ぴかの独り言 GooBLOG vol.1

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京都五山送り火

2011-08-20 10:06:00 | ノンジャンル
おはよ。

雨のお陰か、大変涼しくなりました。

各所では酷暑だ豪雨だなどと、日ごとのニュースに耳を踊らされますが、この地方はありがたいことに穏やかなようです。

考えてみれば、何も場所の問題ではなくて、人の問題だからニュースになるんだな。

昨日たまたま見た民放のニュースでは、若い女性リポーターが東京の集中豪雨を実況していて、目の前の道路が雨水に冠水した様子を、

「ここではものすごい雨により、まるで道路が川のようになっていますっ!」

と絶叫していました。

・・・

間違いではないけれど、絶叫するのはどうかと思う。

すごくないかもしれないけれど(あたしが見た限りの画面では、このあたりでも土砂降りになればなって当たり前の光景に思えたんだ)、すごいと言わなくちゃという彼女の心根がうかがえて、あたしはちょっとしらけたんだな。

メディアの罪を、あたしは垣間見た気がしましたの。


さて、タイトルの京都五山の送り火のお話。

ご承知のとおりのお話です。

被災した岩手県陸前高田市の方が願いをこめた地元の松の木を、京都五山の送り火で燃やして昇天させてはもらえぬか?ということです。

新聞も読まず、世事に疎いので、聞きかじりのところであたしの感想を申し上げます。

だから、上っ面で終わったら許してね。


どうやら件の松の木は燃やされることなく、当初のもくろみは未達に終わったらしいですね。

そして、その原因は、松の木に放射能の汚染があるかどうか?という極めて物理的科学的な内容だったと報じられているようです。

万が一放射能が天から降るようなことになったらどうしてくれるんだ?というご当地の方の不安はそれとして、あたしには別の感覚がありました。

それはね・・・

放射能があろうとなかろうと、あの松の木は、穢れ(けがれ)ていたんだ。

そこに願いを書こうが祈りをこめようが、あれは穢れだったんだ。

それを祓う(はらう)ことは、普通のあたしたちではできないんだよ。

そして、京の五山の送り火は、鎮魂と鎮守のために、穢れは立ち入れない聖域となっていたんだと思う。

だから、気持ちはわかるけれど、したくてもできないことだったんではないか?と思いました。

・・・

そういう話はニュースでは見えませんでしたが、なんとな~くそんな気がしたんだな。


あぁ、そうだ・・・

そんなことを考えていたときに、ふと結婚して間もないころのことを思い出した。

神棚も仏壇もない家に育った(元)お母ちゃんがね、お袋から、「不浄の時は、神様にはさわってはいけないよ」と言われておりました。

不浄の時というのは生理中のことですね。

それがなぜか思い出されました。

よくよく考えてみれば、神様が作った人間に不浄の時があろうはずもないと思うんだが(古事記伝)、そこが神様のよくわからんところです。

そんな環境に育ったあたしだから、今回の送り火のことも、違った見方をしているのかもしれません。

女人禁制の大峰山の山門も、考えてみれば不思議なんだが、あたしには違和感はない・・・御嶽山が山ガールを受け入れるのも、違和感がない・・・世俗は、事ほど左様に変化する。ただ、もし(日本人としての)己が何者か?と知ろうと思ったなら、その根底にあったものをあたしは知りたいと思うのね。)


ただね、これだけは言えると思うよ。

「恐怖は、無知から生まれる」

放射能は怖いという恐怖。

そして、穢れにどう対処したらよいか?という恐怖。

どちらも、知れば恐怖はなくなるはずです。

・・・

あたしはそこを目指して、勉強したいと思っています。

(今日の売り上げをどうするかというのも、あわせて勉強します)