Of moral evil and of good,
第86話 建巳 act.25 another,side story「陽はまた昇る」
“でも、あんまり静かに綺麗に泣いていたから。”
あなたは泣いていた、あの書店で。
その前はラーメン屋、あなたが初めて連れて行ってくれた場所。
どちらも記憶なぞらされる、ふたり歩いていた時間と想いに、周太は門をくぐった。
「は…」
息ついて風かすかに甘い、深い。
ここにも桜は咲いている、懐かしい公園を歩き始めた。
―もしまだ新宿にいるのなら、英二なら、
ラーメン屋、書店、その次にあなたが行く居場所。
あなたが親しんで佇んだ、その場所ただ一つしか思いだせない。
『前はさ、昔の女に会って縋られても軽く躱していたんだ。相手に未練があろうが関係ない、相手の気持ち考えないから平気だった』
この公園で、あのベンチでそんなふう話してくれた。
あのとき「会って縋られ」そうになった彼女と、今、僕も同じ貌かもしれない?
あなたの足跡を探して追いかけて、けれど、あのとき彼女は縋って何を言いたかったろう?
―あの女のひと泣いて…英二にしたことはひどいけど、でも、あのとき泣いて、
彼女は嘘をついた、最悪のタイミングで。
その嘘にも彼女の理由はある、その想い解らなくもない自分がいる。
解るからこそ彼女の肩をもとうだなんて思えない、だからこそ悲しくて、今の自分と重ねてしまう。
だって「あいたい」想いだけは誤魔化せない。
―でも英二は傷ついたんだ、あの女のひとの嘘で…だから僕は嘘つきたくない、
彼女がついた嘘、そのために英二は希望ひとつ棄てようとした。
その覚悟も悲しみも彼女は理解しなかった、今も解っていないかもしれない。
だからこそ「嘘」に英二は苦しんで、そのまま女性への不信を根づかせたのかもしれない。
―だから…あのことがなかったら英二は僕をあいしたりしなかったかもしれない、
妊娠した死にたい、そう言って彼女は英二を誘きだした。
そして英二の逆鱗ふれた、あのタイミングあの嘘は裏切りでしかなかったから。
そのことも彼女は理解できなかった、何が悪いと、恋愛なら許されるだろうと、彼女の正義を押しつけてしまった。
だから「理解」した僕を英二は見つめたのかもしれない。
『大切な人に出会えたなら、俺は今、その人を見つめていたい、』
あの言葉は僕じゃない誰かのものだった、もし、あのことが無かったら。
あのことが無かったら英二は今、ふさわしい女性と恋愛していたろうか?
ひとり書店で泣いたりしないで、笑って。
『怒る?あの女も俺のこと顔だったくせによく言えるな、』
一昨日、奥多摩の森で英二が言ったこと。
あんなふうに美代のこと言って、けれど、もし美代が男性だったなら?
―美代さんほど真直ぐなひと少ないのに、それでも英二…それだけ孤独で、
2日前、あなたは雪の森に独りだった。
それでも抱きしめあえた、唇かわしてくれた、けれど遠い。
あの夜そのまま電話をくれて、それでも、何も話せないまま約束もない。
『周太、』
電話ごし呼んでくれた名前、きれいな低い声、でも寂しかった。
あの寂しさのまま今、あなたは新宿にいるのだろうか?
ひとり書店で泣いたりして、どうして?
「どうして泣いたの…英二、」
ほら唇あふれてしまう、あなたのこと。
なぜ泣いたのかわからない、なぜ書店のまんなか人前で、あの英二が?
そんなになるまで追いつめられるなんて、何があったのだろう?
どうして泣いたの?
なにがあったの、この新宿であなたが泣くなんて?
―無事でいて英二、お願い、
梢ならぶ道、歩く足もと香ほろ苦く強くなる。
都会のまんなか深い森、木立くぐるごと香り深くなる。
レザーソール噛む土やわらかい、スーツの足もと風はらむ、一昨日の森と違う色。
―おとといは雪の森だったのに…英二を探して駆けて、
たった2日前、奥多摩の山ふところ雪の森。
あのブナの根もと雪にあなたは座っていた、深紅の登山ジャケット銀色に染めて。
「っ、」
かくん、右足首ひき攣れて引っ張られる。
あの現場で怪我してしまった、あの痛みまた疼きだす。
『今はさ、会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった』
ほら痛みの声が聞こえだす、あの日この公園であなたが言ったこと。
僕の顔も見たくないだろうか?
だって今、あの日の彼女と同じ貌かもしれない。
―でも会わないと今、英二が泣いたんだ、
泣いていた、書店のかたすみ君は。
ただ独り、人前で、あなたが泣くなんて普通じゃない。
どうして今あなたが「普通じゃない」のか、それが奥多摩の森に揺すぶられる。
『それにファントムは人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ、』
雪ふる森の底、あなたはそう言った。
あの美しい白皙に雪が香った、風光るダークブラウンの髪透かした冷厳の瞳。
深い眼ざし凍えるほど冴えて、ただ美しくて、聳える威厳と冷酷しずかに遠かった。
ファントム、“Fantome”
あの単語が使われた場所、警察組織ふかく隠されながら必要でもある世界。
そこに僕は父が死んだ理由を探しに行った、そうして今は父が生きた理由の場所へ行く。
けれど多分、あなたの理由はそれだけじゃない。
―あのひとを英二は、だから、
ファントム、“Fantome” その連鎖を生んだのは誰?
真相を英二、あなたは僕よりも知ったのでしょう?
“観碕征治”
あのひとを英二、どれだけ知ったの?
あの「記録」祖父の遺作にあなたも気づいたのでしょう?
『 La chronique de la maison 』
還暦記念として大学から出版された、祖父が遺した唯一の小説。
優れたミステリー小説だと称賛されて、けれど本当は「記録」フィクションじゃない。
―とっくに気づいて調べたのでしょう英二、僕には黙ったまま、
あなたは知っている、その根源なにが起きたのか、誰が起こしたのか?
だから奥多摩の雪の森、僕を突き放すことばかり言ったんじゃないの?
「なんで泣いたの…どうして新宿に」
ほら唇こぼれて痛い、右足ずくり疼く、けれど頬の風あまく深く懐かしい。
唇かすめる香まっすぐ見つめた先、やわらかな薄紅の花が舞った。
『奥多摩は桜きれいだよ、周太?』
ほら声が笑ってくれる、一年前あなたの声。
あのころ幸せだったのは、僕も何も知らなかったからかもしれない。
「でも幸せだった僕…英二、」
想いこぼれて桜が滲む。
ゆるやかな熱そっと瞳の底ふれる、でも零したくない。
だって今もし泣いたなら見失う、あなたを今どうしても捉まえたい。
『人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ』
そんなこと言わないで、あなたは。
山で笑う澄んだ瞳が、あの美しい笑顔が、あなたの素顔でしょう?
―英二の笑顔が好き、山のあなたが好きなんだ、
山に笑う、あなたの素顔が好き。
あの笑顔を守りたいと願ってしまう、どうしても。
今もう大切な女の子がいる、それでも、あなたの笑顔ただ守りたい。
「えいじ…!」
名前あふれる唇、やわらかに甘い馥郁かすめる。
こんなに桜が咲いている、明るい春訪なう、だからこそ怖い。
だって桜が咲いた、十五年前あの日が近い、そして今日あなたは泣いた。
『人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ』
えいじ、英二、おととい奥多摩でなぜそう言ったの?
なぜ今日この新宿で、英二、あなたは泣いたの?
―お願い英二やめて、だってあの店で僕を止めたのは英二でしょう?
心もう叫びだす、あなたの行先を守りたい。
だって今日あのラーメン屋に行った、それがただ食事だけだと信じたい、でも一年半前あの店で何があった?
『あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…あのひとの目を、俺は一生忘れられません』
あの店主は父に銃口を向けた、発砲した、けれど本当は殺害犯じゃない。
それでも一年半前まだ知らなかった、そのまま感情つき動かされた僕を止めたのは英二でしょう?
そのことを思いだしたろうか、今日、あの店であなたは。
『めずらしくスーツ姿だったからシッカリ覚えてるんだよ、』
なぜスーツ姿で現れたのだろう、今日あの店に?
山岳救助隊員であることが誇り、休日なら山に行く人、けれど新宿で革靴を履いていたのは?
めぐらす理由たどるまま鼓動ひっぱたかれる、だって今日、あの書店あなたが買ったペーパーバックは?
『ワーズワースを読んであげるよ周太、お父さんの約束だったんだろ?』
一年前あの日、桜の夜にあなたは微笑んだ。
そして今あの日は近い、桜は咲いた。
そして書店であなたは泣いた。
『でも、あんまり静かに綺麗に泣いていたから』
ワーズワースの一冊、あなたは静かに泣いた。
その涙どうして、なぜ、ワーズワースに泣いていたの?
この桜の咲く、十五年前あの日の近く、この新宿でワーズワースにどうして?
『北岳草を見せてあげるよ、周太?』
あの約束に笑った瞳、あの切長い眼は山に輝く。
だから今もここだと信じて追いかけてきた、新宿ならここだから。
『奥多摩の森を模しているんだ、ここは』
都会の真中、なつかしそうに澄んだ声、切長い眼。
あの穏やかな冴えた瞳は山を見る、あの貌が好きだから。
だから止めたい、その声その瞳そんなことに向けないで?
「…お願い、」
祈る想い小径を曲がる、あの先あのベンチがある。
どうか居てほしい、願い見つめる森の底あのベンチが。
「えいじ…」
でも、あなたは居ない。
(to be continued)
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kenshi―周太24歳4月
第86話 建巳 act.25 another,side story「陽はまた昇る」
“でも、あんまり静かに綺麗に泣いていたから。”
あなたは泣いていた、あの書店で。
その前はラーメン屋、あなたが初めて連れて行ってくれた場所。
どちらも記憶なぞらされる、ふたり歩いていた時間と想いに、周太は門をくぐった。
「は…」
息ついて風かすかに甘い、深い。
ここにも桜は咲いている、懐かしい公園を歩き始めた。
―もしまだ新宿にいるのなら、英二なら、
ラーメン屋、書店、その次にあなたが行く居場所。
あなたが親しんで佇んだ、その場所ただ一つしか思いだせない。
『前はさ、昔の女に会って縋られても軽く躱していたんだ。相手に未練があろうが関係ない、相手の気持ち考えないから平気だった』
この公園で、あのベンチでそんなふう話してくれた。
あのとき「会って縋られ」そうになった彼女と、今、僕も同じ貌かもしれない?
あなたの足跡を探して追いかけて、けれど、あのとき彼女は縋って何を言いたかったろう?
―あの女のひと泣いて…英二にしたことはひどいけど、でも、あのとき泣いて、
彼女は嘘をついた、最悪のタイミングで。
その嘘にも彼女の理由はある、その想い解らなくもない自分がいる。
解るからこそ彼女の肩をもとうだなんて思えない、だからこそ悲しくて、今の自分と重ねてしまう。
だって「あいたい」想いだけは誤魔化せない。
―でも英二は傷ついたんだ、あの女のひとの嘘で…だから僕は嘘つきたくない、
彼女がついた嘘、そのために英二は希望ひとつ棄てようとした。
その覚悟も悲しみも彼女は理解しなかった、今も解っていないかもしれない。
だからこそ「嘘」に英二は苦しんで、そのまま女性への不信を根づかせたのかもしれない。
―だから…あのことがなかったら英二は僕をあいしたりしなかったかもしれない、
妊娠した死にたい、そう言って彼女は英二を誘きだした。
そして英二の逆鱗ふれた、あのタイミングあの嘘は裏切りでしかなかったから。
そのことも彼女は理解できなかった、何が悪いと、恋愛なら許されるだろうと、彼女の正義を押しつけてしまった。
だから「理解」した僕を英二は見つめたのかもしれない。
『大切な人に出会えたなら、俺は今、その人を見つめていたい、』
あの言葉は僕じゃない誰かのものだった、もし、あのことが無かったら。
あのことが無かったら英二は今、ふさわしい女性と恋愛していたろうか?
ひとり書店で泣いたりしないで、笑って。
『怒る?あの女も俺のこと顔だったくせによく言えるな、』
一昨日、奥多摩の森で英二が言ったこと。
あんなふうに美代のこと言って、けれど、もし美代が男性だったなら?
―美代さんほど真直ぐなひと少ないのに、それでも英二…それだけ孤独で、
2日前、あなたは雪の森に独りだった。
それでも抱きしめあえた、唇かわしてくれた、けれど遠い。
あの夜そのまま電話をくれて、それでも、何も話せないまま約束もない。
『周太、』
電話ごし呼んでくれた名前、きれいな低い声、でも寂しかった。
あの寂しさのまま今、あなたは新宿にいるのだろうか?
ひとり書店で泣いたりして、どうして?
「どうして泣いたの…英二、」
ほら唇あふれてしまう、あなたのこと。
なぜ泣いたのかわからない、なぜ書店のまんなか人前で、あの英二が?
そんなになるまで追いつめられるなんて、何があったのだろう?
どうして泣いたの?
なにがあったの、この新宿であなたが泣くなんて?
―無事でいて英二、お願い、
梢ならぶ道、歩く足もと香ほろ苦く強くなる。
都会のまんなか深い森、木立くぐるごと香り深くなる。
レザーソール噛む土やわらかい、スーツの足もと風はらむ、一昨日の森と違う色。
―おとといは雪の森だったのに…英二を探して駆けて、
たった2日前、奥多摩の山ふところ雪の森。
あのブナの根もと雪にあなたは座っていた、深紅の登山ジャケット銀色に染めて。
「っ、」
かくん、右足首ひき攣れて引っ張られる。
あの現場で怪我してしまった、あの痛みまた疼きだす。
『今はさ、会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった』
ほら痛みの声が聞こえだす、あの日この公園であなたが言ったこと。
僕の顔も見たくないだろうか?
だって今、あの日の彼女と同じ貌かもしれない。
―でも会わないと今、英二が泣いたんだ、
泣いていた、書店のかたすみ君は。
ただ独り、人前で、あなたが泣くなんて普通じゃない。
どうして今あなたが「普通じゃない」のか、それが奥多摩の森に揺すぶられる。
『それにファントムは人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ、』
雪ふる森の底、あなたはそう言った。
あの美しい白皙に雪が香った、風光るダークブラウンの髪透かした冷厳の瞳。
深い眼ざし凍えるほど冴えて、ただ美しくて、聳える威厳と冷酷しずかに遠かった。
ファントム、“Fantome”
あの単語が使われた場所、警察組織ふかく隠されながら必要でもある世界。
そこに僕は父が死んだ理由を探しに行った、そうして今は父が生きた理由の場所へ行く。
けれど多分、あなたの理由はそれだけじゃない。
―あのひとを英二は、だから、
ファントム、“Fantome” その連鎖を生んだのは誰?
真相を英二、あなたは僕よりも知ったのでしょう?
“観碕征治”
あのひとを英二、どれだけ知ったの?
あの「記録」祖父の遺作にあなたも気づいたのでしょう?
『 La chronique de la maison 』
還暦記念として大学から出版された、祖父が遺した唯一の小説。
優れたミステリー小説だと称賛されて、けれど本当は「記録」フィクションじゃない。
―とっくに気づいて調べたのでしょう英二、僕には黙ったまま、
あなたは知っている、その根源なにが起きたのか、誰が起こしたのか?
だから奥多摩の雪の森、僕を突き放すことばかり言ったんじゃないの?
「なんで泣いたの…どうして新宿に」
ほら唇こぼれて痛い、右足ずくり疼く、けれど頬の風あまく深く懐かしい。
唇かすめる香まっすぐ見つめた先、やわらかな薄紅の花が舞った。
『奥多摩は桜きれいだよ、周太?』
ほら声が笑ってくれる、一年前あなたの声。
あのころ幸せだったのは、僕も何も知らなかったからかもしれない。
「でも幸せだった僕…英二、」
想いこぼれて桜が滲む。
ゆるやかな熱そっと瞳の底ふれる、でも零したくない。
だって今もし泣いたなら見失う、あなたを今どうしても捉まえたい。
『人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ』
そんなこと言わないで、あなたは。
山で笑う澄んだ瞳が、あの美しい笑顔が、あなたの素顔でしょう?
―英二の笑顔が好き、山のあなたが好きなんだ、
山に笑う、あなたの素顔が好き。
あの笑顔を守りたいと願ってしまう、どうしても。
今もう大切な女の子がいる、それでも、あなたの笑顔ただ守りたい。
「えいじ…!」
名前あふれる唇、やわらかに甘い馥郁かすめる。
こんなに桜が咲いている、明るい春訪なう、だからこそ怖い。
だって桜が咲いた、十五年前あの日が近い、そして今日あなたは泣いた。
『人殺しも厭わない、自惚れが強いまま怖いもの知らずだ』
えいじ、英二、おととい奥多摩でなぜそう言ったの?
なぜ今日この新宿で、英二、あなたは泣いたの?
―お願い英二やめて、だってあの店で僕を止めたのは英二でしょう?
心もう叫びだす、あなたの行先を守りたい。
だって今日あのラーメン屋に行った、それがただ食事だけだと信じたい、でも一年半前あの店で何があった?
『あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…あのひとの目を、俺は一生忘れられません』
あの店主は父に銃口を向けた、発砲した、けれど本当は殺害犯じゃない。
それでも一年半前まだ知らなかった、そのまま感情つき動かされた僕を止めたのは英二でしょう?
そのことを思いだしたろうか、今日、あの店であなたは。
『めずらしくスーツ姿だったからシッカリ覚えてるんだよ、』
なぜスーツ姿で現れたのだろう、今日あの店に?
山岳救助隊員であることが誇り、休日なら山に行く人、けれど新宿で革靴を履いていたのは?
めぐらす理由たどるまま鼓動ひっぱたかれる、だって今日、あの書店あなたが買ったペーパーバックは?
『ワーズワースを読んであげるよ周太、お父さんの約束だったんだろ?』
一年前あの日、桜の夜にあなたは微笑んだ。
そして今あの日は近い、桜は咲いた。
そして書店であなたは泣いた。
『でも、あんまり静かに綺麗に泣いていたから』
ワーズワースの一冊、あなたは静かに泣いた。
その涙どうして、なぜ、ワーズワースに泣いていたの?
この桜の咲く、十五年前あの日の近く、この新宿でワーズワースにどうして?
『北岳草を見せてあげるよ、周太?』
あの約束に笑った瞳、あの切長い眼は山に輝く。
だから今もここだと信じて追いかけてきた、新宿ならここだから。
『奥多摩の森を模しているんだ、ここは』
都会の真中、なつかしそうに澄んだ声、切長い眼。
あの穏やかな冴えた瞳は山を見る、あの貌が好きだから。
だから止めたい、その声その瞳そんなことに向けないで?
「…お願い、」
祈る想い小径を曲がる、あの先あのベンチがある。
どうか居てほしい、願い見つめる森の底あのベンチが。
「えいじ…」
でも、あなたは居ない。
(to be continued)
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