんだ」

鬱蒼とした樹林の中、社は佇んでいた。
森閑の静けさが、不思議な雰囲気を醸している。

「山岳救助隊も参列するんだろ?」
「後藤副隊長は毎年ね。この神社が出来る明治より前は、鍋冠山って言ったんだ」
「山の形が似ているから?」
「そう、鍋を伏せたみたいだろ?白石山とも呼ぶんだけどさ」

国村の説明を聴きながら、社殿裏に続く山道を歩いていく。
落葉樹と杉や檜の濃緑が混じる林に、急な坂道が伸びていた。
小刻みにスイッチバックする道は、時々落ち葉の中に消えている。
一部には材木の歩道もあるが、左に巻いていく急な登りが続く。

「結構な急斜だろ?」
「うん、野陣尾根とかみたいだな」
「そうだね。奥多摩はさ、こういう所も多いんだ」

話しながら登る国村は、すこしも息を乱さない。
同じ年だけれど、国村のクライマー歴は18年になる。
中学生のとき亡くしたトップクライマーの両親と、幼い頃から国内の山を踏破していた。
そんな国村の初登山は5歳で雲取山だったと、後藤副隊長から聴かされている。
今夜の飲みでその話も訊きたいな。思っていると平坦な場所に出た。

「ミズナラだよ、」

国村が指さした方に、ちょっと変わった木が立っている。
樹幹が幾度か曲がった、ミズナラの木。
なんでこんなふうに?不思議に思いながら英二は眺めた。

8:30山頂へと到着した。
まだ一般登山客はいない時間、静けさが樹林を覆う。
天祖山は標高1,723.2mと奥多摩では4番目の高峰になる。
山頂の樹林帯は鬱蒼として、眺望は今一つだった。けれど森の雰囲気は悪くない。
国村とならんで水を飲んでいると、後藤が話しかけてくれた。

「どうだい、天祖山は」
「はい、森が静かな印象の山ですね」

静かで樹木が多いから、周太も好きかもしれない。
思いながら英二が答えると、そうだろうと頷いて後藤が教えてくれる。

「静かな山の雰囲気をな、じっくり味わうには良い山なんだ。玄人好みの山として人気が出てきてな」

玄人好み。
それはベテランハイカーが多いと言うことだろう。
それはこの山の地形では、心配だと英二は思ってしまう。
英二は思ったことを口にした。

「玄人ですと、ベテランの中高年の方ですよね。急斜での膝が心配になります」
「そうなんだよな、」

ちょっとため息を後藤がついた。
すこし寂しそうに笑いながら、後藤は口を開いた。

「前にな、俺のすぐ後ろでな、そういうハイカーがここで滑落死したんだ」
「副隊長のすぐ後ろで?」

驚いた英二の横で、国村が軽くうなずいた。
そんな国村を見ながら、後藤が微笑んだ。

「あのときは、国村が一緒だったな」
「はい、俺も一緒にザイル下降しました」

飄々といつも笑う国村の目が、すこし沈黙している。
もしかして。そんな想いに英二は横へと訊いた。

「訊かれて嫌ならごめん、それが初めての遭難死現場か?」
「うん、そうだよ」

おまえに訊かれて嫌なことなんか無いよ。
そう細い目で言いながら、国村は答えてくれた。

「副隊長とさ、声をかけた直後だったんだ。
 急斜だから気をつけろってさ、さっきの登山口すぐの30分の九十九折りでね。
 その人はダブルストックだったんだ。あれは下りでは体勢が変になりやすいだろ?で、バランス崩して滑落した」

ダブルストックは下山時には危険だ―食堂での国村の説明を、英二は思いだした。
実体験から国村は説明する事が多い、だから解りやすく身になりやすい。
その分だけ国村は、山に廻る生死の現場に立ち会っている。

そしてそれを語るには、静かに見つめ超えた強さがなくては出来ない。
国村は両親の死を見つめ、故郷の山で生死を見つめ続けて生きている。
やっぱり国村は凄いやつだな、英二は微笑んだ。

「教えてくれてさ、ありがとうな、国村」
「ん?ああ、礼なんかいらないよ?講習料は高くつけるからさ」

さらっと言って飄々と国村は笑った。
きっと講習料は酒のことだろう。今夜はビール1本は奢らされるのかな。
そんな予想も楽しくて、英二は笑った。

下山に向かう道、一般登山客とすれ違い始めた。
装備を目視点検しながら、声を懸けて注意を促していく。
日曜の晴天、人の出が多くなりそうだった。
合間ごと英二と国村は、声かけの相談をしながら歩いている。

「ちょっと不安な装備の人も多いな」
「うん、早めの日没を言ってさ、下山を促そうよ」

東京の日没はこの時期、16:30頃になる。
山岳地帯の奥多摩はそれより早い、都心の平坦地とは日没時刻が違う。
その計算を誤って、道迷いに墜ち込むケースがこの時期は多い。
そして天祖山は森が鬱蒼としている。もっと早く暗くなるだろう、英二は計算をして答えた。

「そうだな。これだけ樹林帯が濃いとさ、15時には暗いよな」
「だね。それに今夜は俺、道迷い捜索とか絶対嫌だから」

そう笑う国村の顔は「絶対そんなの探してやらない」と書いてある。
こうなると、本当に召集には応じないかもしれない。
その理由も英二には見当がつく、仕方ないなと英二は笑いかけた。

「今もう、完全飲みモードなんだ?」
「うん、今夜は飲むってさ、朝もう決めただろ?それをさ、山を舐めた人間になんか、邪魔されたくないね」

当然のことだ。と言う顔の国村だった。
国村は山に生まれ育ち、農家として自然と向き合っている。
そうして自然が規範となる国村には、人間の規則は小さすぎて執われない。
そういう自由人の国村にとって、山に礼儀知らずな人間は論外になる。
そんな国村は山ヤとして純粋で美しい。英二は微笑んだ。

「今夜も、これからもさ。誰も遭難しないでほしいな」
「ああ、全くだよ。あ、でもビバークはしたいよね。山の焚火はさ、緊急ビバーク時だけだしさ」

また自由な発言をしている。可笑しくて英二は笑った。
横から国村が、なんだよと言う顔で笑う。

「宮田だってさ、山の焚火は好きな癖に。それにもうね、共犯だしさ」
「ああ、この間の鷹ノ巣山のビバーク?うん、そうだな」

他愛ない話をしながら慎重に下山していく。
歩きながら国村が、森の立木を指さした。

「この辺りはね、熊や鹿が棲んでいるんだ」
「ああ、落葉樹が多いからな」

熊の爪痕や鹿が樹皮を剥いだ痕が、樹林帯に目立つ。
山道にも糞が多く落ちていた。
ほんとに鹿が棲んでいる。そう眺めている耳に、高い声が聴こえた。

高く、山に返響して響き渡っていく。

長く尾を引く声に、晩秋の森がどこか寂しげな風情をまとった。
おそらく鹿の声だろう、なぜか哀しげに感じられる。
繊細な感性の周太が聴いたら、どう感じるのだろう。
歩きながら耳を澄ませていると、国村が教えてくれた。

「今のがさ、鹿の声だよ」
「うん。俺、初めて聴いたよ」

修学旅行の春日大社では、鹿を見たことがある。でも声を聴いたのは、英二は初めてだった。
感心している英二を見、国村がさらっと言った。

「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聴くときぞ秋は悲しき」

博学な国村は、和歌や俳句なども良く知っている。
後藤も種田山頭火や尾崎放哉を好んで、飲むと吉村医師とよく語り合う。
英二も本は読むけれど、短歌などはあまり知らない。
英文科だった姉のお蔭で、ワーズワースの詩をすこし知っている程度だった。
でも訊きおぼえがある、英二は尋ねた。

「それ、百人一首だっけ?」
「うん、猿丸太夫ね。古今集だと読み人しらずになってる」
「ふうん、どういう意味なんだ?」

訊いた英二に、国村が可笑しそうに唇の端をあげた。

「牡鹿がさ、自分の妻を恋慕う声が、さびしげだなあって歌」

さっき何考えていたか解るよ。
そんな感じに細い目が笑っている。
なんだか可笑しくて、英二は笑いながら答えた。

「うん、俺さ、その鹿の気持ちって解るかも」
「だろね。鹿の声の擬音はさ『しゅう』ってもいうからさ」

そうなんだ。
少し驚いて横を見ると、飄々と国村が笑っている。
ほんとに国村は面白い。可笑しくて、英二は笑ってしまった。

「なに、マジで?」
「マジで」
「なんだ、俺って鹿と一緒なんだ?」
「かもね、」

そんなふうに笑いあいながら、天祖山雨量局のアンテナを通過する。
赤テープの張られた地点へ出た。この辺りは道迷いが多い地点だった。
石垣の積まれた水源巡視道があり、登山道より立派で誤りやすい。

「こういうポイントがさ、天祖山は多いんだよ」

言いながら国村が、生分解性の赤テープを張り直していく。
ついさっき、絶対に捜索は嫌だと断言していた。その為に最善を尽くしているのだろう。
英二も一緒に作業して、さっさと済ませるとまた歩き出した。

10:00、最後の急斜面まで戻ってきた。
ここからは本気で下らないと危ない、慎重に膝を運んでいく。
細い道で一般登山客に声かけ、避けながら下っていく。

「ハイカー多いね、」
「うん、紅葉も最後だしな」

晩秋の11月、紅葉に惹かれて奥多摩にやってくる。
けれど晩秋の奥多摩はもう、冬の気配が色濃い。
おととい初雪が降ってから、紅葉も色あせ始めた。
本当に最高の時に、周太は見られたのだろう。それが英二にはうれしい。

慎重に下る山道でも、ざぐりと足裏から音が立つ。
霜柱が立っている。もう陽は高い、それでもまだ残っていた。
頬を撫でる風も冷たい、初雪が沢には残っているのだろうか。
国村がすこし眉を顰めた。

「こういう時ってさ、いちばん滑落とか怖いよ」
「秋と冬の端境期で、装備が甘いから?」
「そ。さっきからね、ハイカーの装備甘いだろ?なんかなあ」

そう話しながら八丁橋まで降りた。
全員の下山を待ちながら、国村と水筒を開く。

「やっぱさ、下りの急斜は怖いな」
「だろ。なんか良い呼びかけとかさ、ないかな」

水を飲んでいると、藤岡もやってきた。
藤岡も水筒を開けて、3人で話し始める。

「おまえら、全然息切れしないな」
「そう?俺、ちょっとしたよ」
「宮田の場合さ、別の息切れじゃないの?」
「…なに国村、その話題は時間外ってさ、言ってなかったっけ」

そんな話をしていると、全員そろって点呼が始まった。
きちんと全員の確認が終わって、後藤が笑う。

「よし、全員無事だな。じゃあ解散か」

その時、後藤の無線が受信になった。

起きた、

そんな共通認識が、山岳救助隊員に一瞬で生まれる。
後藤の表情と言葉に、全員の意識が集中していた。
無線で話しながら、後藤が全員を見渡していく。

「現場は日原林道を入って4キロ地点、学生2名…天祖山側から滑落だな。うん、ここから急行するよ」

無線を切って、後藤が全員に笑いかけた。

「すまんなあ、解散は延期だ。みんなパトカーごと日原林道を入ってくれ」

すぐ近くだなとパトカーへ歩きだす。
藤岡は自分のパートナーの先輩と同乗する事になった。
英二の横を歩きながら、国村が笑う。

「まあさ、今の時間で良かったよな」

今夜の飲みは潰したくない。
そう国村は言っている。可笑しくて、英二は笑った。

「おまえ、飲むことばっか考えているよな?」
「そうだけど?」

ミニパトカーの扉を、それぞれ開く。
運転席に乗込みながら、国村は英二を見た。

「宮田だってさ、彼のことばっか考えているだろ?」
「国村が酒を愛する以上にさ、想っているから仕方ないだろ」

答えて、英二は国村を見た。
可笑しそうに笑って、ハンドルを捌きながら英二を見た。

「なんかさ、幸せなんじゃない?」
「うん、俺ってさ、最高に幸せだよ」

ほんとうに自分はそうだ。きれいに英二は笑った。



(to be continued)



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